ヴァレー・ビュー

Valley View


vv0308.jpg

 ここは左にエル・キャピタン、右にカシドラル・ロックをのぞむ素晴らしい展望ポイントです。 このポイントはヴァレーの北側を走る道路「ノースドライブ」のマーセド川沿いにあります。ノースドライブは西行き一方通行ですので、ヴァレーを「出る」際に立ち寄ることになります。朝は逆光になりますので午後がお勧めです。

カシドラル スパイアー

Cathedral Spires Vista


「カシドラル」はキリスト教の大聖堂です。隣にある「カシドラル・ロック」とこの「カシドラル・スパイアー(尖塔)」の姿があたかもそのように見えることから名付けられました。この2つの塔は、谷底から590mと654mの高さにそびえ立っている花崗岩です。

ヨセミテ・フォール

Yosemite Falls



 ヨセミテ・フォールは北米で最も高い落差があり、世界でも5番目の落差を誇る滝です。一つの滝ですが上・中・下の三段になっていることから”Yosemite Falls”と複数形で呼ばれるのが正確です。
上部ヨセミテ滝は739mの高さから435mの落差。そこから中腹の小滝は205m落ちます。そして最後に下部ヨセミテ滝は渓谷の底の滝壺まで97.5mの落差があります。
 滝は、例年5月末に雪解け水で満水になります。夏に向かって滝の水はしだいに細くなり、8月末にもなるとかつての満水の姿を想像して見るしかありませんが、秋に長い雨が続くと滝の流れが復活します。
 ヨセミテ・フォールにはシャトルバスストップから徒歩10分ほどのハイキングで行くことができ、初夏には多くの観光客で賑わいます。また滝の落ち口まではCamp4の裏からハイキングトレイルが付いており、この雄大な滝を見下ろすこともできます。

「ヨセミテ紀行」は…

「ヨセミテ紀行」は以前のサイトデザインのままになっていましたが、「Travel Note」のカテゴリー名をつけてBlog内に移動させました。
(2003,2004年のヨセミテ行きが書けていないままになっていますが…)

「ヨセミテ」の語源

1851年、マリポサ大隊のBunnellによって命名[1]された「ヨセミテ渓谷」ですが、Daniel E. Anserson氏が「ヨセミテ」の語源について、簡潔な紹介記事を書いています[2]。 それによると 「ヨセミテ」はミウォーク(Miwok)族により、ヨセミテ渓谷に住むインディアンを指して使われていた言葉とのことです。その意味は”those who kill”(註:日本語では「殺し屋たち」という意味でしょうか)。「ヨセミテ」の”yos”は「to kill」、”e”は「one who」、そして複数形をさす”meti”の三つの部分に分解されるようです(註:細かい事ですが、”Yosemite”ではなく”Yosemeti”を使い、それを3つに分解しています)。ヨセミテ渓谷を取り囲むインデアンの部族は、彼らを恐れ、そう呼んでいたようです。テナヤを酋長とするヨセミテ族はシエラの東側のモノ・パイユート族を含むいくつかの部族から成り立っていました。パイユートは伝統的に平和的なミウォーク族の敵でした。 さて、ヨセミテ族はヨセミテ渓谷を”Awooni”(アワ二ー)と呼んでおり、それは gaping mouth (註:gapping は「裂ける」、「ぎざぎざになる」)を意味しています。また、そこに住む自分たちを”Ah-wah-ne-chee”(アワニーの住人)と呼んでいました。もともとは渓谷内の最大の村(ヨセミテ滝の南東にあった)を指していましたが、後に渓谷全体を指すようになりました。マリポサ大隊の指揮官Savageは、酋長テナヤが説明しようとしたアワニーの意味を取り違えたとBunnellは述べています[3]。Bunnell自身はヨセミテを”Grizzly Bear”の意味だと書いてていますが、これもまたSavageによる間違いだったようで、”isimati”というMiwokの「熊」を”yosemite”と聞き違えたようです[4,5]。

続きを読む →

加藤則芳オフィシャルサイト”Backpacker’s Almanac”

「ジョン・ミューア・トレイルを行く」でおなじみの作家・加藤則芳さんがオフィシャルBlogを立ち上げられました。
2005年4月1日スタートで、東海岸のアパラチアン・トレイル3500kmの旅に出られます。
加藤則芳オフィシャルサイト “Backpacker’s Almanac”
以下、加藤さんから頂いたメールです。
加藤さんから、こんなふうにこのサイトを見ていただいているのはとても光栄です。
これも、執筆者のみなさん+ヨセミテファンのみなさんのおかげです。

続きを読む →

Half Dome初登頂:1875年

”The Yosemite Book”(1869年版)でWhitneyに登頂不可能(”rising to the height of 4,737 feet above the Valley, perfectly inaccessible, being probably the only one of all the prominent points about the Yosemite which never has been, and never will be trodden by human foot.”)と言わしめたハーフドームでしたが、その初登は意外にも早くやってきました。以下はMuirの文[1,2]にもとづく初登の記録です。 
 バレーの住人John Conwayは、岩登りの得意な自分の子供たちをHalf Domeに向かわせます。鉄釘を岩の割れ目に打ち込み、それにロープを固定しつつ最後の斜面(現在のケーブルルート、斜度46度)を登らせるつもりでした。子供たちは300フィートの高さまで達しましたがそこから先は岩にドリルで穴を開けない限り突破できないことがわかります。そこでConwayは、子供たちに撤退を命じます。その数年後(1875年)、同じバレーの住人George C. Andersonは、彼らが残したロープを辿り、最高到達地点まで達します。そこからは、5〜6フィート間隔で岩にドリルで穴を穿ち、ボルトを打ち込んでいきました。ボルトはロープの固定と足がかりとして使われます。そして数日後(10月12日)、ついに頂上に達しました。Mt. Shasta[3]の旅から帰ってきたばかりのMuirは、11月10日に第9登[4]を果たしました。面白い事に、切れおちている崖による視覚への影響のせいか、ドームの上から見る渓谷の眺めは、そこより低い場所に比べて劣ると書いています。また彼らしく、頂上にある植物の事が書かれています。
 Muir本人としてはHalf Domeが手付かずの状態であってほしかったようですが(”For my part I should prefer leaving it in pure wilderness…”)、1919年にシエラクラブによって600フィートのジグザグの階段状トレイルが前衛のドームに、最後の部分には800フィートの長さの2本のケーブルが恒久的に建設されることになります[5]。

続きを読む →