
スティーブン・マザー(*初代国立公園局長官)は、できる限り多くの人々を国立公園へと誘致しようと努める一方で、もう一つの重大な課題にも取り組んでいた。それは、公園を実際に運営する有能な人材を集めることであった。
それ以前までは、政治的な縁故が職の任命を左右していた。グレーシャー国立公園のある職員は人脈の後ろ盾によって採用されたが、あまりに無能であったため、迷子にならないように鉄道線路沿いしかパトロールを許されなかったという。メサ・ヴェルデ初期の監督官の義理の息子は、古代の断崖住居から貴重な遺物を盗掘した張本人であることが後に発覚した。
こうした状況を改めるため、マザーはすぐに新しい監督官たちを自ら選抜していった。
コロンビア大学で工学を学び、コロラド山岳クラブの創設メンバーであり、また第一次世界大戦では陸軍少佐を務めたロジャー・トールは、マウント・レーニア国立公園に派遣され、その後ロッキー・マウンテン国立公園に移った。
職業考古学者のジェシー・ニュースバウムは、メサ・ヴェルデとその古代遺産の管理を任された。
ジョン・ホワイトはイギリス生まれの冒険家であり、クロンダイクで金を探し求め、三度の戦争に従軍して、第一次世界大戦終結の和平交渉時には大佐の地位にあった人物である。彼はグランドキャニオンに身を置きたい一心で、低賃金の仕事を喜んで引き受けていたが、マザーとオルブライト(*マザーの副官、のちの第2代長官)は彼の卓越した指導力を見抜き、セコイア国立公園の監督官に任命した。ホワイトはその後25年以上にわたり同職を務めた。
アラスカのマウント・マッキンリー(現デナリ)国立公園では、マザーはハリー・カーステンスを任命した。彼は1913年に北米大陸最高峰の初登頂隊を率いたことで、すでに「生ける伝説」として知られていた人物である。マザーは狩猟や入植を禁じる規則を説明した上で、「しばらくの間、これらの規則の必要性を公衆に理解させるのは困難な仕事となるでしょう」と新任監督官に宛てて書き送った。そして「私はあらゆる面であなたを支援するつもりですが、残りはあなた次第です」と付け加えた。
最も名誉ある職であるイエローストーン国立公園の監督官には、オルブライトが任命された(彼はオフシーズンには現地業務担当の副長官も兼ねた)。オルブライトは後にこう回想している。「私は自分が(*まだ20代だったので)あまりにも若いことを痛感していました。30歳になっていますようにと祈るばかりでした」。彼はより歳をとっていると見せるため、公の場では眼鏡をかけるようになったという。
監督官の下には、同様に専門的な能力を備えたパークレンジャーの精鋭部隊が求められた。オルブライトによれば、それは「21歳から40歳の男性で、人格が優れ、健全な体格を持ち、人々を扱う際に思慮深くある者」であった。彼らは馬に乗り、手入れをし、登山道を整備し、森林火災と闘い、銃器の扱いに熟練し、あらゆる極端な気象下での野外生活の経験を持ち、さらに長時間労働に対して時間外手当が支給されないことを甘受しなければならなかった。
給与は年額1,000ドル。その中から自らの食料や寝具を調達し、そして自ら選んだ職務の象徴として特別にデザインされた制服と、平らなつばの帽子に45ドルを支払うことが求められた。
イエローストーンではパークレンジャー志願者が殺到したため、オールブライトは次のような趣旨の定型文を作成して応募者をふるいにかけた。
パークレンジャーの仕事は、神経質で短気な人間、怠惰な人間、あるいは肉体労働に慣れていない人間には向きません。1日10時間から12時間、常に辛抱強く笑顔で働けないなら、添付の申込書を提出しないでください。楽しみを求めて来るなら、失望するでしょう……レンジャーの仕事はとりわけ過酷です……資格があるなら応募してください。そうでなければ観光客としてイエローストーンを訪れてください。
「レンジャーは、その職を生涯の仕事とする覚悟で就くべきだ」とマザーは語った。レンジャーたちが最も尊敬した人物こそ、このスティーブン・マザーであった。彼はあるレンジャーに故郷の両親を訪ねるための旅費を与え、しばしばレンジャーとその妻を高級レストランに招待した。またヨセミテでは、自費で25,000ドルを投じて「レンジャーズ・クラブハウス」を建設し、レンジャーたちがくつろげる場を提供した。マザー自身もヨセミテ滞在時にはホテルではなくこのクラブハウスに宿泊するのを常とした。
オルブライトは述べている。「マザーはパークレンジャーがどうあるべきかについて特別な構想を持っていました。彼は彼らが知識と技能だけでなく、公衆との関係を築く能力と高い献身心を持ち込まねばならないと感じていたのです」。
マザーにはパークレンジャーに独自の精神的象徴を与えたいという構想があり、それを彼はエスプリ・ド・コール(団結の精神)と呼び、その醸成のためにあらゆる手段を講じた。
マザーは、レイク・タホの民間リゾートで二人の大学教授が運営していた自然教育プログラムに感銘を受け、それをヨセミテ国立公園に丸ごと移設する費用を負担した。間もなく、彼の言う「レンジャー・ナチュラリスト(自然解説員)」によるガイドウォークや夜のキャンプファイアープログラムが、各国立公園で始まった。これらは瞬く間に人気プログラムとなり、マザーが構想した「親しみやすく専門的な」レンジャー像を形成するうえで最も大きな役割を果たした。
レンジャーの多くは男性であったが、少数ながら女性もいた。クレア・マリー・ホッジズは14歳のとき家族とともに馬で4日間かけてヨセミテを訪れた。4年後の1918年、彼女は公園内の登山道に精通しており、第一次世界大戦によって男性レンジャーの確保が難しくなると応募し、すぐに採用された。彼女は国立公園局初の女性レンジャーとなった。標準制服の代わりにブラウスと分割スカート(*馬にまたがるため)を着用したが、帽子だけは他のレンジャーと同じものを被った。
イエローストーンでは、コロンビア大学で地質学修士号を取得したブルックリン出身のイザベル・バセット・ワッソンが、初の女性パークレンジャー・ナチュラリストとなった。彼女はこう語っている。「私はパトロールはしませんでした。トークを行ったのです」。彼女は毎日3か所でトークプログラムを行い、それぞれ異なるテーマを扱った。なぜなら来訪者がどこへ行っても彼女について来たからである。
教育プログラムを補完するため、そして当初はほとんど民間資金(主にロックフェラー・ジュニア家の支援)によって、野生生物、植物、地質、歴史などを解説する小規模なミュージアムが各公園で開設された。
マザーはこれらすべてを自ら見に行くことが大好きだった。彼は訪問の際には必ずパークレンジャーの制服を身に着け、特別ナンバー「USNPS 1」が付いた大型ツーリングカーで各地の国立公園を巡った。観光客が足を止めて野生動物を見ていると、彼は喜々として彼らに声をかけたという。
パークレンジャーの社会的イメージをさらに高めるため、マザーはオルブライトに勧めて、国立公園での生活を題材にしたユーモラスな逸話集『オー・レンジャー!』(Oh, Ranger!)を出版させた。この本は13版を重ねるベストセラーとなった。
私にとって、国立公園のイメージはパークレンジャーを抜きにしては完成しない。彼らの数は少ないが、その影響は計り知れない。
新しい道を切り開くときは、「レンジャーを送れ」。雪に埋もれた動物を救うときも、ホテルに迷い込んだ熊を追い出すときも、森林火災を防ぐときも、人命を救うときも、「レンジャーを送れ」となる。自然の理を知りたい紳士も、道に迷った旅人も、まず最初に思うのは「レンジャーに訊け」である。 ―スティーブン・マザー
物語を伝えること(Telling the Story)
マザーの最も永続的な革新は、レンジャーが特徴的な平らなつばの帽子をかぶり、自然散策(マウント・レーニアにて)やキャンプファイアでの講話(ヨセミテにて)を行うという制度を導入したことであった。彼はこの帽子を、権威と親しみやすさを象徴するものとして意図的に育て上げたのである。
