GWの月

5月2日の午前2時は満月にあたります。この日の前後には、夜のYosemite Fallsを眺めてみましょう。時間と位置がうまく合えば、滝にかかる虹が見えるかもしれません。
”Silver from the moon illuminates this glorius creation which we term ‘falls,’ and has laid a magnificent double prismatic bow at its base.” John Muir, midnight April 3rd, 1871(月齢13日) 注意:MuirはUpper Yosemite Fallの下まで、毛布を持って登っていきました。
http://aa.usno.navy.mil/data/docs/MoonPhase.html

『光の峰』 The Range of Light

日本登山の黎明期に活躍した「小島鳥水」は、その投稿「高山の雪」(明治44年7月)のなかで以下のように書いています。
『また北米で有名な、シエラ・ネヴァダ山Sierra Nevadaのシエラは鋸歯ということだが、ネヴァダは万年雪(Neve)と語源を同じゅうした「雪の峰」ということである、米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば 「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」 と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。』
以上は、岩波文庫(緑135−1)の「山岳紀行文集:日本アルプス」(小島鳥水著、近藤信行編)の「高山の雪」の章(342ページ)に書かれています。その解説によると、小島は大正4年から、アメリカに移り、横浜正金銀行サンフランシスコ支店のロサンゼルス分店長を勤め、そして大正八年からはサンフランシスコ支店長を務め、その傍らSierra NevadaやCascadeの山々に登ったそうです。
小島が引用したMuirの記述はもちろん、”Then it seemed to me that the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light”の部分です。東京の八木書店のウエブサイトには、小島が東良三に送った書簡の写真が掲示されています。

John Muir Conference 2006

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ヨセミテとはほとんど関係ないのですが、簡単な報告をします。この学会(”John Muir Conference”)は、John Muir関連の資料の殆どが集まっているStocktonのUniv. of the Pacificで、3日にわたって行われました。初日はMuirが結婚後一生を過ごしたMartinezの家へのツアー(私は参加していません)、2、3日目が発表にあてがわれました。平均参加者数は80人といったところでした。スコットランドやフィンランドからも参加された方がいました(写真上、タータンチェックのキルトをはいています。壁にはKeithの絵が掛かっています)。スコットランド訛りでMuirのフレーズを話されると、なかなかすごいものを感じました。テーマは、Muirがアメリカ外で行った旅行や社会的影響に関するものでした。Muirの功績の簡単な紹介、スコットランドの生家(町)の紹介、そこで行われている現在の教育活動、Robert Burnsの詩がMuirに与えた影響、Muirが親友の画家Keithに与えた影響、カナダ生活時代に働いていた工場そばのMuirの小屋跡の調査、Muirの採集した植物サンプルの発見作業、スコットランドやインド、南米、アフリカなどに行ったときのルートの調査などといろいろな発表がありました。参加者は、大学の研究者・学生を始め、Sierra Club、Restore Hetch Hetchyといった保護団体のキーメンバーもいましたし、一般のMuirに興味のある人も多々見られました。司会のSwagerty教授は、Muirへの興味がグローバル化してきたことを指摘していました。アトラクションは、絵を含み、Keith、LeConte、Muirの資料がいくつか展示されたこと。Muirの義父が、娘Louie(Muirの妻)にピアノを弾かせてよく歌った曲(南北戦争時の北軍の歌)をUC Berkleyのライブラリから探し出し、ピアノの伴奏付きでみんなで歌ったこと、Muirの長女Wandaの家系であるHannaファミリーが自分のワイナリーのワインをふるまったことです。個人的な収穫だったのは、発表者であるBonnie Johanna Gisel女史(”Kindred & Related Spirits:The Letters of John Muir and Jeannie C. Carr”の著者)とRobert W. Righter氏(”The Battle Over Hetch Hetchy”の著者)と直接話ができて、本の記述に関して質問できたこと、ついでに持って行った本にサインをもらったことです(笑)。
ところで、発表者の一人Eber氏に声をかけられ、「東良三」について何か知らないかと尋ねられました。Sierra ClubのMuirの簡単な紹介文(日本語版のみ)には:「高名な登山家である東良三(あずま りょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。」とあります。氏曰く”東良三”は1914年にMartinezのMuir家を訪ねており、彼について調べたいとのことでした。氏の唯一の資料はSierra Club Bulletin 1979年 7/8月号のみでした。どなたが情報をご存知でしたらお教えください。

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更新ログ

John Muir(ジョン・ミューア)について調べました。1章はジョン・ミューアの生涯についての簡単なまとめ、2章はミューアのヨセミテ・シエラネバダ探査、旅行の記録について、3章は自然保護への係り、4章はミューア関連の雑記事、5、6章はミューアを深く調べるための資料について、7章は年表。最終章はSierra Club版ミューアの生涯のまとめです。
更新ログ:
2006-12-20: [1.1][1.4][1.8]加筆。及び1章全体のマイナーチェンジ。
2006-12-08: [3.7] ヨセミテ国立公園:境界変更(1905年)
2006-12-03: [1]から年表をはずし、7章に移す。[1]:年、スペルミスなどの細かい修正。
2006-12-02: [1.1] とりあえず終了
2006-11-25: [1.1] 「ルーズベルト大統領とのヨセミテキャンプ・世界旅行・ヨセミテ渓谷返還」
2006-11-24: [1.1] 「シエラクラブアウティング・Our National Parks」
2006-11-20: [1.1] 「Harrimanアラスカ遠征旅行」
2006-11-16: [1.1] 「Forest Reserve・連邦森林委員会」
2006-11-15: [1.1] 「Kings渓谷」など
2006-11-11: [1.1] 「ヨセミテ国立公園」
2006-11-08: [1.1] 「著作活動の再開」
2006-11-05: [1.1] 「果樹園経営」
2006-10-31: [1.1] 「アラスカ旅行・結婚」を追加
2006-10-28: [1.1] 1879年までを追加
2006-10-25: [3.6] ”Forest ReserveとMuir”追加
2006-10-24: 6章入力完了。
2006-10-20: [1.2]1896年7月、アラスカ旅行を追加。6章、1897年まで入力終わり。
2006-10-18: 6章を1891年まで更新、シリアルナンバーを付け始める。
2006-10-14: 2章に[2.37][2.39][2.42]を追加。
2006-10-04: インデアナポリス、1000マイルウォーク、ヨセミテ・シエラネバダを追加(1章)
2006-10-01: Canada生活のまとめを追加(1章)。
2006-09-30: 1章にMadison時代のまとめを追加; 5章に4冊のミューア研究書を追加。
2006-09-05: 「A Rival of Yosemite」(1891)、「Tuolumne渓谷…」(1895)、「Roosevelt…」(1903)を三章に追加
2006-09-02: 「Sierra Clubの設立Muir」追加(3章); 「ヨセミテ国立公園の境界変更案:Caminetti法案」追加(3章)
2006-08-31: 1章、Muir誕生年の間違い修正。
2006-08-16: 3章にMuir関連記事を追加。
2006-04-23: 6章1881・1882年の項を更新
2006-04-08: 東良三とMuir(4章); Keithの絵を1872年Mt. Ritter登山記に追加(2章)
2006-03-26: ヨセミテ国立公園設立の経緯とMuirの貢献[1](3章)
2006-03-11,12,13: Muirの自然保護運動の背景:連邦の森林政策(3章)
2006-02-20: 氷河説をヨセミテで講演:1879年6月(2章)
2006-02-19: 過去ログのクリア
修正・追加が必要な項目:
*My First Summerのルート地図の間違い(テナヤレイク付近)を直す。
*[3.7][3.8] ヨセミテ渓谷・Hetch-Hetchyを書き直す。
*Muir・Whitney・Kingの氷河論の詳細をまとめる。
*MuirとPinchotについてまとめる。

第一章 ジョン・ミューアの生涯:概略

[1] John Muirの生涯:概略
[1.1] Scotland, Dunbar時代(1838〜1849)
John Muirは1838年4月21日、スコットランドのEdinburgh(エジンバラ)近くの町、Dunbar(ダンバー)にMuir家の第三子、長男として生まれました。生まれた当時の家族構成は父Daniel(1804-1885)、母Anne(1813-1896)、長女Margaret(1834-1910)、次女Sarah(1836-1932)で、やがて次男David(1840-1916)、三男Danniel(1843-?)、双子の三女Annie(1846-1903)、Mary(1846-1928)、末娘のJoanna(1850-?)が生まれることになります。没する一年前に書き上げた自伝『The Story of My Boyhood and Youth』(1913年)によると、3歳の頃には古城での壁のぼりや家の三階の窓枠にぶら下がったこと、飼い猫に石を投げたり、高いところから落としたことなどが書かれています。7〜8歳の頃にはグラマースクールに進み、鞭を振るわれながら、ラテン語、フランス語、算数、地理などを学びます。家では父親からも、鞭を振るわれながら聖書の暗記を強いられ、11歳頃には旧約の4分の3と、新約のすべてを憶えこんだようです。戦争ごっこもさることながら、もっともエキサイティングな遊びは火薬遊びだったようで、パイプに火薬をつめ、簡単な鉄砲のようなものを作り、一度も成功したことは無かったものの、鳥を撃ち落とそうとしたと書いています。 Muir11歳の1849年のある日、父のDanielはアメリカへの移住を家族に告げ、次の日Sarah、David、そしてMuirのをつれGlasgow(グラスゴー)からアメリカ行きの船に乗りこむことになります。
[1.2] Wisconsin, Fountain Lake(1849〜1855)
ニューヨークに到着した一行は、ハドソン川をさかのぼりアルバニーにぬけ、エリー湖、ヒューロン湖、ミシガン湖を経由してミルウォーキーに到着しました。そこからは馬車で、北西百マイルほどにある町Prortage付近に移動し、そこに落ち着くことになります(註:この移民時のルートはWolfeによるもので、Muir本人は、ミルウォーキーについてしか述べていません)。そこには湖があり、DanielはそれをFountain Lakeと命名しました。やがて家を建て終わった11月、スコットランドに残っていた家族が合流します。Fountain Lakeでの思い出は、野原で遊んだりした楽しいこともあるものの、どちらかというと、父の怒りを買って撃ち殺されかかり、最後には手放された飼い馬のJackや、近所の鶏を食べてしまったため、同じく父に殺されてしまった飼い犬の”Watch”の悲しい話や、日々のつらい農作業のことが主に書かれています。Danielはかなり厳しくMuirを働かせ、おたふく風邪をわずらったときでも休めず、ただ一度農作業から開放されたのは肺炎を患ったときでした。ある年の7月4日、Danielには珍しく子供たちに休みを取らせ、MuirはそのときFountain Lakeで一度はおぼれかかったものの、翌日には再び湖に戻り、その恐怖を克服して泳ぎを覚えます。1854年には、友人からの勧めで、Miltonの詩などを覚えたり本を読み始めたりしましたが、父DanielはそんなMuirに全く理解を示しませんでした。
[1.3] Wisconsin, Hickory Hill(1855〜1860)
Muirが17歳のとき(1855年)に、Daniel(父)は近くにFountain Lake農場の倍近い広さの土地を入手します。このことはMuirに、再び始まる過酷な開墾作業を髣髴とさせ、かなり落胆させたようです。1857年には、その新しい農場、Hickory Farmへと移ることになりました。そこで井戸掘りをしていたときに、Muirはガスで中毒し、危うく命を落としかけました。過酷な開墾作業の間にも、Muirは時間を見つけ、数学などを独学で学び始めます。食後の礼拝の後、本を読むMuirに、Danielは朝早く起きて読むように命じます。次の日からは普段よりも5時間早い真夜中に起きだし、読書や発明に時間をあてるようになりました。こうしてMuirは、やがて温度計や、時計などといった発明品を作り上げていきます。1860年のある日、知人のWilliam Duncanに、Madisonで行われるState Fair(Wisconsin State Agricultural Fair)への出品をすすめられました。Muirは三つの発明品と、母や1849年に祖父からもらった金貨、そして貯金しておいた10ドルほどを持って、David(弟)の馬車にゆられ近くの駅へと向かうことになります。
[1.4] Wisconsin, Madison :在学時代(1861〜1863)
State Fairに展示したMuirの時計、温度計、目覚ましベッドなどは新聞も含めて人々の賞賛を浴び、審査員の一人Jeanne Carr(Wisconsin大学教授Ezra Carrの妻)の推薦で特別賞を受賞することになります。そこでMuirの才能に目をつけたNorman Wiardという発明家に誘われ、Madisonから100マイルほど西にあるミシシッピ川沿いの町Prairie du Chienで、蒸気機関の氷上ボートのメカニックとして数ヶ月間働くことになります。またPelton家の経営するMondell Houseというホテルでの仕事も引き受け、Pelton家の姪Emily (後にカリフォルニアへ移住)とも知り合います。結局Wiardの処での仕事は思ったほど本人の役にはたたず、翌年(1861年)の始めにMadisonへ戻ることにしました。雑多な仕事をして生活費を稼いでいるうちに機会を見つけ、夏前にはWisconsin大学へ(仮)入学することになりました。J. Carrが、忘れていたMuirのことを思い出したのは、夫のCarr教授が自分の授業でMuirを見かけた話をしたときでした。State FairでMuirが目覚ましベッドのデモをするのを手伝っていたCarrとJames Butler教授の二人の息子たちは、やがてMuirが学校に入学したことを知り、J. Carrを説得し、一緒にMuirの部屋を訪れます。そこには、すでに有名になっていた目覚ましベッドのほかに、時計仕掛けの勉強机や、植物成長の記録装置などがあり、J. Carrを感嘆させました。1862年の始めごろには大学から10マイルほど離れた町で、化学や自然哲学を子供たちに教えて生活費を稼いでいます。その頃寮のルームメイトとなったCharles E. Vromanは当時を振り返り、Muirが聖書、学校の教科書、Robert Burnsの詩だけを読んでいたことを述べています。夏前には学生のMilton S. Griswoldに紹介され、植物学への興味を抱きはじめます。秋に姉夫妻に出した手紙では、近づきつつある戦争への不安とともに、新たな自分の進路(医学校へ進む)を示唆しています。現在ウィスコンシン大学には当時の記録は残されておらず、Muirがどのようなコースを取ったのかは確かめるすべはありませんが、自伝には化学、数学、物理、ギリシャ語、ラテン語、植物学、地学を取ったと記されています。1863年、夏休みに入るとMuirは、友人と共にウィスコンシン川沿いにPrairie du Chien方面へと植物採集の旅行に出かけました。その後は姉夫妻のいるFountain Lakeへ行き、半年近くを農作業を手伝って過ごすことになります。この夏を最後に、Muirが学生生活へ戻ることはありませんでした。Muirは後に学校へ戻らなかった色々な理由を述べていたそうですが、徴兵から逃れることが最大の理由であったと考えられています。そして1864年3月1日、Emily Peltonに手紙を出してそのままCanadaへ旅立って行きました。Muirは自伝の中で、この新たな旅立ちを”But I was only leaving one University for another, the Wisconsin University for the Univerisity of the Wilderness.”と表現しています。
この2年半の在学中、Muirは将来に大きく影響を与えることになった3人と出会っています。古典・ギリシャ語の教授James Butler(Emersonの傾倒者)からは日々の記録を書き留めることの大事さを教わり、Griswoldには植物学の基本を教わり、そしてJeanne Carrとの親交を結べたことです。Muirがヨセミテ渓谷での生活時代に、多くの著名人や社会的地位のある人々にめぐり会えることが出来たのは、ひとえにCarr夫妻(1868年にカリフォルニア大学のあるオークランドへ移住)のおかげといえます。
[1.5] カナダでの生活(1864〜1866)
Muirは1864年5月にはカナダのトロント付近へ到り、周辺でナイアガラ滝などを訪ねたり、植物採集の旅をした後、10月にはGeorgian Bay南岸の小さな町、Meafordの町に落ち着くことになりました。5〜6月ごろに湿地帯を歩いていたMuirは、Calypso borealisという蘭の花を見つけて深い感動を覚えます。
Meafordでは弟のDanielが以前働いていたWilliam Trout家に雇われ、農機具を作る仕事に携わることになりました。Daniel(弟)は南北戦争が終わるとすぐにWisconsinへ戻っていきます。
1865年の秋、J. Carrから手紙が届きました(この手紙は現存していません)。9月13日付けのMuirからJ. Carrへの最初の手紙はかなり長いもので、Wisconsin大学のSterling教授がMuirに送った、学費免除の手紙を受け取れなかったこと、大学には戻りたいが、人の役に立つ機械を発明する仕事もしたいこと、探険家Alexander Von Humboldtのようになりたいこと、在学時にCarr教授から自然科学を教わったりCarr家の蔵書を読ませてもらったことへの感謝などが書かれています。明らかにJ. CarrはMuirとの文通を望んでいたようで、Muirはややためらいつつも、喜んでそれに応じることにしました。こうして二人の30年近くに渡る文通が始まります。1866年1月の手紙からは、J. Carrのアドバイスをうけ、仕事に忙しい合間を縫って、Muirが羊歯、苔、地衣類といった植物の採集をし、その報告をしています。すでにMuirは農機具の工作機の生産効率を上げる発明・改良をしており、これによって費用が下がり、農民がより低コストで農作物の生産が出来るようになると自分の仕事を誇らしげにJ. Carrへ伝えています。しかしながら数ヵ月後の3月初め、Troutの工場は火事で焼けてしまい、Muirは自分が作った3万ほどの農機具を、利益を回収することなく失ってしまいました。これをきっかけに、Troutとの宗教上の意見の食い違いもあり、Muirはアメリカへと戻ることになります。
[1.6] インディアナポリスでの生活(1866〜1867)
カナダを去ったMuirはインディアナポリスへ向かい、馬車の部品を作る会社Osgood, Smith, & Co.に職を見つけます。ここでもMuirは発明の才覚を生かし、生産効率を上げる機械を作り上げ、評判を高めます。1866年10月12日のJ.Carrからの手紙は、孤独であるともらしてしていたMuirを慰めるものでしたが、わずかですが二つの重要な話題に触れています。ひとつはカナダでCalypso蘭を見つけた時の事を尋ねたことで、Muirはそれに応じ、すぐ花との出会いの時の短いエッセイをJ. Carrへ送っています。これはButler教授の手に入り、年末には二人には知らされずに無断で新聞(「Boston Recorder」,1866年12月21日)に投稿され、Muir初めての著作となりました。生存中に出版されなかったものの、Muirは自伝の続きで、花との出会いがヨセミテでEmersonに出会ったのと同じ位自分の人生で印象深いことであったと書き残しています。もうひとつは「The Stone-Mason of Saint-Point」(1851年:フランスの詩人Alphonse de Lamartine著)という本について聞いたことです。まだ入手できていないことを知ったJ. Carrは、12月に自分の持っている本を送り、Muirはかなりの興味を覚えて読むことになります。登場人物の石工職人Claudeとナレーターとの神学的論議は、以後のJ. CarrとMuirの関係に大きな影響を与えたと指摘されています。春前にはButler教授の紹介により、Merrill・Moores両家の人々との親交が始まります。1867年3月上旬、工場での作業中に、先のとがった爪やすりが右目に刺さり、視力を一時的に失うという事故に遭います。話を聞いたJ. Carrは、Muirを元気づけるために植物やWisconsin大学での話題を中心とした幾通もの手紙を書き送ります。4月15日には、「Yosemite Valley」に関する記述を友達に読んでもらうよう勧めています。Muirは1年前にはすでにその記事を読んでおり、そして毎日のようにヨセミテのことを考えていると答えています。一時は失明への恐れでかなり落ち込んだMuirでしたが、次第に視力も回復し、6月9日にはJ. Carrに宛て、これからMerrill Moores(Moores家の子供で当時11歳、後に弁護士・連邦議員となる)と共にイリノイで植物採集をしながらWisconsinへと向かい、そして夏の終わりには南に向けて旅立つ計画を告げています。二人は夏をMuirの故郷で過ごし、またCarr一家と共に植物採集の旅に出かけた後、8月中旬にはインディアナポリスへ戻ってきました。
[1.7] 1000マイルウオーク(1867〜1868)
インディアナポリスに戻ったMuirは、8月30日のJ.Carrへの手紙で「I wish I knew where I was going. Doomed to be”carried by the spirit into the wilderness,” I suppose.」とウィルダネスへ引き込まれていく心境を告げ、行き先も決めないまま旅立っていくことになります。9月1日には汽車でJeffersonvilleへと向かい、そこからケンタッキー、テネシー、ジョージアへと向かい徒歩旅行を始めます。10月上旬にはジョージアのSavannahに達し、そこで送金を受け取る間、ひもじい思いをしながら墓地で寝泊りします。お金の工面がつくや、蒸気船に乗って10月15日にはフロリダのFernandia(大西洋側)に向かい、そこからはフロリダ半島の付け根を南西に横断、10月23日にはメキシコ湾に面したCedar Keyにたどり着きました。しかしキューバに渡る船を待っている間にマラリアに倒れてしまいます。この間Muirは、ケンタッキー、ジョージア、フロリダからJ. Carr宛に手紙を数通出し、途中で見た植物のこと、今後のルート、さらにはキューバ経由で南米へ向かう決心をしたこと、手紙の受け取り先、墓地で思ったこと、熱(マラリア)で倒れたことなどを伝えています。J. Carrは幾通も返信を出しましたが、Muirの手元に届いたのはわずか一通でした。南米旅行はMuirが以前からあこがれていた探検家Humboldtの南米探査行が影響を与えています。マラリアは完治していないないものの、1月には帆船でキューバへ出発します。1月12日にはハバナ港へと入港し、そこを中心に一月あまり周辺の探索をしてすごしました。そこから南米行きの船を捜したものの便は見つからず、また、依然健康もすぐれないことから、とりあえずはカリフォルニアへ行き、森や山を見て回ってから、一年後に南米(アマゾン)行きを目指すことにしました。こうしてMuirはオレンジを満載した船に乗りNew Yorkへと渡り、そこからSantiago de Cuba号とNebraska号を乗り継ぎ、パナマ地峡を越えてサンフランシスコへと向かいました。このインディアナポリスからキューバまでの旅行の話は、Muirの没後、「A Thousand-Mile Walk to The Gulf」(1〜9章)としてBadeにより編纂・出版されることになります。
[1.8] ヨセミテ・シエラネバダ(1868〜1875)
1868年3月28日、サンフランシスコに着いたMuirは、船で知り合ったChilwellと共にすぐヨセミテ渓谷・Mariposa Groveへの短い旅行に出かけました。ヨセミテから戻ってきたMuirは、シエラ山麓の小さな町Hopetonで農場の仕事を見つけます。7月26日にはJ. Carr宛に手紙を出し、キューバからカリフォルニアに到った経緯や、ヨセミテ旅行のことなどを含め近況を書き送ります。すでに夫のE.Carr教授はWisconsin大学を辞し、二人はVermontに移っていました。8月31日、転送されてきた手紙を受け取ったJ. Carrは、Muirの無事を喜び、自分たちがカリフォルニアもしくはアルゼンチンに行く予定である旨を書いています。Muirは一年近くLa Grange・Snelling付近で羊飼いなどの仕事をした後、1969年6月〜9月の間、Pat Delaneyからヨセミテの山で羊飼いの監督をする仕事を引き受け、ヨセミテ渓谷の北側やTuolumne Meadowsでキャンプをして過ごすことになります。この夏のことは、『My First Summer in the Sierra』というエッセイとして、1911年に出版されることになります。本では8月にヨセミテ渓谷を訪れてきた、ウィスコンシン大学のButler教授と再会したことが書かれていますが、すでにサンフランシスコ湾の町San Mateo(サンマテオ)に移っていたJ. Carrも、Muirに会いに7月下旬ヨセミテ渓谷を訪ね、James M. Hutchingsのホテルに滞在しています。しかし、うまく連絡がつかず、その時は二人は会うことが出来ませんでした。E. Carrはこの夏、Univ. of Californiaでの教職のポジションを得て、一家はオークランドに居を構えることになります。山からLa Grangeに戻ってきたMuirは、しばらくDelanyの農場で働いていましたが、同年11月にはHarry Randallと共にヨセミテ渓谷に行き、Hutchingsのホテルでの雑用の仕事を得ます。1870年4月5日付けのJ. Carrへの手紙には、Josiah D. Whitneyの唱えていたヨセミテ渓谷の形成説の疑問を抱いていることが書かれています。8月には、J.Carrの紹介を受けたUniv. of Californiaの地学教授LeConteとその学生らがMuirを訪ねてきて、共にハイシエラ(Tenaya Lake、Toulumne Meadows、Mt. Dana、Bloody Canyon、Mono Lake)方面に10日間の旅に出ました。ヨセミテ渓谷を見下ろすEagle Peakの上では、ヨセミテ渓谷の氷河形成説に関して意見を交換します。この夏、伯爵夫人でもあり作家のTheresa Yelvertonが、Hutchingsのホテルに滞在しており、MuirやHutchings家の娘らを題材にした、『Zanita:A Tale of theYo-semite』というロマンス小説を1872年に書き上げることになります。Muirは、秋になるとHutchingsから住んでいるキャビンを開け渡すよう要求され、やむなく渓谷を去り、10月から数ヶ月間、再びDelaneyの牧場で働くことになります。しかし1871年初春には再雇用され、渓谷に戻ってきます。このときMuirは、製材所の壁から張り出した小部屋を作り、そこに住むことになります。5月には、Ralph Waldo Emersonがヨセミテ渓谷を訪れます。その際J. Carrから紹介もあり、EmersonはMuirを何度か訪ねます。帰り際MuirはMariposaまで同行し、共にセコイアの木の元でキャンプすることを薦めましたが、Emersonの健康を気遣った付き人らの反対でそれは実現できませんでした。夏にはCascade CreekやYosemite Creek付近を歩き回り、氷河の痕跡を調べます。この頃Hutchingsとの契約が切れ、翌年夏にRoyal Archの麓に自分のキャビンを建てるまで、MuirはA. G. Blackの経営するホテルに住むことになります。9月上旬にはヨセミテ渓谷を訪れたMITの学長John Daniel Runkleを、5日間に渡って案内し、自説の氷河論を延々と展開します。RunkleはMuirに論文を書くことを勧め、それに応じてMuirは、原稿を送るので何か有用なものがあれば、使ってくれと答えます。翌年、同大学のSamual Kneeland教授は、MuirがRunkleに送った手紙の内容を勝手に引用し、学会で発表してしまいます。これを知ったMuirはかなり気分を害することになります。
9月中旬にはTen Lakes付近からTuolumne渓谷へ初めての下降を行います。この記録は2年後、Overland Monthly誌に”Exploration in the Great Tuolumne Canyon”と題して発表されます。冒頭にはWhitneyのヨセミテ渓谷形成説への反論も書かれています。10月になると、ヨセミテ渓谷の南にあるMerced山群で、現存する氷河を発見します。11月にはHetch Hetchy Valleyを初めて探索し、翌月には過去にヨセミテ渓谷に氷河が入りこんでいたことを主張する”Yosemite Glaciers ”を、New YorkのTribune誌に投稿しました(これには氷河の発見は書かれていません)。
1872年3月のある夜、Muirは渓谷で地震を経験し、その様子をすぐ”Yosemite in Winter”に書いています。7月にはHarvard大学の植物学者Asa Grayが訪ねてきて1週間のキャンプ旅行をし、Grayとの交友が始まります。同じ頃、インディアナポリス時代の友達Merrill Mooresが訪ねてきて、Muirとヨセミテで過すことになります。夏から秋にかけては、Galen Clarkと共にHetch Hetchyから入り、Tuolumne渓谷のゴルジ地帯(Muir Gorgeと後に命名)を遡行し、そのすぐあと氷河の実在を証明するために、McClure(Lyell渓谷)やHoffmannの氷河上に棒を立て、移動量を計測しました。このときTen Lakes付近から再びTuolumne渓谷中央部へと下降しています。一連の測定のための山行を終え、ヨセミテ渓谷に戻ってきた10月上旬、J. Carrの紹介状をもってヨセミテ渓谷に来ていた画家のWilliam Keithらを案内し、Lyell渓谷に再び出かけます。その際、一人Donohue Passを越えてSan Joaquin水系側に入り、Mt. Ritterに初登頂します。晩秋には一時ヨセミテ渓谷を離れ、2週間ほどオークランドを訪ね、戻るとすぐに12月のTenaya渓谷を遡行しました。そしてこの月”Living Glaciers of California”をOverland誌に投稿し、ヨセミテに氷河が存在することを、移動量の測定結果を添えて発表しました。
1873年の夏には、J. Carr、Keith、植物学者のAlbert KellogらとTuolumne渓谷を遡行したり、5週間にわたる、ヨセミテの南・東側に当たるSan Joaquin水系の単独探査を行いました。ヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは9月3日、姉のSarahに手紙を書き、この探査行がこれまでで一番長く辛いものであったこと、そして次のシエラ南部(及びLake Tahoe)への旅が待っている事と、執筆の為に冬にはOaklandへ行く事を伝えています。9月末、MuirはKellog、画家のBilly Simms、そしてヨセミテガーディアンのGalen Clark(途中まで同行)とシエラ南部への長期旅行に出ました。South Fork San Joaquin、North Fork Kings River沿いに南下した一行はKings渓谷に至り、そこからKearsarge Passを越えOwens渓谷側に抜けます。このときMuirはIndependenceの町から東側の新ルートをとりMt. Whitneyの登頂に成功しました。これがMuirにとって初めてのヨセミテ以外のシエラネバダ探査行でした。その後Muirは、Mono Lakeで一行と別れTahoe Cityに行きますが、J. Carrを待つ間、Carr家の息子が事故死した連絡を受け取りました。このため冬に4年住んだヨセミテを去ってOaklandに来たMuirは、当初計画していたCarr家に間借りする計画を取りやめ、同市内に住むJ. B. McChesney家に身を寄せ、以後10ヶ月近くをかけ自説の氷河説をまとめることになります。それらは1874年の春から次の年にかけて、Overland誌に”Studies in the Sierra”として連載されました。執筆を終えたMuirは、1874年の秋にヨセミテでの短い滞在の後、北カリフォルニアのMt. Shasta・Modoc方面に向かい、San Francisco Bulletin誌に登山を含む旅行体験談等を投稿していきます。12月にはYuba CountyのBrownsville(Knoxville)に移り住んでいる、ウィスコンシン時代からの友人Emily Peltonを訪ねています。1875年2月末にOaklandに戻ってきたMuirは、4月には再びMt. Shastaへと行き、4月28日には山頂にマーカーを設置しようとする測量隊(Coast and Geodetic Survey)のガイド役として登頂、さらにその二日後にはJerome Fayと気圧の調査のため再び山頂に向かいます。しかし、二人は山頂付近で突然の雪嵐に襲われ、ビバークを余儀なくされます。雪が降り積もる中、頂上そばの噴気孔(泉)に体を伏せ、暖をとることができ、次の日には命からがら下ってくる事ができました。6月にはヨセミテ渓谷を訪れ、Keith、Swett、McChesneyらと共にMonoトレイルを使い、Tenaya Lake、Tuolumne Meadowsを経由してMono Lakeへ向かう旅に出ます。7月上旬にヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは、Charles Washburn、George Baylay、そしてロバの面倒見役の”Buckskin Bill”と連れ立って、Kings Canyon方面へ二度目の旅行に出かけます。再びKearsarge Passを越えOwens Valleyに入り、一行は東側からMt. Whitneyに上り、Mono Lakeを経由してヨセミテへと戻ってきます。8月下旬、Muirはセコイアの植生について調べるために、ミュールのBrownieを連れて再度シエラネバダの南へ向け、ヨセミテ渓谷を出発しました。このセコイア調査の旅で彼が見たものは、放羊や伐採などによって進む森林破壊でした。旅の帰りにはヨセミテ渓谷に立ち寄り、10月12日にGeorge Andersonによって初登されたばかりのHalf Domeを登っています。
[1.9] サンフランシスコ生活:ユタ・ネバダ探訪(1875〜1879)
Muirは、1875年の2月にはOaklandからSan FranciscoのSwett家へと住まいを移しました。John Swettは教育者で、J. Carrを介して1874年の冬に初めて出会っています。1875年夏にはMuirの案内で、ヨセミテ、Mono Lake方面への旅行をしています。Swettの回顧録によると、Bulletinに投稿をし始めた頃のMuirは、自分の自然描写の価値についてかなり懐疑的で、また読者は、自然の景観などを見たいなら直接現地に行くべきで、自分があえて代わりに行って書く必要はないだろうとも考えていました。Swettは、そんなMuirに文を書かせようと、かなり後押しをしたようです。
1876年1月25日、Muirはサクラメントで初めての講演を行いました。タイトルは”The Glaciers of California.”で、黒板の絵も使った90分にわたる話は、聴衆を楽しませました。2月5日にはSacramento Record誌に、”God’s First Temples:How Shall We Preserve Our Forests?”という初めて自然保護を訴える記事を書き、森林の環境に与える重要性を説き、見てきたばかりのセコイアをはじめとするシエラの森林の伐採や羊などによる被害を述べ、政府が何らかの対策を取ることの必要性を訴えました。この内容は、George P. Marshが著書”Man and Nature”で1864年に唱えた説にほぼ沿ったものですが、カリフォルニアでのMuirの主張は時期尚早であったのか、注目を浴びることはありませんでした。そして夏になると前年のようにBulletin誌のライターとして、Calaveras、Murphys、Yosemite方面を訪ねています。1877年は、Muirにとって目が回るほど忙しい年となります。5月には、Muirがセコイアに関して書き上げた論文がAsa Grayが委員を務める学会誌(Proc. of the Association of the Advancement of Science)に発表されました。これはMuirが自分で調べたセコイアの植生や、自論の氷河説と絡めた群生の分布などを論じたものです。本人はその頃ユタ州へと向かい、Wasatch MountainやSalt Lake Basin付近の探訪記をBulletinへ書き送ります。7月にユタから戻ると、Carr夫妻が移ったばかりのPasadena(南カリフォルニア)近くのSan Gabriel Mountainへと向かいます。その後は北カリフォルニアのShasta、Lassen方面へ、Asa Gray夫妻と英国の植物学者Sir. Joseph Hookerらを伴って植物採集の旅に出ました。Chicoからはボートでサクラメントまで下り、鉄道を乗り継ぎVisaliaへ行き、Kings Canyonへ向かいます。そこからは北へ峠を越えて、カリフォルニア地質調査隊(Whitney隊)のW. H. BrewerやC. KingがあきらめていたMiddle Fork Kings Riverの下降と探査を行いました。このあと、初めてカリフォルニアに来た年に住んでいたHopetonの町に立ち寄り、自分で船を作ってMerced・San Joaquin川を下り、Martinezにたどり着き、初めてStrentzel家を訪ね(11月27日)、数日間のもてなしを受けることになりました。John Sterentzelは、ポーランドから亡命した後ハンガリーで医学を修め、1840年にアメリカに渡ってきました。テキサスでLouisiana Erwinと出会い結婚、苦しい生活の後、1850年にカリフォルニアに移住し、1851年にはMartinezに落ち着きました。そこで土地を買い、果樹の品種改良などに励み、1870年代後半までには、果樹園業でかなりの成功を収めただけでなく、街づくりや経済発展にも尽力し、土地の名士となっていました。当時Strentzel家は、夫妻と娘Louie Wanda Strentzelとの3人暮らしで(Louieの兄弟二人はすでに他界)、Swett家やCarr家とは既知の仲であり、Muirは3年前にオークランドで会った際に、Strentzel家へ招待されていました。
1878年の夏から秋にかけては、US Coast SurveyのA. F. Rodgersの招待を受け、ネバダ方面の測量に同行します。このときのBulletinの記事のいくつかは、Muirの没後出版された『Steep Trails』で紹介されています。この頃からMuirは、東部の雑誌社Scribner’s(後のCentury誌)やHarper’sへ投稿するようになります。これらは1894年に『Mountains of California』として出版されます。この年からJ. Carrの強い薦めもあり、頻繁にStrentzel家を訪ねたり、文通を始めることにもなります。しかしながら、始めの頃はStrentzel氏に宛てたものばかりで、Louie宛に初めて手紙を書いたのは、1879年4月になってからでした。1879年5月、Muirはヨセミテ渓谷やGlacier Pointで自分の氷河論やセコイアの分布に関する講演を3度行い、多くの聴衆の喝采を得ることが出来ました。そしてその一ヶ月後の6月17日に、Strentzel家でLouieにプロポーズしました。これは夫妻が待ち望んでいたことで、母Louisiana の日記によると、その晩Louieはとても幸せだったと書かれています。しかしその二日後、MuirはJ. Carrに婚約のことを知らせずに、”Good-bye. I am going home, going to my summer in the snow and ice and forests of north coast”と言う書き出しで始まる手紙を送り、最初のアラスカ旅行へ旅立って行きました。
[1.10] アラスカ旅行・結婚(1879〜1881)
サンフランシスコから船でワシントン州に着いたMuirは、数週間ほどかけてPuget Sound(シアトル付近の入り江)付近の旅行をした後、オレゴン州のポートランドへ引き返し、そこから郵便船Californiaに乗り、アラスカ南東端へと向かいました。Baranof島のSitkaへの一週間ほどの航海の後、7月20日にはFort Wrangellに到着し、Muirはそこをベースにいくつかの冒険に出かけます。まず初めに宣教師らとStikine川を船で遡ったときに、Glenora Peakへの登山を試みました。Wrangellで知り合った宣教師のYoungが同行しましたが、途中で足を踏み外し、崖から落ちかけ、両肩を脱臼するという事故にあい、Muirに助けられながら一晩かけて船まで戻ってきました。そのすぐ後には、宣教師たちがチャーターした蒸気船Cassiar号に同乗し、Chilcat方面に向かいましたが、70マイルほど行ったところで船が故障し、引き返すことになってしまいます。8月には再度Stikine川を訪ね、前回登り損ねたGlenora Peakの登頂とStikine氷河の探査をし、10月にカヌーでFort Wrangellへと戻ってきました。そして10月14日には、今回の旅行のピークともいえるカヌー旅行に出かけました。メンバーはYoungとガイド役のインディアン4人で、目指すは”Sidaka”(”不思議な氷の地帯”の意)と呼ばれる地帯です。この旅行で一行は氷河が後退したGlacier Bayを発見することになります。Muirは『Travels in Alaska』の10章で、100年前に探検家George Vancouverによって作られた地図と比べ、Glacier Bayの氷河の淵が18-25マイルほど後退していることを指摘しています。湾内の探査の後、一行はChilcatを訪ねます。帰りにはSun Dum湾内の探査も試みようとしましたが、インディアンの反対にあって取りやめ、11月21日にはFort Wrangellへと戻り、12月末の船を待ち帰路に着きました。この半年の間妻Louieは、なかなか連絡の付かないMuirを心配したり、早い帰還を願う手紙を何度も書いています。しかし当のMuirは、ポートランドでの講演やサンフランシスコでの用事などに追われ、Strentzel家を訪れたのは翌年2月に入ってからでした。MuirとLouie Strentzelの結婚は4月14日にとり行われました。Strentzel夫妻は、結婚祝いとして二人に家を贈ります(Strentzel夫妻は一時的に住まいを移し、1882年に3階建てのビクトリア調の家を建ててそこに移りました。これが現在NPSが管理するMuir邸)。この結婚のニュースは一生独身で過ごすだろうと思っていた友人をかなりびっくりさせます。そして結婚後2月ばかりでMuirは再びアラスカに出かけることになりました。
1880年8月8日、Fort Wrangellに着いたMuirは、再びYoung、インディアンらと共にカヌーでの探検に出かけます。まず前回調査し損ねたSun Dum湾を調査し、そこで見つけた氷河のひとつをYoung Glacierと命名しました。そしてTaku湾の探査の後、Glacier Bayの西側にあるTayler湾へと向かいます。Youngはこの旅行に、飼い犬のStickeenを連れてきており、やがてMuirの後をいつもついて歩くようになりました。8月30日にTayler湾のBrady氷河を探査したときにも、StickeenはMuirについて行き、長い一日を共にします。そして何度もためらいながら、Muirに励まされ危険なクレバスを渡ったときからMuirとStickeenは心を通わせることなりました。このStickeenとの話はやがて”An adventure with a Dog and a Glacier”として1897年9月にCentury誌から発表され、後に”Stickeen”と改題され1909年に出版、犬に関する物語として大好評を博することになります。帰りの船にMuirが乗り遅れるのを恐れた一行は、二日間休みなくカヌーを漕ぎ続け、船の到着する前にBaranof島のSitkaに到着することが出来ました。そこでは軍艦”Jamestown”の船長Beardsleeの歓待をうけ、地図作成にも協力しました。この地図は1882年海軍の報告書に添付され、Glacier Bayの氷河のひとつはMuir氷河の名を冠することになりました。
1880年の秋、2度目のアラスカ旅行から戻ったMuirは果樹園の運営に乗り出します。1881年3月25日には長女Annie Wanda Muirが生まれ、一家は幸せでした。そんな時、連邦の密輸監視艇Thomas Corwin号の船長Calvin Hooperが訪ねてきて、北方洋で行方不明になった探査船Jannettと二隻の捕鯨船の捜索への同行を依頼してきます。Sterentzel夫妻は反対しましたが、この頃健康を害し始めたMuirを気遣ったLouieの勧めで、5月4日Muirは、Corwin号に乗船し、アリューシャン列島のUnalaskaへと旅立ちました。船はベーリング海峡を抜けWangel島を目指しましたが、流氷に妨げられとりあえず引き返し、ベーリング海峡付近のPlovar湾、St. Lawrence島、St. Michaelsに補給・密輸監視のために立ちよります。そして夏、海の状況がよくなったときを見計らい、海峡を越えHerald島とWrangel島への上陸を果たしましたが、Jannett号が立ち寄った形跡は見つけられませんでした。再び流氷が近づいてきたため、船長は予定を早め帰還を決定、10月に戻ってきました。このときMuirはかなりの数の植物を採集してAsa Grayへ贈り、その中で新発見された種は、Erigeron MuiriiというMuirの名前を含む学術名が付けられました。さてJannett号の運命ですが、Corwin号が捜索している頃の6月、2年近く閉じ込められれいた氷から開放されましたが、船は破損のため沈没してしまいます。34人の乗組員はボートで脱出しましたが、9月にレナ川の近くの集落に生還できたのは13人だけでした。
この三度にわたるアラスカ探検の間、Muirはその様子をBulletin誌に書き送り、かなりの数の記事が投稿されました。これらはMuirの没後、『Travels in Alaska』と『The Cruise of the Corwin』として編纂され出版されることになります。
[1.11] 果樹園経営(1882〜1887)
三度に渡るアラスカ旅行のあと家庭生活に落ち着いたMuirは、以後6年にわたって義父から買い取ったり借り受けた2,600エーカーにも及ぶ果樹園の経営に集中することになります。これまで品種改良の実験に使っていた土地の割合を減らし、より収益性の高い葡萄や桃の栽培を行うようにしました。Muirの価格交渉のうまさも手伝い、経営はうまく行き、かなりの財を成すことになります。しかしその一方では仕事に追われ、この時期の執筆は、再版を除きほとんど途絶えてしまいました。1883年4月、ヨセミテ生活時代に頻繁に投稿していたサンフランシスコの雑誌社Overlandからの執筆依頼が来たときには、農作業が忙しいと断りの手紙を返しています。同じ頃、一緒にアラスカ旅行をしたYoungが訪ねてきたときには、仕事は順調ではあるものの、心はいつもかなたの丘や木々のもとにあり、生活に満足していないと心境をもらしています。
1884年夏、妻Louieの提案で、二人はヨセミテ旅行に出かけました。旅行中Louieは両親に手紙を書き、Muirの健康はあまりよくなく、回復するまで山にいるべきだと報告しています。妻が旅慣れしていないこともあり、Muirはこの旅行に$500ドルもの費用をかけています。これ以降二人が一緒に山へ旅行をすることはありませんでした。10月には、Century誌(1881年にScribner’s誌が改名)の編集員R. U. Johnsonから、執筆を止めてしまうのではないかと心配しており、また読者にとっても痛手だという手紙を受け取っています。
1884年12月、Muirは弟Davidに手紙を出し、1885年の農閑期(夏)には故郷を訪ねるつもりであることを伝えています。未刊の原稿となった”Mysterious Things”によると、1885年にKansas CityのJoanna(末娘)の家で暮らしている父の様子が思わしくないという連絡が入ります。それから数ヶ月経った8月末のある朝、突然の感覚に襲われたMuirは、妻に今行かないと父に会えないかもしれないと告げて旅立つことになりました。しかしこのときLouieの間でやり取りされた手紙では、実際には切迫したものではなく、途中Mt. Shasta付近やYellowstone国立公園に立ち寄る健康回復・気分転換も兼ねた旅であったことが伺えます。Louieは自分の両親がやっとMuirにとって山が大事であることがわかったこと、Muirの母や姉も理解してくれるであろうと述べ、果樹園のことは気にしないようにと気遣いの手紙を書いています。故郷Portageで兄弟一同を集めるなどの寄り道をした後Muirは、出発から一月後に病床の父を訪ねています。Louieへの手紙では、Yellowstoneですごした時間が少なくて不満だったこと、Portageで久々にあった人々、まだしっかりしていた数年前には、父DanielはJoannaに、Muirを始め子供たちにつらく当たったことを反省していると話していたこと、再会したときにはかなり衰弱し、Muirをほとんど認識できなくなっていたこと、そして10月6日の深夜に息を引き取ったときの様子が淡々と書かれています。そしてあと数ヶ月早く訪ねていればよかったと後悔しています。さて、このときのYellowstoneの訪問記は、10月末にSan Francisco Bulletinに投稿されました。後に加筆され1898年4月にAtlantic Monthly誌より発表され、1901年に出版される『Our Natinal Parks』の第二章に使われることになります。
翌1887年1月、次女Helenが生まれました。生まれつき病弱気味であったためその世話もあり、Muirはますます農園から離れられなくなりました。
[1.12] 著作活動の再開: Picturesque California(1887-1889)
1887年春、J. Dewing社から、『Picturesque California and the Region West of the Rocky Mountains』という連載ものの編集、及び投稿依頼の話が舞い込んできました。この仕事は3年間(1887〜1889)にわたり、26の読み物が書かれることになります。Muirはそのうち7本の投稿を担当しますが、最初の5本は以前に書いた記事を手直ししたもので、残りの2部は1888年のオレゴン、ワシントン方面への旅行を題材に書かれることになります(日本向けにも100部が印刷されています)。
1888年初夏、アラスカでの宣教の活動を終えたYoungが、南カリフォルニアに向かう途中、Muirを突然訪ねてきました。Youngの回顧録からは、当時のMuirは日々の生活に疲れきっており、ウィルダネスへ戻ることを強く望んでいたことが伺えます。その日YoungはMuir邸に泊まり、二人はアラスカの話に花を咲かせました。このYoungの訪問が影響を与えたのか、6月末には植物学者のCharles C. Parryと共に、Lake Tahoeへキャンプ旅行に出かけます。そして7月中旬からは親友のKeithと共に、オレゴン・ワシントン方面への旅行に出かけました。途中立ち寄ったMt. Shasta山麓の町Sisson’sでは、斧や鋸の伐採の音が以前より聞こえるようになり、Shastaのすばらしい森林が失われつつあると日記に書きとめています。オレゴンでのMt. Hoodの登山は、Keithが病に倒れてしまいあきらめましたが、シアトル付近ではSnoqualmie滝の探訪、そして地元の登山家らと共にMt Rainierの登山に成功しました。このとき登山のガイドを勤めたPeter Van Trumpは、1870年のMt. Rainer初登時のメンバーでした。Trumpは、1891年から、他の有志と共にMt. Rainierを国立公園にするための運動(すでに1883年初期の活動があった)を開始します。1893年2月Harrison大統領は、一帯をPacific Forest Reserveと指定し、同年12月には「Sierra Club」、「National Geographic Society」、「the American Association for the Advancement of Science」、「the Geological Society of America」、そして「the Aparachian Mountain Club」が連携し合い、法案提出の支援をすることになります。これにより運動に弾みがつき、Mt. Rainier一帯は、1897年のMt. Rainier Forest Reserve指定を経て、1899年に国立公園に指定されることになります。
さて無事下山したMuirに一通の手紙がLouieから届いていました。それは果樹園の仕事を放り出してでも執筆活動に戻ることを強く勧めるものでした:”A ranch that needs and takes the sacrifice of a noble life,ought to be flung away beyond all reach and power for farm…The Alaska book and the Yosemite book, dear John, must be written, and you need to be your own self, well and strong, to make them worthy for you.”
こうしてMuirは、1888年を境にその生活の重きを、徐々に果樹園経営から執筆活動や旅行へと移していくことになります。
[1.13] ヨセミテ国立公園の成立(1890)
1889年5月MuirはサンフランシスコのPalace Hotelを訪れ、”Gold-Hunter”という連載を企画するためにカリフォルニアにやってきた、Century誌のJohnsonと初めて会います。数週間で仕事を終えたJohnsonは、Muirと連れ立って6月上旬にヨセミテ旅行へと出かけました。二人はワオナ・ヨセミテ渓谷の観光の後、Tuolumne Meadowsに向かい、Soda Springsでキャンプをすることになります。このとき焚き火の回りで出た話題のひとつが、ヨセミテの自然に関するもので、それが後のMuirの運命を大きく変えることになります。Johnsonが、昔Muirが記事に書いた、花の咲き乱れる美しいメドウが全く見られなかったことに触れると、Muirは、羊によって荒らされてしまったと答えます。そして、羊たちは見える草だけでなく、根まで掘り出して食べてしまうために、後には荒地しか残らず、このことが土地の保水効果をなくし、春に水が一気に流れ出てしまい、夏は山に、ほとんど水がなくなってしまうと説明しました。Johnsonはそれに応じ、ヨセミテ国立公園を作り、自然を守る提案をしました。Johnsonの考えたシナリオは、まずMuirがCentry誌に、ヨセミテに関する二つの記事を書くこと。最初の記事(”The Treasures of the Yosemite”)でまず大衆の興味をひきつけ、次の記事(”The Proposed Yosemite National Park”)で、公園の境界などを提案する。そして自分は、(著作権関連の運動で勝手を知った)連邦議会に行き、その公地委員会で、写真とMuirの記事を持って、案をアピールするというものでした。さらに委員会には知り合いの議員がおり、助けてもらえるので、問題はないだろうと説明すると、最初は乗り気ではなかったMuirもさすがに同意しました。ヨセミテ旅行から帰ったMuirは、すぐさま3本の記事をSan Francisco Daily Bulletinに投稿し、ヨセミテ渓谷にはフェンスが張られていること、牧草や野菜が植えられていること、また馬などが放牧されたままになって荒れていることを述べ、州によるヨセミテ渓谷の管理のずさんさを糾弾しています。そして伐採により森林が失われていること、そしてそれ以上に問題があるのは羊による害であると述べています。 
この夏Muirが書いたLouieやウィスコンシン時代の恩師Butler教授宛の手紙からは、サンフランシスコのホテルにこもって、「Picturesque California」の執筆に追われていること、そして執筆の合間に果樹園経営に携わる忙しい毎日の様子が伺えます。
1890年1月号でCentury誌はヨセミテの問題を取り上げ、運動の口火を切りました。初夏にかけてJohnsonとMuirの間では、かなりの手紙がやり取りされ運動に絡む情報の交換がなされています。3月になると二人とは別に、カリフォル二ア出身の連邦議員Vandeverがヨセミテ国立公園を作る法案を提出しました。Johnsonは6月の連邦議会の土地委員会で、Muirの提案する境界を画いた地図に基づき、Vandeverの公園境界を拡大する陳述をしました。6月中旬にはMuirは約束していた二部の記事「The Treasures of The Yosemite」と「Features of The Proposed Yosemite National Park」を書き上げ、4度目のアラスカ旅行へと立つことになります(『Travels in Alaska』の第三部)。
ワシントンのPort Townsendでは、前年のMt. Rainier登山のメンバーであったHenry Loomisが加わりました。観光客を乗せた蒸気船Queen号は6月23日にはGlacier Bayに到着し、MuirとLoomisは上陸し、キャンプを設営しました。Muirは10年前に比べ、氷河がさらに1マイルほど後退していたことを確認します。7月中旬には橇を使って荷物を運び、1週間にわたるMuir氷河の単独探検に出かけます。雪盲になったり、水の詰まったクレバスに落ちるなどのアクシデントがあったものの、無事帰ってくることが出来ました。
9月上旬、アラスカから帰ってきたMuirを待ち構えていたのは、ヨセミテ渓谷委員会のJohn P. Irishによる新聞記事でした。それは、昔Muirがヨセミテに住んでいた時、木を切り倒したと中傷するものでした。Muirはすぐさまそれに反論する新聞記事を投稿します。Muirの書いたCentury誌の記事は8・9月号に掲載されましたが、9月の時点で、Vandeverのヨセミテ国立公園の法案は消えかかっていました。一方7月に、同じくVandever議員によって提出されたSouth Fork Kaweah Riverのセコイア群生区一帯を国立公園に指定する法案(George W. Stewartが運動の中心人物)は、Southern Pacific鉄道のZumuwaltのロビー活動により、9月25日にセコイア国立公園として成立します。そして議会会期末日の9月30日、Vandeverのヨセミテ法案は、修正法案H.R. 12187として突然浮上し、全く議論も無いままに両院を通過してしまいます。そして翌10月1日にはHarrison大統領はサインをし、これによりヨセミテ渓谷を取り囲む(渓谷は州の管轄)一帯が国立公園となりました。驚くことに、それにはVandeverが当初提案していた公園境界を大きくひろげ、ほぼMuir案に近いものなっており、かつ1週間ほど前に制定されたばかりのセコイア国立公園を、Giant Forest一帯を含め3倍ほどに拡大する項も盛り込まれていました。さらにはGeneral Grant Grove周辺も、国立公園に指定していました。
[1.14] Kings渓谷・シエラクラブ・ヨーロッパ旅行(1891〜1894)
ヨセミテ国立公園が成立してまもない10月末、義父のStrentzelが亡くなり、Muir一家は老いた義母の世話の必要もあり、Victoria風の家へ引越すことになりました。この弔事により、計画していたKings渓谷への旅行は翌年へと持ち越されることになります。1891年5月13日、MuirはJohnsonのために、Kings渓谷の地図を入手しにサンフランシスコへと向かいます、そして月末には、画家のCharles D. Robinsonと共にKings渓谷への取材旅行に出かけました。これはMuirにとって1873年10月、1875年7月、そして1877年10月に続く、4度目の南シエラ訪問となります。そのころMuirからの地図を受け取ったJohnsonは、個人的な知り合いになっていた内務省長官Nobleに、シエラネバダの中央部一帯を保留林と指定することを提案しています。夏にNobleから返ってきた手紙は、機会があれば努力すること、そして大統領も一考するであろうというものでした。11月にはMuirの旅行は、Century誌に”A Rival of the Yosemite”として掲載されます。これはKings渓谷の概略、アプローチ、渓谷景観の詳細な記述、過去4回の探査行などをRobinsonとMuirの描いたスケッチと共にまとめたものです。そして控えめながらも、Kings渓谷国立公園の設立を一案としての境界を描いた地図を添えて提案しています。しかし提案したものの進展は全くなく、Kings渓谷が国立公園となるには、さらに50年近くの歳月を経なければなりませんでした。
このころMuirの兄弟にはちょっとした災難が続きました。1891年春にKansas・Nebraskaで農業をあきらめたJohn Reid(妻はMuirの姉Maggie)一家が、そして1892年春には、友人と経営する卸業が行き詰った弟Davidが仕事をあきらめ、夫婦ともどももMartinezへと移ってきて、Muirの果樹園の仕事を手伝うようになります。結果的には、Muirは10年以上に渡った果樹園経営から開放され、いよいよ執筆・旅行に専念することができるようになりました。
1892年5月になると、以前から進んでいたシエラクラブ設立の話が最終段階に入り始めます。Muirは入会への招待を受け、快諾します。5月28日には、設立の中心的役割を果たしてきた、サンフランシスコの弁護士Olneyの事務所で、会が正式に結成され、Muirは会長として選ばれました。すでにワシントンでは、ヨセミテ国立公園の境界を小さくしようというCaminttei議員による法案成立の動きが出ており、設立間もないクラブは反対運動を開始することになります。2年後には、Caminetti議員の選挙での落選にも助けられ、この法案は廃案にいたりました。
1893年5月、Muirは先行するKeith夫妻の後を追うようにヨーロッパ旅行に出かけます。まずはシカゴ経由でニューヨークに行き、Century誌のR. U. Johnsonを訪ね、編集長のGilderを始めとして、John Burrough、Mark Twain、古生物学者のHenry Fairfield Osbornらに紹介されました。またJames Pinchot家も訪れ接待を受けています。ヨーロッパから帰って間もない、駆け出しの森林学者のGifford Pinchot(息子)と初めて会ったのもこのときです。その後二人はボストン方面に行き、Harvard大の植物学者Charles S. Sargentと会い、さらにはEmersonやThoreauゆかりの地Concordまで足を伸ばし、二人の墓、Walden Pond、Emersonの住んでいた家なども訪ねています。機会がある事に、人々にアラスカでの犬のStikeenとの話をしたことがLouieへの手紙には書かれてています。東海岸での滞在は長引き、ヨーロッパに向けてアメリカを出発できたのは6月末になってからでした。Liverpoolに到着したMuirは、そこからEdinburghへ向かい、Johnsonの紹介状を持って出版業者のDavid Douglasと会います(後にMuirの本をロンドンで出版することになります)。翌日には生まれ故郷のDunbarへ行き、そこで10日ほどを過しました。次に海を渡りノルウェイへと向かい7月末までを過し、再びイギリスに戻り、Wordsworthの故郷Lake Districtで一週間ほどを過した後、今度は大陸に渡り、スイスのGrindelwald(グリンデルワルド)、Interlaken(インターラーケン)、Chamounix(シャモニ)、Geneva(ジュネーブ)などの周遊をしました。9月上旬にはロンドンに戻り、イギリスの植物学者Joseph Hooker卿を訪ねてから、スコットランド、アイルランドを周り、月末にはアメリカ(ニューヨーク)へと戻ってきました。結局3ヶ月に渡る旅の間、MuirがKeith夫妻と落ち合えることは一度もありませんでした。
旅行から戻ってきたMuirは、本格的に『Mountains of California』の執筆に取り掛かります。1894年4月3日にはJohnsonに原稿を送り、添えられた手紙には、全16章のうち6っは新しく書いたもので、他は昔の記事(1875年と1882年に書かれたもの)を、かなり一生懸命書き直してものであることを伝えています。相当の自信を持ってこの本を書き上げたことが伺えます。この本は秋に出版されるやすぐさま売り切れ、Muirの生存中に10刷を重ねることになります。SargentはMuirに、”I have never read descriptions of trees that so picure them to the mind as yours do”と書き送り、その木に関する記述のすばらしさを褒め称えています。
[1.15] Forest Reserve・連邦森林委員会(1895〜1898)
話は遡り、ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯が国立公園となった半年後の1891年3月、Forest Reserve法が制定されます。これは大統領に、独自の裁断でForest Reserve(保留林)を定める権限が与えられるものでした。これを用い、Harrison及びCleaveland大統領は、いくつもの保留林をアメリカ西部に指定し始めました。しかしこの法は、保留林が何の目的のためにあり、どう保護・管理されるべきかは全く定めておらず、違法な伐採や放牧などは放置されたままでした。1894年1月、Century誌は”The Army and the Forest Reserve”という論説を載せ、森林関連の権威であったハーバード大学のSargentが提案していた、保留林の管理案を紹介・支持しました。さらに1895年2月になると、”A Plan to Save the Forests”をいう特集を組み、Muir、Bernard E. Fernow(農務省森林部3代目部長)、Frederick L. Olmsted(Landscape Architect、ヨセミテ渓谷州立公園の立役者の一人)、Theodore Roosevelt(当時はCleaveland政権下で人事関連の仕事を担当。後にNY州知事、副大統領を経て大統領となる)、Gifford Pinchotをはじめとする識者らの意見が紹介されました。このときのMuirの主張は、[1] 森林が環境に与える影響を指摘し、[2]森林破壊の最大の敵が伐採と牧羊であることをあげ、[3]それらから保留林を守るためには,利益に惑わされない政府の軍が最適であること、[4] そして保留林はそのまま保存するだけではなく、資源として管理され使われるものでもあること、[5]ただ、一部は手付かずのまま残しておくというもので、おおむねSargentの案を支持していました。1895年8月になるとMuirは、Tuolumne渓谷やHetch Hetchyでのキャンプを含むヨセミテ旅行をし、ヨセミテ国立公園の設立翌年から始まった軍のパトロールのおかげで、ヨセミテの荒れた自然が回復しつつあることを確認し、旅行後すぐCenturey誌のJohnsonに状況を知らせています。11月はシエラクラブの会合で講演をし、最初にヨセミテに来た時、ヨセミテ国立公園の設立時、故郷ウィスコンシンにあるFountain Lake周りの土地の一部を買い取り、自然の保存(Preservation)を試みた話と交え、保留林の軍によるパトロール、そして持続性のある森林資源として使うための管理の必要性を述べました。
1896年2月15日、内務省長官Hoke SmithはNational Academy of Science(米国科学院)のWolcott Gibbsに、アメリカの森林の状況に関する質問状を送りました。これにより連邦森林委員会(National Forest Commission)が結成され、調査が開始されることになります。6月、故郷で病床にあった母を見舞ったMuirは、Harvard大学から名誉修士号を受けるためボストンに向かいますが、途中母の死を知ります。授与後ウィスコンシンに戻り、葬儀を済ませたあと7月にシカゴへ向かいます。そこで、Sargent(委員長、Harvard大教授)、W. H. Brewer(元Whitney隊メンバー、Yale大教授)、Arnold Hauge(USGS局長)、Henry L. Abbot(陸軍技術部隊・退役将軍)らからなる森林委員会に外部メンバーとして加わり、サウス・ダコタ、ワイオミング、モンタナ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ州の山岳森林地帯の状況視察をしました。8月一行がワシントン州に立ち寄ったとき、MuirはHenry Fairfield Osbornと共に、5度目のアラスカ旅行に出かけます。モンタナから委員会に合流したPinchotもMuirから同行の誘いを受けましたが、都合のためどうしても参加出来ませんでした。予定ではSt. EliasとPrince William湾をめざしていましたが、Sitkaから先の船が見つからず、アラスカ南東部だけを訪ねて引き返すことになります。戻ってきたMuirは、オレゴンで委員会に再合流し、カリフォルニア、アリゾナでの視察に同行します。MuirとPinchotはCrater Lake(オレゴン)やGrand Canyonのアウトドアで共に過したすばらしい時の事を、お互いの日記や手紙の中に書きとめています。
10月に調査活動を終えた委員会は、報告書作成に取り掛かります。しかし作業は手間取り、当初の期限であった11月1日になっても提出できませんでした。結局1897年1月29日になって、新たな13の保留林(総計21Mエーカー)と2つの国立公園(Mt. RainierとGrand Canyon)の推薦だけがGibbs経由で内務省長官David R. Francisに提出されました。2月22日、任期終了直前のCleaveland大統領は、突然その13の森林地帯を保留林に指定する大統領令を発動しました。これは連邦議会に大混乱を巻き起こすことになります。議会は、大統領令を無効とするための文言を、通過しかかっていた別の法案に付け足そうとしましたが、大統領はその法案全体に拒否権を行使しました。こうして問題は次のMcKinley政権に持ち越されることになります。この頃Muirは、”The New Forest Reservation”(Mining and Scientific Press)と”The National Parks and Forest Reservations”(Harper’s Weekly)を投稿し、森林の政府による管理の必要性、そして一部手付かずの自然を守ることを訴えます。そして”The American Forest”(Atlantic Monthly誌)では、森林に関する法律制定の流れや、各国での森林管理の動きを述べ、最後に連邦政府のこれからの管理に大きな期待を寄せて書き終えています。新政権のもと、連邦議会は、USGSのWalcottや上院議員のPettigrewらが中心となって保留林管理のための法案をまとめ、6月4日、McKinley大統領のサインを得てForest Management Actが成立しました。これは以後63年近くに渡るアメリカの保留林(1907年よりは国有林と呼ばれる)管理のベースとなるもので、USGSの保留林の測量を許可し、内務省長官が管理のルールを決め、倒木や成長した木を販売、伐採の前には木にマーキングをするといった項目が盛り込まれていました。こうして保留林は、Muirが当初期待したような、一部を手付かずの状態で保存するようなことはなく、持続可能な天然資源の供給源としての位置づけがなされました。
Forest Management Actが成立してすぐの1897年8月、MuirはSargentとWilliam M. Cambyの二人の植物学者と共に、6度目のアラスカ旅行に出かけ、前年と同じ南東部を巡ることになります。おりしも一年前の8月にアラスカのユーコンで金が見つかり、そのニュースがたった1月前に、シアトルに届いたばかりでした。これによりアメリカではゴールドラッシュが起き、多くの人がアラスカを目指し、シアトルに集まってきました。San Francisco Examiner誌からの依頼を受けたMuirは、そこを目指すルートの解説記事を書くことになりました。記事は8月と10月に掲載され、Muirは金堀りは時間の浪費であるとかなり批判的なコメントを書いています。アラスカから戻る途中の9月5日、シアトルのホテル(The Rainier Grand Hotel)のロビーで農林省の生物局のC. Hart Merriam(父はスミソニアン学術協会のClinton Hart Merriamで、1871年にヨセミテに住んでいたMuirの案内で、Clouds Restに登っている)と共にワシントン州の森林を調査していたG. Pinchotと出会い、その日の午後と夕食を共にしました。WolfeはMuirの伝記『Son of the Wilderness』(1945年)の中で、このときの二人に起きた出来事をセンセーショナルに書いています。それは、Pinchotが保留林での羊の放牧はほとんど悪影響はないというコメントをし、それを朝刊で読み怒ったMuirが、ロビーでPinchotに詰め寄ったというというものです。現在の研究ではこれは根拠の無いものとなっており、当時の二人の関係は再評価されています。月末には義母のLouisianaが76年の生涯を閉じることになります。
1898年6月7日、Sargentに出した手紙からは、MuirがSargentの植物採集に協力していることや、アパラチア山系南部の森林地帯の調査旅行への招待に、とても乗り気であることが伺えます。この旅行は9月に実現し、Sargent、Canbyらと共に、ノースカロライナ、テネシーの森林を廻りはじめました。しかし1月ほどでSargentは健康を損ね、一行はボストンに戻ることになります。そこではHoughton Mifflin、Atlantic Monthly、Centuryといった出版社の関係者、故Asa Grayの夫人、Osbornといった面々と会ったり、カナダ(モントリオール)、バーモント、メイン州への旅行などをして11月上旬まで過し、その後は健康を取り戻したSargentと共にフロリダに向かい、最先端のKey Westまで訪れます。11月20日にはCedar Keysに立ち寄り32年前にマラリアで倒れたときに世話になったHodgson家を訪ね、ルイジアナ、テキサスを経て11月末にはカリフォルニアへと戻ってきました。
[1.16] Harrimanアラスカ学術遠征隊(1899)
1899年4月、MuirはC. Hart Merriamより、Union Pacific鉄道の社長Edward H. Harrimanが休暇をかねた、私費を投じて組織するアラスカへの学術的遠征旅行への招待を受けます。5月末には鳥類学者でCalifornia Academy of Scienceの博物館長であるCharles A. Keelerと共に鉄道でシアトルへと向かいます。ポートランド(オレゴン)では、汽車で到着するHarriman一行を待つ間、Crater Lakeを国立公園にするための運動をしているWilliam Gladstone SteelやLester Leander Hawkins(1871年のLeConteのヨセミテ旅行のメンバー)と会い、Forest Reserveでの羊の放し飼いの問題について話をしています。5月31日、Harriman一家をはじめ、科学者らを乗せたGoerge W. Elder号(Peter A. Dolan船長)はシアトルを出港しました。海岸沿いに北上し、Wrangell島を経由して最初の主目的地Glacier湾に到着します。そこでの探査の際、Muirは、氷河のひとつをHarriman氷河と命名することを提案し、Harrimanから感謝されます。6月14日に湾を出た船はSitkaへ向かい、そこからYukutat、Prince William湾、Kodiak島、Unalaskaを経由して、ベーリング海峡まで進み、7月中旬には、アラスカ側のPort ClarenceやシベリアのPlover湾に立ち寄りました。こうして遠征隊は、氷河の地図の作成や鳥類の採集をはじめ多くの科学的調査を終え、月末にはポートランドへと戻ってきました。この旅行時のMuirの日記は、『John of the Mountains』(1938)に収められています。数多くの科学者と知りあい、Prince William湾を探査できたMuirですが、一番の成果は、Harrimanとの個人的な親交を結べたこといえます。2年後Harrimanは、Southern Pacific鉄道をも掌握し、カリフォルニアでの政治的影響力を強めることになります。Harrimanの率いるSouthern Pacific鉄道は、Muirとシエラクラブが、ヨセミテ渓谷を国立公園にするための運動をした時に、ロビー活動の助力をすることになります。
アラスカから戻って間もない8月8日、Pinchotがサンフランシスコを訪ねてきます。目的は材木業界から、カリフォルニアの海岸沿いに群生するRedwoodの森林管理についての援助資金を獲得するためでした。このときPinchotは、引退したFerrnowの後を継ぎ、1897年7月1日より、農務省森林部の部長になっていました。仕事の前にPinchotは、Muir、C. Hart Merriamと共にSonora方面へ出かけ、羊の放牧の影響や、Calaveras Groveにあるセコイアの調査をしています。サンフランシスコに戻ると、シエラクラブのOlneyやJ. M. Hutchings(昔Muirがヨセミテ渓谷で働いていたホテルの経営者)とも出会っています。三人はサンフランシスコ湾北側のMill Valleyへも足を伸ばしRedwoodの見学もしました。このときPinchotは、MuirとMerriamの二人を”Two wonderful men to travel with”と日記に書きとめています。
[1.17] シエラクラブアウティング・Our National Parks(1900〜1902)
1900年、設立8年を迎えたシエラクラブは、メンバー数がほぼ2倍の400人近くとなっていました。1894年に入会し、この年からクラブの事務担当に就任したWilliam B. Colby(カリフォルニア大学卒業で法律を学んだ)は、森林や山のすばらしさを多くの人々に紹介できれば、自然保護活動も広まるだろうと考え、1901年の夏にクラブ主催のキャンプを企画しました。Muirの強い後押しを受けたクラブ最初のアウティングは、7月にヨセミテのTuolumne MeadowsのSoda Springsで行われ、96人が参加しました。キャンプ道具などはワゴンで運ばれ、初心者にも参加しやすいものとなっていました。このときMuirは娘のWandaとHelenと共に参加しています。半分近くのメンバーはMt. Lyellへの日帰り登山も行っています。単純なキャンプ登山に終わることなく、MuirやC. Hart Merriamなどによる講演も行なわれました。メンバーには参加前にMuirの『The Mountains of California』やLeConteの『Ramblings Through the High Sierras』などをあらかじめ読んでおくことが推奨されていました。アウティングは大成功に終わり、以後50年近くに渡りクラブの伝統的行事となりました。
9月McKinley大統領が暗殺され、副大統領のTheodore Rooseveltが、急遽後を継ぐことになりました。Rooseveltは、1888年に社会に影響力のある上流階級のメンバーを中心に作ったBoone and Crockett Clubという狩猟家のための団体を作り、狩猟のための動物保護、1891年のForest Reserve Act、1894年のYellowstone Park Protection Actなど森林保護法案の支持をしてました。G. PinchotはRooseveltの推薦によりメンバーとなり、またRooseveltがNY州の知事(任期:1898−1900年)であったときに州の森林に関する仕事で既知の間柄でした。すでに7月には179人の職員を抱えた森林部はBureau(局)へ格上げされていました。12月2日Rooseveltは、Pinchotが作成した森林政策方針の草稿をほぼそのまま用いて議会演説をします。これ以降”The fundamental idea of forestry is the perpetuation of forest by use.”というフレーズに代表される、持続可能な森林資源の利用のための政策をPinchotと共に推し進めていくことになります。同じ頃、PinchotとMuir共通の友人でもある農務省生物局長のC. Hart Marriamは、10月末にMuirに手紙を送り、Rooseveltが森林保護や羊の放牧を禁じることに関して、自分たちの側についていること、そして政府関係者ではない方面からの意見も知りたがっていると伝えています。
11月、Muirの二冊目の本『Our National Parks』が出版されました。これは1897年から1901年にかけてAtlantic Monthly誌に投稿した、10本の国立公園関連の記事をまとめたものです。この本は幾度か再版を重ね、1911年までには8,000冊近くが売れることになります。そのいくつかの記事の中で、Muirの自然(森林)保護への新たなアプローチが読み取れます。例えば”Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年2月)では、Mount RainierとGrand Canyon Forest Reserveを国立公園に指定することを呼びかけていまます。また”Hunting Big Redwoods”(1901年9月)では、Sierra Forest Reserveにあるセコイアの林が、ほとんど守られていないことを指摘すると共に、セコイア国立公園の拡大や、公園内部に残された私有地の政府による買い上げなどを唱えています。Muirは、軍が監視する国立公園のみが、遊び場としての自然を守るための唯一の方法と考えはじめたようです。1902年1月、MuirはC. Hart Merriamに手紙を書き、保留林内で羊の放牧を規制するルールは、現時点では厳守させることが出来ないので有名無実であること、また政治家は、羊の放牧業者寄りなので、この問題に目をつぶるような保留林の監督官を選ぶだろうとし、政治とは無関係な軍によるパトロールの必要性を述べています。この頃連邦政府では、保留林を所有する内務省にも森林部が設立され、その職員が森林のパトロールや書類手続きをする傍ら、農務省の森林部職員が森林そのもののチェックなどをするという、二重の管理が行われていました。
同じ頃、MuirはAtlantic Monthlyの編集長Walter Hines Pageに出版に関する礼状を出し、 ヨセミテ、カリフォルニアの木々、登山・キャンプ、アラスカ、地学・動植物、自伝といった6つのトピックに関する著作を開始していることを伝えています。1902年夏の2度目のシエラクラブアウティングは、200人ほどの参加者を集めてKings渓谷で行われました。Muirは再び二人の娘とともに参加し、その後友人のKeithらと共にGiant Forest、Kern渓谷に行き8月11日にはMt. Whitneyへも登ります。Fresnoに戻ってくる途中、円周153フィートの世界最大のセコイアが見つかったという噂話を聞きます。それまで幾度もそんな話を聞いていて気にも留めていなかったMuirですが、Fresnoで実際にそれを測って確認したという測量者に会うにいたり、思わず自分で確認するべくConverse Basinへとでかけます。しかしながらそれは最大のところでも円周が108フィートに過ぎないものでした。
[1.18] ルーズベルト大統領とのヨセミテキャンプ(1903)
Roosevelt大統領がヨセミテ渓谷に行くという情報を得たJohnsonは、大統領に手紙を書きMuirをガイドとして同行させることを薦めます。1903年3月、カリフォルニアの上院議員Chester RowellはMuirに手紙を送り、ワシントンから届いた個人的な情報として、大統領がカリフォルニア訪問の際、Muirとハイシエラに行きたいと思っていることを伝えます。3月14日には、カリフォルニア大学の学長Benjamin I. Wheeler気付で大統領本人から同行を依頼する手紙を受け取ります”I do not want anyone with me but you, and I want to drop politics absolutely for four days, and just be out in the open with you.”。すでにSargentと世界旅行の旅を計画していたMuirは予定を変更し、同行することになりました。5月15日、Roosevelt、Muir、Wheeler、カリフォルニア州知事のPardee、Rooselvelt秘書のLoebら8人の乗った馬車は、騎兵隊に護衛されてMariposa Groveに到着します。この後、Muir、Roosevelt、レンジャーのLeidigとLeonard、パッカーのAlderはセコイアの木の下でキャンプをし、翌日はGlacier Pointへと山越えをします。その夜、MuirとRooselveltはGlacier Point傍で焚き火をかこみ、Muirの氷河によるヨセミテ渓谷形成説、森林保護、国立公園を新たに設定することなどについて話をしたとLeidegは書いています。3日目はGlacier Pointで記念写真を撮ってから、Little Yosemite経由でヨセミテ渓谷へ下り、Bridalveil Fallそばで最後のキャンプをしました。翌日別れ際に、MuirがRoosevelt大統領にうっかり手渡したCharles Sargentからの手紙には、Muirと共に出かけるロシアと清の皇帝に便宜を図ってもらうことや、G. Pinchotの影響を受けたRooseveltの森林政策の批判などが書いてあり、Rooseveltの失笑を買うことになりました。MuirはLouieに”I had a perfectly glorious time with the President and the mountains. I never before had a more interesting, hearty, and manly companion.”、またC. Hart Merrianには”Camping with the President was a memorable experience. I fairly fell in love with him.”とRoosevelt大統領に抱いた好印象を伝えています。
[1.19] 世界旅行(1903〜1904)
Roosevelt大統領とのヨセミテ旅行の後、すぐに東海岸に向かったMuirは、5月29日Sargent親子(長男のRobesonが同行)と共にヨーロッパへ向かいます。ベルリンを経由してロシアに行き、首都St. Petersburgに入ります。7月4日にはフィンランド(ロシア領)のLindulaの森を視察、その後は南に向かい、クリミア半島(黒海北岸)のSebastopolやコーカサス地方を訪れます。3週間後にはモスクワへ戻り、8月上旬にはシベリア鉄道を使い、ウラジオストックへと大陸を横断しました。満州(ロシア領)を訪れた後は船に乗り、上海へと向かいます。ここからはSargent親子と別れ、単独で旅行を続けます。次の目的地はインドで、カルカッタへ船で向かい、そこから内陸へ入りダージリンへ行きヒマラヤの山々を望み、内陸を西に横断し、Simla移動インドの杉の森林を視察します。南下してボンベイ(現ムンバイ)から再び船でスエズ運河を越え、エジプトに行きピラミッド、スフィンクス、そしてナイル川を遡り南のアスワン神殿を訪れました。次にインド洋を渡り、オーストラリアへ向かい、12月16日には西岸の町Freemantle(パースのそば)に寄航しました。一日ばかり滞在した後、アデレードを経由し、メルボルンに到着、そこの植物園を訪れ、噂に聞いた高さ300ft.のユーカリプスの木について質問をしています。29日にはシドニーへ着き、Jenolan洞穴を訪れたり、植物園では再び300ft.のユーカリについて訪ねています。その後はニュージーランドを廻り、オーストラリア東岸沿いに北上し、ダーウイン、チモール、マニラ、香港、そして長崎・横浜、ハワイを経由して5月27日、サンフランシスコへと戻ってきたのは、出発から一年ぶりのことでした。
[1.20] ヨセミテ国立公園の境界縮小(1905)・ヨセミテ渓谷連邦に返還(1906)
世界旅行から帰ってきたばかりのMuirは、すぐヨセミテに関する二つの課題に係ることになります。ひとつはヨセミテ国立公園の境界変更です。1904年4月28日、連邦議会は内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関して、どの部分を公園として残すべきか調査するように命令を出していました。6月14日にはH. M. Chittenden、Bob Marshall、Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)が設立され、7月9日にはヨセミテでのフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。シエラクラブとしては不満だったものの、現状をかんがみ、新しい境界には反対しない立場をとることにしました。こうして12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案は可決し、1905年2月7日にRoosevelt大統領は”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)法案のサインをしました。これにより1890年に定められたヨセミテ公園の境界が大きく変わり、Tuolumne、Mercedの二つの水系からなる現在の公園境界とほぼ同じになりました。
もうひとつはこれまで州立公園であったヨセミテ渓谷を連邦に返還する問題です。話は遡り1893年、JohnsonはMuirに対して、シエラクラブとしてヨセミテ渓谷を国立公園に編入するためのアクションを取ることを促していました。しかしMuirによれば、当時のシエラクラブの理事の多くは、消極的な態度を示していました。実際1890年代中盤ごろには、ヨセミテ渓谷委員会とシエラクラブの間は、協力関係にあり、キャンパーや旅行客のためのルール作成、シエラクラブのキャビン建設(現在のLeConteロッジの前身)などが行われています。1897年1月18日、MuirがOlney(シエラクラブの理事の一人)に手紙を書き、シエラクラブとしてヨセミテ渓谷返還を論議すべきであることを訴えます。同年2月には州知事に返還権限を与える法案を提出をしたものの、タイミングを逸し廃案になってしまいました。
1904年7月MuirとColbyは、連邦と州が同じヨセミテ一帯で管理することの無駄、州によるヨセミテ渓谷管理の予算不足からくる道路・宿泊施設不備、連邦に渓谷が返還されても、そのまま観光地として維持されることなどを指摘するクラブとしての意見書をまとめ、クラブ理事会の全面承認を得ます。これはパンフレットとして1905年の州議会が始まる前に議員らに配布されました。年末になると、ヨセミテ渓谷を連邦に返還することに関する論議がカリフォルニアで熱を帯びてきました。州議員のJohn Curtinや新聞社のSan Francisco Examinerは反対キャンペーンを開始、そのライバルSan Francisco Chronicleは賛成に回ります。このころMuirの要請を受けたColbyは、Southern Pacific鉄道のWilliam H. Millsの助力で、州議会に提案する法案の原案を書きあげます。1905年1月からMuirとColbyは、公聴会に出席するため、議会のあるSacramentoに幾度も足を運ぶことになります。ColbyはMuirに、1899年のアラスカ遠征でMuirと親交を結んだSouthern Pacific鉄道社長のHarrimanに、ロビー活動に協力してもらうよう勧めます。こうして返還法案は、2月2日には州の下院に於いて45:20で可決、2月23日には上院で21:13で通過しました。翌日MuirがJohnsonに出した手紙には、その嬉しさが満ち溢れています。1903年のRooseveltとのヨセミテキャンプで、Rooseveltと州知事Padreeが協力のスタンスを示していたこと、Mr.H(Southern Pacific鉄道のHarrimanのこと)が自分の手紙に応じて協力してくれたことなども書かれています。そして”I am now an experienced lobbyist; my political education is complete…”とロビー活動に自信を持った様子が伺えます。議会を通過した法案は、3月3日にはカリフォル二ア知事Pardeeがサインし、州がヨセミテ渓谷とマリポサグローブを連邦に返還することを決定しました。このことは、すぐ電報でカリフォルニア出身の連邦上院議員George C. Perkinsに送られ、それを受け取るための法案が同日中に両院を通過し、Roosevelt大統領のサインを得る事になりました。これにより騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしましたが、法的不備を指摘する州の運営委員会によって阻止され、1年ほど延期されることになります。
このころMuirの次女Helenは健康を損ねます。医者の勧めは空気の乾燥したところで一年ほど療養生活を送るというものでした。こうしてMuir、Helen、Wanda、そして看護婦の4人は、妻Louieを家に残しアリゾナへと出かけました。7月上旬になると、Louieが病にかかったという電報が入り、三人は急遽Martinezへと戻ります。しかしHelenはすぐに健康を崩し、MuirとWandaを残してArizonaへと戻ります。8月7日にLouieは、肺癌のため58歳の生涯を閉じることになりました。埋葬を終えたMuirとWandaは、アリゾナのAdamazaにいるHelenの元へ戻り、Adobe作りの家とテントという質素な施設で、一年近く過すことになります。冬の間MuirとWandaは周辺を探索し、新たに見つけた石化した木々を見つけ”Blue Forest”と名づけました。一帯は翌年に成立するAntiquities法の適用を受け、1906年12月にNationa Monumentに指定されることになります。
1905年12月19日、連邦上院議員のPerkinsは法案Joint Resolution S.R. 14を提出します。これは連邦が、カリフォルニアからヨセミテ渓谷を正式返還されることを承認するものでしたが、公園の一部をさらに23,000エーカーほど縮小する項が盛り込まれていました。これにはヨセミテ国立公園長のBensonやシエラクラブが反対し、下院議員のJ. N. Gilletが修正案HR.118を作り上げます。このころ再びMuirから依頼を受けたHarrimanは、議会に働きかけHR.118が議会で円滑に通過するよう協力します。1906年4月16日、HarrimanがMuirへ送った手紙には”I will certainly do anything I can to help your Yosemite Recession Bill”と書かれていました。HR.118は6月9日議会を通過し、6月11日のRoosevelt大統領によってサインされました。こうしてヨセミテ渓谷とマリポサグローブは、JohnsonとMuirがTuolumneのキャンプで話をしてから17年を経て、国立公園となりました。7月16日、MuirはアリゾナのAdamanaからJohnsonに、”Yes, my dear Johnson, sound the loud timbrel and let Yosemite tree and stream rejoice!”と喜びの手紙を書き送っています。
[1.21] Hetch Hetchy渓谷ダム化問題:前半(1905〜1910)
1900年、サンフランシスコ市長のJames D. Phelanは、市への水の供給問題を解決するために、技師のC. E. Grunskyに命じ、新たな水源の候補地としてTuolumne川沿いの調査を開始させました。同年5月、カリフォルニア出身の議員Marson DeVriesが、連邦議会に”The Rights of Way”(H.R. 11973)法案を提出し、1901年2月15日に成立します。これは内務省長官の裁量で国立公園内にダムなどを作る許可が出せるようにするものでした。同年10月15日Phelanは、Hetch Hetchy渓谷とLake Eleanorにダムを建設する許可を内務省長官Hitchcockに申請しますが、1903年1月に脚下されてしまいます。市の弁護士Franklin K. Lane(後にWilson政権で内務省長官となる)は再審査の嘆願書を出しましたが、1903年12月に再度脚下されてしまいます。さらに3度目の許可を申請しますが、1905年2月に却下されてしまいました。
1905年2月、Transfer Actが成立し、63Mエーカーにのぼる保留林は正式に内務省から農務省の管轄下へと移され、7月1日に森林局は、Bureau of ForestryからForest Serviceへと格上げされました。ちょうどそのころ1905年2月17日、シエラクラブのColbyは、森林局長のPinchotから手紙を受け取ります。それは、一週間ほど前、Roosevelt大統領に、サンフランシスコ市のLake Eleanorにダムをつくり、後にHetch HetchyとTuolumne Meadowsにダムを建設する計画を推薦したこと、またHetch Hetchyの景観を保護したい気持ちはわかるが、市への水の供給は大事であるといった内容のものでした。この手紙でシエラクラブは、初めて市の計画を知りますが、内務省長官の基本姿勢から、取り立てて危機感を抱くには到りませんでした。
1906年4月18日、サンフランシスコ大地震が起きます。街は火災に見舞われ、震災後の対策委員会で水不足の問題が指摘されます。このときMuirは次女Helenと共にアリゾナにおり、Wandaからの連絡を受けMartinezに戻ってきます。Muir邸にも被害があり、5本の煙突すべてが倒れてしまいました。翌月28日、 Pinchotは、市の技師で、シエラクラブメンバーでもあるMarsden Masonに、地震の見舞いとダム建設をサポートするという旨の手紙を送っています。そして11月15日には、Hitchcockに代り、新内務省長官に内定したJames R. Garfieldが、ダム建設に好意的であると連絡しています。
1907年3月5日Garfieldは内務省長官に就任し、早速7月にサンフランシスコで、ダム建設の件について市の代表と話し合いました。この夏(1908年夏の説もあり)をMuirは、Southern Pacific鉄道のHarrimanの別荘に招待されて、オレゴンのKlamath LakeのPelican Bayで過しています。このときHarrimanは、Muirの自伝を書く手伝いをさせるため自分の速記者をつけました。これはやがて『The Story of My Boyhood and Youth』(1913年)として出版されることになります。
8月30日、Muir、Colby、Joseph N. LeConte(1870年Muirと共にヨセミテ旅行をしたLeConteの息子)、William F. Bade、Edward Parsonsらシエラクラブの理事が集まり、ダム建設に関し、クラブとして初めて反対意見を正式に表明します。それはHetch Hetchyの美しさを述べた上で、道路がひとたび建設されれば立派な観光地となる可能性があること、ダム建設が当初の国立公園設立の本来の目的から逸脱しており、別の場所にダムが建設すべきであることを訴えるものでした。9月2日、MuirはJohnsonに手紙を書き、内務省長官が突然ダム建設に賛成する決定をしないよう働きかけるよう促しています。そして9月9日にはRoosevelt大統領に、Hetch Hetchy渓谷を開発から守るべきで、水は他からも得られること、状況がはっきりすればサンフランシスコの市民の90%が反対するであろうと言った旨の手紙を出します。しかし大統領からの返信は、現状ではほとんどがダム建設に賛成しており、自分としては反対しかねるといった内容のものでした。Pinchotは10月11日に大統領に宛て、Johnson、Muirのヨセミテを守りたい気持ちもわかるが、人口の集まる(サンフランシスコ)市に水を供給するのがもっとも有効な利用だと大統領の判断を援護しています。そのころMuirは、Keithと共にHetch Hetchy渓谷を12年ぶりに訪れていました。そして11月、Hetch Hetchy問題を指摘する最初の記事『The Tuolumne Yosemite in Danger』がOutlook誌に掲載されます。また前記のMuirと理事らの5人は、全シエラクラブメンバーに宛てて、大統領や内務省長官に嘆願書を出すよう勧める書信を送ります。しかしこれには、すべてのメンバーが同意したわけではありませんでした。
1908年4月21日、MuirがRoosevelt大統領に宛てた手紙では、Hetch Hetchy渓谷とLake Eleanorがダム化の危機に瀕しており、特にHetch Hetchyの許可申請だけでも却下できないか嘆願するものでした。この手紙の冒頭には”I am anxious that the Yosemite National Park may be saved from all sorts of commercialism and marks of man’s work other than the roads, hotels. etc., required to make its wonders and blessings available.”と書かれており、ダムのような産業化のための自然破壊は反対だが、観光化のための人工物建設などは可とする、Muirの当時の自然保護観が伺えます。これに応じRoosevelt大統領は、4月27日、Garfield長官にMuirからの手紙を添え、ダム建設はLake Eleanorだけに抑えられないかと訊ねます。しかし5月11日のGarfieldの決断は、まずLake ElearnorとCherry Creek(Stanislaus保留林区)を優先的にダム化すること、更に水が必要になったならHetch Hetchyをダム化できる、但しそれには議会の承認が必要だという条件を付けたものでした。5月16日、すかさずサンフランシスコ市は、市が所有するヨセミテ公園そばの土地を、Hetch Hetchy渓谷と交換する法案(H.R.184)を提出し、年末から上下院の公聴会が開かれました。当初はサンフランシスコ市の勝利が確定的でしたが、Johnson、Bade、Edmund A. Whitman、McFarlandをはじめとするシエラクラブ、Appalatian Mountain Club、American Civic Associationといった反対側の証言や、Muirのメッセージが書かれたパンフレットの議員への配布などが効を奏し、最終的に法案は保留されることになってしまいました。
1909年3月4日にWilliam Howard Taftが大統領に就任します。内務省長官に選ばれたのはRoosevelt政権のもとGarfiled内務省長官に解雇された内務省General Land Office(GLO)のRichard Achilles Balingerでした。とりあえず賛成・反対の両者は政権の動きを見守ることになりますが、10月にTaft大統領はヨセミテを訪れ、Muirと共に、4マイルトレイルのハイキングも含め3日を共に過します。その際、Hetch Hetchyダム化案の再調査をBalingerに指示し、MuirはBalingerに同行してHetch Hetchy渓谷を訪れます。戻ってきたMuirは視察を振り返り、Taft政権がHetch Hetchyを守る側につく確信を得たとColbyに書き送っています。
しかし当時のシエラクラブは一致団結してダム化反対を表明していたわけではなく、この頃内部での対立がかなり表面化し始めます。またサンフランシスコのメディアも市に同情的で、Muirらを厳しく非難していました。1910年1月29日Colbyの提案で、クラブとしての方向をはっきりさせるための投票が行われました。結果は589対161でダム化反対の意見が多数を占めました。ダム化賛成派は、主にサンフランシスコ湾周辺に住むメンバーで、結果に不満を抱く50人ほどのメンバーが退会しました。一方ワシントンでは、Balinger長官のアラスカでの利権に絡む政治スキャンダルを指摘し続けていたPinchotが、Taft大統領により解雇されてしまいます。
1910年2月末、Balinger長官はサンフランシスコ市に対し、5月までにHetch Hetchyをダム候補地に入れる理由を提示するよう命じます。5月25日にその公聴会が開かれ、サンフランシスコ市は1911年6月まで調査期間を延長することが許されました。
[1.22] 南米・アフリカ旅行(1911〜1912)
1911年Muirは、44年近く前に夢見た南米旅行を実現させることになります。1月末、Johnsonに宛てて書いた手紙からは”I hope to make that journey before it is too late.”と、既にその計画が温められていることが伺えます。早春の間は家に閉じこもり、”autobiography, and a book on Yosemite Valley and other Yosemites”と3冊の本を執筆します。最後の本は『My First Summer in the Sierra』で、1月から4月にかけてAtlantic Monthly誌での連載がされています。4月20日Muirは、Harriman家の専用列車に乗ってカリフォルニアを発ち、東海岸を目指します。5月8日、ワシントンではJohnsonと共に、Taft大統領、3月に健康を害して辞職したBalingerの後を継いだばかりのWalter Lowrie Fisher内務省長官、下院議長のClarkらに会い、Hetch Hetchy問題やヨセミテ一般に関する話をしています。Taft大統領は後に(7月8日)アメリカの領事館宛に電報を打ち、Muirの旅行を支援するように指示しています。5月8日Colbyに宛てた手紙では、6月にHoughton Mifflin社から出版されることになる『My First Summer in the Sierra』の扉にシエラクラブに捧げるというメッセージ”To the Sierra Club of Califonia Faithful Defender of the People’s Playgrounds”を入れることに決めたと書いています。
その後3ヶ月ほど東海岸で過し、Harriman家(E. H. Harrimanは1909年にすでに没しており、この年Harriman婦人の依頼でMuirは遺稿本を書いています)を訪れたり、Yale大学からの名誉学位授与式への出席、出版社との打ち合わせ、Osborn家での『The Yosemite』の執筆などをして過します。『The Yosemite』を書き上げたMuirは、8月12日Brooklyn港からDennis号に乗って南米へと出航しました。8月22日Barbados島で燃料補給に立ち寄った後8月30日、アマゾン川河口近くの港Belemに到着します。ここからは船で知り合ったYale大学卒業のゴム輸出業者のF. H. Stanfordとともにアマゾン川をManausまで船で遡りました(9月5日着)。9月末にはBelemを発ちBrazil東岸を南下しRio de Janeiro経由でSantosに着き、そこから汽車で10月12日にSao Pauloを訪れます。月末には船で更に南下し、11月7日にはアルゼンチンのブエノスアイレスに着き、車でアンデス山脈を越えサンチャゴ、ビクトリアまで足を伸ばし、11月27日にブエノスアイレスへと戻ってきました。12月10日、アフリカへ向けてMonte Vistaの港を去ります。その日の日記には、ブラジルの人々が親切で礼儀正しいこと、そして領事や公使らが色々と面倒を見てくれたことが書きとめられています。
大西洋を横断した船は、12月末カナリー諸島のTeneriffeに着き、そこで船を乗り換え、アフリカ西岸沿いに南下し、1月13日にケープタウンに到着しました。そこでMuirはビクトリア滝(ザンベジ川)、Beria(モザンビーク)、モンバサ、ビクトリア湖、Adan(イエメン)、紅海、地中海経由でナポリへ行く旅行券を買います。
ヴィクトリア滝の近くでは、アフリカ旅行の目的のひとつであったBaobab(Adansonia digitata)の木を見つけ、絵と共に日記に詳しく書きとめています。3月9日にはナポリに到着し、ポンペイ観光などをして一週間ほどを過し、3月末にニューヨークへ戻ってきました。4月には、南米旅行前に書き上げた『The Yosemite』が出版されます。そのHetch Hetchyの章は”Dam Hetch Hetchy! As well as dam for water-tanks the people’s cathedrals and churches, for no holier temple has ever been consecrated by the hear of man.”と、ダム建設を非難する厳しいメッセージで締めくくられています。
[1.23] Hetch Hetchy渓谷ダム化問題:後半(1912〜1913)
Fisher長官はHetch Hetchy問題に詳しくなかったため、前長官Balinderが指定したサンフランシスコ市の報告期限をさらに延長していました。1912年7月15日、技師のJohn R. Freemanは400ページにも渡る報告書を提出し、Hetch Hetchy渓谷のダム化が何故必要なのか回答しました。それには実質的なダムの建設の方法や、他の水源地の可能性の調査だけでなく、ダム化により美しい湖ができ渓谷の景観は損なわれず、また蚊の大発生も防げるという観光上の利点が述べられていました。Freemanの報告書に対抗してシエラクラブは”Colby Brief”と呼ばれる報告書を作成します。それはHetch Hetchy渓谷の将来は観光にあり、50〜100年後には、国民がHetch Hetchyに求めるキャンプ・ホテルなどの価値は、サンフランシスコが渓谷に水源として求める価値よりも遥かに高くなること、そしてHetch Hetchy渓谷にキャンプ場やホテル、Tuolumne Meadowsへと向かう縦断道路の建設などを提案するものでした。晩年のMuirの自然保護観は、このリクリエーショナル・ツーリズム的なものとなっており、年末にAmerican Alpine ClubのHoward Palmerへ出した手紙でも、交通事故の可能性はあるものの、観光の便を考え、ヨセミテ渓谷内に自動車が入ることに賛成の意を表しています。
11月25日、Fisher長官はようやく引き伸ばしになっていた公聴会を開き、Freeman、Masonの後を引き継いだMichael M. O’shaughnessyをはじめとするサンフランシスコ市側代表と、Colby、Johnson、Bade、McFarland、Whitman、Steven Matherらの反対派が出席して、6日間の討論が行われましたが、結論はでず軍の技術専門家に検討依頼がされます。1913年2月13日に出された結論はダム建設を支持するものでしたが、3月1日、退任を間際にひかえたFisherは、この件に関しては連邦議会の許可が必要であると判断し、決断は次の政権に持ち越されることになりました。
3月4日、Woodrow Wilsonが新大統領となり、内務省長官には、サンフランシスコで弁護士としてHetch Hetchyダム建設を推進していたFranklin K. Laneが選ばれました。これによりダム建設への動きは急速に進むことになりました。5月14日、Muirは長年の友人であり、隣人でもあるJohn Swett(1870年代にMuirはサンフランシスコで間借りしていた、後にSwettはMuir家の隣に引っ越してきた)と共にカリフォルニア大学(現バークレイ校)から法学の名誉博士号を授与されます。しかしSwettは8月その数ヵ月後には亡くなってしまいます。同月上旬には、カリフォルニア出身の下院議員John E. Rakerにより法案(H.R. 7207)が提出され、9月3日には下院を183対43の大差で通過します。この夏Muirは、東部の新聞社や雑誌社に反対の記事を書き、また10月末のシエラクラブの会合では、メンバーに、上院議員に対して抗議の手紙を送るよう強く訴えていました。法案はやがて上院に送られ、12月6日には43対25で通過し、12月19日にWilson大統領がサインをし、法案は成立しました。
[1.24] 終焉(1914)
この頃Muirは流感を患っていました。ダム論争に敗れたものの、OsbornやMerriamに宛てた手紙からは、落胆よりは、賛成した議員や大統領への怒りが伺えます。1914年1月12日、娘Helenへ出した手紙には、決着がついてほっとしたことや、アラスカの本を書き始めた近況を伝えています。
ところでMuirは、1912年秋からシエラクラブのMarison Randall Parsonsの助力を得て『Travels in Alaska』の著作に取りかかっていましたが、健康や、Hetch Hetchy問題の取り組み等で、著作活動は幾度も中断されていました。Parsons女史によれば、1914年のMuirは7時に朝食をとり、食事以外は夜の10時まで執筆に専念していたようです。特にMuirは文章の組み合わせにはかなりの時間をかけていたと書いています。1914年、卒業前の夏期休暇に東良三がタコマ(ワシントン州)から訪ねてきたときには彼を泊め、たまたま同じ時に訪ねていたCorwin号のHooper船長と引き合わせ、東のアラスカ旅行のきっかけを作ります。12月3日、Muirは誰もいない家から娘Helen宛の最後の手紙を出し、1週間後長女Wandaに見送られて、Helenの住むDaggett(Mojave砂漠の西側)へ向かいます。途中風邪を引き体調を崩したMuirは、Los Angelesの病院に移されます。一時状況は持ち直したかに見えましたが、クリスマスイブの夜に息を引き取りました。

第二章 ミューアの歩いたヨセミテ・シエラネバダ

[2] Muirの歩いたヨセミテ・シエラネバダ
Muirは1868年から1870年代中盤にかけ、精力的にヨセミテやシエラネバダでの旅行・探検・登山・調査行を行いました。Muir本人はそれらを系統だって本にはしておらず、我々一般読者には、その全容の把握がかなり難しい物となっています。この章では、資料から知りうるMuirのすべてのヨセミテ・シエラネバダでの記録を年代順に並べ、要約・解説・解読などをしてみました。


[2.1] 初めてのヨセミテ旅行:1868年春
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地図:○は西からOakland、Gilroy、Pacheco Pass、Hill’s Ferry、 Snelling、 そこから時計回りにCoulterville、Yosemite Valley、Mariposaを指しています。現在のYosemiteへの主要路である120号、140号とはかなり異なるルートです。○の間のを繋ぐ線は推定です。
1868年3月27日[1]に船でサンフランシスコに降りたったMuirは、船で知り合ったイングランド出身のChilwellと共にヨセミテに行く事になります(Muirはスコットランド出身)。このときの紀行は1872年に”Old and New”という雑誌に投稿されたそうで、Bade(*1)の6章で、その一部を読むことができます。まず二人はフェリーでサンフランシスコ湾を渡り、Oaklandに行きます。そこから南下、San Jose、Gilroyを越えPacheco Passに達し、そこで初めてSan Joaquinの平原(セントラルバレー)とシエラネバダの山々を遥か彼方に望みました:
“At the top of the Pass I obtained my first view of the San Joaquin plain and the glorious Sierra Nevada. Looking down from a height of fifteen hundred feet, there, extending north and south as far as I could see lay a vast level flower garden, smooth and level like a lake of gold–the floweriest part of the world I had yet seen.”
更にSan Joaquin川をHill’s Ferryで渡り、Snellingを経由してCoultervilleという金鉱で栄えた町に達します[2]。そこからCoulterville Roadを使い、Bower Cave、Deer Flatを越えPilot Ridge[3]沿いに進み、Crane Flatを越えてヨセミテ渓谷に達しました。かなりの雪が残っていたと書いています:
“We found our way easily enough over the deep snow, guided by the topography, and discovered the trail on the brow of the valley just as the Bridal Veil came in sight”[4]
渓谷で8〜10日ほど滝めぐり等をして過ごしたあと、再び雪の深いMariposaトレイル[5]を超え、Wawonaに行きセコイアを見学します。その後Snellingへと戻り、すぐ近くの町Hopetonで仕事を見つけました[6]。すでにMuirはお金を稼いだ後にまたヨセミテに戻る事を決心していたようです:
”This Yosemite trip only made me hungry for another far longer and farther reaching, and I determined to set out again as soon as I had earned little money to get near views of the mountains in all their snowey grandeur, and study the wonderful forests, the noblest of their kind I had ever seen…”
さてこれから一年近く、シエラの山裾での生活が始まります。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir” (1924) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir. “Letters to a Friend ; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir” The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)
[1] Bade(*1)は3月27日としているが出所不明(Muir自身の記事にには日付が書いていない)。Wolfe(*3)は3月28日と書いているが、同じく出所不明。MuirがMrs. Carrへ宛てて書いた手紙(1868年7月26日)では4月と書いてある(*2)。
[2] 一時期は金鉱で賑わった町だった。現在小さな博物館がある。
[3] CoultervilleからBower Caveまでは舗装道路を使っていける。しかし当時(1868年)のCoulterville Roadとはルートが異なる。そこから先Crane Flatまでは林道・廃道が続いているだけ。Bower Caveは石灰岩でできた洞窟。当時は、ヨセミテに旅行する人たちが立ち寄る名所だった。
[4] Tamarack Flatをぬけ、旧Big Oak Flat Roadを下って行ったと思われる。勿論当時はトレイルしかない。
[5] “Like the Coulterville trail all the high-lying part of the Mariposa trail was deeply snow-burried, …”と書いている(*2)。 トンネルビューそばのPohonoトレイルを登りリムに上り、Alder Creekを南に下るのが当時のWawonaへのルート。
[6] Letters to a Friend: 1869年5月16日及び20日に、MuirはMs. Carrにヨセミテ旅行のアドバイスをする手紙を送っている。内容はこのときに旅行の経験に基づいている。馬を使ったことが記されている。ルートはマリポサ側を勧めている。


[2.2] At Smoky Jack’s Sheep Camp:1868年12月
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春のヨセミテ旅行から帰ってきたMuirは、シエラ西麓の丘陵地帯で働き始めます。12月までのことは、Bade(*1)の6章に短く書かれているだけですが[1]、収穫が終わるまでEgleston氏のもとでChilwellと働いたこと、野生馬の調教をしたこと、StocktonとMariposaの間でフェリーボートの運転をしたことがうかがえます。やがてMuirは、John Cannel[2]に依頼され、12月の中旬から(ハイシエラに旅立つ直前の1869年5月末まで)羊の面倒を見ることになります。
さて1869年の1月1日からMuirは日記(*3)を書き始めます。かなり長い前書きがあり、羊飼いの仕事を始めた時のエピソードが詳しく書かれています。その頃Pat Delaneyのもとで働いていた[3]MuirはCannelより羊飼いをする場所への行き方を教えられます。そこは現在のLa Grangeから約5マイルほど南下したところにある、Dry Creek川のあたりです(赤☆):’Your camp,’ said he, ‘is about five miles from here, over on Dry Creek. You had better go right over tonight, for the man that is there wants to “quite.” You will have no trouble in finding the way. Just take the Snelling road and the first shanty you see on a hill to the right – that’s the place.”[4]
12月の中旬Muirがそこに着くと、若い羊飼いは簡単な説明をしただけで、すぐ立ち去ってしまいます。彼がこれから住む事になる小屋はかなり汚かったようで、外で寝ようとしましたが、そこも灰、靴、羊の骨などが転がっており、また猪も出そうなので、あきらめて中で寝ることにしたと書いています。
早速次の日から羊の面倒を見始めました。朝、囲いのゲートを開けると、羊たちはすぐにあたりの丘へと散らばっていきました。リーダーの羊を追いかけたり、群れを夕方近くに小屋のほうへと誘導したりしたようです。Muirが驚いた事に、夕方には羊たちは、自発的に囲いへと戻って行きました”…and much to my suprise, they formed themselves into long parallel columns and marched willingly across Dry Creek, up the bank, and into the corral. Thus my first day of shepherd life bagan and ended.”
こうしてMuirの羊飼いとしての初日が終わりました。
資料:
*1 “The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade`編集
*2 “Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 Linnie Marsh Wolfe, “John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir” (1938) , The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-07880-9(1979) 
Linnie Marsh Wolfe編集、Muirのフィールドでの日記が集められている。450ページほどの本で、現在でもAmazonで購入可。
*4 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir” The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)
同じくWolfeの本。1945年に初版。350ページほどの本で、Muirの生涯を書いている。殆どのMuir・ヨセミテ関連書籍が参考にしている。Amazonで購入可。
[1] Bade6章より:”After the harvest is over, Mr. Chilwell left me, but I remained with Mr. Egleston several months to break mustang horses; then ran a ferry boat Merced Falls for travel between Stockton and Mariposa.…, Mr. John Cannel, nicknamed Smoky Jack, begged me to take care of one one of his bands of sheep, bacause the then present shepherd was about to quit. He offered thirty dollars a month a board and assured me that it would be a ‘foin aisy job'” 註: ’foin aisy’は’fine and easy’訛りを入れて書いていると思われる。
[2] Bade6章より:MuirはSmoky JackことCarnnelに関して記述をしている。未婚、一人暮らし、賭けをする、既に羊の仕事でかなり儲けていたなどと書いている。また豆を主食にしており、朝にポケットに汁のたれる豆を詰めて羊の面倒見に出かけること。服はその汁でかなり汚れていたとも書いている。
[3] 日記(*3)には”I was then at Pat Delaney’s on the Tuolumne”と書いてある。Mrs. Carrに宛てた1968年11月1日の手紙(*2)には”At a sheep ranch between the Tuolumne and Stanislaus rivers”と書いてあるが、そこがDelaneyの牧場かどうかは不明。”My First Summer in the Sierra”の6月3日のエントリーにはDelaneyの牧場に関して、”The home ranch from which we set out is on the south side of the Tuolumne River near French Bar… “と書いてある。 French Bar(French Pit)はLa Grangeのすぐ南にある。
[4] Wolfe(*4)はpp. 118で、Snellingから夜に2マイル歩いたと書いている。Muirの日記(*3)のpp. 3の記述と矛盾する。
地図:1868〜1869年に、Muirが過ごしたシエラ西麓丘陵地帯の地図。上の赤線は現在の120号、左の赤○はOakdale、右はGroveland。下の赤線は140号、赤○はMerced(左)とMariposa(右)。青線はTuolumne川(上)とMerced川(下)。赤△は上からLa Grange、Snelling、Hopeton。赤星がMuirが羊飼いとしてすごしたDry Creek付近。Tuolumne-Merced川の間の赤○はCoulterville。


[2.3] Twenty Hill Hollow:1869年1月〜5月
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Tuolumne川とMerced川に挟まれたシエラ西麓は、遠望の効く丘陵地帯です(写真)。1869年1月1日から始まるMuirの日記には、ハイシエラに旅立つ直前(5月31日)までの80日分ほどが記されており、羊飼いをしながら観察をした天気、羊、花、鳥などのことが詳しく書かれています。Muirは2月1日に、Dry Creek一帯をTwenty Hill Hollowと呼び始めました:”The Sheep galloped along the rim of Twenty-Hill Hollow. Warm; the grass increasing rapidly.”
この頃の日記に、地勢・地質的所見やヨセミテとの比較などを書き足した記事が、1872年のOverland誌に”Twenty Hill Hollow”(7月号)として投稿され、1月と4月(特に1月と2月)の間の探訪を勧めています[1]:”The Hollow may easily be visited by tourists en route for Yosemite, as it is distant only about six miles from Snelling’s. It is at all seasons interesting to naturalists; but it has little that would interest the majority of tourists earlier than January or later than April.”。
しかし、さすがのMuirも猛暑のシエラ山麓には嫌気がさしてしまったのか、5月末の日記はとても短く終わっています: ”May 28. Hazy and hot. All of the larger animals seek for cool shadows. Insect life is in full gush of vigor.”、”May 30. Hot. Dreamy, hazy, glowing days”、”May 31. Oveny and oppressive.”
さて、いよいよ3日後にはシエラへ向けて出発です[2,3]。
写真: Tewnty Hill Hollowを北西から望む(2005年2月)、2枚貼り合わせ。
資料:
*1 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir,”Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 Linnie Marsh Wolfe, “John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir” (1938) , The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-07880-9 
[1] John Muir,”Twenty Hill Hollow,”Overland monthly / Volume 9, Issue 1, pp.80-86, Jul. 1872
Muirの死後(1916年)、Badeによって編纂された”A Thousand-Mile Walk to the Gulf”にも”Twenty Hill Hollow”が使われている。冒頭などが異なっている。
[2] Bade(6章): シエラで羊飼いをするようになったいきさつが書いてある。簡単には、DelaneyがMuirの書いた絵や彼の植物へ示す興味に気づき、シエラで羊飼いのを監督する仕事に誘った。最初は山でどうやって羊の面倒をみたらよいかわからないこと、藪漕ぎ、渡渉、熊、狼といったことの心配や、羊がいなくなってしまう事などを挙げ、乗り気ではなかったようだが、彼が最初の最初のキャンプ地まで同行すること、その後のキャンプ地に時々手紙などをもって訪ねる事などかなりいい条件を出してくれたので、仕事を請けることにした。この部分は必読です。
[3] Letters to a Friend: Mrs. Carrに宛てた5月16日の手紙で、羊の面倒を見るためにヨセミテに行く事になったと知らせている。またその間の手紙での連絡法、Carr夫妻のヨセミテ旅行のためのアドバイスを書いている。更に5月20日にも捕捉事項を書き送っている(最後には、Carrから贈られたEmersonの本について感謝をしている)。


[2.4] My First Summer in the Sierra: 1869年6月〜9月
Muirは晩年(1911年)になって、未整理のままになっていた日記をもとに、1869年夏のハイシエラでの生活を本にしました[1]。これが彼の著作の中で、最も有名な”My First Summer in the Sierra”です。まずは、Muirらの採ったルートを大まかに辿ってみます。
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6月3日、MuirらはLa GrangeにあるMr. Delaneyの牧場を2050頭の羊と共に出発し、Pino Blanco、Coulterville、Greeley Hill、Bower Cave付近を通り、6月7日、Pilot Peak南西麓のBrown’s Flatそばに最初の長期キャンプを設営します[2]。一ヶ月近い放羊の後、7月3日には移動を開始、Pilot Ridgeを伝い、Hazel Green、Crane Flat、Tamarack Flat、Mono Trail(ヨセミテ渓谷の上、北側の山沿いのトレイル)を通り、Yosemite Creek(ヨセミテ滝の上流2マイル付近)を渡渉し、7月17日にIndian Creek沿い(ヨセミテ渓谷の縁から1マイルほど北)に第二キャンプの設営をします。ここを中心にMuirはMt. Hoffmann、North Dome、Tenaya Lake等への登頂・探索をします。8月3日にはIndian Canonを使いヨセミテ渓谷へと下り、Butler教授との再会を果たします。羊が熊に襲われたのをきっかけに、8月7日にはTuolumne Meadowsへとキャンプ地を移す事になります。Mono Trail沿いに進んで行きました(現在のTioga Roadとほぼ同じルートをとる)。途中Tenaya Lakeの北岸から、南東側に聳えるTenaya Peakへと登頂をしています。Tuolumne MeadowsではまずSoda Springs付近にキャンプを設営しました。ここからはBloody Canyon経由でのMono Lake、Lyell方面への探索、Mt. Dana、Cathedral Peakへの登頂を行っています。そして9月上旬秋も近づくころ、一行は同じルートを辿り山を下り始めました。
資料:
John Muir,”My First Summer in the Sierra” (1911)
John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade`編集
Frederick Turner,”John Muir:Rediscovering America”(1985) Perseus Publishing, ISBN: 0-738-20375-0
Linnie Marsh Wolfe, “John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir” (1938) , The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-07880-9 
[1] ”My First Summer in the Sierra”の信憑性について:
Turner(pp. 377)によると、”My First Summer in the Sierra”で使われたMuirの日記はStocktonのUniversity of the Pacificの図書館(Holt-Atherton Library)にあるとのこと:”The journals of Muir’s first mountain summer are badly cut up and crossed over. In 1910 Muir went back into those battered blue notebooks to make a book out of them; ‘My First Summer in the Sierra’ was published the following year(Boston: 1911). Wherever it is possible to compare the journal entries with the published version it is clear that Muir made few substantive changes. He corrected his overreliance on such words … For the most part, however, it would appear that ‘My First Summer in the Sierra’ is a faithful depiction of his experiences, and I have quoted from it in this chapter. The journals themselves are with the Muir Papers at the Holt-Atherton Library.”
Badeは7章の冒頭で、次のように書いている:”Muir’s first excursion into the High Sierra ended in September. What he saw and experienced during that memorable summer is told vividly, and with infectious enthusiasm, in his journal, later published as ‘My Summer in the Sierra’…”
Wolfeはその序文(pp. XV)で”Revising the ‘moderate-sized bagful.’ he published, in 1911, ‘My First Summer in the Sierra'”と書いている。
もし機会があれば、この日記を見に行きたいと思います。
[2]シエラクラブのJohn Muir ExhibitにあるJohn Fiske氏の投稿は、La GrangeとBrown’s Flat間のルート、及びBrown’s Flat自体の位置についてかなり詳しい報告をしている。地図ではそれを参考にした。
地図: 左側の赤色○はLa Grange。赤△(大)は左から、Brown’s Flat、Indian Creek付近、Tuolumne MeadowsのSoda Springsと(その北の)長期キャンプ地。これらから派生する線は、推測によるヨセミテ渓谷(Vernal滝付近)、Mt. Hoffmann、North Dome、Tenaya Peak、Cathedral Peak、Mt. Dana、Mono Lake、Lyell方面等へのルート。現在のTioga RoadとはPorcupine FlatとTuolumne Meadowsの間で一致している(ただしOlmsted Point付近は迂回している)。120号とはCrane Flat付近で交差しているだけ。
[2.4.1] 概略:My First Summer in the Sierraルート
Muirの場所に関する記述、当時及び現在のトレイル地図などを元にMuirらの歩いた道を
再現(推測)してみます(6/8までは前出のFiskeの報告を参考にしました)。特に行動の記述が無い日は省いています。本に書かれた植物や木の記述も参考にすれば、さらにルートを絞れそうです。
第一キャンプへ向けて:
6/3: French Bar(La Grange) を出発、Coulterville方面への道を、平均時速1マイルで、日の入り1時間前まで進む。 
6/4: 丘陵地帯を進む。 
6/5: 出発から数時間でPino(Penon)Blanco南麓の峠に達する。そこからHorseshoe Bendの山並みを望む(現在のPeno Blanco Roadの走る谷を登った模様)。 
6/6: Coultervilleの近くを通り、Greeley Mill(Hill)を越えた数マイルのところでキャンプ。途中、ヨセミテ南方のMerced山群を遠望している。
6/7: North Fork Merced(メルセド川の北支流)を渡ってから、Pilot Peak方面に進路を変更し、岩の多い、潅木の生えた尾根を登り、Brown’s Flatに到着する(昼近くにはBower Caveそばを通り過ぎている)。Brown’s Flat(現在のMcCauly Ranch)の北西部に長期キャンプを設営。
第二キャンプへ向けて:
7/8: ヨセミテに向かい出発。 Pilot Ridgeに沿って東に進み、夕方にはHazel Green(Hazel Ranch)に到着。
7/9: Hazel Green から尾根沿いに移動、Crane Flat近くでキャンプ。
7/10: Crane Flatから尾根沿いにGin Flatへ上り、そこからTamarack Flatへ下ってキャンプ。
7/11-12: Delaneyがルートの偵察に行っている間、Tamarack Flatで停滞。
7/12: Tarmarak Flatを過ぎ、Cascade Creekぎわでキャンプ。
7/13: Mono Trail(Ribbon Meadowsまでは現在のEl Capitan Trailとほぼ同じ)に入り東に進む、Blue Jay Creekをやや下ったところでキャンプ。
7/14: 数時間でYosemite CreekとBlue Jay Creekの合流点につく。対岸でキャンプ。
7/15: Indian ridgeの上にキャンプを移動。Muir単独で尾根を下り、ヨセミテ渓谷のリムに達した。そこから西に進み、ヨセミテ滝の落ち口にかなりの危険を冒して達する。
7/16: 再び単独探査、Indian Basinの上部を東に進み、North Domeを越えてThe Basin of Dome(MuirはPorcupine Creekとも表現している)に達する(現在のNorth Dome Trail?)。
7/17: Indian Creekの上部(渓谷の縁から北に1−2マイル付近)に長期のキャンプ地を設営。
第二キャンプからの行動:
7/21: The Dome(The Yosemite Domeとも呼んでいる、North Domeと思われる)でスケッチをする。熊を見つけ、Mt. Hoffmannのほうに向け1-2マイルほど足跡を追う。
7/26: Mt. Hoffmannに登る。
7/27: Tenaya Lakeに行く。
8/2:一日中North Domeでスケッチをする。Butler教授に会えるような予感がしたので、次の日渓谷に下る事にする。
8/3: Indian Canyonを下り、ヨセミテ渓谷に下る。Butler教授はVernal Fallの方面に行ったらしいという話を聞き、追いかけて、再会を果たす。この日はホテルで宿泊。
8/4: Indian Canyonを登り、キャンプ地へと戻る。
第三キャンプへ移動:
8/7: 2日前(8/5)、羊が熊に襲われた。前日、食料や手紙を持って山に戻ってきたDelaneyは話しを聞き、キャンプを移すことにする。この日はMono Trailに沿って東に進む。Snow Flat付近(と思われる)でキャンプ(現在のMay Lakeへの道をMono Trailは通っていた)。
8/8: Tenaya Lakeの西岸でキャンプ。早く着いたので、MuirはPolly Dome際を通ってTenaya湖の北にぬける。さらにそこからPolly Domeへと登った。
8/9: 羊たちに先行してMerced−Tuolumneの分水嶺を越える。日記にはCathedral Peak、Unicorn Peak,
Mt. Dana、Mt. Gibbs、Mt. Lyellなどのことが書いてあるが、どこまで進んだかは不明。少なくともLyellが見えるところまで行ったとは思えない。おそらくPothole Dome付近と思われる。帰り道は分水嶺のそばの池付近で羊の群れに遭遇、そこでキャンプ。
8/10: Soda Springsへと進みキャンプ。
8/11: Tuolumne Meadowsの北の方を一人で探索、小さな湖やメドウを見つける。
8/12: 長期キャンプ地を前日見つけたメドウに設営(現在のDelaney CreekとYoung Lakeへのトレイルが交差する地点と思われる。Dog Lakeのすぐ北のあたり)。キャンプ地の北部を探査。
第三キャンプからの行動:
8/13: Delaneyが残した荷物を取りに、第二キャンプへ、ロバを連れて戻る。昼にはPorcupine Creekに達し、ポルトガル人の牧羊者たちに会う。そのままThree Brothersの最高点(Eagle Peak)まで足を伸ばす。夜はポルトガル人たちのところに泊る(夜、羊が熊に襲われた)。
8/14: Tuolumne Meadows北部のキャンプ地へと戻る。
8/21: 一週間(8/15-8/20)ほど日記が抜けている。この日に回想を書いている:Mono Trailを使い、Bloody Canyonを下り、Mono Lakeへと探索をした。
9/1: Mt. Danaに登る。
9/7: Tuolumne川を渡り、東側(多分Budd Creek沿い)からアプローチしてCatherdral Peakを登る。その後東の方に雪渓?を越えて進みキャンプ。
9/8: Merced−Tuolumne分水嶺沿いの無名峰を登り(現在のRafferty、Vogelsang、Fletcher、Parsonsといった山の付近と思われる)、Lyell Canyonの上部に下る。そこから8−10マイルの道を辿り、夜キャンプ地に戻る。Soda Springsという名のDome名が出てくるが、これはLembert Domeのこと。
山を下る:
9/9: キャンプを撤収、再びTuolumne川を渡り、ほぼ今の120号に沿って進む。氷河の堆積岩のある池のそば(Fairview Domeの北、Pothole Domeの西の小高いところ付近)にキャンプ。
9/11: テナヤ湖の西側へ移動。
9/12: Indian Basin付近でキャンプ。
9/13: Yosemite Creek沿いでキャンプ。
9/14: Cascade CreekとMono Trailの交差点付近でキャンプ。
9/15: Tamarack Flatへ移動。
9/16: Crane Flat方面へ5マイルほど移動。
9/17: Merced Groveにセコイアを見に行く。Hazel Greenに移動。
9/18: Brown’s Flatに移動。
9/19: Smith’s Millに移動。
9/20: Dutch Boy’s Ranch(場所不明)に移動。
9/21: La Grange(Delaneyの牧場)に戻る。
[2.4.2] 詳細:My First Summer in the Sierraルート(解読):
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My First Summer in the Sierra」(以下「MFS」と略)は、1869年にMuirが羊飼いの手伝いとしてハイシエラに行ったときに書いた日記を元にして、後年書かれた本です。移動しながら書かれているので、その描写対象が地理的にかなり広い範囲にわたり、また地図も無くルートが不明確で、風景のイメージがわかず、かなり取り付きにくい読み物となっています。とは言うものの、ヨセミテ古典のone of the bestであるMFSをスルーしてしまっては、あまりにも残念です。以後数回にわたり、そのルートについて少し詳しくまとめて、MFSに興味のある方への読解・訪問の手引きを書いてみようと思います。とりあえず初回は、全体像をつかむということで、San Francisco(左端)からヨセミテの東側Mono Lake(右端)までを含む地図を使い、出発点のLa Grange(French Bar)と、三つの長期キャンプ地を赤丸で示しました。赤い線は大体のルートです。前半は、120号と140号の間を進んでいるのがわかります。まさにこのせいで、MFSの出だしの記述と、車から見た風景(120号・140号)との違いに混乱を起こしてしまい、「わからん」となってしまうわけです。
June 3, 1869 – June 5, 1869
1869年6月3日の朝、Muirら一行はLa GrangeというTuolumne River沿いの小さな町のすぐそば、French Bar(USGSの地図にはFrench Pitと表記)を出発します。La Grangeは、CA132号沿いの、かなり寂れた町(写真1)です。羊たちの進むスピードは、時速1マイルとかなり遅かったようで、6月5日にやっとPino Blanco Peak(現Penon Blanco Peak、2878ft.)の南側の尾根に達し、Horseshoe Bend方面を望んでいます(写真2)。そしてその日は東側に下り、Coultervilleの北方で宿営したようです。
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地図:La Grange−Coultervilleの地図。CA132およびCA49を赤線で表記。Muirらが(現在の)CA132にどれだけ沿って進んでいったかは不明です。また、6月5日にはCA132を離れたPino Blancoのすぐ南、Penon Blanco Roadをだどったようです(赤点線にて表示[1]、地図の1グリッドは1マイル)。
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写真1:La Grangeの町並み。かなり寂れています。
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写真2:CA132沿いの風景。
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写真3:Horseshoe Bend方面をBenchから望んだところ。本のスケッチと異なり、ダム湖(Lake McClure、Merced Riverの水をたたえています)や伐採の様子が伺えます。Muirは景色を遠望し、「After gaining the open summit of this first bench,…a magnificent section of the Merced Valley at what is called Horseshoe Bend came full in sight…」(6月5日)と書いています。
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参考地図: La Grangeと120号(赤線)および近隣の町との関係を示してみました。CA120号でヨセミテに向かう途中、Grovelandへの上りの前で、大きな湖が出てきます。これはDon Pedro湖で、Tuolumne Riverの水をためるダム湖です(ダムはLa Grangeのそばにあります)。ダムの下流でTuolumneはCA132に沿って真西へと流れています(地図の1グリッドは6マイル)。
参考:
[1] 出発点のLa Grangeと6月7日に到着したBrown’s Flatの間のルートについては、John Fiske氏が詳しく調査されおり、その結果を使用させていただいています。
June 6, 1869 – June 7, 1869
翌日一行はCoultervilleのそばを通り、”the second bench or plateau of the Range”と表現する高地帯へと上りはじめます。途中、Greeley’s Mill(USGS地図ではGreely Hill)付近のメドウからMerced山群を遠望しています。そしてGreely Hillから数マイルほど進んだところでその日の行動を終えました。あくる日は、躑躅の葉を食べた羊が体調を悪くしてしまったせいか、出発が遅れてしまったようです。North Fork Merced Riverを越え、Bower Cave(洞穴)付近に達したのは正午すぐ前であったと書いています。ここから潅木に覆われた斜面を登り、Brown’s Flatに到着しました。一月あまりの長期キャンプ地がここに設営されることになります。
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地図:Bower Cave付近で道路はNorth Fork Merced Riverを渡ります。川がCave付近で大きく湾曲しているのが伺えます。 1グリッドは1マイル。
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写真1:”the second bench”に上りきった地点(CoultervillとGreeley Hillを結ぶ道のほぼ中間点、標高差1,000ftほど)から南西方面(Coulterville)を望む。この道(J20)はGreeley Hillを越え、CA120号のBuck Meadowsへとつながっています。もはや風景はCentral Valley東側の丘陵地帯ではなく、シエラ西麓の独特な山並みになっています。
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写真2:Greeley Hillの北東2マイル付近から望むPilot Peak(中央左より)とMerced山群(ヨセミテ渓谷の南側)。Pilot Peakのやや右下にはNorth Fork Merced Riverの谷が見えています。Pilot Peakとその左側に伸びる尾根は、MercedとTuolumneの分水嶺となっています(春に撮影したので、遠くの山にはかなり雪が残っています)。Muirはこの景色について、スケッチを添えて次のように書き残しています: ”Through a meadow opening in the pine woods I see snowy peaks about the head-waters of the Merced above Yosemite. How near they seem and how clear their outlines on the blue air, or rather in the blue air; for they seem to be saturated with it. How consuming strong the invitation they extend! Shall I be allowed to go to them? Night and day I’ll pray that I may, but it seems too good to be true.”
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写真3:Greeley Hillから2マイル弱ほどJ132(Smith Station Rd)を進んだところで、右側のGreely Hill Roadに入り3マイルほど行くとNorth Fork Merced Riverを渡ります。すぐ先にはHistorical Markerがあり、この道が、1874年にヨセミテにつながった最初の道路であることが書き記されています。そこから徒歩で5分ほど山の中に入って行くと、Bower Caveという洞穴があります。当時ヨセミテ旅行の際に人々が立ち寄る名所でした。
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写真4:Bower Caveのすぐ先で舗装は終わり、そこから先はダートロードとなります。右がOld Coluterville Road(Bull Creek Road)、左はBrown’s Flatへと上っていく林道です。
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写真5:林道を上り詰めると、やがてBrown’s Flat(USGS地図ではMcCauley’s Flat)に到着します。数件の家があるのみです。
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補足地図:CA120、CA140、そしてMy First Summerルート。1st CampはBrown’s Flat。
June 8, 1869 – July 7, 1869
Brown’s Flatに着いた翌日、一向はその北側で、North Fork Merced Riverに下り、長期キャンプ(1st Camp)を設営しました。数日後、Mr. Delany、中国人、そしてインディアンらは、MuirとBilly、犬のCarloとJackを残し下山していきます。その後、一月に渡り、Muirは木、花、リス、羊、インディアンのことなど、さまざまなものを観察し、日記に書きとめていきます(”North Fork of The Merced”の章)。最後には食料不足に陥り(”A Bread Famine”の章)、かなりひもじい思いをしたようですが、Mr. Delanyの到着とともに解消し、いよいよ次の日からヨセミテの山々を目指すことになります。
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地図:Brown’s Flatとキャンプ地(と思われる場所)。距離は1マイルほどです:The sheep, now grassy and good natured, slowly nibbled their way down into the valley of the North Fork of the Merced at the foot of Pilot Peak Ridge to the place selected by the Don for our first central camp, a picturesque hopper-shaped hollow formed by converging hill-slopes at a bend of the river.(1869年6月8日)
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写真1:キャンプ地へ下り始める斜面。後方中央右よりの山はPilot Peak。
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写真2:谷底の平坦地、キャンプ地と思われるところ。Sugar Pine、Ponderosa Pineなどが生えています。
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写真3:写真左はAltar Stone(と思われます)。写真右端には、枯れかかった滝が見えています。岩と滝の間には小さな滝つぼ(pool)があります。6月14日の日記には次のように書かれています:One of these ancient flood boulders stands firm in the middle of the stream channel, just below the lower edge of the pool dam at the foot of the fall nearest our camp. It is a nearly cubical mass of granite about eight feet high, plushed with mosses over the top and down the sides to ordinary high-water mark. When I climbed on top of it to-day and lay down to rest, it seemed the most romantic spot I had yet found, ?the one big stone with its mossy level top and smooth sides standing square and firm and solitary, like an altar, the fall in front of it bathing it lightly with the finest of the spray, just enough to keep its moss cover fresh; the clear green pool beneath, with its foam-bells and its half circle of lilies leaning forward like a band of admirers, and flowering dogwood and alder trees leaning over all in sun-sifted arches.
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写真4:別の角度から見たAltar Stone
July 8, 1869
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7月8日、一行はいよいよヨセミテへ向けて移動を開始しました(”To The High Mountain”の章)。Pilot Peakの山麓を登り尾根に達し、そのまま尾根沿いに進み、同日の夕方にはHazel Green(現在のヨセミテ国立公園の境界上)に達しました。Hazel Creekの源流は、前日までのキャンプ地に比べ、遥かに水量が少なかったようで、”I miss my river songs to-night. Here Hazel Creek at its topmost springs has a voice like a bird”と書いています。現在、Pilot Peakの南麓には、林道が幾本か走っています。ここでは、Brown’s FlatからHezel Greenを結ぶ一番近道と思われるものを赤線で示しました。TuoulumneとMerced水系の分水嶺がTuolumneとMariposa群の境界となっています。黄色い線はヨセミテ国立公園内を走るCA120です。Hazel GreenはCA120のすぐそばにあり、Merced GroveのTH(小さな赤い四角)から近いことがわかります(1グリッドは1マイル)。
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写真1:山麓一帯には、かなりの数のシュガーパインが生えています。
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写真2:Pilot Peak(右側)を西側から望んだところ。
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写真3:Pilot Peakの頂上からHazel Green方面(東)を望む。右側の盆地はAnderson Flat、写真中央の尾根はTuolumneとMercedの分水嶺となっています。Muirらは、この尾根を辿ってHezel Green(写真左から1/4付近)へと向かいました。中央の白い山々はMerced山群。左端はTioga Roadの走る山並み。
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写真4:Merced Groveの北西側の尾根から、Pilot Peakを望む。Hezel Greenは写真の右端付近(写っていません)。ここから先Hazel Greenまでは廃道で、かなりの藪で覆われています。Hezel Green付近からPilot Peak(頂上付近を除く)、Brown’s Flat一帯の林道は、乾期ならば一般車両での通行が可能です。写真中央はPilot Peak。Muirのスケッチはこの方面を描いたと思われます。
Hazel Green:Big Oak Flat EntranceからCA120を3マイル弱(Merced Grove THの駐車場の1マイル強ほど前)ほど進むと、幅の広い駐車帯のある直線路の部分が出てきます。そこから徒歩で、南西に200メートルほど林を進むと、Hazel Greenの鞍部(TuolumneとMercedの分水嶺上)に行けます。ここから先は私有地となっており、有刺鉄線が張られています。
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July 9, 1869 – July 11, 1869
6月9日、一行は平らな尾根に沿って、Crane Flatの先にある凹地(註:hollow)を目指します:”Our course to-day was along the broad top of the main ridge to a hollow beyond Crane Flat”。Crane Flatでは、その名が鶴に由来することや、すぐ北にあるTuolumne Groveについて述べています(Muirは帰り道の9月17日に立ち寄ります。この1869年の時点では、Merced Groveは未だ発見されていませんでした)。Crane Flatから2マイルほど進む間に、1,000ftを上ったと書いています。地図から判断すると、Gin Flat周辺が宿泊地のhollowと思われます。10日はさらにMerced-Tuolumneの分水嶺に沿って進んだのち(”Our way is still along the Merced and Tuolumne divide.”)Merced水系側に下り、Tamarack Flat(現在はキャンプ場がある)へと到着しました。あくる日は、Yosemite Creek方面の残雪の状況を偵察に出かけたMr. Delaneyを待ち、停滞することになります。
Muirは北側からヨセミテに入る二つのトレイルについて簡単な記述を残しています。ひとつは一行がたどってきたCoultervilleルート、もうひとつはChinese Camp Passルートです(旧Big Oak Flatルート、参考地図)。これらのトレイルはCrane Flatで合流し、Gin Flatへと上り(Yosemite Instituteのそばから旧道あり)、Tamarack Flatを経由してValleyへと下って行きます。そしてミュールなどに乗ったヨセミテ観光客グループをも見かけたと書いています。ところで、My First Summerには書かれていませんが、11日に、Muirは一通の手紙を、Wisconsin時代の恩師婦人Carrに出しています。それは前日出会った羊飼いにより、Mrs. Carrがヨセミテ渓谷からMuir宛に出した手紙がHarding’s Mill(Hardings Flat,現CA120号沿い)に留めてあったことを知らされ、ヨセミテ渓谷での再会ができなくなってしまったことをかなり(大げさともいえるほどに)嘆き悲しんていますが、MFSからはその様子は伺えません。
註:Muirはよく「hollow」という表現を使いますが、これは第一キャンプやTwenty Hills Hollowなどのように、周りを山や丘などに囲まれた小さな窪地・平地状のところです。
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写真:Tamarack CGそばから見るMerced山群とLower Yosemite Valley。Bridalveil滝の上部のV字谷やSentinel Domeが良く見えています(季節外れの写真なので、セピア調にしました)。:”From a point about half a mile from our camp we can see into the lower end of the famous valley, with its wonderful cliffs and groves, a grand page of mountain manuscript that I would gladly give my life to be able to read.” (July-11)
Jul 12 1869 – Jul 14 1869
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7月12日、ヨセミテクリーク一帯に思ったより草があったのを確認して戻ってきたDelaneyは、早速そこに移動し、ハイカントリーの雪がなくなるまでそこで待つことにします。その日はMono(Big Oak Flat)トレイルをたどり、Cascade Creek沿いでキャンプします。さて、Muirはこの前後から「Glacier」という単語を使い始めています。この語が実際に当時の日記に書かれていたのかどうかは、興味深いところです(だとすれば、「Glacier」について触れた最初のMuirの文と言えます)。翌13日はBlue Jay Creekの中ほどまで進んでキャンプを、14日には数時間でYosemite CreekとBlue Jay Creekの出会い(Yosemite Falls落ち口から上流2マイル地点)に達し、かなりの苦労をして羊たちを渡渉させ、対岸でキャンプをしました。ところでMuirは12日にMono トレイルをたどって行くと書いていますが、厳密にはBig Oak Trailを使ったと考えるのが適切と考えられます。KingWhitney、そしてWheelerの地図からもうかがえるように、当時、渓谷の北側には二つのトレイルがありました。ひとつはMono トレイルで、Tarmarack Flatからヨセミテトレイルを2マイルほど下ったところから分岐し、渓谷のリムを上ってYosemite Creekを越え、Tuolumne Meadows−Mono Lake方面へと続くシエラ越えの主要トレイルです(現在のEl. Capitanへ西側からアプローチするトレイルの前半は、ほぼMono Trailに沿っています)。もうひとつはTamarack Flatから直接東に進んで行くBig Oak Flatトレイルで、El. Capitanの北Ribbon Meadow付近(赤ダイアモンド点)でMonoトレイルに合流しています。Wheelerの地図では、”Big Oak Flatト and Mono Trail”と書かれているのが伺えます。知る限り、現在のハイキング地図等には、このBig Oak Flatトレイルの表記はありません(地図の1グリッドは1マイル)。
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参考写真:Ribbon Meadow西側付近、El Capitanトレイルの風景。渓谷はまったく見えず、お世辞にも景色がいいトレイルではありませんが、この一帯は羊などを連れた移動には楽そうです。
Jul 15 1869 – Aug. 6 1869
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翌日(15日)はMono Trailをたどり、Yosemite Creekの東側に登り、そこにキャンプ地を設営します。昼食後、MuirはIndian Ridge沿い[写真1]にヨセミテ渓谷の淵まで下り、すぐ西側にあるYosemite Fallsに達します。この時、かなり危険な思いをして滝の落ち口に達しました。その興奮で、よく眠れない夜をすごしたものの、あくる日には、夜明けと共に行動を開始し、North Domeおよびその先の方へと足を伸ばしています。17日にはキャンプを移動(地図上15日のキャンプ地から2nd. Campへの移動路は全くの推測に基いています)、North DomeとYosemite Fallsの中間地点ほどに、第二長期キャンプが設営されました[写真2]。MuirはここをベースにMt. Hoffmann[写真3]、Tenaya Lake[写真4]、そしてIndian Canyon[写真5]をたどり、ヨセミテ渓谷へのハイキングを行ったりします。キャンプ地からNorth Dome[写真6]まではかなり手軽にいけたようで、幾度もその頂上でスケッチなどをして数週間を過ごすことになります。そんなとき、8月5日の夜に羊がついに熊に襲われてしまいます。翌日、ちょうど麓から食料を持って戻ってきたばかりのDelaneyは熊の最襲を恐れ、すぐさまTuolumne Medowsを目指して移動することにしました(地図:1グリッドは1マイル、YFはYosemite Falls、NDはNorth Dome)。
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写真1: Indian Ridgeの最高点。昼食の後、Muirはここに来てヨセミテの山々を望んだと思われます。”After luncheon I made haste to high ground, and from the top of the ridge on the west side of Indian Canon gained the noblest view of the summit peaks I have ever yet enjoyed.” July 15 1869
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写真2 [SUYAMAさん撮影]: Indian Rock付近から望む「2nd Camp」方面。左奥にはSentinel Domeが見えています。”A new camp was made today in a magnificent silver fir grove at the head of a small stream that flows into Yosemite by way of Indian Canon. Here we intend to stay several weeks, ?a fine location from which to make excursions about the great valley and its fountains. ”, July 17 1869
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写真3: Mt. Hoffmannを西側の稜線から望む。MuirはHoffmannが荒涼とした山といいながらも、そこに生える高山植物の注意深い観察をしていました。”The broad gray summit is barren and desolate-looking in general views, wasted by ages of gnawing storms; but looking at the surface in detail, one finds it covered by thousands and millions of charming plants with leaves and flowers so small they form no mass of color visible at a distance of a few hundred yards.” July 26 1869
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写真4 [SUYAMAさん撮影]: Tenaya LakeをSnow Flat付近(May Lake THの近く)から望む。当時のMono Trailは現在のOlmsted point側を回らず、Snow Creekをたどり、May LakeTH付近の丘を越えていました。”?Up and away to Lake Tenaya, ?another big day, enough for a lifetime. The rocks, the air, everything speaking with audible voice or silent; joyful, wonderful, enchanting, banishing weariness and sense of time. ”July 27 1869
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写真5 [SUYAMAさん撮影]: 8月2日、MuirはNorth Domeで、突然Prof. Butlerに会える予感がし、次の日、犬のCarloと共にインデアン渓谷(Yosemite Villageのすぐ北側の狭隘な谷)を使い渓谷へと下っていきました。写真はIndian Canyonを登るSUYAMA家。” I made my way through the gap discovered last evening, which proved to be Indian Canon. There was no trail in it, and the rocks and brush were so rough that Carlo frequently called me back to help him down precipitous places.” Aug. 3 1869.
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写真6 [SUYAMAさん撮影]:North Domeから渓谷ごしに見るClouds RestとHalf Dome。”Sketching on the North Dome. It commands views of nearly all the valley besides a few of the high mountains. I would fain draw everything in sight, ?rock, tree, and leaf. ”July 20 1689
Aug. 7 1869 – Aug. 9 1869
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8月7日は早朝にキャンプを撤収して北上、Mono Trail(この区間はOld Tioga Roadとほぼ一致)に戻り、東進します。Snow Creek(May Lakeへ向かうOld Tioga Road沿い)のメドウに到着したのは日没時でした。翌日は峠(May Lake TH)を越え、Tenaya Lakeの西側湖畔に移動します。早く行動が終わったので、Muirは一人Tenaya Lake沿いに北へ歩き、後ろに聳えるPolly Domeに登りました。Muirは、そこからのTenaya Lakeの眺めは”the best of all”と書いています。9日は単独で先行し、Tuolumne Meadows付近を展望しています。戻ってくると、羊たちはちょうどMercedとTuolumneの分水嶺地点に達していて、そこがその日のキャンプ地となりました。
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写真1 [SUYAMAさん撮影]: Polly Dome頂上より見下ろすTenaya Lake。中央左寄りはClouds Rest、右寄りはHalf Dome。 ”Arriving early, I took a walk on the glacier-polished pavements along the north shore, and climbed the magnificent mountain rock at the east end of the lake, now shining in the late afternoon light.…The view of the lake from the top is, I think, the best of all.” Aug. 8 1869.
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写真2 [SUYAMAさん撮影]: 同じくPolly Dome頂上より望むTuolumne Meadows方面の山々(North Peak,、Mt, Conness、White Mountain、Peak 12002やTioga Passなどが見えています。Tioga Roadは右下側の樹林帯の中を貫け、写真のほぼ中央で、 Merced-Tuolumneの分水嶺(Divide)と交差し、Dome群の間を通り、Tuolumne Meadowsの方(写真右上)へと下っていきます。 ”I went ahead of the flock, and crossed over the divide between the Merced and Tuolumne basins. The gap between the east end of the Hoffman spur and the mass of mountain rocks about Cathedral Peak, though roughened by ridges and waving folds, seems to be one of the channels of a broad ancient glacier that came from the mountains on the summit of the range. In crossing this divide the ice-river made an ascent of about five hundred feet from the Tuolumne meadows. This entire region must have been overswept by ice.” Aug. 9 1869
参考3D地図:Polly Domeから写真2と同じ方角を望む。
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Aug. 10 1869 – Aug. 14 1869
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10日、一行はTuolumne Meadowsに入り、再びYosemite Creekの時のように、苦労して羊たちをTuolumne Riverの北側へ渡し、Soda Springs付近にキャンプを設営しました。翌日MuirはTuolumne Meadowsの北側を散策、Mt. Connessの見える方にまで足を伸ばしています。12日は、前日に見つけたメドウ沿いの林へと移り、そこを長期のキャンプ地に決めました。この日、DelaneyとここまでMuirと一緒だった羊飼いのBillyとの間で、放牧の仕方についての意見の食い違いがあり、Billyはキャンプを去ることになります。その翌日、MuirはPorcupine Creek沿いのPortuguese camp(Indian Creek沿いの第二長期キャンプ地付近)に、Delaneyが置いておいた荷物をとりに、pack animal(ミュール、ロバ、もしくは馬)をつれて出かけます。正午には着いてしまい、すぐ引き返すことも可能でしたが、ポルトガル人の羊飼いたちの招待もあり、一泊していくことにします。が、じっとしていたわけではなく、余った午後の時間を使い、Three Brothersの頂上(Eagle Peak)まで足を伸ばし、ヨセミテ渓谷の眺めを満喫します。その夜、火を焚いて警戒していたにもかかわらず、羊は熊に襲われてしまいます。一夜が明け、快晴の空の下、Muirは景色を楽しみながらTuolumneのキャンプ地へと戻っていきました。
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写真1: 第三長期キャンプ地と思われるメドウ。Lembert DomeからYoung Lakesへのトレイル(当時は無かったと思いますが)を進んでいくと、このメドウが突然出現します。 ”After a long ramble through the dense encumbered woods I emerged upon a smooth meadow full of sunshine like a lake of light, about a mile and a half long, a quarter to half a mile wide, and bounded by tall arrowy pines. … All the glacier meadows are beautiful, but few are so perfect as this one. ” Aug 11 1869
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写真2:Tuolumne Meadows北側、Young Lakes トレイル上から望むBanner Peak、Mt. Ritter、Mt. Lyell。
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写真3:同じところから望むCathedral山群。
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写真4:Young Lakes付近から望むMt. Conness(左側)。Muirは”from lake to lake”と書いています。これらはYoung Lakesと思われます。 ”From meadow to meadow, every one beautiful beyond telling, and from lake to lake through groves and belts of arrowy trees, I held my way northward toward Mt. Conness, finding telling beauty everywhere, while the encompassing mountains were calling “Come.” Hope I may climb them all. ” Aug 11 1869
Aug. 21 1869 – Sep. 22 1869
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「My First Summer in the Sierra」では8月15日から20日の間の記録が抜けています。21日のエントリーには、この間Delaneyの薦めに従い、Mono Passを越えて、Mono Lake一帯への散策を行い、たった今帰ってきたと書いています。本人はノートブックを持って出かけた(”Early in the morning I tied my notebook and some bread to my belt,…”)と書いていますので、効果をあげるために、あえてこのようにしたのか、それとも本当にノートを散逸してしまったのか興味深いところです。道中Muirは、Mono Passでかなりのぼろをまとったインディアンに遭い、かなり気落ちがしたこと、しかしそれをも忘れさせるような、Bloody Canyonに昇る満月(正確には21日の夜が満月でした)を見たこと、Mono湖畔でのインディアン集落や、火山のことなどを書き綴っています。23日から30日の間は、DelaneyがHetch Hetchy渓谷そばのSmith Ranchに出かけている間、犬のCarloと共に羊の面倒をみてすごしました。9月1日にはMt. Danaへ登り、その四方に広がる景色を堪能します。そして山が降りるときが近づいていることを、少し感傷的に書いてます。そして9月7−8日にはクライマックスとなるCathedral Peak、そしてそこからMt. Lyell方面へと続くTuolumne-Merced分水嶺への登山を行いました。9月9日、いよいよキャンプ地をたたみ、下山の旅が始まります。往路をたどり、まだ暑いLa Grangeに戻ってきたのは9月22日です。「My First Summer in the Sierra」は、以下のハイシエラへの最大限の賛辞をもって締めくくられています。
”Here ends my forever memorable first High Sierra excursion. I have crossed the Range of Light, surely the brightest and best of all the Lord has built; and rejoicing in its glory, I gladly, gratefully, hopefully pray I may see it again. ”
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写真1: Mt. Danaから見るMono Lake方面(東)。 ”The views from the summit reach far and wide, eastward over the Mono Lake and Desert; mountains beyond mountains looking strangely barren and gray and bare like heaps of ashes dumped from the sky. The lake, eight or ten miles in diameter, shines like a burnished disk of silver, no trees about its gray, ashy, cindery shores. ” Sep. 1 1869
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写真2: Mt. Danaから見るTuolumne Meadows方面(西)。 ”Looking westward, the glorious forests are seen sweeping over countless ridges and hills, girdling domes and subordinate mountains, fringing in long curving lines the dividing ridges, and filling every hollow where the glaciers have spread soil-beds however rocky or smooth.” Sep. 1 1869 
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写真3:南から見る Cathedral Peak。 ”How often I have gazed at it from the tops of hills and ridges, and through openings in the forests on my many short excursions, devoutly wondering, admiring, longing! This I may say is the first time I have been at church in California, led here at last, every door graciously opened for the poor lonely worshiper. ” Sep. 7 1869
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写真4: Mt. Lyellへと続く尾根、Tuolumne(裏側)とMerced水系(右側)を分けています。 Cathedral Peakを登ったあとに東(Rafferty Peak方面)に進み、そこから分水嶺沿いに南下して行き、途中でLyell Canyonに下ったものと思われます。 ”Day of climbing, scrambling, sliding on the peaks around the highest sources of the Tuolumne and Merced. Climbed three of the most commanding of the mountains, whose names I don’t know; crossed streams and huge beds of ice and snow more than I could keep count of. Neither could I keep count of the lakes scattered on tablelands and in the cirques of the peaks, and in chains in the canons, linked together by the streams, ?a tremendously wild gray wilderness of hacked, shattered crags, ridges, and peaks, a few clouds drifting over and through the midst of them as if looking for work.” Sep. 8 1869
修正:
2005年2月24日:第二キャンプの位置を、Carrへの手紙(1869年7月13日)の記述を参考に修正しました。
2005年10月13日:7月15日のキャンプ地を修正。
2005年10月15日:8月15日に登った山はTenaya Peakではなく、Polly Dome
2006年1月21日:MFSのスレッドを編入。


[2.5] 冬のヨセミテ渓谷へ:1869年晩秋
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ハイシエラから帰ってきたMuirは、10月3日にLa GrangeからMrs. Carr宛に手紙を送り、冬のヨセミテで過ごしたいという思いを書いています:”I would like to spend a winter there to see the storms.”
更に続けて、ハイシエラのすばらしさやMono Pass(Bloody Canyon Pass)を越えてMono Lakeに行ってみるべきだと書いています:”how unspeakable the glories of these higher mountains. You have not yet caught a glimpse of the Sierra Nevadas. You must go to Mono by the Bloody Canyon pass.”
手紙の最後には、9月2日に書いた自分の日記をそのまま書き写しています。この手紙はかなり興味深いものです。40年後に書かれた”My First Summer in the Sierra”の同日の記述と比べてみると、彼の文章がどう洗練されてきたかが伺えます。ちなみに日記の出だしは”Sky red evening and morning, not usual crimson glow but separate clouds colored and anchored in dense massive mountain forms”ですが、本では”A grand, red, rosy, crimson day, – a perfect glory of a day.”と、流れるような表現に書きかえられています。また、面白いことに日記では、Castle PeakとTiger Peakという名の山が登場していますが、本ではMt. Dana、Mt. Gibbsに入れ替わっています[1]。
Muirはヨセミテに旅立つ前日(11月15日)にも手紙を出し、ヨセミテ行きへの熱い思いを書いています:”…but I must return to the mountains, to Yosemite.”
次の日、MuirはHarry RandallとともにLa Grange(French Bar)を後にしました[2]。二人はCoulterville(写真)の町で道中の安全のためにショットガンや飛び道具を買い求めます。一週間後には渓谷に到着し、休んだり、スケッチをしたり、ハイキングなどを楽しんだあとは、J. H. Hutchingsの処で、彼の娘たちの面倒や木工場建てまでもするという雑役の仕事をすることになりました:”to feed sows and turkeys, build hentoots, laying-boxes, etc. Also to take charge of the ladies and to build a sawmill”
雪と氷の世界を期待してやってきたMuirでしたが、しばらくは好天が続いていたようです。しかし12月16日の夕闇が迫る頃には、雨・霙が降り始め、やがて待望の雪が降り始めます:”Just as the Dark of evening fell, the clouds gave rain and sleet which soon changed snow, coming in large matted flakes.”
こうしてMuir最初の冬のヨセミテ生活が始まりました。
資料:
*1 John Muir,”Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*2 John Muir,”My First Summer in the Sierra”(1911)
*3 Linnie Marsh Wolfe,”John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir” (1938) ISBN 0-299-07880-9
*4 Josiah D. Whitney,”The Yosemite Book”(1868)
[1]Hoffmann、Dana、Conness、Lyellといった山々は1863年Whitney隊(California Geological Survey)によって命名された。これらは1868年(正確には1869年初頭、250部限定)出版のThe Yosemite Bookに詳しく書かれている。初版本はかなり高価だったようなので、この年Muirがそれをすでに読んでいたとは考えにくい。よってMuirが山の名前を知らなかったのは不思議ではない。その後1870年に2版が800刷、1871年には1ドルのポケット廉価版が出た。
[2] 11月16日から年末にいたる記録はWolfeの本(*3), pp. 36-40に詳しい。


[2.6] Whitney説への疑問 : 1870年4月13日
Wolfeの”John of the Mountains”には、1870年1月1日から7月上旬までの日記が16ページに渡って収められています。1月1日のエルキャピタンや初夏のNevada Fall、Sentinel Domeへのハイキング以外は、殆どが天気や動植物について書かれています。短いながらも冬の嵐、満月の霧、怒涛の滝、溢れかえるメルセド川、大岩壁にまとわり付く雲などの様子が克明に表現されています[1]。渓谷で暮らし始めて5ヶ月ほど経った4月13日、MuirはMrs. Carrへ手紙を書き、ヨセミテ渓谷が地盤沈下によって形成されたというWhitney説への疑問を示しています:
Whitney says that the bottom has fallen out of the rocks here — which I most devoutly disbelieve.
当時California Geological Survey(カリフォルニア地質調査局)のWhitneyは1863-1864、1866、そして、1867年にヨセミテで行われた調査結果に基づき、ヨセミテ旅行の案内本”The Yosemite Book”[2]を1869年に出版し、その中で渓谷の形成起源について地盤沈下説を提唱していました:
“In other and more simple language, the bottom of the Valley sank down to an unknown depth, owing to its support being withdrawn from underneath, during some of those convulsive movements…”
 更に ”A more absurd theory was never advanced, than that by which it was sought to ascribe to glaciers the sawing out of these vertical walls and the rounding of the domes.”
と、既にあった氷河の侵食による渓谷の形成説[3]を激しく非難していました(註:Muirの説への批判ではない)。何時、どのようにしてMuirが自分なりの氷河[4]による形成説を考え付いたかを示す記録は残されてはいませんが、この年の夏までには形づくられていたというのが一致した見解のようです[5]。3ヶ月後の7月29日にMrs. Carrに宛てた手紙からは、すでに氷河の痕跡を追い始めていたことが伺えます:
“Tell him [Dr. Carrのこと] that I have been tracing glaciers in all the principal canyons towards the summits.”
 さて、この手紙が出された日には、ヨセミテに向かうLeConte教授と学生たちは、既にマリポサのBig Tree周辺に達していました。10日後にはLeConteとMuirは氷河による形成説について語りあうことになります。
資料:
*1 Linnie Marsh Wolfe,”John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir”(1938年) ISBN: 0-299-07880-9
*2 Josiah D. Whitney, “The Yosemite Book”(1869年) CD版
*3 Bill Guyton, “Glaciers of California”,University of California Press(1998年)
*4 Jeffrey P. Schaffer, “The Geomorphic Evolution of the Yosemite Valley and Sierra Nevada Landscapes”Wilderness Press(1997年) ISBN 0-899-97219-5
*5 William H. Brewer, “Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer”(1930年)ISBN 0-520-23865-6
*6 Clarence King, “Mountaineering in the Sierra Nevada”(1872年)
*7 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir”(1945年) ISBN:0-299-18634-2
*8 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade`編集
*9 Joseph LeConte,”A Journal of Ramblings Through the High Sierras of California”(1875年)
*10 Colbyの序文(1950年)
[1] Wolfe(*1): Muirのヨセミテ渓谷での季節観:Muirは鳥や蝶の動き、岩壁を落ちてゆく雪、大きくなっていく滝の音に気づいた3月25日に春を感じ取った。4月10日には春の到来を確信、4月末から5月上旬にかけては春の最盛期を迎えたと書いている。そして5月末には早くも春から夏への季節の移り変わりを感じ取っている。
[2]Jim Snyder(*2):”The Yosemite Book”は1869年初頭に250部出版され、同年後半に普及版”The Yosemite Guide-Book”が出版された:
“The Yosemite Book was issued early in 1869(although its official publication date was 1868)in an edition of 250 copies, which sold for over $10 each. The first version of The Yosemite Guide-Book was published later that year.”
翌1870年には”The Yosemite Guide-Book”が800部刷られた。更に1871年2−3月には$1のポケット版が出、1872年に増刷されている。Guyton(*3):Whitneyは1865年に”Geology of California”で既に自説を発表していた。
[3] Schaffer(*4):Whitneyの”The Yosemite Book”での批判はUniversity of ArizonaのWilliam P. Blakeの説に対するものとしている。 Blakeはヨセミテ渓谷は主に水により侵食、そして二次的に氷河によって形成されたという説を1867年に発表していた(pp. 36)。 Bade(*8)は9章ですこし異なるコメントをしている:
“It is but just to point out that Muir was not following in any one’s footsteps in propounding his theory [William Phipps Blake has been mistakenly credited with being the originator of the theory. …, the origin of the Valley is ascribed to sub-glacial erosion by water pouring; from the glaciers above.…], for the simple reason that there was no one to be followed,…” 
Badeの本はUSGSのMatthesがヨセミテ論争を(とりあえず)解決(1930年)する前に書かれていることに注意。Whitney、Muir、Matthesの説は*3を参照のこと。ところでScheffer(*4)はMatthesの説に異論を唱えている。簡単には氷河が入る以前に現在の渓谷の形がほぼ出来上がっていたとしている。Schafferはヨセミテのハイキングガイドブックで有名。
[4] ヨセミテに氷河があったことに関しては、Whitney隊により既に指摘されていた。Brewer(*5)の日記(1863年7月4日)には、過去Tuolumneに厚さが1,000フィート以上もある氷河が存在し、丸いドームなどを作り上げたと書いている。また、現在では氷河はないとしている:
“July 4 we celebrated by riding down the river(註:Tuolumne川をSoda Springs付近から下った) a few miles and climbing a smooth granite dome for bearings,for we hope to work up a map of this region, …A great glacier once formed far back in the mountains(註:Mt. Lyell方面) and passed down the valley(註:Lyell渓谷、Tuolumne Meadows), polishing and grooving the rocks for more than a thousand feet up on each side, rounding the granite hills into domes. It must have been as grand in its day as any that are now in Switzerland. But the climate has changed, and it has entirely passed away. There is now no glacier in this state?the climatic conditions do not exist under which any could be formed.” 
同じくWhitney隊のメンバーKingは1872年に出版した”Mountaineering in the Sierra Nevada”(*6)の”Around Yosemite Walls 1864”の章で、当時Mt. HoffmannやMt. Watkins付近での氷河の痕跡を見かけたと述べている。またTuolumne一帯に大氷河があり、それらがヨセミテ渓谷へ流れ込み、岩に傷跡を残したとも書いている(註:しかし、それが渓谷を形成したとは書いていない):
“I gathered ample evidence that abroad sheet of glacier, partly derived from Mount Hoffmann and in part from the Mount Watkins ridge and Cathedral Peak, but mainly from the great Tuolumne glacier, gathererd and flowed into the Yosemite Valley. Where it moved over the cliffs there are well-preserved scarrings. The facts which attest this are open to observation, and seem to me important in making up a statement of past conditions.”
[5] Wolfe(*7)は、MuirがWisconsinでの学生時代にAgassizの氷河に関する研究書をCarr教授のもとで読んでいたこと、また、WhitneyはAgassizの説には同調していなかった事をを指摘している(pp. 75-77)。またpp. 130-133では、Muirが訪問者の一人Colby判事とSentinel Domeに登り(Muirの日記によると1870年6月27日)、ヨセミテ渓谷が氷河で埋まっていた話をした事や、Therese Yelvertonの”Zanita A tale of the Yosemite”からの一節を抜き出し、Muirがこんな感じの話をしただろうと書いている(やや推察が混じっているので注意)。Bade(*8)も9章で、”Zanita”とLeConteの本(*9)を取り上げてMuirが自説を思い立ったときのことを推察している。
[註] WhitneyがMuirへの怒りをあらわにして蔑称で呼んだことは、かなり有名な話である。Wolfe(*7)はWhitneyが”that Shepherd”、”a mere sheep herder”、”an ignoramus”と呼んだと書いてある。また、シエラクラブのColby(*10)は “sheepherder”や “guide.”と呼んだと書いている。 しかし、どちらもその出所は示されていない。


[2.7] Rambling Through The High Sierra:1870年8月
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1870年7月21日、University of Californiaの地質学教授Joseph LeConteとその学生たちは、ヨセミテ・シエラ方面へ37日間のキャンプ旅行に出かけました[1]。一行はMariposa Big Tree、Glacier Pointに立ち寄ったあと、ヨセミテ渓谷でMuirと初めて出会い、数日後には共にハイシエラへ旅立ちます。渓谷を出発した8月8日は、Coulterville RoadとMono Trailを経由して、Eagle Point(Three Brothersの最高点、現在はEagle Peakと呼ばれる)のそばのメドウでキャンプをしました。この日MuirとLeConteは、ヨセミテ渓谷の形成の原因について話し合いました。LeConteは、岩の節理が形成論を展開する上で忘れてはならない重要点である事を指摘し、また、氷河が渓谷に入る以前の(水の侵食による)形成の影響がかなり大きかったとするものの、おおむねMuirの氷河による形成説に同意します[2]。その後、二人はEagle Peakの頂上に行き、渓谷の雄大な景色を堪能しました。 翌日一行はMono Trailを進み、Tenaya湖畔へと移動します。その夜、満月の光の下、湖畔の岩で過ごしたひと時のことは、二人にとって最も印象深い思い出となりました[3]。8月10日はTuolumne MeadowsのSoda Springsを目指し、Tenaya渓谷(現在のTioga Road沿い)を進み、Merced-Tuolumneの分水嶺を越えていきます。この間のMono Trailはかなりの悪路であった、とLeConteは書いています。11日には判然としないトレイルを探しつつ、Mt. Danaの麓へと進み、木と岩に囲まれたところでキャンプをします。12日はMt. Danaに登り、頂上からのすばらしい景色を堪能しました。キャンプ地に戻るや否や雷雨が襲い、岩陰で雨宿りをする羽目となりましたが、その後は盛大なキャンプファイアーをして思い出深い一夜を過ごしました。次の日は緩やかな沢沿いのトレイルを進み、Mono Passに達し、そこから急斜面の悪路で知られるBloody Canyonを下り、Mono Lakeへと注ぐRush Creek沿いにキャンプ地を定めました。14日、一行はMono Lake南側のコーン状の火山跡の探査の後Lake Tahoe方面へと旅を続けます。単独で渓谷に戻ったMuirは、20日にMrs. Carrに手紙(*2)を書き、この10日間の旅行がいかに素晴らしかったかを伝えています: 
“I have just returned from a ten day’s ramble with Professor LeConte and his students in the beyond, and, oh! we have had a most glorious season of terestrial grace. I do wish I could ramble ten days of equal size in very heaven that I could compare its scenery with that of Bloody Canyon and the Tuolumne Meadows and Lake Tenaya and Mount Dana.”
写真:Eagle Peak(Point)から見おろすヨセミテ渓谷
“Our first camp after leaving the Valley was at Eagle Point overlooking the Valley on the north side, from which a much better general view of the Valley and the high crest of the Sierra beyond is obtained than from inspiration Point.….”John Muir[4]
資料:
*1 Joseph LeConte,”A Journal of Ramblings Through the High Sierras of California”(1875年)
*2 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade`編集
[1]LeConteは、このときの紀行を1875年に出版した(*1)。 7月21日にOaklandを出発、途中Mariposa Big Tree、Glacier Pointに立ち寄ったあと、Inspiration Point経由でヨセミテ渓谷に下り、8月5日にヨセミテ滝のそばでMuirに会った。MuirもLeConteもお互いのことはMrs. Carrを通じて聞いていた。渓谷からはCoulterville Roadを使い、北側のリムに上り、そこからはMonoトレイルを使い、Tenaya Lake、Tuolumne Meadowsを??り、Mono Lakeへぬけるというもの。Mono Lakeで一行はMuirと別れ、Lake Tahoe方面へと向かう。Tahoeからは現在のI-50沿いに西へ進み、Sacramentoへ至る。そこでボートに乗り、San Francisco経由でOaklandへ戻った。キャンプ旅行といっても、馬に服と寝具と調理具だけを積んだだけの、テントもないまさに野宿の旅であった。
Yosemite Association版(1994年版)の序文(Dean Shenk)によると、LeConte(1823-1901)は最初医学の学位をとったものの、進路を変更、Harvard大学でAgassizのもと地質学と動物学を学ぶ。このときAsa Gray、Dana等との日々の接触があった。またEmersonをたまに見かけたとのこと。1869年には、University of California(College Hall in Oakland)で教鞭をとるべくカリフォルニアに移ってきた。pp. 118-119によると初版は120冊ほど刷られている。その後何度も版を重ねている。初版でのみタイトルは”Sierras”と複数形が使われている。
[2] MuirとLeConteの会話の詳細はLeConteの8月8日の日記(*1)に詳しく書かれている。以下はよく引用される有名な一節:
“I (註:LeConte)have talked much with him to-day about the probable manner in which Yosemite was formed. He fully agrees with me that the peculiar cleavage of the rock is a most important point, which must not be left out of account. He farther believes that the valley has been wholly formed by causes still in operation in the Sierra?that the Merced Glacier and the Merced River and its branches, when we take into consideration the peculiar cleavage, and also the rapidity with which the fallen and falling bowlders from the cliffs are disintegrated into dust, has done the whole work. The perpendicularity is the result of cleavage; the want of talus is the result of the rapidity of disintegration, and the recency of the disappearance of the glacier. I differ with him only in attributing far more to pre-glacial action.”
[3] 湖畔での事についてLeConteは次のように書いている:”After supper, I went with Mr. Muir and sat on a high rock, jutting into the lake. It was full moon. I never saw a more delightful scene.…”
一方Muirは1870年8月20日のMrs. Carr宛の手紙(*2)で次のように書いている:
“Our next camp was at Lake Tenaya, one of the countless multitudes of starry gems that make this topmost mountain land to sparkle like a sky. After moonrise LeConte and I walked to the lake shore and climbed upon a big sofa-shaped rock that stood, islet-like, a little way out in the shallow water, and here we found another bounteous throne of earthly grace,….”
MuirはLeConteへの追悼文(1901年)でもTenaya湖畔の思い出を書いている。
[4] 同じく1870年8月20日の手紙より(*2)


[2.8] 2年目のヨセミテ:1870年秋-1871年夏
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LeConteらとのハイシエラ旅行から帰ってから、1871年の夏までのMuirの日記や手紙は、あまり残されていません。11月4日のMrs. Carr宛の手紙はLa Grangeから出されており、10月に渓谷からMerced川を下り、Delaneyの牧場に立ち寄ったこと、そして、1月までそこで働く事になったと報告しています。12月22日の手紙ではHutchingsが妹の為にMuirが住んでいた小屋を借りうける、と書き送ってきたとあります。Muirは冬の間そこで暮らし、色々な計画があったようで”…I am homeless again”とぼやいています。また、Mrs. Yelvertonからの手紙を受け取り、彼女の遭難騒ぎ[2]を知ったことも書いています。1871年の早春(日付は不明)には、友人と連れ立って、まだ雪の深いCrane Flat経由で渓谷へと戻りました[3]。1871年の前半は、”John of the Mountains”の中には、日付の入った日記はたった二つしかありません。4月3日の真夜中、にヨセミテ滝(The Upper Yosemite Falls)の下で月の光でできた虹(Lunar bows)を見ながら夜をすごした事[4]と5月8日の季節外れの雪嵐のことを書き留めています。5月上旬にはEmersonがヨセミテ渓谷を訪れ、Hutchingsの製材小屋の壁に張り出して作られたMuirの部屋を訪ねてきました[5]。7月12日のCatherine Merrillへの手紙では、これまでに発見したYosemite Creekで見つけた氷河の痕跡について書き送り、次の日から一月あまりMono Lake方面の探査に出かけました。8月13日のCarr宛の手紙では、Hutchingsとの雇用関係はなくなったこと[6]、そして”I cannot escape from the powers of the mountain”と書き、Carrからのベイエリアへの招待を断り、TuolumneからHetch-Hetchy渓谷への遡行を含むDana、Lyell、Hoffmann、Cathedral山群での氷河の痕跡を調査する計画に対する抱負を綴っています。9月に入ってすぐには、MITの学長John Daniel Runkleと共に渓谷周辺を連れ歩き、氷河による形成説を説きました。Muirの説に納得したRunkleは、論文を書くように勧めています。明らかにこの頃には、Muirは自説にかなりの自信を持っていたことが伺えます。この後すぐMuirは、Tuolumne渓谷への下降を含むYosemite Creek Basinでの2週間の探査を開始します。
写真:
Yosemite Creek Basin(中央やや右側はMt. Hoffmann)
資料:
*1 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir”(1945年) ISBN:0-299-18634-2
*2 Linnie Marsh Wolfe,”John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir”(1938年) ISBN: 0-299-07880-9
*3 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade`編集
*4 Mary Viola Lawrence,”Summer With a Countess” Overland Monthly (1871年11月) 
[1] Wolfe(*1):Hutchingsの次女(Gertrude Hutchings Mills, 1867年生まれ)がBadeに書いた手紙によるとHutchingsはMuirをかなり嫌っていたと書いている(pp. 143):”my farther had a violent and unreasoning dislike for him-unwarranted and most regrettable”
[2] Mary Viola Lawrence(*4) pp.473-479: 1970年の11月、ヨセミテ渓谷をMariposaへ向けて単独で去ったYelverton女史は、途中雪嵐に会い道に迷って凍死しかかるが、偶然通りかかったLeidigに発見され、一命を取りとめた。
[3] Bade(*3)の8章。日付不明の手紙より。最初の計画は平原(La Grangeと思われる)からTuolumne川をさかのぼりHetch-Hetchy渓谷へと行きそこでキャンプ、そこからHoffmann周辺を越えてヨセミテ渓谷へと行くつもりであった。しかし手の怪我(?)と雪の量から断念、Pilot Ridgeを越えCrane Flat、Tamarack Flat経由で行く事にした(Coultervilleのルートのことと思われる)。手紙は渓谷から出されている。
[4] Wolfe(*2) pp. 61-62:”At night, the lunar bows in the spray make a most impressive picture. …The fall above hung white, ghostlike, and indistinct. Slowly the moon coming round the dome sent her white beams into the wild uproar, and lo, among the tremendous blasts and surges at the foot of the pit, five hundered feet below the ledge on which I stood, there appeared a rainbow set on end, colored like the solar bow only fainter, strangely peaceful and still, in the midst of roaring, surging tempestuius power. Also a still fainte secondary bow” 日記とともにMrs. Carr宛の手紙も書いており、4月3日付けの手紙で送っている。
[5] Bade(*3)の8章:Emersonに関してのMuirの日記、手紙は残されていない。Badeは25年後、MuirがHarvard大で名誉学位を授与されたときのスピーチ、及び1901年に出版した”Our National Park”の”The Forests of the Yosemite Park”の章(Atlantic Monthlyに1900年4月に投稿された記事が元になっている)、Emersonが1872年2月5日にMuir宛てた手紙等を掲載している。MuirがEmersonに収集物を見せた事や、一緒にMariposaへと行った事等が書かれている。この章にはMuirの部屋(“a hang-bird’s hang-nest”)のスケッチもある。
[6] Carr宛の手紙(1970年8月13日):もはや”Mr.”との敬称もつけることなくHutchingとの関係が終わったことを書いている:”I am done with Hutchings”。また9月8日の手紙では”I have settled with Hutchings and have no dealings with him now.”と書いている。


[2.9] Tuolumne大渓谷の探検:1871年9月
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MITのRunkleに自身の氷河説を説いた後、すぐにMuirはYosemite Creek Basin周辺の探査を開始しました。1週間ほどした9月中旬のある日[1]、Basinの北東部(Ten Lakes Pass付近)に達しそこからTen Lakes、Tuolumne渓谷やヨセミテ北部の山々を望みます。遥か大昔氷河が埋め尽くしていた頃に想像をめぐらした後、Muirは渓谷への下降を決意しました: “By the time the glaciers were melted from my mind the sun was nearing the horizon. Looking once more at the Tuolumne, glistening far beneath, I was seized with an invincible determination to descend the canyon-wall to the bottom.”
このときの記録は”Explorations in the Great Tuolumne Canyon”(*1)と題して1873年8月にOverland Monthly誌に発表されました。探検の記事ながら、出だしにはダイレクトなWhitney説への反論[2]も書かれています。そして自分は1869年夏にTuolumne渓谷を望んでいた事(“My First Summer in the Sierra”の旅行の時)、WhitneyがYosemite Guide-Bookに書いたTuolumne渓谷に関する部分を抜き出し、如何に渓谷の探査が困難であるかと書いていたかを挙げています。投稿をした時点でのMuir自身の経験を挙げ(3度ほど渓谷への下降を行ったことやHetch-HetchyからTuolumne Meadowsへの完全遡行もしたこと)、遡行に特に難しいところは無かったとかなり挑戦的な記述があります[3]。
この時の正確な下降地点は記されていませんが、Ten Lake PassそばのDouble Rock付近と思われます[4]。そこから4,500フィートほどの、地図を見ただけでは下れそうにないような斜面を下っていきました。後半はかなり苦労したようですが、どうにか谷底(幅200メートルくらいのところ。現在のMuirゴルジの下2マイル付近と思われる)へ降り立つ事ができました。そこから平らな谷底を下流へ数マイルほど進み、現在のPate Valleyの先[5]まで達しました。そこでUターンし、崖を上り返して日の入り過ぎにかなり疲れきってTen Lakes Pass付近のキャンプ地へと戻りました。
写真:
Ten Lakes付近から望むTuolumne渓谷及びMeadows方面。奥の山はConness(左)とDana(右)
資料:
*1 “Exploration in the Great Tuolumne Canon,”
Overland monthly / Volume 11, Issue 2, pp.139-147, Aug. 1873
[1] 1871年9月24日のClinton L. Merriamへ宛てた手紙には”I left the Valley two weeks ago to explore the main trunk glacier of Yosemite Creek Basin…”と2週間にわたる調査旅行について触れている。また*1 の141ページでは”In September 1871, I began a careful exploration of all the mountain basins whose waters pass through the Yosemite Valley…Early one afternoon, when my mountain freedom was about a week old…”と書かれている。
[2] Whitney説への反論(資料*1. pp. 139):”The State Geologist, in advocating his subsidence theory of the formation of Yosemite Valley, tells us that ”the upper portion of the Half Dome is sublimely above any point that could possibly have been reached by denuding agencies;” but at the time of which we are speaking it was sublimely beneath the most powerful of all denuding agents, with every other dome of this dome-paved region. This we will endeavor to show when we come to treat particularly of mountain structure and mountain sculpture.”WhitneyはHalf Domeの上部が氷河の上にあったと述べているが。MuirはHalf Domeのみならず他のドームも氷河の下にあったと唱えている。
[3] Muirの挑戦的な文(資料*1, pp. 140): 
Sometime in August, in the year 1869, in following the river threr or four miles below the Soda Springs, I obtained a partial view of the Great Tuolumne Canyon before I had heard of its existence. The following winter I read what the State Geologist wrote concerning it:
“The river enters a canyon which is about twenty miles long, and probably inaccessible through its entire length”…”It certainly cann not be entered from its head. Mr. King followed this canyon down as far as he could, to where the river precipitated itself down in a grand fall over a mass of rock so rounded on the edge that it was impossible for him to approach near enough to look over. Where the canyon opens out again twenty miles below, so as to be accessible, a remarkable counterpart to Yosemite is found, called the Hetch-Hetchy Valley.”,…”Between this and Soda Springs there is a descend in the river of 4,500 feet, and what grand water-falls and stupendous scenery there may be here, it is not easy to say.”….”Adventurous climbers….should try to penetrate into this unknown gorge, which perhaps may admit of being entered through some of the side canyons coming from the north.”
Since that time, I have entered the Great Canyon from the north by three different side-canyons, and have passed through it from end to end, entering at the Hetch-Hetchy Valley and coming out at the Big Meadows [註:Tuolumne Meadows] below the Soda Springs, without encountering any extraodinary difficulties.
1869年にMuirはSoda Springsから4マイルほど下ったところ(註:多分Glen Aulin付近)でTuolumne渓谷の一部を見たと書いている。次にWhitney(State Geologist)のYosemite Guide-Bookからの文をいくつも抜き出している:渓谷は20マイル近い長さがあり、アクセスが(多分)不可能である事、Clarence Kingが渓谷を下っていったが途中で覗き込む事もできないような大きな滝(註:後にMuirゴルジと呼ばれる部分)にぶつかり遡行を断念した事、そこから先20マイルは、また谷が広がりHetch-Hetchyにつながる事。滝とSoda Springsの高度差は4,500ft.程ある事。冒険好きの登山家ならこのゴルジに挑戦すべきである事、アクセスはTuolumneの北側から可能な事などが述べてある。
Muirはさらに続け、自身は三箇所から渓谷に下降した事、特に困難に出合うことなくHetch-HetchyからTuolumne Meadowsまで全てを遡行できた事を書いている。
[4]文面から、Ten Lakes Passのすぐ北に派生するColby Mountainのある尾根の先端から、Tuolumne渓谷及びヨセミテ北部を眺めていたと思われる。そこから戻り、西に1マイルほど進み別??下降できそうな支渓を見つけた:”Unable to discover any way that I cared to try, from where I stood, I ran back along the ridge by which I approached the valley, then westward about a mile.…I judged, from the character of the opposite wall, might possibly be practicable all the way”その支渓を400-500フィートほど下降した辺りには小さな湖(a small mirror-lake set)が在ると書いている。以上からDouble Rockのすぐ北を下ったと思われる
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写真:Muirが下降したと思われるDouble Rockのすぐ北側の支渓。左下側にはPiute渓谷とTuolumne渓谷の出合いが見える。また中央には小さな湖が写っている。
[5]下降地点から1マイルほど下りTuolumne渓谷とPiute渓谷の出合いに着いた:”About a mile farther down the canyon, I came to the mouth of a tributary that enters the trunk canyon on the north” そこから更に数マイル進んだ地点(Pate Valleyの西端)で引き返している。多分現在のWhite Wolfからのトレイルが谷底に下りる付近と思われる。
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写真:Pate Valleyを西から見下ろす。奥はTuolumneとPiute渓谷の出合い。


[2.10] A Living Glacier! :1871年10月
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Tuolumne渓谷への下降を含むYosemite Creek Basinの探査を終えて渓谷に戻ってきたMuirは、
9月24日にSmithonian Institute(スミソニアン学術協会)のClinton L. Merrianに手紙を出し、その結果を報告しています。それには、Tenaya渓谷、Nevada(Merced)渓谷、South(Illilouette)渓谷から氷河が入り込んできた事は、カリフォルニア地質調査局(Whitney隊)の報告で知られているが、小さな氷河が他に存在していた事を指摘した記録は見たことがないと前置きをし、今回の調査でYosemite CreekやRibbon Creekにも氷河があった事がわかったと書いています。このときの手紙(*1)などを基にして1871年12月に、”Yosemite Glaciers”というタイトルでMuir最初の雑誌記事(*2)が発表されました[1]。10月にはヨセミテ渓谷の南側にあるメルセド山群での探査を開始します。とある日、鉱物に富んだ泥の流れる沢に達します。沢が流れ出している、高さ20メートルもあるモレイン(氷河によって押し出された岩の堆積地帯)を越えてMuirが見たものは、長さ400−500メートル、幅0.5マイルもの大雪渓でした。しかしよく見るとそれには土ぼこりの跡が縞状についており。Muirはそれに気づくと思わず”A living glacier!”と叫びます。氷河[2]を発見した瞬間でした。更に注意深く調べると、クレバスなども見つかり、厚さは数百フィートほどあることがわかりました。この発見の記録は、翌年(1872年)夏から秋にかけて行った、Mt. Lyell付近の氷河の調査と共に、Overland Monthly誌に”Living Glaciers of California”(*3)として発表されることになります[3]。この月に書かれているMuirの日記(*4, pp. 79-86)を読んでみると、意外にも氷河発見時のことは全く書かれていません(もしくは遺失?)。Mount Clarkの頂上から見た景色、Red PeakとBlack Peak(Merced Peak)の間の池、及びLake Nevada(Washburn Lake)でのキャンプ地で思ったことなどが綴られているだけです。
偶然のなせる業か、Whitney隊のメンバーであったClarence Kingは、この年の5月から12月にかけて、Atlantic Monthly誌にシエラネバダの概要や、1864年のMt. Tyndallなどの登山記録を投稿し始めました[4]。これをもとに、1872年には”Mountaineering in the Sierra Nevada”が出版されます。その加筆された7章(Around Yosemite Walls. 1864)では、Mt. Hoffmannの帰りに下ったYosemite Creekで、氷河の痕跡を見かけていたことが書かれています: “At intervals the course of the stream was carried over slopes of glacier-worn granite, ending almost uniformly in shallow rock basins,…”
写真:ヨセミテ渓谷の北側から見たメルセド山群(奥)。左からMt. Clark、Gray Peak、Red Peak。手前はHalf DomeとNorth Dome。
資料:
*1 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir,”Yosemite Glaciers,” New York Tribune, Dec. 5, 1871
*3 John Muir, “Living Glaciers of California,” Overland monthly / Volume 9, Issue 6, pp.547-549, Dec. 1872
*4 John Muir,”John of the Mountains” (1938年) Linnie Marsh Wolfe編集
*5 Jeffrey P. Schaffer, “The Geomorphic Evolution of the Yosemite Valley and Sierra Nevada Landscapes” Wilderness Press(1997年) ISBN 0-899-97219-5
[1]この投稿は氷河跡の探索を交え、Muir得意の植物の観察や、山火事との遭遇、鹿の生息なども書かれているため、単なるエッセイなのか、氷河跡の発見の主張なのかはなはだわかりづらくしている。後者を採るとするならば、主要な点は(1)Yosemite Creekにも氷河があって、それがヨセミテ渓谷へ流れていた4番目のものであると発表している事:”The Glacier which filled the basin of the Yosemite Creek was the fourth ice-stream that flowed to Yosemite Valley”(2)更にRibbon Streamにも小さな氷河があって、渓谷へ流れ込んでいたに違いないと述べていること:”It must have been one of the smallest ice streams that entered the valley, …”
[2] Schaffer(*5)によると(pp. 40)、Muirの発見した氷河は、Illilouett渓谷の源流に当たるMerced Peakの北西側にあったと書いている(出展不明)。しかしそれは万年の雪渓となり、極度に降水量が少なかった年の後、1977年10月までには完全に消え去ってしまったとのこと:”one below the northwest face of Merced Peak, in the upper Illilouette Creek drainage. (This later diminished to a permanent snowfield and by October 1977, after a severely dry year, totally disappeared. Since then it has existed only as a seasonal snowfield)”
既に2回はMt. Danaに登っていたMuirだが、その頂上から真下に見えるDanaの氷河に全く気づかなかったのは興味深い。
[3] 雑誌に掲載(*3)される前の1872年10月8日に、Mrs. Carrへ手紙を出し、原稿を書き送っている。記事の中では、氷河を発見した後にMt. Lyell-Mt. McClureの雪渓へと向かい、そこも同様に氷河であるとの確信を得たと書いているが、それが何時かは不明:”Then I went to the ‘snow-banks’of Mts. Lyell and McClure, and, on examination, was convinced that they also were true glaciers, and that a dozen other snow-banks seen from the summit of Mt. Lyell, crouching in shadowm were glaciers, living as any in the world…”
[4]Altantic Monthlyの1871年5〜8、10〜12月号に掲載。これらは”Mountaineering in the Sierra Nevada”の”The Range”、”Through the Forest. 1864″、”The Ascent of Mount Tyndall. 1864″、”The Decent of Mount Tyndall. 1864″、”The Newtys of Pike. 1864″、”Kaweah’s Run 1864″、”Merced Ramblings. 1866″、”Shasta 1870″の章に使われる。
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写真:氷河によって磨かれた(?)Yosemite Creek(上流付近)から見上げるMt. Hoffmannの北壁。


[2.11] Hetch-Hetchy渓谷探査:1871年11月
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1871年シーズン最後の探査は、一転してヨセミテ渓谷北側のHetch-Hetchy渓谷[1]へ向かうもので、何時雪が降ってもおかしくない11月初旬に行われました。このときの記録は、後にBoston Weekly(*1)とOverland Monthly(*2)に投稿されます。前者の内容は、主に行動にまつわる記録、後者はWhitneyへの痛烈な皮肉を含んだHetch-Hetchy渓谷の紹介となっています。
まずMuirはヨセミテ渓谷からIndian渓谷を登り、Yosemite Creekを越え、El Capitanの北3マイル付近に達し、最初の夜をすごします。2日目は、全く道のない山の中を、沢や尾根(Cascade Creek及びMiddle Fork of Tuolumneの上流地帯)を次々と越え、北上していきます。ついに3日目は、いくつかの谷を越えた後、Tuolumne渓谷の懸崖を足元に見下ろします(現在のSmith Peakの東側付近と思われます)。崖の中に下降できそうな部分を見つけたMuirはそこを下りはじめますが、やがてそれが熊の獣道であることに気づきます。道を外れたり、登り返したりしながら、ようやくTuolumneの谷底に達しました[2]。4日目は、いよいよ谷底を下流に向かって進み、渓谷の観察をしました。Overland誌の記事ではHetch-Hetchy渓谷の詳細がヨセミテ渓谷との類似点も混ぜながら詳しく書かれています。既に渓谷は、夏の間の牧羊地としてSmith兄弟[3]の所有地となっており、数軒の牧羊者の小屋やインデアンの集落があったようです。Hetch-Hetchy渓谷へは、Harden’s Flatからのトレイルがあり、Muirはそこを数マイル辿ってから外れ、Tamarack Flat方面へのTuolumneの南俣と中俣を越えていくルートを採りました(現在のCotton Wood Meadow、Bald Mountain、Aspen Valley、Tamarack Flatを結ぶトレイルにほぼ沿ったルートと思われます)。その日の夜はTuolumneの主流と中俣の分水嶺(Cotton Wood Meadowのすぐ南)でキャンプをしますが、夜半から天候が崩れ始まりました。5日目は雪の降る中をTamarack Flatへと抜けそこでキャンプ、6日目には無事ヨセミテ渓谷へ戻ってきました。
写真:Hetch-Hetchy渓谷方面を上流から見る。Muirは左側奥に小さく見えているSmith Peak付近の斜面を下った。
資料:
*1 “The Hetch Hetchy Valley,”Boston Weekly Transcript, Mar. 25, 1873
*2 “Hetch-Hetchy Valley, The Lower Tuolumne Yosemite,”Overland monthly / Volume 11, Issue 1, pp.42-50, Jul. 1873
*3 Shirley Sargent,”John Muir in Yosemie”,Flying Spur Press (1971年)
*4 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir”(1945年) ISBN:0-299-18634-2
[1]これがMuir最初のHetch-Hetchy渓谷訪問。彼の記述によれば、Hetch-Hetch渓谷は、ヨセミテ渓谷がマリポサ大隊によって発見される1年前の1850年に、Joe Screechによって発見された。Sargent(資料*3)によると、Hetch-Hetchyの名前の由来はインディアンの言葉”Hatchatchie”に由来するとの事。これはHetch-Hetchy渓谷に生える穀物系の植物を指す:”The name Hetch Hetchy evolved from the Indian word ”Hatchatchie” which was a certain kind of grass they used as grain, growing in the Valley”
[2] Muirの定義によると、Hetch-Hetchy渓谷は長さ3マイル、幅1/8から1/2マイルとしている、その西端で渓谷は狭隘な谷に入ること(現在のダムの付近)、東端は沢(註:Rancheria Creek)が北東から入り込んでくる、と書いている。4日目の朝に1時間ほど歩いて(2マイルくらい)渓谷に入ったと書いているので、Muirの下降地点の見当が付けられる。
[3]SmithとDelaneyは知り合いである。My First Summer in the Sierra、8月23日を参照。
[註1] Wolfe(資料*4)はこの11月のHetch-Hetchyへの下降と、9月に行われたTen Lakes Pass付近からのTuolumne渓谷への下降を混同している(pp. 156)ので注意。
[註2] Overland Monthlyの記事(資料*2)ではCastle Peakが登場するが、記事を読むとTower Peakを指していることがわかる。WhitneyのYosemite Bookでは、最初からTower PeakをCastle Peakと呼んでいる。前述のように1869年、1870年の時点ではMuirはMt. ConnessをCastle Peakと称していた。
[註3] Muirは1912年に”Yosemite”出版し、その最終章はHetch-Hetchy Valleyである。かなり政治・自然保護運動関連の記述があり、40年前に書かれたこれらの雑誌投稿記事とを読み比べると興味深い。
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写真:ダム付近から見るHetch-Hetchy渓谷、左はHetch-Hetchy Dome、右はKolana Rock、奥はLe Conte Point(左側からRancheria Creekが合流する)。勿論当時、湖はなかった。


[2.12] 3年目のヨセミテ生活:1871年11月〜1872年7月
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Hetch-Hetchyから戻ったMuirは11月16日に母親に手紙[1]を書き、冬の間はBlackのホテルの面倒をみる仕事をしながら、集めた氷河に関する資料などをまとめて過ごすつもりである事を伝えています。この冬の間にMuirは3本の記事を執筆、投稿しました。まず1872年1月1日はNew York Tribuneに”Yosemite in Winter”が掲載され、秋から冬へと移っていく渓谷の様子が書かれています。渓谷への訪問者が1870年には1,700人、1871年は2,150人であった事、冬の渓谷を過ごす26人の内訳(製材者、大工、トレイルビルダー、インディアン等)、三つのホテル(Black、Leidig、Hutchings)であった羊飼い間のいざこざなども書いています。注目に値するのは、渓谷で景観の破壊[2]が進んでいる事に触れているくだりです。”improvement”(土地などの改良)という名のもとに、渓谷のメドウには柵が作られ、木が切られ、花が踏みにじられたりして、自然の景観が急速に失われている、と書いています。ですが、意外にも花や木は消えても、ドームや滝はいつまでもそのままだろう、とこの時点では楽観的な書き方になっています:”…But Happily, by far the great portion of Yosemite is unimprovable. Her trees and flowers will melt like snow, but her domes and falls are everlasting.”
1872年4月にはOverland誌に”Yosemite in Flood”を発表しました。1871年12月16日の午後、カセードラルロックの上に真紅の雲が出現してから崩れていく渓谷の天気、突然の気温の上昇により雪が溶け、岩壁のあちこちに突然できた滝の事などが克明に描かれています[3]。
1872年3月26日に渓谷で地震[4]が観測されました。このときの事はヨセミテの滝の記事と共に、5月に”Yosemite in Spring”と題して再びTribuneに発表されました。Muirはこの地震(が与えてくれた勉強のチャンス)にかなり興奮したようで、40年後(1912年)に出版される”The Yosemite”の”Earthquake Storms”の章では、”A noble earthquake!”と叫んだと書いています。知り合いのインディアンとの会話も交え、当日の事をかなり詳しく書いています。滝に関しては、雪融けが始まる4月にPohono(Bridal Veil)、Illilouette、Vernal、Nevada、Yosemiteの5大瀑布の他に、Big and Little Sentinel、Cascade、the Bachelor’s,そしてVirgin’s Tearといった小さな滝が出現する事や、滝の中でも最大のUpper Yosemite Fallsには4月から6月にかけ(稀に7月)、6回ほど夜の虹が見られると書いています:”At this Upper Yosemite Fall, and also at the Middle Yosemite Fall, magnificent lunar bows may be found for a half a dozen nights in the months of April, May, June, and sometimes July.”
7月に書かれたMuirの手紙によると、この頃Mr. & Mrs. Moore(Carrの知り合い、Bay Area在住)がヨセミテを訪れ、Hetch-Hetchy渓谷やClouds Restを探訪したこと、Asa Gray(Harvard大の植物学者)と初めて会ったこと、またインディアナ時代からの知り合いであるMerrill Moores少年(前出Mooreとは別)がやってきて、新しく建てたキャビン[5]に数ヶ月ほど居候する事などがわかります。
写真:Upper Yosemite Falls
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir” (1924) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir, “Yosemite in Winter,” New York Tribune, Jan. 1, 1872
*3 John Muir, “Yosemite in Spring,” New York Tribune, May. 7, 1872
*4 John Muir, “Yosemite Valley in Flood,”
Overland monthly / Volume 8, Issue 4, pp.347-350, Apr. 1872
*5 The Owen’s Valley Earthquake, Part I, Prof. J. D. Whitney, pp.130-140
Overland monthly / Volume 9, Issue 2, Aug. 1872
*6 The Owen’s Valley Earthquake, Part II, Prof. J. D. Whitney, pp.266-278
Overland monthly / Volume 9, Issue 3, Sep. 1872
Overland Monthlyはここで閲覧。
[1] Bade(資料*1)より:BlackのホテルはHutchingsのところから0.5マイルほど離れたところにあり、引越しに忙しいとも書いている。1872年の渓谷の地図には、Leidig、Black、Hutchingsのホテル、及びLamonの家が書き込まれている。(註:この地図はSamuel Kneelandの”The Wonders of the Yosemite Valley, and of California” に掲載されている。Bade(資料*1、9章)によれば、Kneeland(MITの動物学の教授)はMuirの氷河に関する研究の結果を、その功績に触れることなく論文に使おうとして、Muirに断られたいきさつがある(資料*1、9章)。上述Kneelandの本の氷河に関する記述を参考のこと。Dan Anderson氏の前書きによれば、Kneelandは改訂版でMuirの貢献に触れたと書いている。
[2] 渓谷内の自然破壊に関して、MuirとJohnsonは1890年に(ヨセミテ国立公園が成立する年)にCentury誌上で非難した。(Historyカテゴリーの”ヨセミテ国立公園の設立: 1890年”の[15]を参照)
[3] このときの嵐については、”Yosemite in Winter”で簡単に触れられている。また加筆修正されて、”The Yosemite”(1912年)の”An Extraordinary Storm and Flood”の章に使われている。
[4] 1872年3月26日、カリフォルニア州全土で地震(M7.6)が観測された。その震源地はOwens Valley(シエラネバダの東側の谷、395号線沿い)のLone Pine付近でかなりの被害があった(59の家屋の内、52が倒壊、29人が死亡)。当時、カリフォルニア地質調査局のWhitneyは、現地で住民へのインタビューや断層などの調査を行った(資料*5,*6)。
[5] メルセド川ぞいのRoyal Archの正面付近に建てられた。正確な場所は資料*1, 10章の冒頭を参考。
[註] Wolfeの”John of the Mountain”には冬から春にかけて日付の入った日記は掲載されていない。


[2.13] 氷河に測量用の棒を立てる:1872年8月
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写真: 北(Kuna Crest)から望むMt. Lyell(中央)とMt. McClure(中央右側)。ともに氷河が見えている。
Muirは氷河がヨセミテに現存している事を発表するにあたって、その証明となる移動量の測定をすることにしました。このことは、年末に発表された”Living Glaciers of California”の中ではっきりと書き記されています:”But, although I was myself thus fully satisfied concerning the real natures of these ice masses, I found that my friends regarded my deductions and statements with distrust; therefore I determined to collect proofs of the common, measured, arithmetical kind.”
8月21日、Mt. McClureの氷河(当時は長さ、幅ともに0.5マイル)上に、数本の棒を離して一線上に並ぶように立てました。その二日後には、Mt. Hoffmannの北側にある細長い氷河にも2本の棒を立てました[1]。この後ヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは、Illilouette及びPohonoのBasin方面に向かいます[2]。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir” (1924年) William Frederic Bade編集
*2 John Muir, “Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 John Muir, “Living Glaciers of California,”
Overland monthly / Volume 9, Issue 6, pp.547-549, Dec. 1872
[1]Carr宛の1872年10月8日の手紙に、日付と場所が書かれている。同行者としてGalen Clark及びMerrill Mooreが考えられる。Clarkに関しては”The Yosemite”の”Galen Clark”の章を参照。またMooreに関しては”John Muir:To Yosemite and Beyond”のpp. 98-99を参照。ところでWolfeの”John of the Mountains”には、1872年8月21日の日記(pp. 89)がありTuolumne Divide(Tuolumneとの分水嶺の意味?)で書かれている。特に場所を同定できるような記述はない。また8月17日の日記もあり、それはCathedral Meadowsで書かれている。
[2]8月28日にCarrに手紙を書いて、Mt. Lyell、McClure、Hoffmannから3日前に戻ってきたと書いている。そして、棒を立てたことや、これからMerced山群に出かけるとも書いている。


[2.14] Muirゴルジ遡行:1872年9月
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1872年9月[1]、MuirとGalen Clarkは、Whitney隊のClarence Kingの挑戦を退けたTuolumene大渓谷のゴルジ地帯[2]の遡行に挑みました。このときの記録は”The Yosemite”(1912年)の”Galen Clark”の章に書かれています。出発間際になって一人の青年も同行することになりました[3]。三人はまずHetch-Hetchy渓谷へと向かいます。渓谷を出てから2日目の朝にはゴルジを望むところへ着きました(写真)。三人はTuolumneの流れに入り込み、棒を支えにしながらボルダーの詰まった流れを遡行していきます。水量は低かったものの、川の作り出す轟音はWellsをかなりナーバスにしたようで、中間地点でそれ以上進むこと断念し、そこで待つことにします。二人は遡行を続け、日の入り一時間前には上流の大滝まで到達し、暗くなってWellsの待つところへと戻り、焚き火をして夜を過ごしました。翌日はゴルジを高巻きし、食料をデポした地点へと戻り、お茶を沸かし朝食をとることができました。彼はヨセミテ渓谷にもどるや、今度は前年の9月のようにTen Lakes Pass付近から下降、Tuolumne渓谷の上半分の遡行をしたと書いています。これによりMuirはTuolumne渓谷の完全遡行をした最初の人となりました。1895年、R. M. Priceは彼の業績をたたえて、ここをMuirゴルジと命名しました[4]。
写真:Muirゴルジの入り口(下流から望む)
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade編纂
*2 John Muir, “John Muir: To Yosemite and Beyond”Robert Engberg編纂
*3 Francis P. Farquhar,”Muir Gorge in Tuolumne Canyon,”SCB, February, 1932
*4 John Muir, “The Yosemite” (1912年)
[1] 資料*1にはMrs. Carr宛の9月13日の手紙があり、それによると9月上旬(15日間)はIllilouette及びPohonoのBasinを探査していたと書いてある。そして1時間後には出かけると書いている:”…and start again in an hour for the summit glaciers to see some canyons and to examine the stakes I planted in the ice a month ago.” そして資料*2の9月27日母宛の手紙では、”I am just arrived from a long excursion up the great Tuolumne Canyon above Hetch-Hetchy Valley”と書いてあるので、この期間に遡行が行われた。またMuirは”The Yosemite”のなかでも、ゴルジ遡行の後すぐTuolumneの上半分を遡行したと書いている。さらにTuolumneの水量は低かったとも書いている。
[2] ゴルジとは切り立った岩壁に挟まれた峡谷をいう。Muirゴルジは、現在のWhite WolfとTuolumne Meadowsを結ぶTuolumne渓谷内のトレイルのほぼ中間地点に位置する。
[3] 資料*3:同行者は二人、A. WellsとM. Mooresとしている。Wellsが途中まで遡行、Mooresは馬の面倒を見ていた。
[4] 資料*3Priceは何度かのTuolumne渓谷の遡行(Muirゴルジは迂回)の後、1897年ゴルジの通過に成功した。
[註] Muirゴルジ内の写真は、知りうる限り(簡単に手に入る本では)Galen Rowellの写真集”The Yosemite”及びFrancis Farquharの”History of the Sierra Nevada”にのみ見られる。
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写真:Muirゴルジの上半分に聳える岩壁。トレイルは高巻きしていて、ゴルジは覗き込めない。まさに遡行した者だけが知りうる”mysterious Muir gorge”(Farquharの表現)。
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写真:Muirゴルジ付近の地図。点線はトレイル、高巻きの様子がわかる。左側がTuolumneの下流。


[2.15] Tuolumne渓谷3度目の下降、氷河の移動量の測定:1872年9〜10月
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写真:Tuolumne渓谷の上半分(Wildcat Pointより)
Clarkとのゴルジ遡行から戻ってきたMuirは、すぐにMt. Hoffmannに、8月に立てた棒の状態を観測しに向かいました。しかし既に雪がかなり融けており、正確な計測ができませんでした。そこでTen Lake方面に向かい、3度目のTuolumne渓谷への下降をし、その上流部の探査を行います。日記では、Ten Lakesのことに軽く触れた後、記述は渓谷内に突然移り、Cascadesの最初の滝(Waterwheel?)から二番目の滝(Le Conte?)の間の地形、Tuolumne渓谷の岩壁がヨセミテ渓谷を遥かに凌いでいるといった感想や、四番目と五番目の滝(White CascadeとTuolumne Falls?)のことなどが書かれています。
10月4日には再びHoffmannもどり、氷河の幅の狭いところに糸を張り、それに沿って棒をたてました。24時間後、ほんの僅かに移動しているのが観測されました。翌日(6日)にはMt. McClureに移動し、46日間の棒の動きを測定、最大で47インチの移動を確認しました。すぐMuirはMt. Hoffmannに引き返し、糸と棒の関係を測定、13/16インチの移動が観測されました。10月8日にはヨセミテ渓谷へと戻り、J. Carrにこの10日間でTuolume渓谷の上半分の遡行を含め、Mt. Hoffmannに三回、Mt. LyellとMt.McClureに登った報告し、今回の測定結果を含む”Living Glaciers of California”の草稿を送っています。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir” (1924年) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir, “Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 John Muir, “Living Glaciers of California,”
Overland monthly / Volume 9, Issue 6, pp.547-549, Dec. 1872
*4 Holt-Athertonの1872年のジャーナル(タイプ版):Ten Lakes付近からTuolumneに下降し、Cascades付近を通り、Hoffmannに戻ってきたこと、またMcClureに行き測定をしたことが書かれている。一部、「I」ではなく「We」が使われていることに注意。


[2.16] Mt. Ritter初登頂:1872年10月
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写真:Mt. Lyellから見るBanner Peak(左)とMt. Ritter(右)。Muirは間の氷河を登り、鞍部からほぼ稜線(北壁)に沿ってMt. Ritterへと登り、反対側(南東)へと下った。左側奥には、茶色いMammoth Mountain(スキーで有名)が見えている。
“Early one bright morning in the middle of Indian Summer…”で始まるMt. Ritter[1]の登山記は、おそらくMuirのヨセミテに関する著作の中で最もエキサイティングな作品と思われます。この記録は1880年7月にScribner’s Monthly誌で”In the Heart of the California Alps”と題して発表され、後に”The Mountains of California”(1894年)の”A Near View of the High Sierra”の章に加筆修正をして載せられました[2]。
Mt. Lyell付近で氷河の移動量を測定した後、Mt. Hoffmann経由でヨセミテ渓谷へと戻ってきMuirを待っていたのは、J. Carrからの紹介状を持った二人の画家[3,4]でした。彼らはMuirが探検してきた中で、絵を描くのに適したところはないかと尋ねます。話は進み、Muirはガイドとなって、彼らをMt. Lyell付近へ連れて行くことになりました。Lyell渓谷の奥のキャンプ地[5]に着くと、次の日Muirは彼らをそこに残したまま、分水嶺を越えた南側に聳えるMt. Ritterの登頂を目指します。ルートは正確に記されてはいませんが、初日はDonohue Passを越え、Thousand Islands Lake付近に至ります。翌日はその西側を通り、North Glacier Passを越え、Mt. Ritterの北西にあるLake Catherineに達します。そして湖からせりあがる氷河を登り、Mt. RitterとBanner Peak間の鞍部に達し、北壁[6]を登り始めました。途中で行き詰まり落下の危険にさらされましたが、何とか乗り越え?13,157ft.の頂上に達し、すばらしい景色を堪能しました:”How truly glorious the landscape circled around this noble summit!-giant mountains, valleys innumerable, glaciers and meadows, rivers and lakes, with the wide blue sky bent tenderly over them all.”
下りのルートは南東側の雪の斜面を下り、暗くなる頃に、無事山の東裾(Ediza Lake付近?)に着き、第二夜を過ごします。三日目はいくつかの氷河湖を見ながら北上し(現在のJMT付近を通ったとおもわれます)、再びDonohue Passを超え、画家たちの待つキャンプへ夕方に戻りました。一行は翌日荷物をたたみ、二日後にはIndian渓谷を越えヨセミテ渓谷へと戻ります。驚くべきことに、Muirはこの二泊のスピード登山を、テントも寝袋も持たないまま行っていることです。10月の3,000メートル付近の山での野宿はかなり寒かったようです。
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William Keith, Mt. Lyell, 1874 , Oil on Canvas (1872年スケッチ、頂上は見えていません)
このKeithの絵は、そのときのスケッチに基づいて描かれたものです。MuirはCarrの紹介を受けて訪ねてきたKiethらを引き連れ、ヨセミテ渓谷からCathedral Pass、Tuolumne Meadowsを越え、Mt. Lyellの麓(絵)に達します。そこで初めてKeithらは風景のすばらしさに感動します: 
”At length, toward the end of the second day, the Sierra Crown began to come into view, and when we had fairly rounded the projecting headland before mentioned, the whole picture stood revealed in the flush of the alpenglow. Their enthusiasm was excited beyond bounds, and the more impulsive of the two, a young Scotchman[註:Keithのこと], dashed ahead, shouting and gesticulating and tossing his arms in the air like a madman. Here, at last, was a typical alpine landscape.” 
Muirは画家たちをそこに残したまま、単独でMt. Ritterの(初)登頂を目指しました:
”They decided to remain several days, at the least, while I concluded to make an excursion in the mean time to the untouched summit of Ritter.” 
「Mountains of California」の「A Near View of the High Sierra」の章より。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir” (1924年) William Frederic Bade編集
*2 John Muir, “Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915)
*3 John Muir, “In the Heart of the California Alps,”
Scribner’s monthly / Volume 20, Issue 3, pp. 345-353, Jul. 1880
*4 John Muir, “The Mountains of California” (1894年)
[1] シエラの東側、395号沿いの町、Mammoth Lakes付近から見える二つの三角形の山が、Mt. Ritter(南)とBanner Peak(北)。Inyo National ForestのAnsel Adams Wilderness内に在る。Mt. RitterはWhitney隊のClarence Kingが以前登頂を試みたが、敗退した。
[2] たとえば原作(1880年)では”Mt. Ritter is king of our Alps, and had never been climbed.”と書いているが、後者では”Mount Ritter is king of the mountains of the middle portion of the High Sierra, as Shasta of the north and Whitney of the south sections. Moreover, as far as I know, it had never been climbed.”と書き換えている。ところで、本が出版される前の1892年にシエラクラブが結成された。勿論会長はMuir。Sargentの”John Muir in Yosemite”によると、Whitneyも名誉会員に選ばれていた。
[3] Muirは、Mt. McClureから(Mt. Hoffmann経由で)帰ってきてすぐ(10月8日)、Carrに手紙を書いている(資料*1)。資料*2にはそれに欠けている手紙の最後のページがあり次のように書かれている:”I’m going to take your painter boys with me into one of my best sanctums on your recommendation for holiness.”
[4] 資料*1によると二人はWilliam KeithとIrwin。
[5] ヨセミテ渓谷から現在のJMTにおおむね沿って進み、2日めにはLyell渓谷の奥に達した。画家たちはCathedral Pass付近では感動しなかったようである。
[6] ヨセミテグレードによると、Mt. Ritter北壁MuirルートはClass 3(Mt. Hoffmannの最後の岩場はClass 2)でロッククライミングの範疇ではない。ただ、初登時の未知への挑戦から来る精神的プレッシャーを考えると、Muirが直面した困難さが伺われる。
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写真:Thousand Island Lake北端のJMTから見るBanner Peak。Mt. Ritterの山頂は陰になって見えていない(尾根だけが左に伸びている)。Muirは写真右側をアプローチ、Middle ForkとNorth Fork San Joaquinの分水嶺(写真中央右よりの鞍部)を越えてLake Catherineを望んだ。


[2.17] Clouds Rest & Mono Lake:1872年10月
夏の間、Muirを訪ねていたMerrill Mooresは、1938年に”John Muir in Yosemite”と題する回想記をSierra Club Bulletinに投稿しました。それによると、Lyell渓谷(MuirのRitter登山)から帰った後の10月末に、Muir、LeConte、Mooresの三人は馬でClouds Restに上りました。頂上でMerrillは二人と別れ、渓谷へ戻り、オレゴンへと旅立ちます。MuirとLeConteはMono Lake方面へと向かったそうです。
資料:
”John Muir: To Yosemite and Beyond”(Robert Engberg著) pp. 99に、Merrillの記事が引用されています。


[2.18] Oaklandへの短期訪問:1872年12月
Muirは12月(もしくは11月)にOaklandへの短期旅行をします。これは、1868年にカリフォルニアに来て以来、初めて都会にで出かけるものでした。この旅行期日に関して、Bade(資料*1)とWolfe(資料*2)では解釈が異なっています。BadeはMcChesneyとAsa Grayに宛てて書かれたMuirの二つの手紙の日付、及びその内容より、12月10日から18日の間としています。一方、Wolfeは特に資料を示すことなく11月の2週間としています[1]。また、WolfeはMuirがCarr、McChesney、Le Conte、Keith、Edward Rowland Sill、Ina Coolbrith、Charles Warren Stoddard、Overland誌のBenjamin P. Averyを訪ねたと書いていますが、Muirがヨセミテで書いた12月10日のMcChesney宛ての手紙には、Stoddardに会ってみたい、と書かれています。これらから判断すると、Bade説の方が信憑性が高そうです。しかし、ヨセミテに戻ってすぐ行ったTenaya渓谷遡行とClouds Rest登山が12月18日以前(Asa Grayに登山の報告の手紙を書いた日)であったことを考えると、数日でOaklandを往復したことになります(かなり難しいと思えます)。
ともあれ、旅行がよほどつまらなかったのか、1873年4月に投稿した”The Geologist’s Winter Walk”の冒頭では、Oakland滞在をかなり批判的に書いています:”I still felt muddy, and weary, and tainted with the sticky sky of your streets; I determined, therefore, to run out to the higher temples.”
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade編集
*2 John Muir, “A Geologist’s Winter Walk,”
Overland monthly / Volume 20, Issue 4, pp. 355-358, Apr. 1873
*3 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir” The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)
[1]”John Muir:To Yosemite and Beyond”を編纂したEngbergはJ. Carrの書いた資料をあげ、Oaklandへの「2週間」の訪問が書かれていることを指摘しています。「2週間」の部分がCarrの文からの引用なのかは不明瞭(pp. 141)


[2.19] Tenaya渓谷探査:1872年12月
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写真:Tenaya渓谷上部。左はClouds Rest、右はMt. Watkins。奥にHalf Domeが見える。
Oaklandへの短期旅行から帰ってきてすぐ、Muirは12月のTenaya渓谷の遡行を行いました。この記録は”A Geologist’s Winter Walk”と題し、Overland Monthlyの1873年4月号に発表されます(Muirの没後出版された”Steep Trails”でも、若干の修正が加えられて、この作品が掲載されています)。
Tenaya渓谷は、ヨセミテ渓谷の奥にあるMt. WatkinsとClouds RestにはさまれたV字状の谷で、Tenaya Lakeを水源とします。MuirはMirror Lakeを過ぎ、その奥のTenaya Fallを超え、谷を登っていきました。が、途中で石につまづいて転がり、1時間近く意識を失ってしまいました。気づいてあたりを見回すと、もう少し先まで転がっていれば、命を落としていたような危険な所でした。Muirはこの失態にかなり怒りを覚え、これは町などに行ったせいだとも書いています:”There,” said I, addressing my feet, to whose separate skill I had learned to trust night and day on any mountain, “that is what you get by intercourse with stupid town stairs, and dead pavements,” I felt angry and worthless.
その日は渓谷の中にあるゴルジの入り口で一夜を過ごしました。二日目はゴルジがいかに形成されたかを観察をしながら1マイルほど進み、ゴルジの出口付近で2泊目を過ごす事にします。三日目は昼ごろにゴルジをぬけ、開け始まった谷を登って凍ったTenaya湖に達しました。帰りはMt. Watkinsの肩を越え、Snow Creekを下り、月明かりの下渓谷へと戻ってきました。1日の休憩の後、MuirはHalf Domeの東側の肩へと登り、そこから上部岩壁と下部を分ける斜面を下り、計測を行います。その後Clouds Restへ登り、再び月光のもと、ヨセミテ渓谷へと戻ってきました。翌12月18日にはAsa Grayへ手紙[1]を書き、Half Domeでの測量のことや、Clouds RestでPrimula(サクラ草)を採集したことについて報告しています。
さて、Muirは4年目のヨセミテの冬を過ごす事になります。”John of the Mountains”には1873年1月1日から3月中旬までの日記[4]がかなりの量、載せられており、冬の渓谷の様子が以前にも増して詳しく書かれています。1873年は、Muirのヨセミテ渓谷での生活最後の年です。夏から秋にかけて、北部San Joaquin水系(Ritter山系の西側)の単独探査旅行や、Galen Clarkらとヨセミテの南に広がるシエラ山系の探査旅行を行った後、冬には、あれほどに嫌った都会(Oakland)へと移り住む事になります。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade`編集
*2 John Muir, “A Geologist’s Winter Walk,”
Overland monthly / Volume 20, Issue 4, pp. 355-358, Apr. 1873
*3 John Muir, “Steep Trails“(1919年)
*4 John Muir,”John of the Mountains”,Linnie Marsh Wolfe編集
[1]資料*1の手紙:この日付から逆算すると、Tenaya渓谷を登ったのは12月14日の午後から15日の夜の間となり、Oaklandへの短期旅行は10日と14日の間となってしまうので、Bade説では1日ほどしかOaklandにいなかったことになる。
[4]資料*4 pp. 100-pp. 140
[参考]Tenaya渓谷内の様子Bob Burd氏のWebが参考になります。またMt. Ritter北壁の詳細な写真もあります。


[2.20] Mt. Lyellガイド登山:1873年6月
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Mt. Lyell
1873年6月初旬、Muirは二人の英国人を案内し、Mt. Lyellを登ります。そのときの日誌[1]には次のようなことが書かれています。
6月1日:3人はIndian Canyonを登り、渓谷の北側に出ます。林の中には、ところどころ残雪があったようです。Teneya Lakeそばを通り、その日のうちにTuolumne Meadowsに入りました。6月2日:Lyell渓谷の奥まで入り、キャンプを設営します。6月3日:夜半わずかな霜が降りたものの、暖かな日でした。いよいよ3人はMt. Lyellの頂上を目指します。キャンプ地のすぐ先からは、頂上まで絶えることなく、しまった雪で覆われていました。午後の日差しで雪が数インチほど緩み、頂上直下の35度の斜面も難なく登ることができたようです。Muirは氷河上にできる不思議な雪の形状物について触れ、それがまだできていなかったと書いています(サンカップのことではないようです)。残念なことに、頂上でのことは全く書かれていません。この日、3人はかなり日焼けをしてしまいます。日暮れ時に氷河は薔薇色に染まり、やがてLyell渓谷は紫と赤に染まりました。6月4日:Muirのアドバイスを聞かず、木の樺で顔を覆って登らなかった連れの英国人の顔はかなりむくんでしまい、目が開かないほどになってしまいます。Muirはヨセミテ渓谷に戻るのに、支障が出るかもしれないと書き留めています。ともあれ、一行は帰途につき、Tuolumne Meadowsのすぐ上まで戻りました。6月5日のエントリーはやや不明瞭です。Cathedral Valleyの雪や、Cathedral Peakの裏側の雪の状態を書きつつ、Mt. Danaの北東側に小さな氷河が残っていると記述しています。また、緑の湖のことも書かれています[2]。そして、頂上に生えているPholox diffisa、Polemonim、Hulsa、Drabaについての記述もあります。最後の段は、日付の代わりに”From the North Wall”とタイトルがつけられ、Lyell山群やMerced山群の遠望について書き終わっています[3]。
[1]資料:Holt-Athertonにある1873年6月のMuirの日記(タイプ版)より。
[2]Danaの頂上からすぐ下を見下ろせば現在でも同じような氷河や湖が見えます。
[3]6月7日付けでJ. Carrに出した手紙では、前夜にLyell氷河から帰ってきたと書かれています:”I came down last night from the Lyell Glacier, weary, with walking in the snow, but I forgot my weariness and pain of my sunblistered face in th enews of your coming.”。このことから5日にMt. Danaに登り、6日にヨセミテ渓谷へ戻ってきたと考えられそうです。この一月後、Muirは、J. Carrらと共にTuolumne渓谷の遡行をすることになります。


[2.21] Tuolumne渓谷完全遡行:1873年7月
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Tuolumne渓谷
7月11日(金曜日)、Jeanne Carrは、ヨセミテ渓谷から夫のEzra. Carrに手紙を書き、アプローチも含め2週間にわたったTuolumne渓谷の遡行について報告しています[1]。残念なことに、途中のページが紛失しており、正確な全容はつかめませんが、かなりエキサイティングな旅行だったようです。
2週間前の金曜日(当時の暦からは6月27日)、Kellog、Keith、Muir、そしてCarrの4人は、息子のAllieとパッカーのManuel、8頭の馬を引き連れてヨセミテ渓谷を出発しました。日曜に(Hetchy-Hetchyで一行を下ろし?)AllieとManuelは馬を連れて引き返します。10日後には12マイルの道なき道を越えて、TuolumneとMercedの分水嶺に4人をピックアップするため、戻ってくる予定です。MuirはCarrの荷物を含め、60ポンド近くを担いでいたようです。
<<< この出だしの後、途中4ページは紛失>>>
4時にキャンプ地を設営すると、Muirは主流を渡渉するため、Yellow Pine(Ponderosa Pine)の切り倒しにかかります。この直径4フィート、高さ80フィートの木は、翌日4時間かかって倒されましたが、うまく対岸にかからず、そのまま流れていってしまいます。別の木を探しつつ進んでいくうちに、美しい階段状の滝(cascade)があらわれ、そこを次のキャンプ地と定め、Cascedeキャンプと命名します。あくる日、MuirがCarrと共に支流を探査している間、KeithとKellogの二人は支流に橋をかけるのに成功し、暗くなるまで進み主流にかかるLibrocedrus(Incence Ceder)の大木を見つけました。次の日は、その木を使い対岸に渡り、一日分の食料をもち、Tuolumne渓谷の核心部「Cascades」を目指します。最後にたどり着いた所は、”the broad plane of a rock wall”と表現されています(現在のGlen Aulinキャンプ地付近?)。ところが、そこでMuirやKeith、Kellogは高熱に倒れてしまいます。Carrの介護もあり、どうにか翌日には回復し、引き返しはじめました。最終キャンプ地に戻ると、そこは熊に荒らされており、残していった食料はすべてなくなっていました。Muirは先行し、その前のキャンプ地(Cascade Camp)へと急ぎますが、そこも同様に熊に襲われていました。そこで、Muirはさらに単独で渓谷を登り、Allieらの待つ地点[2]へと急ぎます。その夜11時半、Muirはパン、羊の肉やお茶などを持って戻ってきました。そして次の日は全員Allieらの元へたどり着き、無事ヨセミテ渓谷に戻ってきました。
[1]この手紙は、”Kindred & Related Sprints”、Bonnie Johanna Gisel著(2000年)に掲載されています。Gisel女史は、この遡行について解説をしていますが、Tenaya渓谷やHetchy−Hetchy、Cascadesについての地理的関係の誤解が見受けられます。しかし手紙にはない細かい記述にも触れられており、別のCarrの資料を参考にされているようです(pp. 325-326の資料リスト参照のこと)。
[註]Muirは8月に”Explorations in The Great Tuolumne Canyon”をOverland誌に投稿しており、そこでは”Since that time, I have entered the Great Canyon from the north (南からの間違い) by three different side canyons, and have passed through it from end to end, entering at the Hetch-Hetchy and coming out at the Big Meadows below the Soda Springs, without encountering any extraordinary difficulties”と書いています。3度のTuolumen渓谷への下降は、1871年9月、11月、そして1872年9月に行っています。そしてHetch-HetchyからBig (Tuolumneのこと)Meadowsの下部(多分Glen Aulin付近)への完全遡行が、このCarrらとの遡行になります。ここでの大きな疑問は、Tuolumne渓谷を抜けてから、どうしたのかということです。手紙からは、一行がCascades(California Fall、White Cascade、Tuolumne Fallsのどれかは不明ですが)から引き返したことは明瞭です。そしてキャンプ地から渓谷を登り返すという記述から、合流地点がHetch-Hetchyではないことが推察できます。よってAllieらはTen Lakes Pass付近で待っており、4人がTuolumne渓谷を途中からはずれ(5000ft.ほど登り)、合流したようです。Carrの資料を手に入れ次第、更新したいと思います。


[2.22] 北部San Joaquin水系の探査行:1873年8月
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J. CarrらとTuolumne渓谷を遡行した後Muirは、8月にはヨセミテの南側にあるSan Joaquin水系に入り、前年に登ったMt. Ritterの西側周辺で、氷河や植物の調査、登山を行い、その詳細は日記に書かれています[1,2]。8月11日、Merced山群にあるRed Peakの麓を出発したMuirは、分水嶺を越えた数日後、Ritter-Minaret山群の西側に達しました[3]。途中、やかんの蓋、高度計やサングラスを小動物に盗まれかかる、といった笑えるようなハプニングもありました。17日にはNorth Fork San Joaquin川沿いのキャンプ地からMinaretsの最高峰(Clyde Minaret)を目指すものの、ルートが見つからず、登頂をあきらめます。そこで、そばにある小さな氷河や岩場を登り、Minaretsの尖鋒群のほぼ中央にある狭い峠を越えて、東側にある氷河をステップを切りながら下り、キャンプをしました[4]。翌日はMinaretsの東麓を北上し、別の氷河を越えて西側に戻り、ベースキャンプへ帰還しました。21日にはNorth Forkの最上流部を登り、Mt. Ritterの西側のbasinに登ります。Ritter Lakes沿いを通り、Ritterの南西部にある氷河(North Ritter Glacier)を観察[5]、その後北上し、Lake Catherine沿いに峠を越え、Mono Basinの見えるIslet Lake(Thousand Island Lake)側に入りました[6]。22日には以前から登りたかったMatterhorn山の東側に移動、翌日、回り道をしたものの、無事登頂に成功します[7]。24日には(多分Donohue Passを越えて)Tuolumne水系側に入り、25日にはMt. Lyellの氷河の麓にキャンプ地を設営し、寒い夜をすごしました。ここで日記は終わります。最後の文には次のように書かれています:”Bread about gone. Home tommorw or next day”
ヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは9月3日、姉のSarahに手紙[7]を書き、この探査行がこれまでで一番長く辛いものであったこと:”I have just returned from the longest and hardest trip I have ever made in the mountains, having been gone over five weeks.…” そして次のシエラ南部(及びLake Tahoe)への旅が待っている事と、執筆の為に冬にはOaklandへ行く事を伝えています:”I will soon be off again, determined to use all the season in prosecuting my researches–will go next to Kings River a hundred miles south, then Lake Tahoe and adjacent mountains, and in winter work in Oakland with my pen.”
写真:東から見るMinaretsの尖鋒群(左)とMt. Ritter、Banner Peak(右)
資料:
*1 Shirley Sargent,”John Muir in Yosemie”,Flying Spur Press (1971年)
*2 John Muir, “Letters to a Friend; written to Mrs. Ezra S. Carr” (1915年)
*3 John Muir,”John of the Mountains” (1938年) Linnie Marsh Wolfe編集
*4 Francis P. Farquhar,”History of the Sierra Nevada”, University of California Press(1965年)
*5 John Muir, “The Life and Letters of John Muir“(1924年) William Frederic Bade`編集
[1]Holt AthertonのMuirジャーナルのタイプ版
[2] 資料*3 pp. 141-pp. 163:8月13日から25日にわたる記録がある。日付はWolfeの推察によるもので、すべてに疑問符がつけられている。
[3] 日記の最初のエントリーには、Red Mountainの山麓を8月11日に出発し、最初の日はWest Fork double canyonでキャンプをしたこと。前日(12日)にはMerced Divideを越えて、二つの湖に挟まれたSan Joaquin渓谷内のどこかでキャンプをしたことが書かれている。このことから、Wolfeは日付けを8月13日としている。この二日間のルートがどこなのかは興味深い。West Fork double canyonは現在の地図には存在していないが、西俣という表現より、Merced Riverの最奥のTripple Peak Fork(西向き)が考えられる。すると、越えた峠はIsberg Passと考えられる。Wolfeは8月17日をMinaretsに登った日としているが、日記を注意深く読むと、これは15日が正しいと思われる。Minaretsに登る前日の16日の日記では、2日前に分水嶺を越えたと書いている。距離から考えてもこのほうが妥当。
[4] Minaretsの最高峰Clyde Minaret(3738m)は、一番易しいルートでも4級の岩登りが要求される。Minaretsを越える峠は2〜3級のルートで、北からThe Gap、Noth Notch、South Notchがある。記述からNorth Notchを通った可能性が高い。氷河を下降した後は、CecileもしくはIceberg Lake付近のどこかでキャンプとしたと思われる。Minaretsを目指した日に出発したベースキャンプは、その記述(対岸に急な壁があること)から、Long CreekとNorth Fork San Joaqinの合流地点付近の可能性が高い。
[5] North Ritter Glacierは前年登ったLake Catherineからせり上がる氷河ではない。”Ritter初登頂:1872年10月”の写真の右端(Mt. Ritterの右横)に、氷河が見えている。
[6] 前年通ったルートを南側から逆にぬけたことになる。
[7] Matterhonという名の山は、現在の地図には存在しない。Farquhar(資料*4)はRodgers Peakと指摘している。標高12,978ft.でMt. Lyellの南東1マイル地点にある。最初MuirはRodegers Peakから長く南東に伸びる尾根を伝い、頂上を目指そうとしたが、あまりにも峻険なのでやめ、一度西側に下り、別の短い尾根を使って登った。下りは北東側に降りた。
[8] Bade(資料*5)の10章、9月3日にSarah Muir Gallowayに宛てた手紙。”The mountains are calling and I must go,…”の一節が書かれている。
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写真:Mt. Ritterから見るMinarets。Muirは右(西)側からMinaretを越え奥の氷河を下り左(東)側に下った。次の日には手前の氷河を登り、右側へと下った。湖はCecile Lake。一番手前の大きな氷河はMt. Ritterの南東斜面にあり、1872年10月の初登時に下降した。


[2.23] 最初のシエラネバダ探査旅行:1873年9-11月
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9月19日、Muirは ヨセミテ渓谷ガーディアンのGalen Clark、植物学者のAlbert Kellogg、そして画家のWilliam Simmsらと共に初めてシエラネバダ縦断の旅に出ます。この旅行の様子は日記(資料*1)、及び旅の途中で出されたCarr宛ての数通の手紙(資料*2)、1891年にCentury誌で発表された”A Rival of the Yosemite, King’s River Canyon”(資料*3)で伺うことができます。
彼らはWawonaを出発し[1]、Chiquito PassからSan Joaquin川の支流であるChiquito Creekに入り、North ForkとMiddle Fork San Joaquinを越え、South Fork San Joaquin川沿いを南下して行きました。9月26日には疲れきったメンバーと馬、ロバを残し、単独でEvolution Valleyの源頭を探査し、Wild Sheepを目撃したり[2]、最高峰の山に登ったりしました[3]。キャンプに戻ってきた次の日(30日)、ClarkとMuirは近くの峠(South San JoaquinとNorth Fork Kings Riverの分水嶺)に上り、これから進むルートを偵察します。Clarkは仕事があった為、この日で帰ることになります[4]。残った三人は峠を越え、North ForkとMiddle Fork King Riverに囲まれた地帯[5]を南下していきます。10月4日、二つの川の合流点付近でKings River[6]の主流に下り、谷の南側を登り返し、Mill Creekを経て、10月7日にはGrant Groveに到着し、General Grantをはじめとするセコイアを目にします。その後、北東方向に進み、再びKings Riverに下り、Kings渓谷内でキャンプをします[7]。11日、Muirは二人を残したまま、Mt. Tyndall[8]を登りに出かけました。翌日の昼に登頂してキャンプ地に戻ってくると、なぜか二人はMuirを残したままKeasarge Passへと向かっていました。Muirは必死になって追いかけ、Keasarge Passの東側で追いつきます。13日にOwens Valleyへ下る途中で二人と別れ、馬で南下し、Mt. Langleyを登頂(15日)、更に徒歩でMt. Whitneyを目指しました。しかし頂上近くまで達した所で敗退、標高14,000ft.付近[9]で凍えるような夜をすごした後、17日には疲れきってIndependenceの町へと戻ってきました[10]。休養のあと、Muirは再び単独でMt. Whitneyを目指します。今度は東側からアプローチし[11]、10月21日に頂上に立つ事ができました。頂上にはClarence Kingが一月ばかり前に残したメモが残っていました[12]。その後一行はOwens Valleyを北上し、帰途に就きます。MuirはMono Lake付近で別れ、単独でLake Tahoe[13]を往復した後、Bloody Canyonを登り、Tuolumne Meadows、Clouds Rest付近を通り、ヨセミテ渓谷へと戻ってきました。この後Muirは4年間住んだヨセミテを去り、Oaklandに移り、1年近くかけてヨセミテの氷河生成説に関する執筆を行うことになります。
地図: Wawonaを出発した一行は、San Joaquin水系を南下、JMTと交わる付近(2番目の○)でキャンプ。Muirは単独でEvolution Valley(青い線、JMTと重なる)を探査した。次にNorth Fork Kings Riverに入り更に南下、Kings Riverの主流をわたりGiant Groveに着いた(3番目の○)。その後Kings Riverに再び下りKings Canyonでキャンプ(4番目○)。Muirは単独Mt. Tyndallを目指す(青線)。その後、シエラネバダの主脈を超え、Owens Valleyを南下、Mt. Langley(一番下の○)経由でMt. Whitney(下から2番目の○)を目指すが直前で敗退。Independenceに戻り、東側からMt. Whitneyを登った。あとはOwens Valleyを北上(現在の395号沿い)、Mono Lake、Tuolumneを経由(Lake Tahoe往復を含む)してヨセミテに戻った。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir“(1924年) William Frederic Bade編纂
*2 John Muir, “John of the Mountains” (1938) Linnie Marsh Wolfe編纂
*3 John Muir, “A Rival of the Yosemite, King’s River Canon,”
The Century / Volume 43, Issue 1, pp. 77-97, Nov. 1891
*4 “The Wild Sheep of the Sierra,”
Scribner’s monthly / Volume 22, Issue 1, pp. 1-11, May 1880
*5 “The Mountains of California” (1894年)
[1] 資料*2 pp. 173-174:19日からMuirの日記は始まるが、羊によるClark’s Meadowsの荒廃の様子が書かれている。そして何らかの法的規制が必要であると書いている。
[2] Wild Sheepの目撃に関しては資料*2 (pp. 177-178)、及び資料*4に詳細が書かれている。”The Mountains of California”(資料*5)の”The Wild Sheep”の章は資料*4とほぼ同じ(最後の文が少し書き換えられている)。
[3]ベースキャンプは現在のFlorence Lake付近と思われる。そこからSouth Fork San Joaquinを上流へと辿っていき、Evolution Valleyに入ったと考えられている。John Muir Trailもこの谷を通っている。日記、Carrへの手紙、共に登った山についてのはっきりした記述はない。日記ではMt. Millerとしている。手紙ではMt. Humphreysもしくはその南側の山としている:”…and climbed the highest mountain I could find at its head, which was either Mount Humpreys or the mountain next south. This is a noble mountain considerably higher than any I have before ascended.”Muir自身どれがMt. Humphreysかはっきりわかっていなかった。また、”I have named a grand wide-winged mountain on the head of the Joaquin Mount Emerson. Its head of is high above its fellows and wings are white with ice and snow.”と興味深い一文もある。資料*4でも歩いた谷の地形の記述が見られる。FarquharはMuirが登った山をMt. Darwinとしている。
[4] MuirのCarr宛9月27日付けの手紙は、ClarkがWawonaで投函したものと思われる。
[5] 資料*1、10章の10月2日の手紙、資料*2のpp. 180-181、及び資料*3の記述から、現在のDusy Ersim OHV林道が通る谷に沿って南下したと思われる。この谷はやがて現在の地図のNorth Fork Kings Riverに合流する。
[6] やがてNorth Fork Kings RiverはWishon湖(ダム湖)に注ぐ。そこを更に南下し、North ForkとKings Riverの主流を分ける尾根(標高9,000ft.付近)に登り、そこから尾根に沿って下り、合流点(標高1,000ft.付近)に達したようである。
[7] 180号の行き止まり地点。ここでKings CanyonはParadise ValleyとBubbs Creekの二つに分岐する。
[8] Farquharによると、登ったのは現在のMt. TyndallではなくMt. BrewerもしくはKernとKingsの分水嶺付近の山々のどれかとしている。頂上からキャンプ地までたった3時間で着いたという記述から、現在のMt. Tyndallでないのは明らかである。資料*3にはMt. Tyndall登山の参考ルートが書いてある。それにははっきりと、Mt. Brewerの東側の沢を詰めて行くと書いてあるので、KernとKingsの分水嶺付近の山(たとえばMt.Ericsson)であると考えるのが妥当。地図が添付してあり、Mt. Brewer、Mt.Tyndall、Mt. Williamsonが書き込んであるが、Muirの記述とやや矛盾しているように見える。ところで、本当のMt. Tyndallの初登はClarence Kingらによって1864年になされて、すでに1871年にAtlantic Monthlyに発表されていた。Muirがそれを読んでいたことは十分考えられる。
[9] 現在の一般Whitney登山路の途中にあるMt. Muir付近と考えられている。Mt. Whitneyの頂上から、直線で1マイルほど南のところにある。
[10] Mt. LangleyからIndependenceに戻った日付は、日記と手紙で1日ずれている。
[11] 現在Mountaineers ルートと名前がついている。3級のガリー登り。
[12] 1871年6月、Clarence Kingは悪天候の中、Mt. Whitneyの頂に立った(初登)。しかし1873年の夏、それ(Mt. Langley)に登ったW. A. Goodyearによって、更に高い山が見つかったというニュースが伝えられた。Kingは急いで本当のWhitneyに登りにきたが、時既に遅く第4登を成し遂げただけであった(初登は8月18日になされた)。その一月後、Muirは5登を東側から初めて成し遂げる。Kingのメモについては資料*1の10章の最後を参照のこと。
[13] 11月3日、Tahoe CityからCarrに宛てた手紙(資料*1)の中では、MuirはCarr家の訃報を知ったことを書いている。


[2.24] Oaklandでの執筆・ヨセミテ生活の終止符:1874年9月
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1873年の初冬にヨセミテからOakland[1]に移ったMuirは、自説の氷河によるシエラネバダ(主にヨセミテ)形成説の執筆を始め、それらは1874年の5月からOverland Monthly誌に7回シリーズ(資料*3-9、10)で掲載されました。これらの記事には、Muirの直筆のスケッチがあちこちに使われていて、見るだけでも楽しいものです。さて、Muirの説は一言で言えば、昔シエラは氷床に覆われており、その移動に伴う浸食によって、ヨセミテやTuolumne渓谷、ハイシエラの山々が形成されたというものでした[2]。10ヶ月にわたる執筆を終え、1874年9月に、Muirはヨセミテへの旅に出ます。しかし、それは再びヨセミテでの生活に戻る為ではなく、終止符を打つためのものでした。MuirはTurlockの町からHopeton、La Grange、Coulterville、Hazel Green、Crane Flatを経由し、ヨセミテ渓谷に向かいました。道中ではDelaneyやBlackとの出会いがあります。このときのことは、ヨセミテ渓谷からCarr宛に出した長い手紙の中で書かれています[3]。終わりには、ヨセミテでの生活に区切りをつける決心や、その感傷的な気持ちなどに触れています:”A deep canyon filled with blue air now comes in view on the right. The is the valley of the Merced, and the highest rocks visible through the trees belong to the Yosemite Valley.…Surely this Merced and Tuolumne chapter of my life is done.…I will not try [to] tell the Valley. Yet I feel that I am a stranger here. I have been gathering you a handful of leaves. Show them to dear Keith and give some to McChesney. They are probably the last of Yosemite that I will ever give you. I will go out in a day or so. …”
数日の滞在の後にはヨセミテを去るつもりだったMuirですが、なかなか離れられず、2週間近く滞在した後[4]、10月7日に再びCarrに手紙を出し、そんな自分を:”I am hopelessly and forever a mountaineer”と書いています。そしてその後Bloody Canyon、Mono Lake、Lake Tahoeを経て北カリフォルニアのMt. Shasta方面へと向かいました。
写真:Crane FlatからTamarack Flatを越えてトレイルを下ってくると、最初に見えるのがBridalveil Fall(右)。左奥にはSentinel Domeが見える。
資料:
*1 John Muir, ”The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade`編集
*2 Linnie Marsh Wolfe,”Son of the Wilderness: The Life of John Muir”(1945年)
*3 John Muir,”Studies in the Sierra, No. I,”
Overland monthly / Volume 12, Issue 5, pp.393-403, May 1874
*4 John Muir,”Studies in the Sierra, No. II,”
Overland monthly / Volume 12, Issue 6, pp.489-500, Jun. 1874
*5 John Muir,”Studies in the Sierra, No. III,”
Overland monthly / Volume 13, Issue 1, pp.67-79, Jul. 1874
*6 John Muir,”Studies in the Sierra, No. IV,”
Overland monthly / Volume 13, Issue 2, pp.174-184, Aug. 1874
*7 John Muir,”Studies in the Sierra, No. V,”
Overland monthly / Volume 13, Issue 5, pp.393-402, Nov. 1874
*8 John Muir”Studies in the Sierra, No. VI,”
Overland monthly / Volume 13, Issue 6, pp.530-540, Dec. 1874
*9 John Muir”Studies in the Sierra, No. VII,”
Overland monthly / Volume 14, Issue 1, pp.64-73, Jan. 1875
*10 上記*3-9の再版(1950年)
*11 John Muir,”John of the Mountains”(1938年), Linnie Marsh Wolfe編集
*12 Jeffrey P. Schaffer,”The Geomorphic Evolution of the Yosemite Valley and Sierra Nevada Landscapes”(1997年)Wilderness Press
[1] 資料*1-11章 :ヨセミテに最初の雪が降る頃、MuirはOaklandに移った。Carr家は長男の死で深い悲しみに包まれていた。MuirはJ. B. McChesneyの申し出を受け入れ、McChesney家に間借りをし、そこで執筆をすることになった。Oaklandでの10ヶ月については、Wolfe(資料*2 pp. 171-175)がやや詳しく書いている。
[2] 当時としては、Whitneyの説に比べれば、現代の説(1930年のMatthes説)に近い。しかし、極端なまでに氷河による侵食を唱えていた。後年になると、カリフォル二アを被っていた氷床の塊が海に流れ出した(”…,the lower folds of the ice-sheet in California, discharging fleets of icebergs into the sea,…”:1894年出版の”The Mountains of California”の1章)とか、カリフォルニアの全ては氷河によって侵食された(”All California has been glaciated, the low plains and valleys as well as the mountains. Traces of an ice-sheet, thousands of feet in thickness, beneath whose heavy folds the present landscapes have been molded, may be found everywhere, though glaciers now exist only among the peaks of the High Sierra.”:1912年出版の”The Yosemite”の11章)、などという極論を唱えるに至った(Muir説の要約及び解説は資料*12-5章を参考)。
[3] 資料*1-11章の冒頭の手紙:MuirはOaklandから汽車に乗ってLivermore Pass(Altamont Pass?)を越え、Turlock(Modestoの南にあるCA99号沿いの町)に着いた。その日はTurlockで泊り、翌日東に向かう。Hopeton付近から北上し、La GrangeでDelaney邸に泊る。次の日はColtervilleに移動。Coultervilleでは、Overland誌に書いた自分の氷河研究の記事のことが知れわたっていた事を知り、驚く。夕方にはBlackと共に彼の農場(Pilot Peakの南麓にある)へと向かった。その後はHazel Green、Crane Flatを経てヨセミテ渓谷へと移動していった。
[4] 9月25日の日記(資料*11, pp.192-193)はヨセミテ渓谷内のBlackのホテルで書かれ、Carrへの2度目の手紙は10月7日に出されていることから、2週間ほどはヨセミテにいたと思われる。Shadow(Washburn) Lakeでは4泊ほどキャンプをしている。


[2.25] 北カリフォルニアへの旅行:1874年10月-1875年4月
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ヨセミテを去ったMuirはMono Lake、Tahoeを経由して北カリフォルニアに向かいました。その旅行の様子は、San Franciscoの新聞Daily Evening Bulletinに投稿された、5本のコラム記事で窺うことができます[1]。まずMt. Shastaへ向かう途中、McCloud River沿いの町Allen’s Stationに1週間ほど立ち寄り、鮭の孵化施設を訪問をしました[2]。10月最後の日には、Mt. Shasta山麓の町Sisson’s Stationにたどり着きます。翌日、ガイドのJerome Fayと共にロバを引き連れ、雪を掻き分けながら暗くなるまでShastaの山腹を登っていきました。仮眠の後、真夜中に単独で出発、11月2日の朝10時半に14,162フィートの頂に達しました[3]。下山の頃から1週間ほど続いた嵐が去った11月8日、MuirはLower Klamath Lake周辺(Mt. Shastaの北東方面)にWild Sheepの狩猟に出かけるSisson、Jerome、Brown、Hepburnらに同行し、狩の様子、仕留められた羊の詳細な観察をします[4]。更に東のTule Lake付近まで足を伸ばしたMuirは、数年前に起きたばかりのModocインディアンと白人との争いの跡を訪れています[5]。最後には、Shasta周辺で行われていた養蜂について書き、投稿シリーズを締めくくりました[6]。その後Muirは南下し、Yuba CountyのBrownsville(Knoxville)に移り住んでいる、Wisconsin時代の友人Emely Peltonを訪ねます。滞在時に遭遇した12月下旬の暴風の日のこと[7]や、1875年1月19日の洪水[8]の模様を後に雑誌で発表しています。さて、2月末にOaklandに戻ってきたMuirは、4月には再びMt. Shastaへと舞い戻ります。4月28日にはマーカーを設置しようとする測量隊(Coast and Geodetic Servey)のガイド役として登頂、さらにその二日後にはJerome Fayと気圧の調査のため再び山頂に向かいます。しかし、二人は山頂付近で突然の雪嵐に襲われ、ビバークを余儀なくされます。雪が降り積もる中、頂上そばの噴気孔(泉)に体を伏せ、暖をとることができ、次の日には命からがら下ってくる事ができました[9]。
1875年はMuirにとって転機となる年です、秋に友人らとのKings Canyon・Mt. Whitneyへの再訪、単独でのセコイア調査旅行、そして11月のHalf Domeへの登頂の後、シエラネバダでの精力的な活動を終えることになります[10]。
写真:北東から望むMt. Shasta(すやま氏撮影)
資料:
*1 John Muir,”Salmon Breeding,” Daily Evening Bulletin, Oct. 29. 1874
*2 John Muir,”Shasta in Winter,” Daily Evening Bulletin, Dec. 21 1874
*3 John Muir,”Shasta Game,” Daily Evening Bulletin, Dec. 12 1874
*4 John Muir,”Modoc Memories,” Daily Evening Bulletin, Dec. 28 1874
*5 John Muir,”Shasta Bees,” Daily Evening Bulletin, Jan. 5 1875
*6 John Muir,”Studies in the Sierra: A Wind Storm in the Forests of the Yuba,”
Scribner’s monthly / Volume 17, Issue 1, pp. 55-59, Nov. 1878
*7 John Muir,”Flood-Storm in the Sierra,”
   Overland monthly / Volume 14, Issue 6, pp.489-496, Jun 1875
*8 John Muir,”Snow-Storm on Mount Shasta,”
Harper’s / Volume 55, Issue 328, pp. 521-530, Sep. 1877
*9 John Muir,”Summering in the Sierra” (1984年) ,
The University of Wisconsin Press, Robert Engberg編集
*10 John Muir,”Steep Trails“(1918年)
*11 John Muir,”Wild Wool,”
Overland monthly / Volume 14, Issue 4, pp.361-366, Apr. 1875
*12 John Muir, ”The Life and Letters of John Muir”(1924年) William Frederic Bade`編集
*13 John Muir.”John of the Mountains”(1938) Linnie Marsh Wolfe編集
[1] 1874年と1875年に書かれ、Bulletinへの投稿記事のうち15本がEngbergの”Summering in the Sierra”(資料*9)に収められている。資料*1-5はその最初の5本に当たる。他10本は1875年に書かれたもので、ヨセミテ案内、Mono Lake方面への旅行、Kings Canyon・Mt. Whitneyへの旅行、セコイア単独探査旅行、そしてハーフドーム登頂の記事。本はBadeの”The Life and Letters of John Muir”のような構成になっており、要所に相当量の解説や脚注が挿入されている。Engbergによると、Bulletinは1874年当時は、4ページ、8コラム構成の新聞であった。しかし月3,000部しか出版されず、その読者が限られていたOverland Monthlyに比べ、Evening BulletinはBay Areaのかなり広い層に読まれていたであろうと指摘している。Muirの死後に編纂され、出版された”Steep Trails”の”Wild Wool”、”Summer Days at Mount Shasta”、”A Perilous Night on Shasta’s Summit”、及び”Shasta Rambles and Medoc Memories”も参考のこと。Engbergは”Modoc Memories”の記事は発表されなかったと解説しているが、Collage of SiskiyousのHTML版資料では、1874年12月28日と投稿の日付がある。
[2] 資料*1:Allen’s StationはMt. Shastaの南80マイルほどのところにあった。現在はShasta Lakeの湖底に沈んでいる。当時、カリフォルニアの川は金の採掘から出された泥によって汚れ、鮭などが減っていた。孵化場の目的は、鮭を再供給する事にあった。Muirは、Tuolumne Riverからも鮭がいなくなったとも書いている。
[3] 資料*2:Sisson’s Stationは現在のMt. Shasta City。Mt. Shastaはカリフォル二アの北部にある標高14,162ft.の独立峰(休火山)で、1854年に初登頂された。1870年に登頂したClarence Kingは山の北側に氷河を発見し、これをWhitney Glacierと命名した。詳しくはKingの”Mountaineering in the Sierra Nevada”もしくはAtlantic Monthlyの1871年11月号を参照。
[4] 資料*3:1874年11月29日のMuirの日記(資料*13、pp. 193-pp. 200)にもこのハンティングのことが書かれている。Sisson’sを出発した後、Mt. Shastaのすぐ北西にあるSheep Rockを経て、北東に進み、オレゴン-カリフォルニアの州境にあるLower Klamath Lake付近に向かった。 其のそばのMt. Bremer付近(Van Bremerの牧場そば)にはかなりのWild Sheepがいた。資料*11も参考のこと。
[5] 資料*4:Mt. Shastaの北東Modoc地方でも、典型的な白人対インディアンの紛争があった。居住区に追いやられたModocインディアンは、1872年に昔からの生活地Tule Lake付近へと戻ってきたが、再び居住区へ追い返そうとする軍と戦うことになる。しかし、抵抗もむなしくやがて降伏。酋長のKintpuash(Captain Jack)ら4人は後に絞首刑となる。残ったインディアンはオクラホマの居住区へと送られてしまった。
[6] 資料*5:当時のカリフォルニアでは蜂蜜の販売や輸出は大きなビジネスであった。
[7] 資料*6:MuirはSisson’sからCarr宛に手紙を出し、Brownsvilleへ向かう旨を書いている。BrownsvilleはYuba Riverの支流であるDry Creek沿いの小さな町。Yuba Cityの北東30マイルほどのところにある。暴風の中、MuirはDouglass sprucesの木に登って、嵐の様子を楽しんだ。
[8] 資料*7:暖かい冬の雨により、山の雪が溶け出し洪水になったとMuirは書いている。註:下流のMarysvilleの町に大被害を与えた。 Marysville Floodと呼ばれている。当時Yuba River、Feather Riverの上流では水力採鉱(Hydraulic Mining)が行われ、それによって出た泥が川の下流に流れ川底をかなり浅くしていたため、洪水が起きやすくなっていた。これを禁止するための、連邦を巻き込んだ裁判が後に起きる。
[9] 資料*8:この時の登山については ”Steep Trails”(資料*10)の”A Perilous Night on Shasta’s Summit”の章の後半にも詳しく書かれている。
[10] 資料*12、12章12月3日の手紙:Muirは1877年11月にMiddle Fork Kings Riverの探査をしている。正確にはこれが(知られているうちでは)最後の「精力的な」シエラでの活動となる。


[2.26] Kings Canyon・Mt. Whitneyへの再訪:1875年7月
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Mt. ShastaからSan Franciscoに戻ってきたMuirは、1月後の6月にはヨセミテ渓谷を訪れ[1]、Keith、Swett、McChesneyらと共にMonoトレイルを使い、Tenaya Lake、Tuolumne Meadowsを経由してMono Lakeへ向かう旅に出ます。このときMuirは3本の記事をDaily Evening Bulletinに投稿しています。最初の投稿はヨセミテ観光の紹介で、ヨセミテの滝、四季、Muir式渓谷の楽しみ方、Glacier Pointからの眺め等を紹介しています[2]。2本目の投稿では、渓谷を出発直後に降った雪の事等を[3]、3本目はHoffmann山麓、Tenaya Lake、Tuolumne Meadows、Soda Springs、Mono Passぞいから見るハイシエラの山々や、さまざまな木について書いています[4]。
 7月上旬にヨセミテ渓谷に戻ってきたMuirは、Charles Washburn、George Baylay、そしてロバの面倒見役の”Buckskin Bill”と連れ立って、Kings Canyon方面への二度目の旅行に出かけます。2年前のルートとは異なり、山越えは避け、San Joaquin Valleyを南下し、CentervilleでKings Riverを渡り、セコイアの森を越え、Kings Canyonへと下りました。MuirはKings Canyonの景観がヨセミテ渓谷に極めて似ている事、そして観光熱が高まってきており、やがてヨセミテにに肩を並べるものになるであろう事を書いています。同時に渓谷で見かけたサインには、牧畜目的でその一帯は所有されているとあり、渓谷が家畜などにより荒らされてしまう前に訪問する事を勧めています[4]。満月の夜を渓谷で過ごした翌日、一行は、Kearsage Passを越えてIndependenceに向かい、そこからMuirが2年前に使ったルートを辿ってMt. Whitneyを目指しました。途中でWashburnが落石に当たりかけるという危ない場面もあったものの、初日は無事に11,000ft.付近まで上り、キャンプをします。次の日(7月21日)は、同行者の安全を考えて慎重を期したMuirは、頂上への最短ルート(ガリー)の登りは避け、北側から回り込むルートを採り、10時に頂上に立つことができました[5]。Independenceに戻ってきた一行は、その後Owens Valleyを北上し、Mono Lake、Bloody Canyonを経由して7月末にはヨセミテ渓谷に戻ってきました[6]。
地図:赤○は、左上から反時計回りに、Yosemite渓谷、Wawona、Centerville、General Grant Grove、Kings渓谷、Independence、そしてMt. Whitney。黄色い線は、6月のMono Trailを使ったハイシエラ旅行ルート(ルートは予想に基づく大まかなものです)。
資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir“(1924年) William Frederic Bade`編纂
*2 John Muir, “The Summer Flood of Tourists,”Daily Evening Bulletin,1875年6月14日
*3 John Muir, “A Winter Storm in June,” Daily Evening Bulletin,1875年6月17日
*4 John Muir, “In Sierra Forests,”Daily Evening Bulletin,1875年7月
*5 John Muir, “A New Yosemite-The Kings’s River Valley,”Daily Evening Bulletin,1875年8月5日
*6 John Muir, “Assent of Mount Whitney,”Daily Evening Bulletin,1875年8月17日
*7 John Muir, “From Fort Independence,”Daily Evening Bulletin,1875年9月
*8 John Muir,”John of the Mountains”(1938年), Linnie Marsh Wolfe編纂
註:
資料*2-7はRobert Engbergの”John Muir: Summering in the Sierra”(The University of Wisconsin Press ISBN 0-299-09620-3)に掲載されている。日付はMuirの記事に書かれているものであり、実際の新聞に載った日付と同じかどうかは不明。
[1]資料*1、12章: 5月4日の手紙は、San FranciscoのSwett宅からCarr宛に手紙を出し、Mt. Shastaの頂上で雪嵐に捕まったことを報告している。6月3日にも、ヨセミテ渓谷から、手紙を書いている。
[2]資料*2: ヨセミテの滝、渓谷の四季、ヨセミテへの観光客、ヨセミテへの道路、ヨセミテ渓谷観光の仕方、グレーシャーポイントからの眺め、ヨセミテの山(Hoffmann、Lyell、Ritter)などが書かれている。特に面白いのは ”doing the valley”と、Muir風ヨセミテ渓谷の楽しみ方を勧めている:Once arrived in the valley and choice made of the hotels, it is important to know what to do with one’s self. I would advise setting from morning till night under some willow bush on the river bank where there is a wide view. This will be ”doing the valley” far more effectively than riding along trails in constant motion from point to point. … また”The western or Japan tributary of the Yosemite travel stream is more masculine and indefectible than the eastern,…”という文があり、当時すでに、日本人(?)がヨセミテ観光に来ていた事を覗わせている。
[2] 資料*3: 6月15日に渓谷を出発し、天気が崩れていく中、Big Oak Flat Wagon Roadを登っていった。Cascade Creekと交差する付近にGentry’s Stationという馬車の停車場があり、そばのあばら家で15日の夜を過ごす。次の日も雪が降り続けたため停滞し、このときの山の様子などが書かれている。記事に書き込まれた日付は17日、Gentry’s Stationにて書かれている。日記(資料*8: pp201-204)にもこのときのことが詳しく書かれている。
[3] 資料*4: Mono Trail沿いのHoffmann山麓、Tenaya Lake、Tuolumne Meadows、Mono Lakeでの様子が書かれている。特に木に関する記述がかなり多い。編者のEngbergは、当時のMuirが木の枝を折って寝床を作ったと書いていること、そしてMuirが自然保護の倫理を持ち始めるようになるのは、この年からであると指摘している。Muirの日記(資料*8: pp. 205-208)には更に続きがあり、一行はMono Lakeから更に南下を続け、6月26日には、Owens River Canyonまで達している。この間の旅行記事は投稿されていない。
[4] 資料*5: MuirのDaily Evening Bulletinへの投稿は更に続く。この記事では7月9日にヨセミテを出てからKings Canyonにいたるまでのことが書かれている。ルートはWawonaのClark’s Station、Mariposa Grove,、Upper Fresnoの森林地帯を抜けSan Joaquin Valleyに出て南下、CentrevilleでKings Riverを渡り東進、Grant Groveに至り、そこからKings Canyonに至った。このときのMuirらの旅行は日記、雑誌、手紙、本にも書かれておらず、このBulletinの記事は貴重である。渓谷の所有を宣言するサインに関する部分:Those who can should visit the valley at once, while it remains in primevel order. Some twenty-five years ago the Tuolumne Yosemite[Hetch Hetchy Valley] was made into a hog pasture, and later into a sheep pasture. The Merced Yosemite has all its wild gardens trambled by cows and horses, and we noticed upon a pine tree in the King’s river Valley the following inscription: “We the undersigned claim this valley for the purpose of raising stocks, etc. Mr. Thomas Richard Harvey & Co.” By which it appears that all the descructive beauty of this remove Yosemite is doomed to perish like that of its neighbors, and our tame law-loving citizens plant and water their garden daisies without concern, wholly unconscious of loss.
[5]資料*6:一行の登山の様子が詳細に書かれている。またWhitneyの初登頂にまつわることを、Clarence Kingの名前を出して書いている。Engbergはこの投稿の後、MuirとKingの関係が特に悪くなっていったと書いている。Muirらの採ったルートはNorth Fork of Lone Pine Creekを詰めて行くもので、現在のMt. Whitney一般登山ルート(Lone Pine Creek沿い)のやや北側に当たる。
[6]資料*7:Muirは地震の被害のあったFort Independence(Independenceの町の数マイル北)、そこからBishopに到る間の溶岩流地帯、Long Valley(現在のLake Crowley付近)、Mt. RitterやMinaretの遠望、Mono Lakeや付近の火山跡などの様子を克明に書いている。


[2.27] セコイア探査旅行:1875年8月ー10月
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Kings Canyon・Mt. Whitneyから戻って一月ほど経った8月下旬、Muirはセコイアについて調べるために、ミュールのBrownieを連れて再度シエラネバダの南へ向け、ヨセミテ渓谷を出発しました[1]。その探査行の様子は、Daily Evening Bulletinへの2本の投稿と、3年後にHarper’s誌に書かれた記事”The New Sequoia Forests of California”、そして26年後に出版された、自書”Our National Parks”に書かれています[2]。
 まずMuirは、WawonaのMariposa Groveに立ち寄り、1週間ほどかけてセコイア植生の境界を調べました。その後Big Creekを南東へ進み、Wah-Mello(Fresno Dome)の頂上から見つけたFresno Grove[3]へと向かい、ここでも1週間ほどかけて一帯に生えるセコイアの調査を行います。このとき、Muirはログハウスに一人で住むJohn Nelderと出会い、セコイアのコーンから作ったインクを使わせてもらい、その蒼さに感嘆しています。次の2週間は、南側のSan Joaquin主水系一帯で、数え切れないほどの尾根に登って遠くからセコイアを探し求めましたが、全く見つけることができませんでした。更に、南へと分水嶺を越えKings水系に入り、Dinky Creekの支流を渡っているときに、羊飼いに出会います。数年前に見つかった、と伝え聞いていたセコイアの巨木について訪ねると、数日前に見てきたばかりだといい、親切にも案内してくれ、最大のもので直径32フィートものを含む、200本ほどのセコイアの群生(McKinley Grove)を見つけることができました[4]。さらに南下を続けるMuirは、2年前のようにNorth Fork Kings RiverとMiddle Fork Kings Riverの主流を分け隔てる尾根を下り、Kings Riverを渡り、斜面を登り返してThomas’s Mill(現在のGeneral Grant Grove付近)に達しました。ここでは、その北東方面一帯に広がるセコイアの森(Converse Basin)で、1週間近い調査を行います。次に、南側のRedwood Creek、North Fork Kaweah、Marble Forkの一帯を縫うようにして、セコイアの森を進んで行きます[5]。Marble Fork とMiddle Fork Kaweahに挟まれるGiant Forestでは、Hale D. Tharpに出会い、彼のセコイアの倒木をくりぬいて作ったログハウスに招待されます[6]。そこをベースに周辺の調査を行いますが、雪が降り調査ができなくなることを憂えたMuirは、更に南へ向かい旅立ちます。KaweahのMiddle ForkとEast Forkにはさまれる一帯に入ったとき、Muirは大きな山火事に遭遇しました。燃えて、真っ赤に焼けた鉄の棒のようになり、斜面に倒れている巨木の様子などを克明に記述しています。やがてTule水系に入ったMuirは、そのNorth Forkにあるセコイアの群生がGiant Forest以上のものであること、また一帯の草は羊によって全て食べつくされているとも書いています。インディアンの羊飼いや、山小屋の住人らに食料を分けてもらいながら行動を続け、セコイア植生の最南端であるDeer Creekに達し、二月半に渡る調査行を終えました。この後、Muirはヨセミテ渓谷へと戻り、10月にAndersonによって初登頂されたばかりのSouth Dome(Half Dome)への登頂を行います[7]。
セコイアの分布地図(最北のCalaveras Big Treeは表示されていない):最上はMercedとTuolumne Grove。ヨセミテ国立公園の最南端にあるのはMariposa Grove、そしてすぐ南にFresno Groveがある。中央の空白地帯に一つあるのがMcKinley Grove。MuirはMariposa Groveから始まり、groveを探し求めるように南下して行った。
参考資料:
*1 John Muir, “The Life and Letters of John Muir“(1924年) William Frederic Bade`編纂
*2 John Muir, “The Royal Sequoia,”Daily Evening Bulletin, Sept. 1875
*3 John Muir, “The Giant Forests of the Kaweah,”Daily Evening Bulletin, Oct-18, 1875
*4 John Muir, “The New Sequoia Forests of California,” Harper’s /
Volume 57, Issue 342, pp. 813-828 , Nov. 1878
*5 John Muir, “Our National Parks
*6 John Muir, “John of the Mountains” (1938) Linnie Marsh Wolfe編集
*7 John Muir, “Tulare Levels,” Daily Evening Bulletin, Oct-25, 1875
*8 John Muir, “South Dome,” Daily Evening Bulletin, Nov-10,1875
註:*2、*3、*7、及び*8は、Robert Engbergの編纂した”Summering in the Sierra”(University of Wisconsin Press, ISBN 0-299-09624-6)に掲載されている。
[1] 資料*1:7月31日の手紙:Mt. Whitneyから帰ってきばかりのMuirは、BlackのホテルからCarr宛に手紙を出し、シエラの西麓に植生するセコイアの調査を1−2ヶ月に渡って行うつもりであることを書き送っている:”I want to go with the Sequoias a month or two into all their homes from north to south, learning what I can of their conditions and prospects, their age, status, the area they occupy, etc.”そして資料*4では8月下旬に出発したと書いている。
[2] この調査行の様子は、Daily Evening Bulletin(資料*2,3)に投稿された。そして3年後には、Harper’s誌に”The New Sequoia Forests of California”と題して投稿された(資料*4)。そして26年後には、自分の本である”Our National Parks”(資料*5)にも書かれている。勿論日記にも記述がある(資料*6)。これらを比べ読むと、書き方に違いがあり、興味深い。特に”Our National Parks”の最後では自然保護がらみの記述が目立つ。”Summering in the Sierra”を編纂したEngbergは、探査当時のMuirは伐採についてはあまり気にしていなかったと指摘している。
[3] 資料*2、Engbergの脚注:Muirが訪ねたFresno Groveは、1880年代にかなり伐採され、今ではNelder Groveとして残っているだけである。
[4] Mckinley GroveはWishon Reservorの西8マイルほどのところにある。Engbergによると、Muirはこのセコイアの群生について初めて紹介した。この頃Fresnoの羊飼いFrank Dusyは羊を連れてこのあたりを通りPalisades方面まで放牧に出かけていた(註:Palisade山群のすぐ北にはBishop Passがあり、その西側はDusy Basinと呼ばれている)。
[5] 現在の198号沿いのセコイア群。
[6] Log Meadowの北端にあるセコイアの倒木をくりぬいて作った小屋。Tharpは、1858年に初めてGiant Forest一帯を見つけた。
[7] セコイア探査の後、San Joaquin Valleyに出たMuirは、Fresnoの南に位置するTulare地方の町Grangerville(註:位置不明)で、当時広まりつつあった灌漑農業についての記事を書いた(資料*7)。そしてヨセミテ渓谷に戻り、Half Domeへ登頂。1912年出版の”The Yosemite”の”The South Dome”の章はこの記事を編集したもの。


[2.8] Half Dome登頂:1875年11月
セコイア探査の旅から帰ってきたばかりのMuirは[1]、11月10日に初登頂されたばかりのHalf Dome[2]に単独で向かい、第9登[3]を果たします。そのときのことは、Conway、Andersonらの挑戦記と共に、すぐさまEvening Bulletinに投稿されました。すでに最初の冬の嵐がきており、山々には雪が積もっていました。岩がすべりやすくなっていることや、天気も曇り空で、雪雲が近づいてきている危険にも関わらず、ポケットにはマッチがあり、最悪頂上で焚き火をしながら夜をしのげるだろうと、頂上を目指すことにしました。特に困難にあうことなくドームに登れ、そこからみた最初の景色をはとてもすばらしかったと書いています: ”My first view was perfectly glorious.”
しかしながら、切れおちている崖による視覚への影響のせいか、ドームの上から見るヨセミテ渓谷の眺めは、他の場所に比べて劣るとし、North Dome、アーチ、Little Yosemite Valleyなどの景色に細かいコメントも入れています。また彼らしく、頂上に生えていた松や植物についてもふれています。Muir本人としては、Half Domeの頂上をそのままにしておくため、梯子をかけることには反対していたようです。しかしながら、梯子が架かった今、木へのいたずら書きがおこなわれ、頂上は缶や瓶などのごみで散らかされることを憂えつつも、冬の嵐がすべてを吹き飛ばしてくれるだろうと楽観的に考えていたようです。
”I have always discourages as much as possible every project for laddering the South Dome, beleiving it would be a fine thing to keep this garden untrodden. Now the pines will be carved with the initials of Smith and Jones, and the gardens strewn with tin cans and bottles, but the winter gales will blow most of this rubbish away, and avalanches may strip off the ladders; and then it is some satisfaction to feel assured that no lazy person will ever trample these gardens.”
資料:
*1 ”South Dome, Its Ascent by George Anderson and John Muir – Hard Climbing but a Glorious View – Botany of the Dome – Yosemite in Late Autum. (From Our Special Correspondent.) Yosemite Valley, November 10, 1875.” San Francisco Daily Evening Bulletin, Nov. 18, 1875. 「John Muir Summering in the Sierra」に掲載。[註]1912年に出版された「The Yosemite」の”The South Dome”の章と比べると、違いがかなりあって面白い。たとえば「The Yosemite」ではブロッケン現象を書いているが、オリジナルには全く触れられていない。
*2 ”The Life and Letters of John Muir”, William Frederic Bade編纂(1924年)
[1] 「The Yosemite」でMuirは、Mt. Shastaから戻ってきた後の11月10日(Andersonの登頂から1〜2ヶ月後)に登ったと書いている。しかしBade[6]の5月4日付の手紙によれば、Shastaに行ったのは4月、また1875年11月2日には、妹にYosemite Valleyから手紙を出しており、”前夜、2ヶ月半のSierra Nevada Forestの旅から帰ってきた”と書いている。Wolfe[7]の本には10月20日付の日記があり、Tule(南シエラ)のMiddle Forkにてと書かれている。 
[2]John Muirの書いた「Yosemite」によると、バレーの住人John Conwayは、岩登りの得意な自分の子供たちをHalf Domeに向かわせます。鉄釘を岩の割れ目に打ち込み、それにロープを固定しつつ最後の斜面(現在のケーブルルート、斜度46度)を登らせるつもりでした。子供たちは300フィートの高さまで達しましたがそこから先は岩にドリルで穴を開けない限り突破できないことがわかります。そこでConwayは、子供たちに引き上げを命じます。その数年後(1875年)、同じバレーの住人George C. Andersonは、残されたロープを辿り、最高到達地点まで達します。そこからは、5〜6フィート間隔で岩にドリルで穴を穿ち、ボルトを打ち込んでいきました。ボルトはロープの固定と足がかりとして使われます。そして数日後(10月12日)、ついに頂上に達しました。
[3] Shirley Sargent,”John Muir in Yosemite”,Flying Spur Press
Muirは9人目、Galen Clarkは6人目の登頂者と書いている。出展は不明。また1919年のケーブル設営の裏話も書いている。それによると、Muirの友人だったM. Hall McAllisterが5,000ドルを寄付し、シエラクラブが工事をしたとのこと。


[2.29] Half Dome二度目の登頂、夜のTenaya Lake : 1876年8月
7月中旬、MuirはCalaverasのセコイアグローブを訪ね、Evening Bulletinに記事を投稿します。その後Murphy’s Campを経由しヨセミテ渓谷に入り、8月28日には、George Andersonと二度目のHalf Dome登頂を果たしました。ジャーナルには、8月のある日、Tenaya Lakeのほとりでキャンプをした夜のことがわずかに書かれています。三日月の夜空には星が瞬き、大熊座がトレイルのかなたに見えていました。湖に流れ込む水の音と、焚き火に照らされる木のもとで、かなり神秘的な気分を味わったようです。
資料:
 *1 Calaveras及びMurphy’s Campに立ち寄った事、及びHalf Dome登山に関しては、”John Muir:A Reading Bibliography”に掲載されているBulletinのタイトルと要約より。
 *2 Tenaya LakeでのキャンプはWolfeの”John of the Mountains”より。


[2.30] The Middle Fork of Kings River下降: 1877年10月
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1877年の前半、Muirはユタ方面での探査を行い、その様子をEvening Bulletinに投稿します。7月23日、サンフランシスコのSwett宅に戻ったMuirは、パサディナ(LA近郊)に移ったJ. Carr宛に手紙を書き、次の土曜日に訪問することを伝えています。この手紙の中で、数行ですがTuolumneの瀑布付近で過ごした事が触れられています:”I made only a short dash into the dear old Highlands above Yosemite, but all was so full of everything I love, every day seemed a measureless period. I never enjoyed the Tuolumne cataracts so much…”
パサディナではSan Gabriel付近を巡り、Bulletinに記事を2本投稿しました。9月3日にCarrに書いた手紙では、その後Santa Cruzに立ち寄ったことや、Bay AreaのMt. Hamiltonに登ったことが触れられています。その後Asa Grayらと共にMt. ShastaやMt. Lassen方面を訪ね[1]、ChicoのGeneral John Bidwell家を訪ねます。10月10日、にはサクラメントからBidwellに手紙を出し、Chicoから手作りのボートで下ったサクラメント川のことをかなり長く書き綴っています。
そして、いよいよMuir最後のシエラネバダでの「探検」旅行が始まります。それはWhitney隊の試みを退け、不可能とされた[2]South ForkからMiddle Fork of Kings Riverへの峠越えを試み、さらには谷の完全遡行をするものでした。残念ながら、このときの記録は1枚の手紙と絵葉書、そして日付不明の日記への短い書き込み、そして15年後、Century誌に投稿した”A Rival of the Yosemite”の一節でしか残されていません。12月3日、シエラから帰ってきたMuirはBidwellに手紙を出し、その報告をしています:
手作りのボートSnag-Jumperで[Chicoから]サクラメントについた後(10月3日)、蒸気船に乗り、サンフランシスコに戻ります。そこで荷物をおろし、汽車に乗り、セントラルバレー南部のVisaliaまで行き、そこからKaweah方面のHyde’s Millを目指します。そこで小麦粉などの食料をを仕入れ、Converse Basinに向かい、2日ほどセコイアの調査をしました。そしてSouth Forkに並行するように東へ進み、新たなセコイアの群生を発見しました。その後、Boulder Creekとの合流点でSouth Forkへと下り、流沿いに進み、現在のKings渓谷へと入ります。ここでも二日ほど滞在して、渓谷に昔あったであろう氷河の深さの推定、いくつかの滝のことを調べています。いよいよそこから12,200ft.の峠を越えて、Middle Forkの東側へと下ります。夜はこの峠[2]にある湖のほとりで過ごすことになり、気温は華氏22度まで下がり、雪も降り始めました。Bidwellからもらったキルトとフライをかぶって夜を過ごし、翌朝、日の出ごろには7,500フィートの安全地帯へと下降することができました(わずかに残る日記のエントリーは、そのときの雪嵐のことが書かれていると思われます)。山々は真っ白な雪で覆われていました。渓谷では「A New Yosemite Valley!」と表現するTehipite Valleyを発見します。”A Rival of the Yosemite”では、Tehipitee滝をはじめ、Valleyの様子がわずかですが書いてあります。最後の数日はほとんど食料が切れてしまい、かなりの空腹に悩まされましたが、どうにかSouth ForkとMiddle Forkの合流地点までの、渓谷の完全遡行を果たすことができました。そのあとはHyde’s Millへと登り、食料を再補給、Visaliaへ戻り汽車でMercedへ向かい、そこから馬車でSnellingへ、最後は徒歩でHopetonの町へ行きます。そこでは再びボートをつくり、Merced、San Joaqin川を下り、Martinezへ寄港し(初めてStrentzel家を訪ねた後)、Mt. Diabloを超え、サンフランシスコへと戻ってきました。
これ以降も幾度とヨセミテ・シエラに出かけるMuirですが、探検・冒険性の高い旅行はこれが最後となります。
資料:
*1 John Muir,”The Life and Letters of John Muir”(1924) William Frederic Bade編集
*2 Linnie Marsh Wolfe, ”John of the Mountains: The Unpublished Journals of John Muir” (1938) , The University Press
*3 John Muir,”South of Yosemite”, Frederic R. Gunsky著(1968,1988年), Wilderness Press
*4 John Muir,”A Rival of Yosemite”,The Century / Volume 43, Issue 1, pp. 77-97, Nov. 1891
[1] Mt. LassenについてはWolfeの”Son of the Wilderness”より。
[2] Whitneyの”Yosemite Guide Book”(1870)4章より:”Three days were spend by the party in trying to find some place where the ridge between the forks of the King’s could be crossed with animals, so that the party could reach the middle form and thence make their way to Mount Goddard. This was ascertained to be impossible,…”
[3] Gunskyはこの峠をCirque CrestかWindy Ridge付近としていますが、*4ではCopper Creekを登って峠を越えたとかいてあります。地図ではMuirのCopper Creekルートを使っています。


[2.31] 氷河説をヨセミテで講演:1879年6月
1879年6月中旬、4本のコラム記事がSan Francisco Evening BulletinとSunday Chronicle紙上に掲載されました。これらは、Muirがヨセミテ渓谷で行った、自説のヨセミテ渓谷氷河形成説の講演について報告したものです。6月12日付けのBulletin紙は、”His lecture was enthusiastically received and later more than one hundred people joined him on a climb to Upper Yosemite Falls”、6月15日付けのChronicle紙は”The latter fairly electrified his audience, and over a hundred followed him up the Eagle Point Trail. This was fun for him for he leapes over the crags like a goat, but it must have been a hard road to travel for those unacustommed to mountain exercise.”と、Muirの講演がかなり受けていた様子が書かれています。さらに6月13日付けのBulletinは、前日の夕方の2度目の講演(「Mountain Sclupture」)に続き、Muirは昼のGlacier Pointで200人を前に三度目の講演をし、Whitneyの説を支持していたCookがMuir説に傾いたこと、そして夕方には、焚き火の前でセコイアの分布について4度目の講演をしたと書いています。
参考:
上記は、Kimesの”John Muir: A Reading Bibliography”の「Reports of Lectures and Interviews」の章に掲載されている、4っの記事の要約に基づいています。引用はそのままの通りです。Wolfeはこのヨセミテ講演に関して”Son of the Wilderness”の中(pp. 202-203)で詳しく書いています。


[2.32] 妻Louieとのヨセミテ旅行: 1884年7月
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Louie(馬上)と鞭を持ったMuir(Ehrlich著の”John Muir: Nature’s Visionary” pp. 169の写真の一部) 
1884年の夏、Muirは妻のLouieとヨセミテ旅行に出かけます。手元には関連する資料がないので、そのままStephen Foxの”The American Conservation Movement”での引用を使わせていただくことにします。それによると、LouieがMartinezの両親に宛てた手紙には”The journey was hard for him and he looks thin and pake and tired. He must not leave the mountains until he is well and strong again.”と書き、Muirの健康があまりいいものではなかったことをうかがわせます。またGretel Ehrlich著の”John Muir:Nature’s Visionary”169ページにはこの時Muirが書いた挿絵入りの手紙の写真があり、Muirが棒でLouieを押して山を登る様子や、Louieの乗った馬を追い立てる様子が書かれています(著作権に抵触しない程度に写真を撮ってみました)。一部読めるところは”…very funny when …the mountain with the man behind with a stick whipping the horse to make him go fast.”です。Foxによると費用は500ドル、これ以降Louieがヨセミテに行くことはありませんでした。
資料:
”The American Conservation Movement:John Muir and His Lagacy”, Stephen Fox著, The Univ. of Wisconsin Press(1981年)
”John Muir Nature’s Visionary”, Gretel Ehrlich著, National Geographic(2000年)


[2.33] Tuolumne Campfire: 1889年6月
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Waterwheel滝(Tuolumne渓谷)
1889年6月の、Century誌編集員Robert Underwood Johnsonとのヨセミテ旅行は、Muirの後半生に大きな影響を与えることになります。これがきっかけとなり、翌年には、ヨセミテ国立公園の設立に関して、下院公地委員会で発言するJohnsonのために地図を作ったり、同誌にヨセミテに関する二つの記事を投稿します。以降、シエラクラブの設立、Forestry Commissionの森林保存区視察旅行への参加、ヨセミテ渓谷の国立公園編入やHetch-Hetchyダム化反対運動などと、自然保護運動に深く関わっていくことになります。Johnsonはその自伝”Remembered Yesterdays”の中で、この旅行について詳しく書き残しています。
Johnsonは”Gold-Hunter”という連載を企画するために、サンフランシスコを訪れます。到着を知らせる手紙に応じて、MuirはPalace Hotelを訪ねてきます。いつまでたっても自分の部屋に上がってこないので、どうしたのか訊ねてみようとした矢先、”Johnson, Johnson! where are you?”という声が聞こえてきました。答えに応じて現れたのがMuirで、最初の言葉は、”I can’t make my way through these confounded artificial canyons. There is nothing here to tell you where to go. Now, if you were up in the Sierra, every tree and mound and scratch on the cliff would give your direction. Everything there is as plain as a signpost, but here, how is one to know?”だったそうです。シエラならば木や岩壁などのサインがあちこちにあり、すぐ行き先がわかるのに、このホテルの人工の渓谷(通路のこと)はどう進んだらいいかわからないという、Muirならば本気で言ったとも思えるような話です。
数週間で仕事を終えたJohnsonは、Muirと連れ立ってWawonaに行き、そこでセコイアを見学します。行く途中Muirは、あれがDouglas Firsだ、これがSilver Firsなどと子供のようにはしゃいで木々を指し示したと書いています。翌日(6月3日)はヨセミテ渓谷に向かいます。JohnsonはInspiration Pointで見た最初のヨセミテの景色にかなり興奮したようです。渓谷の観光を終えた後は、ロバに乗り、ヨセミテ滝沿いのトレイルを登り、Tuolumne Meadowsに向かいます。途中Muirから、スコットランドやウィスコンシンでの、子供の頃や、発明、大学在籍時代、そしてCubaへの旅行のことなどをかなり聞かせてもらったようです。1868年にサンフランシスコに到着したときのことにもふれ、町の観光もせず、すぐさまヨセミテへと向かったそうです。パッカーのPikeを入れた三人はSoda Springsに到着し、そばの滝で、キャンプをすることになります。
次の日は快晴に恵まれ、Tuolumne River沿いに下っていきます。Muirの歩くスピードは速く、慣れない者にとって、ついていくのは大変であり、その歩き方はインディアンから習ったらしい、と面白い記述がなされています。やがて1,000フィートの岩壁に囲まれたゴルジ地帯(現在のGlen Aulin付近)に着きます。滝には飛び交うWater Ousel(もしくはOuzel、カワガラス)がいました。さらにボルダーやマンザニータ(潅木の一種)で埋まる渓谷を下っていきます。Muirにかなり手を貸してもらったものの、Johnsonはかなり参ってしまいますが、どうにかWater Wheel滝を見る地点までたどり着き、そのすばらしさを書き残しています: ”…one of the most beautiful spots I have ever seen, where the rushing river, striking pot-holes spots in its granite bed, was thrown up into a dozen water wheels twenty feet high!” この日のマンザニータの藪漕ぎの思い出は、”adventure with the manzanita”と、後に折を見てはMuirに言われたそうです。
Soda Springsの焚き火の回りで出た話題のひとつは、ヨセミテ国立公園の設立運動を起こそうというものでした。Johnsonが、昔Muirの書いた花の咲き乱れる、美しいメドウが全く見られなかったことに触れると、Muirは、”No, we do not see any more of those now. Their extinction is due to the hoofed locusts.”と、羊によって荒らされてしまったと返答します。そして、羊たちは見える草だけでなく、根まで掘り出して食べてしまうために、後には荒地しか残らず、このことが土地の保水効果をなくし、春には水が一気に流れ出てしまい、夏には山に、ほとんど水がなくなってしまうと説明しました。Johnsonはそれに応じ、”Obviously the thing to do is to make a Yosemite National Park around the Valley on the plan of Yellowstone”と、ヨセミテ国立公園を作る提案をしました。以前に公園を作るような動きがあったのかという問いかけに、Muirは、カリフォルニア出身の上院議員Newton Boothが、昔提案したものの、立ち消えになってしまったと答えます。公園の必要性を強く感じたJohnsonは、すでにあきらめかかっていたMuirに強く訴えます。Johnsonの考えたシナリオは、 まずMuirがCentry誌に、ヨセミテに関する二つの記事を書くこと。最初の記事(”The Treasures of the Yosemite”)でまず大衆の興味をひきつけ、次の記事(”The Proposed Yosemite National Park”)で、公園の境界などを提案する。そして自分は、(著作権関連の運動で勝手を知った)連邦議会に行き、その公地委員会で、写真とMuirの記事を持って、アイデアをアピールするというものでした。さらに委員会には知り合いの議員のHolmanとPlumbがおり、助けてもらえるので、問題はないだろうと説明すると、Muirもさすがに同意しました。こうして以降25年近くに渡る、Muirの自然保護運動の一歩が踏み出されました。
資料: ”Remembered Yesterdays”, Robert Underwood Johnson (1923年) pp. 278-289.
参考: 翌1890年、Johnsonは、偶然にもSouthern Pacific Railwaysとつながりのあるカリフォルニア州の上院議員Vandeverが提出した、ヨセミテ国立公園設立法案「HR8350」に便乗する形で、6月2日に下院の公地委員会で、Muirの描いた地図に基づき、Vandever境界の拡大を訴えます。が、HR8350案は立ち消えてしまいます。8、9月にはMuirの投稿がCentury誌に掲載されました。当時出版数20万のCentury誌が、議員らに影響を与えたのについては不明です。9月、Sothern Pacific RailwayのZumuwaltはセコイア国立公園がらもで、ワシントンでロビー活動を行っていました。9月の会期末、新法案「HR12187」が突然浮上し、何の反対に遭うこともなく上下院を通過、10月1日に、”An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations”としてHarrison大統領がサインすることになりました。ここで注意すべきは、法案のどこにも「公園」という言葉が使われていないことです。このタイトルのおかげで、反対派の注目を引かずにうまく法案を通せたという説があります。


[2.34] A Rival of the Yosemite: 1891年6月
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Muirの歩いたシエラネバダ(続き)
1891年5月28日、Muirは画家のRobinsonと共にSan Franciscoを出発し、Kings渓谷と出来たばかりのGeneral Grant及びSequoia National Parkへと向かいます。これは1873年10月、1875年7月、そして1877年10月の旅行に続き、Muirにとって4度目の訪問となります。日記[1]によると、5月30日にGeneral Grant National Parkを訪ね、6月1日にはKings渓谷へと下り、そこで2週間近くをすごしています。Robinsonと共に渓谷沿いの岩山(Second Sentinel)に登ったこと、出会った少年が熊をしとめた話、帰るときに増水した川にミュールが落ち、それを助けたことなどのエピソードが書かれています。Muirは渓谷の様子について克明な記述を残しており、そこがヨセミテ渓谷とかなり似た形状をしていると書いています[2]。MuirはここでYosemiteという言葉をヨセミテ渓谷のような形状の谷と一般化し、The Kings River Yosemiteと使っています。
さてMuirは同年11月、Century誌に”A Rival of Yosemite: The Canyon of the South Fork of King’s River, California”[2]という記事を掲載します。これはKings渓谷の概略、アプローチ、渓谷景観の詳細な記述、過去4回の自分の探査行などをRobinsonの描いたスケッチと共にまとめたものです。78ページ目(記事の第2ページ)には、出来たばかりのSequoia National Parkの地図があり、そこにKings渓谷を含む広大な一帯を追加する提案がされています[3]。日記と”A Rival of Yosemite”を読み比べると、後者ではかなり自然保護を訴えていることに気づきます。また日記では淡々と書きとめた熊狩りの話ですが、動物愛護風の書き方に変わっています。
写真:Kings渓谷の上半分を上流から望む。
参考:
[1]”John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir”(Linnie Marsh Wolfe編)
[2]6月1日のエントリーは、渓谷の様子について詳しく書いています。しかしWolfeは脚注で、オリジナルの日記が判読不明なためCentry誌の記事を使って代用したと書いています。注意して読み比べると、数行を除いて完全なコピーとなっています。
[3]”Remembered Yesterdays”(Robert Underwood Johnson著)によると、1891年5月にJohnsonは、Muirに依頼して作らせたKings渓谷付近の地図を内務省長官Nobleに送り、その一帯を保護区とするように提案しています。Muirは常日ごろ、ヨセミテ渓谷よりKings渓谷のほうがよりすばらしいと主張していたとの事です。 ”May, 1891, I sent him a sketch map which at my request Muir had made of the Kings’s River Canyon region to support my proposal that a large reservation should be made to include that gorge, which Muir always asserted was more wonderful than the Yosemite.” これにNobleは8月28日に返信し、Kings渓谷をSequoia NPに組み込む件は、機会があったら大統領に尋ねてみると返答しています。 ”It will greatly please me to bring the additional reservation for the Sequoia National Park before the President as soon as an opportunity is afforded. The necessary legislation will also be asked.”


[2.35] Tuolumne渓谷、ハイシエラ、ヨセミテ渓谷探訪:1895年8月
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写真:Glen Aulinの谷 ”First there is a charming yosemite valley a mile or two long, three-quarters of a mile wide, with magnificent sugar pine….” John Muir (1895年8月8日)
1895年の夏、Muirは6年ぶりに1ヶ月半にわたるヨセミテ旅行に出かけました。7月30日にMariposaの南にある鉄道の終着駅の町Raymondを出発し、8月7日にはTuolumne滝の上部[1]に到りました(途中の経路は日記に記されていません)。そこからはボールダー越えをしたり、獣道を辿ったりして渓谷を単独で下っていきました。途中、幾度かガラガラ蛇に遭遇します。さすがのMuirも怖気ついたのか、Muirゴルジ付近で露営したときには、蛇が這ってこないような4×5メートルほどの巨大な岩を見つけ、その上で焚き火をして夜をすごしています。
”I decided to camp on top of a large boulder a snake could not climb except by a log that leaned against it. This I managed to remove. This boulder was about twelve by fifteen feet, sloping like a house roof, but a slight hollow in the middle enabled me to keep from falling…”
しかしながら、次の日ゴルジ地帯を遠巻きし終わり、Tuolumneの流れに水を飲もうと近づくと、またしても鳥を襲おうと待ち構えていた大きなガラガラ蛇を踏みそうになってしまいました。ともかく、蛇には咬まれることなく無事にHetch-Hetchy渓谷まで下ったMuirは、食料も切れた13日、Big Oak Flat Road沿いのCrocker’s Station(現在のBOF公園入り口手前2マイル付近、Evergreen Rd.と120の交差点近く)に向けて登っていきます。すると途中で南カリフォルニアから来たTheodore P. Lukens(1894年からSierra Clubメンバー)に出会います。食料をたくさん持っているということで誘われ、Muirは再びHetch-Hetchyへと引き返しました。二人はHetch-Hetchy渓谷の真ん中辺りで一週間ほど滞在することになります。Lukensは簡易型のテーブルと食器セット、ベーコン、ジャガイモ、トマト、パンとかなりの贅を尽くしていたようで、Muirは自分のプリミティブなスタイルといかに対照的だったかを一言綴っています。21日にはCrocker’s Stationへと戻り、24日はテナヤレイクでキャンプをします。そこでは羊によって荒れた植生がよみがえってきていることを書き留めています。その後26日に嵐で雪が残った中、Mt. Connessの登山をします[2]。31日にはすでにヨセミテ渓谷に戻り、数日をかけて、荒れ果ててしまった昔自分が住んでいたキャビン、Hutchingsの小屋、Lamonの果樹園、そしてLamon、Floy (Squirrel) Hutchingsらの眠る墓地を訪ねました。
Martinezに戻ったMuirは12日にJohnsonへ手紙を書き、(国立公園になってから)騎兵隊がパトロールし羊がヨセミテ一帯に入れなくなったため、ハイシエラが羊などのダメージから回復してきていること。しかしながら、ヨセミテ渓谷は二人が訪ねたとき(1889年)に比べ、さらに状況は悪化しているとかなり悲観的に書いています:”No part of the Merced and Tuolumne wilderness is so dusty, downtrodden, abandoned, and pathetic as the Yosemite. It looks ten times worse now than when you saw it seven years ago….I have little hope for Yosemit. As longas the management is in the hands of eight politicians appointed by the ever-changing Governor of California, there is but little hope.” 
資料:
”John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir”(Linnie Marsh Wolfe編)
”The Life and Letters of John Muir”(William Frederic Bade編)
”John Muir in Yosemite”(Shirley Sargent著)
”John Muir and Sierra Club”(Holway R. Jones著)
[1] 8月7日には”Camped at the head of the Grand Cascade”と書いてあります。これはTuolumne滝の上と思われます。次の日は”Camped at the mouth of Ouzel Creek, two hundred yards below the foot of the second Grand Cascade…”とあり、ここはWhite Cascade滝のすぐそばにあるGlen Aulin HSC付近(もちろん当時はなかった)と思われます。Ouzel CreekはConness Creekを示しているようです。そこから先のTuolumne渓谷の記述は”First there is a charming yosemite valley a mile or two long, three-quarters of a mile wide, with magnificent sugar pine….”と、Glen Aulinの谷の様子と一致します。
[2] 日記には”Assending Mount Conner”(スペルミス?)とのみ書いてあるだけで、登った様子などは全く書かれていません。”John Muir and Yosemite”でSargent女史は、二人がMt. ConnessとMt. Danaを二日で登ったと書いています(資料出所は不明)。


[2.36] Sierra Club Outing @Tuolumne meadows: 1901年7月
<調査中>


[2.37] Sierra Club Outing @Kings Canyon: 1902年7-8月
10日間にわたるシエラクラブのアウティングで、South Fork of the Kings(Kings渓谷南俣)に出かける。その後馬を使い友人のKeithらとGiant Forest、Kern渓谷に行きMt. Whitneyも登る。帰りはGiant Forest、Visalia、Fresno。FresnoからConverse Basinを訪ねている。
”South of Yosemite”(Gunsky著)の巻末資料(214ページ)。


[2.38] Roosevelt大統領とのヨセミテキャンプ: 1903年5月
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Roosevelt大統領がヨセミテ渓谷に行くという情報を得たJohnsonは、Rooseveltに手紙を書きMuirをガイドとして同行させることを薦めました。Rooseveltはその申し出に喜び、JohnsonはMuirがサンフランシスコで落ち合えるように準備を進めます。やがてMuirは1903年3月14日、University of Californiaの学長Benjamin I. Wheeler気付でRooselveltから同行を依頼する手紙を受け取ります:
”I do not want anyone with me but you, and I want to drop politics absolutely for four days, and just be out in the open with you.”
Johnsonによれば、大統領は自然の中で過ごしたかったものの、カリフォルニア州の政治家たちによって別のプラン(Muirによれば渓谷に有名コックを呼び寄せての大歓迎会)が予定されていたそうです。 Muirは新聞記者のインタビューに答え、Rooseveltとヨセミテ渓谷からキャンプに出かける予定であることを述べています:
”’Yes,’said Mr. Muir yesterday, ‘I am going on a little trip through the Yosemite region with the President. He wrote me asking that I should see him through the country, and of course I said I would go. It is only a little trip. You cannot see very much of the Sierras in four days, and you know that’s all the President could spare.” ”It is ony a little trip,…You can’t see much of the Sierras in four days…After we get to the valley, the President and I will get lost.”
これが大統領周辺に群がる関係者をごまかすためのブラフであったのかどうかは確認できませんが、一行はこの予定はかなり異なった行動をとることになります。以下はLeidegの手記を要約したものです:
5月15日、Roosevelt、Muir、カリフォルニア州知事のPardee、UC学長のWheeler、Rooselvelt秘書のLoebら8人の乗った11人乗り馬車は、30名の騎兵隊に護衛されてRaymondからMariposa GroveのGrizzly Giantの元へ直接やってきました。木の根元での記念撮影とセレモニーの後、Muir、Roosevelt、レンジャーのLeidigとArchie Leonard、軍のパッカーであるJacher Alderを残し、騎兵隊員や他の関係者らはWawonaへ去っていきます。フライドチキン、ステーキ、コーヒーの夕食の後、疲れていたRooseveltは、Grizzly Giantの脇に40枚の毛布を重ねて作ったベッドの上で早々と寝入ってしまいます。次の日(16日)の朝は6時30分に出発、Wawona(Hotel)を迂回してEmpire Meadows、Bridalveil Meadowsを越えてGlacier Pointを目指します。途中には5ft.近い残雪がありました。天気は悪化し雪や風が強まってきました(5インチの積雪)。MuirはSentinel Dome傍の尾根でキャンプをすることをすすめましたが、Leidegは水やキャンプ地の便などから、Glacier Pointそばまで降りることに決めます。その夜のキャンプファイアーで、MuirとRooselveltはMuirの氷河によるヨセミテ渓谷形成説、森林保護、国立公園を新たに設定することなどについて話したそうです。16日の朝はGlacier Pointで打ち合わせ通りに記念写真を撮ってから、Little Yosemiteへと下ります。そこではすでに多くの出迎えがいたようです。午後2時にはCamp Curryに入り、道路をふさぐ群集を掻き分けてSentinel Bridgeそばへと向かいます。そこで画家Jorgensenの絵を見た後、3日目のキャンプをするためにBridalveil Fallそばのキャンプ地(Muirが推薦した場所)へ向かいました。ここでも多くの人々が見学に集まり、Rooseveltはかなり辟易し、Leidigに立ちのかさせるように命じました。戻ってくると今度はすぐに料理を命じ、すぐにベッドで大いびきをかいて寝てしまったそうです。次の日朝食の後、RooseveltはLeidigとLeonardに次に様な言葉を残しMuirとともに馬車で去っていきました:
”Boys, I am leaving you. Good-bye, and God bless you.”
さてRooselveltは自伝の中で二つの面白い話を書いています。ひとつは鳥について質問したとき、Muirが鳥の鳴き声に全く気にも留めず、その上鳥一般について何にも知らないことを発見したことです(Water Ouzelは例外と思われます)。これにはかなり驚いたようです。もうひとつはMuirとの別れ際のやり取りです。ちょうど別れの挨拶を言い合うときになって、Muirは突然言い忘れていたことがあったといい、Muirの友人(Charles. Sargentのこと)がRooseveltにこれからMuirと出かけるロシアと清の皇帝に便宜を図ってもらうような手紙を書いてもらいたがっている旨を話します。Rooseveltに個人のためにそのようなことは出来ないとたしなめられると、Muirはとりあえずもらった手紙を見てくれと手渡します。それには便宜の件だけでなく、Gifford Pinchot(農務省森林部長、1905年にはForest Serviceへと局への格上げ)の影響を受けたRooseveltの森林政策に関する批判も書いてありました。Rooseveltは笑い飛ばし、Muirに手紙に何が書いてあったか覚えているかと訪ねます。Muirは中にRooseveltへの批判があったことを思い出し、手紙を返してもらいました。Rooseveltはロシアと清の皇帝には手紙を書かなかったものの、大使たちには便宜の手紙を書き送ったとのことです。
この二人のヨセミテキャンプでの会話がRooseveltのその後の政策にどう影響があったのか、知る手立てはありません。ともかくもRooseveltがその在任中に、多くのNational ForestやNation Park、そしてNational Monumentなどを作ったことは事実です。
写真:Glacier PointでのRooseveltとMuir(連邦議会図書館の写真をコピー、リサイズしました)
資料:
”Theodore Roosevelt and John Muir: 100 years ago and today”(Gary Koy著)Yosemite Association, Spring 2003Volume 65 Number 2
”Rmembered Yesterdays”John Muir in Yosemite”(Margaret Sargent著)
”Son of the Wilderness: The life of John Muir”(Linnie Marsh Wolfe著)
”The Life and Letters of John Muir”(William Frederic Bade編)
”The American Conservation Movement: John Muir and His Legacy”(Stephen Fox著)
”John Muir: A Reading Bibliography”(William F. Kimes and Maymie B. Kime著)
”Theodore Roosevelt: An Autobiography”(Theodore Roosevelt,1913年,第9章)
”Outlook, vol. 109, pp. 27-28, January 16, 1915”(Theodore Roosevelt, 1915年)


[2.39] Hetch Hetchy渓谷旅行:1907年10月
KeithとHetch-Hetchy渓谷に出かける。
<調査中>


[2.40] Sierra Club Outing@Kern River:1908年7月
シエラクラブのアウティングで、1月ほどKern渓谷付近を探訪。Porterville、Springville、そしてNelson’sを経てKern Lakesへ行く。そのあとメインキャンプ地のKernとBig Arroyoの合流地点へ行く。Mineral KingsとRedwood Meadows経由でGiant Forestへと行く。
”South of Yosemite”(Gunsky著)の巻末資料(214ページ)。


[2.41] ヨセミテ渓谷旅行:1909年4月
<調査中>


[2.42] Taft大統領と4マイルトレイルを下る:1909年10月
<調査中>


[2.43] 最後のシエラ旅行:1912年7月
*車を使いSanta Barbara、Pas Robles経由でGiant Forestを訪ね、最後にヨセミテへ行く。
”South of Yosemite”(Gunsky著)の巻末資料(214ページ)。
*”Your letters of July 6th and 23rd and 26th reached me only a day or two ago because I was away on a trip to the Giant forest of the Kaweah and Yosemite.” Aug 2, 1912 Johnson宛の手紙より

第三章 ミューアと自然保護

[3] Muirと自然保護


[3.1] 背景: 連邦の森林政策
1864年のGeorge Perkins Marshによる「Man and Nature」の出版をきっかけに、連邦政府の森林保護への関心は高まりはじめ、1891年にはForest Reserve Act(森林保留区法)が制定されることになります。これにより大統領は、議会の承認なくForest Reserveを指定し、乱伐採などによる森林破壊からはとりあえず守ることが可能になりました。1897年にはForest Management Act(別名Organic Act)が制定、そのForest Reserveの「資源」としての利用目的が明確にされます。最初Forest Reserveは内務省の管轄下にありましたが、1905年には農務省のForest Service(森林局)に移譲され、やがてNational Forest(国有林)と改名し、森林の保全管理が行われていくことになります。一方Muirは、1889年夏のRobert Underwood Johnsonとの出会いをきっかけに、自然保護運動に関わっていくことになります。その基本は、自然は「レクリエーショナル・ツーリズム」を楽しむ所と考え、それに相反するような土地利用から守るというものでした。しかし、Muirはあらゆる自然を守ろうとしたわけではなく、Forest Reserve内での伐採やダムの建設は認めていましたし、Hetch Hetchy渓谷への道路やホテル建設、ヨセミテ国立公園への自動車の立ち入りなどへも賛成していました。クライマックスともいえるHetch Hetchy論争では、友人であった森林局長Pinchotがダム建設派の立場をとったこともあり、これら二つの保護の考え方は衝突をすることにもなりました。1913年にダム建設は承認されましたが、この長期にわたる論争の間に、国立公園の管理に関して問題意識が高まり、1916年には内務省にNational Park Service(国立公園局)が設立されました。
Muirの自然保護運動を詳しく見ていく際に、この連邦の森林保護政策の流れと登場人物はぜひ抑えておきたいところです。かなり大雑把になりますが、以下数回で要点をまとめてみたいと思います。
失われる森林
入植者たちは、次々と森を切り開き、農作物を植え自然の景観を変えてきました。1850年代までの200年の間に、100Mエーカー近いアメリカ北東部の森林が、改良や開墾などによって消滅してしたといわれています。60年の後には、さらに190Mエーカーが消失してしまうことになります。特に19世紀の伐採は、その多くが”cut-and-run”というもので、切り開いた後は、土地にかかる税金逃れのため、すぐ土地を売り、別の森林を求めて移っていくというものでした。人々は、伐採の後、傍を流れる川が浅くなってしまったことを指摘していました。また売り物になる木のみを運び出し、そうでない木をそのまま放置したため、森林火災の危険も高めてしまうことになりました。
しかし国土には依然広大な森林が広がり、伐採の波は入植者の後を追うように、1800年代初期にはメイン州からニューイングランドへと進み、南北戦争の頃までには五大湖周辺に到り、1880年代にはアメリカ中西部、そして太平洋岸へと向かいつつありました。また伐採業者はHomestead法(1862年)や、Southern Homestead法(1866年)といった法律をうまく使い、次々と広大な土地を、伐採のために安く手に入れていきます。鉄道会社は、入植のために、土地を切り開き線路を敷いていきます。木は線路の枕木として、さらに燃料としても必要でした。このような乱伐採が、社会に与える影響を杞憂する人も一部にはいましたが、特に大きな問題として取り上げられることはありませんでした。
George Perkins Marshの「Man and Nature」
1864年、George Perkins Marshが「Man and Nature:Or, Physical Geography as Modified by Human Action」を出版します。これはMarshがヨーロッパで暮らしていたときに研究したエコロジー、人間が土地に与える影響についてまとめたものでした。土地、水、そして森林の関連に基づき、ヨーロッパの森林の破壊の歴史をまとめたこの本は、その後版を重ね、後に森林の保護の重要性を唱える人々に大きな影響を与えることになります。Muirが1876年にサクラメントの新聞に投稿した記事”God’s First Temple”も、明らかにこの本の影響を受けていることが伺えます。1873年、連邦政府は、森林を増やしつつ入植を推進するための法、Timber Culture Actを制定し、西部平原地帯で、40エーカー相当の森林を植樹し、10年にわたり健全に育てれば160エーカーの土地を譲渡するというものでした。しかし実際にこれを利用したのは畜産業者で、放牧のための広大な土地入手を促すことになってしまいました。
Franklin HoughとDiv. of Forestry(森林部)の設立:1881年
このころ、American Association for the Advancement of Science(AAAS)の中心人物であったFranklin Houghは、連邦国勢調査局に集められた、森林に関する資料を解析していました。それは、材木の生産が減少している州と増大している州があり、森林資源の枯渇がおき始めていることを示していました。Houghは1873年8月にAAASの会合で、Marshの説に基づき、”On the Duty of Goverment in the Preservation of Forests.”を発表して、政府による森林保護の必要性を説きます、そして当時の大統領Grantに木のcultivation(耕耘)や森林の保存を訴えました。やがて下院公地委員会のメンバーでもある議員Mark H. Dunnellの協力もあり、$2,000の予算が認められ、Houghは1876年に最初の連邦森林官に任命されます。この後1878年、1880年、1882年と報告書「Report on Forestry」を出し、連邦による森林の管理の必要性などを説きます。1881年には成果が認められ、農務省内にDiv. of Forestry(森林部)が設立され、その初代部長となりました。1882年には「Elements of Forestry」を出版し、アメリカで最初の実践的な森林学を説きましたが、やがて1883年上司との対立で降格され、1885年に退官してしまいます。
Charles Sprauge Sargent
Charles Sprauge Sargent(註:1893年にR. U. Johnsonの紹介でMuirと初めて出会う。後にMuirと共にアラスカや世界旅行をする)は、1872年にHarvard大に新しくできた、Arnold Arboretum(樹木園)の所長に就任し、Frederick Law Olmstedの助力を得て、Boston市の協力を働きかけていました。またHarvard Botanical Gardenの所長も一時勤め、Asa Gray(註:Muirのヨセミテ生活時代から文通)の仕事も手伝っていました。ドイツ生まれの内務省長官Carl Schurzは、Houghの指摘する連邦政府主導の科学的な森林管理の必要性を認め、1880年版の国勢調査書(1884年発刊)のために、Sargentに報告書作成を依頼しました。そのタイトルは”Report on the Forests of North America”で、木のカタログだけでなく、森林火災の統計、火事の原因(伐採、狩猟、蒸気機関車など)、家畜や、鉄道などによる森林へのダメージ、メイン州での伐採後の様子などにも触れ、Marshが指摘したような結論と、森林の科学的管理の必要性を説いています。この仕事により、Sargentの名声は以降高まることになります。(註:1870年版国勢調査書にはWhitney隊メンバーだった、Yale大学教授のWilliam H. Brewerが”The woodlands and forest systems of the United States”という報告を書いています)。
三代目森林部長 Bernhard Fernow
1882年4月、ヨーロッパ(プルシャ)生まれのFernow(1876年に移民)は、オハイオ州で行われAmerican Forestry Congressの会合で、ドイツにおける森林政策の歴史を発表し、注目を浴びます。1883年と1885年の間はAmerican Forestry Association(AFA)の要職を勤め、数多くの啓蒙活動を行いました。やがてCleveland政権(第一期:1885年-1889年)の元、1886年には、アメリカで唯一の正式な森林学を学んだFernowは三代目の森林部の部長として就任することになります。が、森林部には依然管轄する森林はなく、その仕事は木や潅木などについて知りたい農業関係者にアドバイスをするというようなものでした。しかしながら、その12年間の任期中にFernowと彼のスタッフは、総6,000ページにも及ぶ報告書などを作成、また部の予算も増やしていくことに成功しました。
Harrison大統領とForest Reserve Act:1891年
1890年、AAASはBenjamin Harrison大統領(任期:1889年-1893年)に、西部山岳地帯に恒久的に森林を残すための法案を創ることを提案します。法案を通す幾度かの試みが失敗した後、1891年3月、連邦議会の会期末に、内務省長官John NobleはTimber Culture Act(1873年に制定)を無効とする法(General Land Law Revision Act)の最後に(法的にはかなり際どく)小さな項目を付け加えることに成功しました。この第24項はForest Reserve Actとも呼ばれ、大統領が議会の承認なく、独自の権限のみで森林保留区を設定できることを許可するものでした。この時点で森林保留区は、その使用目的や管理のしかたが何も定められておらず、厳密には伐採、採掘、牧畜、道路の建設など、極端には人の出入りも禁止されたことになります。ともあれHarrison大統領はその権限を使い、1893年にホワイトハウスを去るまでには、ヨセミテや、セコイア・グラント国立公園を設立する法案にサインをしたのみならず(註:ヨセミテを国立公園と制定した法案の正式名称は”An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations.”で、「公園」という言葉を使うと反対が出るので、「Forest Reservations」という語が使われたことが指摘されています)、総計13Mエーカーもの広大な森林保留区を指定しました(それらは内務省の管轄となりました)。次期大統領のGrover Clevlandは、さらに5Mエーカーを追加することになりますが、政府が森林保留区での非合法な侵入や利用などに対する保護策を講じない以上、意味はないとして、その後の指定をとりあえず打ち切ることになります。
Gifford Pinchot
1865年、Gifford Pinchotは森林の伐採などで財を成した裕福な家庭(註:祖父の時代にフランスから移民)に生まれました。1885年の夏、大学に入学する直前に父親にForesterになることを薦められます。しかし、当時のYale大学には森林学を教える学部はなく、学生時代にはMarshの「The Earth as Modified by Human Action」(「Man and Nature」の改訂版)や、BrewerやSargentの国勢調査の報告書などを読んだ程度でした。卒業の前年には、FernowやSargentらに会い、アドバイスを受け、1889年にはヨーロッパへ森林学を勉強するため出かけました。ドイツではDietrich Brandisのアドバイスを受け、フランス、スイス、ドイツで学び、一年後に帰国します。Fernowから森林部への就職の誘いがあったもの、それを断り、プライベートのForesterとして仕事を始めることになります。
Cleaveland大統領とForestry Committe
1894年の初頭、Sargentの提案により、Robert Underwood JohnsonとPinchotらは、保有林に関して調査をする委員会を作るための法案を作りはじめますが、計画はうまく進みませんでした。1895年、National Academy of Science(NAS)のWolcott Gibbsの協力を得て、内務省長官がNASに依頼をするという形で委員会を作るというアイデアが生まれます。JohnsonやPinchotの努力が実り、1896年2月、内務省長官Hoke Smithからの正式依頼文書がNASへと送られました。これによりNational Forest Commissionができ、メンバーとしてBrewer、Henry Abbot、Arnold Hauge、Alexander Agassiz、Sargent、そしてPinchotが選ばれ、同年夏には森林の視察が行なわれることになります。Muirはこれに非公式メンバーとして同行し、Pinchotとの親交を深めることになります。Cleveland大統領(第二期:1893年-1897年)はCommissionに対して、1896年11月に演説するための森林管理の計画案と、森林保留区の候補地を推薦するように求めていました。結局、期日までに報告は出せず、South Dakota、Wyoming、Montana、Washiton、Idaho、Utah、そしてCaliforniaの州に、総計21Mエーカーの13の森林保留区を推薦するのみにとどまりました。Clevland大統領は、任期終了直前の1897年2月22日(ワシントンの誕生日)、それら保留区の設定を発表します。これは西部の人々を驚かせ、それを無効とするための追加案が作成中の予算案に盛り込まれました。大統領は法案への拒否権を発動し、ホワイトハウスを去りました。
McKinley大統領とForest Management Act (Organic Act)
National Forest Commissionは内部での意見がわかれ、その報告の取りまとめにかなり手間取り、新McKinley政権に提出されたのは1897年5月でした。これは、森林保護の重要性と森林保留区の現状を報告し、政府による管理の必要性、その為にヨセミテなどで行われているように軍を採用することが推薦されました。一方、議会では、上院の公地委員会の有力な議員Pettigrewが中心となり、森林保留区を管理するための法案の作成を進めており、1897年6月4日にはForest Management Act(別名Organic Act)の作成にこぎつけました。それは、森林保留区が森林の改良や保護、もしくは水流を守るためだけに設定されるものであること、そして国民のための継続した木の供給を行うためにあると定めているものです。さらには内務省長官がルールを作れることも許可しています。また成長した木や死んだ木などを売ること、そして売るための木を伐採するためにはマークをつけるといった細かい事項までが盛り込まれています。また大統領がすでに指定された森林保留区の修正も可能という項目も盛り込まれ、とりあえずClevland大統領が指定した森林保留区の実行化は、カリフォルニアを除き1898年まで留保されることになりました(後にそのほとんどは認可)。法案設立後Pinchotは、内務省長官Cornelius Blissからの特命を受けて、USGSと共に森林保留区をさらに調べることになります。
4代目森林部長: Gifford Pinchot
1898年、Fernowは12年間勤めた森林部を引退し、Cornell大学に新設されるアメリカ最初の森林学部で働くことになります。USGSの局長Charles Walcott推薦により、Pinchotは若干33歳で4代目の部長に就任しました。農務省長官James WilsonやMcKinley大統領のサポートも受け、PinchotはFernowのようなオフィスワーク的なものでは無く、フィールド志向の積極的な部の運営を行っていきます。まず同年10月にはCircular21計画を発動し、材木会社への有償のアドバイスを開始します。テキサス州のある会社は、1.2Mエーカーの森林の管理を委託し、50人近い職員が面倒を見ることになります。さらに1.5Mエーカー近い個人所有の森林管理の依頼が来、徐々に科学的森林管理の評判が広がっていきました。McKinley大統領は、おおむね森林保留区の管轄を内務省から農務省へと移すことには賛成でしたが、その実現がかなり困難であることを農務省長官のWilsonに漏らしています。1899年、Pinchotは内務省長官Hitchcockの森林保留区での放牧(特に羊)に関する質問に応じ、アリゾナでの視察を行った後、許可制でそれを認めるべきだとアドバイスをし、1900年には、当時のアリゾナ羊毛業者組合の実力者であったAlbert F. Potterを森林部に招き、以後の対策の担当を行わせます。1901年までには、森林保留区を所有する内務省との約束が取り決められ、内務省職員が森林のパトロールや、書類手続きをする傍ら、内務省の予算で農務省の森林部職員が林のチェックをし、技術的な管理をすることになりました。
Roosevelt大統領とForest Serviceの誕生
1901年7月、179人の職員を抱えた森林部はBureau(局)へと格上げされました。その2ヶ月後、McKinley大統領は暗殺され、副大統領のTheodore Roosevelt(TR)が、急遽後を継ぐことになります。TRは、1888年に社会に影響力のある上流階級のメンバーを中心に作ったBoone and Crockett Clubという狩猟家のための団体を作り、狩猟のための動物保護、1891年のForest Reserve Act、1894年のYellowstone Park Protection Actなど森林保護への支持を行っていました。PinchotもTRの推薦でそのメンバーとなっていました。また二人はTRがNY州の知事(任期:1898−1900年)であったときに州の森林に関する仕事で既知の間柄でした。まずPinchotが行った仕事は、TRが12月2日に議会で話す森林政策の草稿を書き上げることでした。それには”The fundamental idea of forestry is the perpetuation of forest by use.”と、森林を使いながら維持して行くという基本方針が盛り込まれまれました。TRはPinchotへ保留区の管轄の移譲に向けて働くことを約束しますが、簡単には実現しませんでした。この間Pinchotは、水面下で議員への工作を続けます(Pinchotの依頼を受けたシエラクラブも、カリフォルニアの議員に支持を働きかけていました)。1905年1月、PinchotはAmerican Forest Associationの協力で第二回目のAmerican Forest Congressを開催します。TRを名誉会長、農務省長官Wilsonを会長としForesterのみならず、材木、鉄道、牧畜、鉱山業のリーダーや議員を招き、森林と主要産業との関連、そして未来を見据えた森林資源の有効な使用を訴えるものでした。そのすぐ後、2月1日に連邦議会はTransfer Act(森林保留区の移転)を認め、63MエーカーのForest Reserve(森林保留区)は正式に内務省から農務省の管轄下へと移されました。7月1日にはもうひとつの法案が通り、森林局(Bureau of Forestry)はForest Serviceへと改名されました。このとき140ページほどの”The Use of the National Forest Reserves”(通称「Use Book」)というレンジャー用のマニュアルともいえる小冊子が発刊されます。その書き出しの部分で、Pinchotは、Forest Reserveの目的が産業のための木の恒久的な供給のためにあり、水流を調節する森林地帯を破壊から守ること、そして森林に関する不当な競争から地元民を守ると明言しています。そして森林が、地域そしてホームビルダーのため、政府の費用でパトロールされ、守られるものであると書かれています。そしてその最後には有名なフレーズ”…where conflicting interests must be reconciled the question will always be decided from the standpoint of the greatest good of the greatest number in the long run.”で締めくくっています。
1905年2月17日、PinchotはシエラクラブのColbyに、長期的にはHetch Hetchy渓谷へのダム建設案を支持する立場で、TRにもそう推薦したことを知らせます。これ以降、PinchotとMuirらとの関係は冷えはじめます。1907年には、Forest Reserveは正式にNational Forestと命名されました。この法案には、西部のいくつかの州(カリフォルニア、ネバダ、ユタは除外されていました)では、議会の承認なしでは、大統領がNational Forestを勝手に宣言できないようにする追加項目が付け加えられました。さすがのTRもこれを受け入れざるを得なかったため、法案のサインまでの10日間の間に、Pinchotに命じ資料を集めさせ、新たに16Mエーカーを指定してしまいます。これはMidnight Reserveと呼ばれるものです。これは議会の反感を買い、その後数年はForest Serviceへの予算獲得が困難になってしまいました。TRとPinchotと森林政策のピークとも言えるイベントは1908年にワシントンで開かれたGovernor’s Conservation Conferenceです。全州の知事と専門家がホワイトハウスに招待され、森林のみならず、鉱物、土地、水資源(水路、潅漑、電力、飲み水の供給源)等の有効利用と保全に関する会議が行われました。しかしながら、Muir、Sargentをはじめとする政策にかみ合わない考えを持つ自然保護派は招待されず、Johnsonのみがプレスの招待枠と使い(上司の命令によりしぶしぶ)参加しました。TRは、その2期にわたる任期中、1903年のMuirとのヨセミテキャンプや、1906年のヨセミテ渓谷を連邦に返還する法案、Antiquities 法案(大統領がNational Monumentの指定することを許可する法案)へのサインを始め、また5つのNational Parkと18のNational Monumentの設立法案にサインをしていますが、現実路線としては、Pinchotと共に「資源」確保のための森林政策を協力に推し進めました。Hetch Hetchy問題では、1907年にMuirから助力を求める手紙を受け取りますが、それには、気持ちはわかるとするものの、判断は多数の支持によってなされなければならないと返信し、内務省長官James R. GarfieldやPinchotに判断を委ねています。そして、1909年の退任時までには、National Forestの総面積は148Mエーカーとなり、現在のNational Forest Systemの基盤が出来上がりました(現在のNational Forestの総面積は約190Mエーカー)。
Taft大統領、Pinchotを解雇、National Park Serviceのアイデアが生まれる
1909年TR政権の後を継いだのはWilliam Howard Taft大統領です。その内務省長官に選ばれたのはTR政権のもとGarfiled内務省長官に解雇された内務省General Land Office(GLO)のRichard Achilles Balingerでした。Taft大統領は10月にヨセミテを訪れ、Muirと共に4マイルトレイルを下ります。その際、ほぼ決まりかけていたHetch Hetchyダム案の再調査をBalingerに指示します。1910年1月には、Balingerの政治スキャンダルを指摘し続けていたPinchotを解雇します。これは森林局にかなりのダメージを与え、その後10年は、Yale大学で森林学の教鞭をとっていた(Pinchotの学生時代の友人)Henry Gravesが、内務省との不仲を修復し、組織の安定化を目指していくことになります。Pinchot・Balinger問題でメディアにも大きく取り上げられ、政治的なダメージを受けたTaft政権ですが、国立公園に関しては理解がありました。Balingerは1910年度の年次報告書の中で、国立公園の管理を行うためのNational Park Service(NPS)の提案を行います。またTaft大統領は、1911年2月2日に、Antiquities法の提案者であったAmerican Civic AssociationのJ. Horace McFarlandの強い要望で、連邦議会に対して”Bureau of National Park”設立を推薦するメッセージを送りました。しかしながらTaft政権中に、議会がそれに応えることはありませんでした。同年3月、Balingerは、政治的スキャンダルへの非難が集まる中、健康上の理由で任期終了前に辞任、Walter Lowrie Fisherが後を引き継ぐことになりました。
Wilson政権とHetch Hetchyダム建設許可、NPSの設立
1913年3月に就任したWoodrow Wilson大統領は、Hetch Hetchyへのダム建設を推し進めるため、サンフランシスコ出身のFranklin K. Laneを内務省長官に任命しました。これにより、問題は決着に向けて一気に進み、年末にはRaker法案として連邦の決断が下ります。しかしその一方で、Laneは1914年の秋に鉱山業で財を成したシエラクラブメンバーのStephen Matherの陳情を取り上げ、NPS設立準備のための仕事を任せます。1915年にはMarther Mountain Partyという調査隊が結成され、国立公園の現状の視察、調査が行われました。そして1916年8月25日にはRaker議員(Hetch Hetchyダム化法案を作成したRakerと同一人物)らによって準備されたNational Park ActがWilson大統領によってサインされ国立公園局が設立されることになりました。Matherは初代長官に選ばれ(1917年5月)、1929年までその職につきます。そして、その後を継いだのは、内務省長官Laneのもと、アシスタントとしてMatherを手伝った、カリフォルニア州Bishop出身のHorace M. Albrightでした。
資料:
[1] Harold K. Steen, ”The US Forest Service: A History”, University of Washington Press,1976年(2004年版)
[2] James G. Lewis, ”The Forest Service and the Greatest Good: A Centennial History”, The Forest History Society, 2005年
[3] Glen O. Robinson, ”The Forest Service: A Study in Public Land Management”, The John Hopkins University Press, 1975年
[4] Alfred Runte, ”Public Lands, Public Heritage: The National Forest Idea”,Roberts Rinehart Publishers, 1990年
[5] Gifford Pinchot, ”Breaking New Ground”, 1946年/ Island Press, 1998年
[6] Franklin B. Hough, ”On the duty of Goverments in the preservation of Forests”, Proceeding of the American Association for the Advancement of Science, Portland Meeting, August, 1878
[7] Franklin B. Hough, ”The Elements of Forestry”, Robert Clarke & Co.,1882年
[8] George Perkins Marsh,”Man and Nature: Or, Physical Geography as Modified by Human Action”,1864年/ University of Washington Press, 2003年
[9] Robert Shankland, ”Steve Mather of the National Parks”, Alfred A. Knopf Inc., 1951年(1970年版)
[10] Horace M. Albright, ”Creating the National Park Service: The Missing Years”, University of Oklahoma Press, 1999年
[11] Char Miller, ”Gifford Pinchot and the Making of Modern Environmentalism”, Island Press, 2001年
[12] US Dept. of Agriculture, ”The Use of the National Forest Reserves”, 1905年(2005年復刻版),Online版
[13] Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”,1923年, /復刻版 www.kessinger.net
[14] William Frederic Bade,”The Life and Letters of John Muir”,Houghton Mifflin Co.,1924年(1973年,AMS版)
[15] Holway R. Jones,”John Muir and Sierra Club”, Sierra Club, 1965年
[16] Robert W. Righter, ”The Battle Over Hetch Hetchy”, Oxford University Press, 2005年
資料へのコメント:
Forest Serviceの歴史に関しては、[1]が一番詳しく纏っています。[2]は[1]をかなり引用しています。前に紹介したForest Service DVDのコンパニオンブックですが、写真がかなり多く、楽しめます。[5]はPinchotの自伝で、1890年ごろから1910年までのことが、特にRoosevelt大統領をはじめ、ワシントンの様子が克明に書かれています。[11]はPinchotの伝記ですが、特にMuirとの関係についてかなり詳しく調べており、最近のMuir研究文献はかなり参考にしています。NPSの設立関連では[9][10]、[13][14][15][16]はMuir関連書籍です。このエントリーは主に[1][2]に基づいて書きました。
(2006-03-11投稿)


[3.2] God’s First Temples : 1876年2月
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1876年2月5日、Muirは”God’s First Temples”という記事[1]を、州都サクラメントの新聞Record-Unionに投稿しました[2]。サブタイトル(“How shall we preserve our forests”)に示されるように、森林の保護を訴える内容で、これまでの雑誌や新聞への投稿とは内容がかなり異なったものでした。Muirは、まず森林保護が、その気象、土壌、川との深い関りゆえ、重要であると唱えています。たとえば、もし森林がなくなれば、砂漠化が進むこと、雨季や雪解け時には水が一気に流れ出し、肥沃な土壌を削り取り、下流の河川やフィールドを土砂で埋めてしまうこと、また、森林の保水効果などについて述べています。次にセコイア(及びレッドウッド)がカリフォルニアだけに見られる希少な木である事を挙げ、特にセコイアの植生についてまとめています。そして、伐採や火事によって森林の破壊が急速に進みつつあることも指摘しています。その中で最も破壊的なものは、羊が山を通りやすいよう、下生えをなくす為につけられる山火であると糾弾し、政府が何らかの対策を採る事を訴えて結んでいます。しかしながら、Badeに拠れば、この記事は殆ど注目されるには到らなかったようです[3]。
写真:羊に食べられてしまい、下生えが全くなくなっている林(ヨセミテの北東、Toiyabe National Forestにて)。
資料:
*1 Frederick Turner, “John Muir: Rediscovering America” Perseus Publishing (1985年)
*2 John Muir, “God’s First Temples: How shall we preserve our forests,” Record-Union, Feb-5, 1876
*3 John Muir, “The Life and Letters of John Muir“(1924年) William Frederic Bade編纂
*4 Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir” The University of Wisconsin Press (ISBN 0-299-18634-2)
*5 Shirley Sargent,”John Muir in Yosemite”,Flying Spur Press
*6 John Muir, “John of the Mountains” The University of Wisconsin Press(ISBN 0-299-07880-9、0-299-07884-1), Linnie Marsh Wolfe編集
[1] Frederick Turner(資料*1、pp. 235)によると、タイトルの”God’s First Temples”は、William Cullen Bryantの詩”A Forest Hymn”を引用したとしている。
[2] ”God’s First Temples”(資料*2)の全文は、Frederic R. Gunsky編集の”South of Yosemite, selected writings of John Muir”(Wilderness Press、 ISBN 0-89997-095-8)のpp. 197-202で読める。また資料*3の12章では、羊飼いによる山火のこと、及び政府による対策を訴える部分が引用されている。
[3] 資料*3、12章:”It appeared on February 5th, 1876, and while it made little impression upon legislators it made Muir the centre around which concervation sentiment bagan crystallise.”
参考:
Muirが自然保護の関して書いた初期の記事として、もうひとつ1877年にReal Estate Circularに投稿した、”Great Evils from Destruction of Forests”があります。Engbergによると、7,000フィート以上の高度での牧羊や伐採の禁止を訴えていると書いたそうです。またGunskyの”South of Yosemite”には、”Proceeding of the American Association for the Advancement of Science, 25th meeting”への論文”On the Post-Glacial History of Sequoia Gigantea”(1876年8月)が掲載されており、そこでもMuirは”God’s First Temples”と同じことを書いています。ほかに自然保護などを訴える記事の存在は、1890年まで見当たりません。


[3.2.1]George Perkins MarshとMuir
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ヨセミテ渓谷が連邦からカリフォルニアに譲渡され州立公園になった1864年、”Man and Nature; or, Physical Geology as Modified by Human Action”[1] がGeorge Parkins Marsh(1801-1882)[2]によって出版されました。ローマ帝国の衰退理由を、圧政・戦争などを起因とする森林の荒廃と結び付ける興味深い書き出しで始まり、人間がこれまでに行ってきた動植物種の移動・改良・根絶の歴史や、森林の持つ環境系での役割、そして森林の破壊、海岸や湖沼の干拓・水位操作、灌漑、砂漠・砂丘海岸の変化などが環境に与える影響などを、数多くのヨーロッパや北アフリカでの事例や文献に基づいて論じ、人間が自然を操作することへの注意を喚起し、失われた自然との調和を回復する重要性を提案しています。MarshはVermont州に生まれ、弁護士、連邦議員、トルコ公使の職を勤め、出版時は、リンカーン大統領の命でイタリア公使を務めていました。アメリカの「自然保護」(Conservation)の流れをまとめた連邦議会図書館のウェブサイト”The Evolution of the Conservation Movement”では、Marshが1847年にVermont州で行った発表を、年表の最初の事項として選んでいます。またMarshの研究者David Lowenthalは、この本がCharles Darwin(ダーウィン)の『On the Origin of Species』(種の起源)に次いで重要な本であると評しています[3]。Forest Service(森林局)初代局長のGifford Pinchotは、学生時代に父から改訂版(1874年)の”The Earth as Modified by Human Action”を贈られ、進路決定に影響を与えたと書いています[4]。MuirがMarshの本を読んだという記録は残されていませんが[5]、1876年2月5日にMuirが発表した、自然保護に関する初めての記述”God’s First Temples: How Shall We Preserve Our Forests?”[6]は、明らかにこの本の「The Woods」の章の影響を受けていることが伺えます。Marshは、(Muirが青年時代あこがれていた)探検家Humboldtの調査結果もまじえ、森林の保水効果、森林破壊がやがて生み出す河川の洪水、土壌侵食といった災害、そして政府による森林の保護の必要性を説いています。またわずかですが同章で、Muirがそのタイトル”God`s first temples”のアイデアを得たと指摘されている詩”A Forest Hymm”[7]の作者William Cullen Bryantについても触れています[8]。Muirの記事のユニークさは、Marshの説をシエラネバダの森林に当てはめ、当時伐採よりも問題であった、羊飼いが森林の下生えを燃やすことによる植生の破壊とその影響を指摘したこと、そして森林一般というよりは、セコイアへの被害に重きを置いて書いたことといえます。これまでの氷河・登山・紀行・動植物に関する著作に比べて、突然異なる論調で書かれたことを考えると、この頃べイエリアに移っていたMuirが、何らかの方法でMarshの本を入手し、それに啓発され”God’s First Temples”を書いたと思われます。
[1] Marshの”Man and Nature(1864年版)”へのアクセス方法:
連邦議会の”The Evolution of the Conservation Movement”ページ、1864年の項で、Man and Nature; or, Physical Geography as Modified by Human Action をクリック。原書のイメージ(総567ページ)、もしくはテキストファイルがダウンロード可。同様に1847の項からは”Address Delivered Before the Agricultural Society of Rutland County, Sept. 30, 1847”がダウンロード可。イメージ#17-18付近で森林について触れている。
[2] University of Vermont Online Research Centre: George Perkins Marsh 
[3] Goerge Perkins Marsh, ”Man and Nature”, University of Washington Press/2003年版 (解説David Lowenthal
原書そのままに製本がされていないので、[1]とページのずれがあるので注意。
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[4] Gifford Pinchot, 『Breaking New Ground』 1947年, (Island Press,1998版)
[5] Bonnie J. Giselは『Kindred & Related Spirits』の322ページで、1871年12月31日にJeanne CarrがMuirに宛てた手紙より”Professor Marsh made us a flying visit”をあげ、MarshがGeorge Perkins Marshである可能性を指摘しています。またCarrとMarshの出身地が共にVermont州の近い町であることから、この両者に接点があったかもしれないと示唆しています。[2]で調べてみましたが、1871年末Marshはローマに住んでおり、アメリカを訪れた記録は見つけられませんでした。またMarshとCarrの間でやり取りされた書簡も残っていません。よって別人と考えたほうがよさそうです。ただ1860年3月1日、及び8月27日に、James D. Butler(Wisconsin大学のButler教授と同名)という人物からMarsh宛に手紙が届いています。また1849年5月9日にはAsa Grayへ、伐採がもたらす影響を指摘する手紙を書いています。Carrが非間接的にMarshのことを知っていた可能性がありそうです。
[6] Muirの”God’s First Temples”の一部
1876年時のMuirは、後年になって見られる遊び場としての自然(森林)保護を訴えていたわけではなく、自然災害防止、木(セコイア)の保護の観点で記事を書いている。
”THE PRACTICAL IMPORTANCE of the preservation of our forests is augmented by their relations to climate, soil and streams. Strip off the woods with their underbrush from the mountain flanks, and the whole state, the lowlands as well as the highlands, would gradually change into a desert. During rainfalls, and when the winter snow was melting, every stream would become a destructive torrent overflowing its banks, stripping off and carrying away the fertile soils, filling up the lower river channels, and overspreading the lowland fields with detritus to a vastly more destructive degree than all washings from hydraulic mines concerning which we now hear so much.
[略] 
THESE RAVAGES, however, of mill fires and mill axes are small as compared with those of the “sheepmen’s” fires. Incredible numbers of sheep are driven to the mountain pastures every summer, and in order to make easy paths and to improve the pastures, running fires are set everywhere to burn off the old logs and underbrush. These fires are far more universal and destructive than would be guessed. They sweep through nearly the entire forest belt of the range from one extremity to the other, and in the dry weather, before the coming on of winter storms, are very destructive to all kinds of young trees, and especially to sequoia, whose loose, fibrous bark catches and burns at once. Excepting the Calaveras, I, last summer, examined every sequoia grove in the range, together with the main belt extending across the basins of Kaweah and Tule, and found everywhere the most deplorable waste from this cause, Indians burn off underbrush to facilitate deerhunting. Campers of all kinds often permit fires to run, so also do mill-men, but the fires of “sheep-men” probably form more than ninety per cent of all destructive fires that sweep the woods.
FIRE, THEN, IS THE ARCH DESTROYER of our forests, and sequoia forests suffer most of all. The young trees are most easily fire-killed; the old are most easily burned, and the prostrate trunks, which never rot and would remain valuable until our trench centennial, are reduced to ashes.
In European countries, especially in France, Germany, Italy, and Austria, the economics of forestry have been carefully studied under the auspices of Gorverment, with the most beneficial results. Whether our loose-jointed Government is really able or willing to do anything in the matter remains to be seen. If our law-makers were to discover and enforce any method tending to lessen even in a small degree the destruction going on, they would thus cover a multitude of legislative sins in the eyes of every tree lover. I am satisfied, however, that the question can be intelligently discussed only after a careful survey of our forests has been made, together with studies of the forces now acting upon them. A law was constructed some years ago making the cutting down of sequoias over sixteen feet in diameter illigal. A more absurd and short-sighted piece of legislation could not be conceived. All the young tree might be cut and burned, and all the old ones might be burned but not cut.”
[7] 『A Forest Hymn William』 by William Cullen Bryant ”God’s first temples”というフレーズが、冒頭で使われている。
[8]Marshの森林破壊の影響、政府による保護の必要性に関する記述は、資料[1]の以下のページを参考:「Influence of the Forests on the Flow of Springs」(イメージ#215より)、「General Consequences of the Destruction of the Forest」(イメージ#232より)、「Destructive Action of Torrents」(本のページ230、231が欠如)イメージ#249。Humboldtに関してはイメージ#220、Bryantに関してはイメージ#226。


[3.3] ヨセミテ国立公園設立の経緯とMuirの貢献
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1889年の6月にMuirと一緒にヨセミテ旅行をして以来、Johnsonは、ヨセミテ国立公園を造る政治的機運を高めるための、メディア活動を進めていました。1890年3月4日、MuirはJohnsonに、Century誌への投稿記事に添付するための公園の境界地図を送ります(青:Muirが最低限希望したMerced水系を囲む境界、赤:Muirが最大限希望する境界、紫:カリフォルニア州立ヨセミテ渓谷公園)。二週間後の3月18日、南カリフォルニア出身のVandever議員は、ヨセミテ国立公園を設立する法案を提案しました(黄色内側)。Joshnsonはそれに便乗し、6月2日、連邦の公地委員会で、Muirが示したように(赤)Vandever法案の境界修正を訴えます。それ以降、法案は立ち消えになるかに思われていましたが、議会会期最終日の9月30日、突然修正案HR12187(黄色外側)として浮上し、一日のうちに何の議論もなく両院を通過、翌10月1日にはHarrison大統領のサインを受け、ヨセミテ国立公園が成立することとなりました(現在の公園境界は1905年に設定されます)。
今回はSierra Club Bulletin XXIX (1944)に公開されたMuirとJohnsonの書簡、及びJohnesの「John Muir and the Sierra Club」(1965)に基づき、その流れをまとめてみました。
<1880年>
4月19日: I. W. RaymondとWilliam G. Preistを除き、ヨセミテ渓谷の管理委員(Commissioners to Manage the Yosemite Valley and the Mariposa Big Tree Grove:以下、委員会の意も含め”CYV”と略)のメンバーが入れ替わりました(正式には3月22日、州知事Perkinsに寄って任命)。CYVと鉄道会社のSouthern Pacific Railroadの協力関係はその頃から始まり、渓谷内での橋の建設などでは、Southern Pacificの技師からアドバイスを受けていたことが知られています。またCYVは、同じくSouthern Pacificの影響力を大きく受けた議員の多い州議会議員とも良好な関係を保っていました。
<1881年>
6月: 新メンバーのWilliam H. Mills[註:1888年までCVYメンバー、1882年からはSouthern Pacificの土地買収のエージェントになる]は、公園の境界を拡大するための署名集めなどを行い、ワシントンでGarfield大統領と話をしました(暗殺の4日前)。
12月12日: 上院議員John F. Millerは、ヨセミテ渓谷公園を拡大するための法案S. 393(そして翌日にはセコイア・キングス渓谷を公園とする法案S463)を提出しましたが、廃案になってしまいました[註:Wolfeは”Son of Wilderness:The Life of John Muir”の中で、Muirが協力したことを示す資料があると書いていますが、その資料を確認する研究はいまだに発表されていません]。
<1882年>
5月20日: CYVの依頼を受けた州の技師、William Ham Hallは、渓谷で測量を行い、”To Preserve from Defacement and Promote the Use of Yosemite Valley”という報告書を提出します。これは公園の境界をMerced水系全体に拡大することと、渓谷内の管理案を提案するもので、特に後者は、景観を良くするために木の間引きやトリミングをすることや、交通の重要手段であった馬の餌を確保するため、1000エーカーほどの牧草地を作ることなどの必要性が書かれていました。以後そのガイドラインに沿って、渓谷の開発が行われていくことになります。
6月26日: San Francisco Chronicleに掲載されたヨセミテ公園の境界拡大案に対する論調は、多くの税金が使われるが、それは一部の裕福な人々が渓谷で楽しむためのものであり、一般もしくは豊かでないものにとっては縁がないと言った否定的なものでした。
<1885年>
画家のCharles D. Robinsonは、CYVの許可を受け、ヨセミテ渓谷内に小さな建物を建てますが、その許可は数年後、権利を剥奪されてしまうことになります(後にRobinsonは、Muirの”Picturesque California”や、1890年のCentury誌への投稿記事のイラストを書くことになります。また1892年のシエラクラブが創設された時は、そのチャーターメンバーにもなります)。
<1887年>
6月2日: 州議会に提出されたCYVの報告書には、ヨセミテ渓谷の水系を保護するため、ヨセミテ渓谷公園を東側(渓谷を取り囲むMerced水系全体を含む)に拡大することを述べ、そのための法案作成を開始することを推薦しました。
<1888年>
反Southern Pacific RailroadのスタンスをとるWilliam Randlph Hearstが所有するSan Francisco Examiner誌は、主にRobinsonからの情報をもとに、CYVの渓谷運営に関する問題を掲載し始めます。この反Southern Pacific路線は以後も続き、後にMuirらがSouthern Pacificの協力を得て、ヨセミテ渓谷返還の運動をしたとき(1900年代前半)は、Muirらに反対の立場をとることになります。
<1889年>
1月: RobinsonのCYVに対する告発が州議会で取り上げられ、2月には公聴会が開かれます。3月にまとめられた報告書は、基本的にはCYVの立場を擁護しつつ、その管理の仕方に警告を与えるというようなものでした。たとえば、渓谷内に中流クラスのホテルを建設することや、有刺鉄線や他の景観を壊すような構造物の撤去、藁を蓄える小屋や、道路のメインテナンス、夏場に埃が立つのを防ぐため水をまくこと、渓谷内での施設事業への公平な入札を可能とするようにするといったことを指示しています。
6月上旬: MuirとJohnsonはヨセミテ渓谷(Tuolumneキャンプ)を訪れます。その帰り、二人は州のヨセミテ渓谷の管理についての話をしていました。それを聞いていたSan Francisco Examiner誌の記者は、その話を新聞に載せてよいかと聞いてきましたが、Johnsonは自分の働くCentury誌がすべきであると断りました。しかし、その数週間後Examiner誌は、Johnsonに無断で、あたかもインタビューをしたかのような記事を掲載しました(後でそれを知ったJohnsonは、Muir経由で抗議の手紙を送ったが、同誌に掲載されることはありませんでした)。
6月11日: この日、Johnsonは編集長のGilderに、”The valley is going to destruction in the hands of a political Commission owned by the Southern Pacific – as everything and everybody seems to be”と書き送り、このままではSouthern Pacific RailroadそのものであるようなCYVによって、ヨセミテ渓谷が荒廃してしまうと指摘し、Century誌に特集を組むための第一歩を踏み出します。
6月22,27,29日: 一方、ヨセミテ旅行から帰ったMuirは、すぐさま3本の記事をSan Francisco Daily Bulletinに投稿しました。27日の記事では、ヨセミテ渓谷にはフェンスが張られていること、牧草や野菜が植えられていること、また馬などが放牧されたままになって荒れていることを述べ、州によるヨセミテ渓谷の管理のずさんさを糾弾しています。29日には、伐採により森林が失われていること、そしてそれ以上に問題があるのは羊による害であると述べています。 
9月13日(Muir to Johnson): Johnsonからの手紙にMuirは返信し、これまで忙しくて投稿記事を書く暇がなかったが、これから記事を書くと約束します。そしてExaminer誌の記事(上記)のことに触れ、明らかに盗み聞きしたものを書いたと同意しています。またArgonaut誌の編集員でもありCYVメンバーFrank M. Pixleyの記事の背後には、同じくCYVメンバーのJohn P. Irishがいるとも書いています[註:Examiner誌とArgonaut誌のの関連は手紙からははっきりしません]。
<1890年>
1月: Johnsonは、Century誌でヨセミテ渓谷の管理の問題を指摘する特集を組みました。それはJohnsonの書き出しで始まり、ヨセミテを連邦の管理下に戻すことを提案しています。その後には”open letters”とし、Wawonaに住んでいるGeorge G. Mackenzieや、東海岸からのヨセミテ旅行者Lucius P. Demingの渓谷の管理の問題や自然の荒廃を指摘する投稿が続きます。最後は再びJohnsonの文が続き、前年6月にMuirとヨセミテに旅行に行ったときに見た、羊によるTuolumne Meadowsの荒廃と、渓谷の牧草地や木の伐採やトリミングなどについて触れています。
3月4日(Muir to Johnson): Century誌への記事の挿絵を準備するために友人の画家Keithに会ったことや、Glacier Pointからの写真が見つからず、たぶんMuybridgeの撮った写真がNew Yorkで見つかるかもしれないと書いています。また、同封したUSGSの地図についても触れ、特にTuolumne渓谷に関しての間違いが多いことを指摘しています。次にKate[註:不明]という人物が、Leland Stanford[註:連邦の上院議員かつSouthern Pacificの社長]に書いた手紙がすばらしいもので、さらに州知事WatermanがStanfordに送った長い電報についても触れています。しかしながら、地元の新聞はその件に関してはまだ取り上げるに到っておらず、Bulletinも論調の弱い記事を一本書いただけだと報告しています。NY Post誌の記事[註:Frederick Law Olmstedが書いた記事のこと]はまだ自分の手元に届いておらず、もしそれがきたらBulletinに掲載を頼んでみるとも書いています。その後渓谷の管理について触れ、政治的な影響を避けるため、州知事の手からはずれ、大学の学長などをはじめとする新しいメンバーがCYVを構成すべきだと述べています。また、かなり難しいが、軍関係からもCYVメンバーが選ばれれば好ましいと書いています。そして渓谷を州から連邦政府の手に戻すことは、かなり難しいであろうとの見解を示しています。また、”the extension of the grant at least comprehend all the basins of the streams pouring into the Valley”と、州立公園の境界拡大案にしても、最低Merced水系を含まなくてはならないとも書いています。さらに多くの反対があり難しいだろが、北緯38度と37度30分、そして西経114度51分とシエラの分水嶺で囲まれる一帯が含まれれば望ましいと結んでいます。
3月18日: Muirが手紙を出したわずか二週間後、南カリフォルニアの選挙区(Ventura)出身のWilliam Vandever下院議員が、ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯を国立公園にする法案HR8350[註:議会資料では”By Mr. Vandever: A Bill (H. R. 8350) to establish the Yosemite National Park in California – to the Committee on Public Buildings and Grounds”と記録が残っています]を連邦議会に提出。これはヨセミテ渓谷を取り囲む288平方マイルの長方形の区画で、Muirの描いたものとは全く異なるものでした。
4月15日: OlmstedがJohnsonに出した手紙は、”Is it not possible, that Huntington’s promised reform of the Southern Pacific will have a good influence in this Yosemite matter?”と書き、鉄道会社の考えが変わるかも知れないと示唆しています[註:4月上旬、Southern Pacific Railroadの取締役会議で、連邦の上院議員でもあった社長のStanfordが退任に送り込まれ、Collis Huntingtonが就任]。
4月19日(Muir to Johnson): 冒頭からは、すでに記事の原稿が送られたことが伺えます。そしてMuirは、記事を二つに分けることを提案し、またTuolumne渓谷やKings Riverのスケッチを書くつもりであることを書いています。そして、すでに書いたヨセミテの東側の山や氷河のこと以上の内容がほしいのであれば、Tuolumne渓谷のことも書くと言っています。そして話題を変え、Century誌の記事(1月)の影響が出始まってきたことを述べ、Bulletin誌が、MackenzieがTimes誌に投稿した記事を全文再掲載したこと、Overland誌も賛同したこと、Evening Post誌の編集後記などについて触れています。そしてOlmstedの書いた記事に関しては、やや論調が弱いところがあるものの、全体的には良しとコメントをしています[註:Johnsonが依頼して書いてもらった。木によって作り出されるヨセミテの岩壁の高度感について触れ、よって、低い木でも切るべきではないと面白い論を展開。またヨセミテの効果は、単にその岩壁の高さだけではなく、渓谷の前風景と岩のコントラストにもあると指摘]。
4月20日:(Muir to Johnson): 14日付けのJohnsonの手紙を受けとり、Muirはすぐ返事を書きます。それには、MackenzieがTimesへ書いた記事が、Vandever法案に反対し、新しいCYVの管理方針の下で、ヨセミテ渓谷の境界を拡大させようとしているもので、まるでWashburnの会社か、鉄道会社のために書いているようなものであり、「裏切り」行為だと激しく非難しています。特にMackenzieが、「州と連邦の管理が混在することによって交通や宿泊に混乱が生じる」と述べていることに対しては、それは業者の管轄上の混乱であると指摘しています。また過去に、Washbernの会社がWawonaから渓谷への道路を引き、それをCYVに売って儲けたことも指摘しています。また、前日送った記事の切り取りについて触れ、CYVのほうでは、Irishがイエローストーン国立公園で起きている破壊行為を例に挙げ、ヨセミテを連邦の管理下におく危険を訴えようとしていると書いています。そして、Vandeverの案をサポートし、できるならば州の管理にならないようにするべきだと書き送っています(”Stand up for the Vandever Bill and on no account let the extension be under state control if can possibly be avoided.”)。
4月25日、29日: Johnsonは返信し、Vandever案の境界をさらに広げるような記事を書いてくれと依頼します。
5月8日(Muir to Johnson): 何らかの情報がJohnsonから伝えられたのか、とりあえずMuirのMackenzieに対する怒りは和らいでいます。まずは、最後にMackenzieを見たときにはWashbernの会社のために働いており、この前のVandever法案に反対するMackenzieの記事を読んで、思わずWashbernの利益のために働いているものと思い込んでしまったと釈明しています。しかし拡大されたヨセミテ公園が、連邦政府の管理下に置かれた場合にどんな問題が出るのかはよくわからないし、また新しいCVYの管理方針の下でも、どれだけ良くなるのかもわからないと書いています。そして昨日、鉄道会社(R.R. Co.)のSam Millerやヨセミテの土地所有者Cookと会ったことにも触れ、彼らのヨセミテの管理に関する考え方が大きく(Muirにとって好ましいように)変わってきたかを述べています。彼らは、PixやIrishがJohnsonをかなり悪者として取り扱っていたことを認め、Johnsonの提案する、専門家による渓谷の道路施設、メドウや木などの管理案は良いもので、それにもし予算が付けば、Olmstedを採用することには賛成だと報告しています。また、渓谷には、もはや放牧地や養豚場はないと言っていたと伝えています。最後は、公園境界に関して、何度も何度も言っているように、保護区は、ヨセミテの全水系を含まなくては成らないと強く訴えています:”As I have urged over and over again, the Yosemite Rservation outght to include all the Yosemite fountains.…”。
6月2日: Johnsonは公地委員会に行き、Vandever法案の境界をMuirの推薦するものに拡大するよう訴えました。
6月4日: CYVはヨセミテ渓谷内で会合を開き、会計役のJohn P. Irishは、ワシントンの連邦土地委員会の副委員長William M. Soneを訪ねたことを報告します。そしてStoneが夏にヨセミテに来て、ヨセミテ渓谷を取り巻く森林や、水を守ることの必要性に関する調査をしに来る予定であることを述べました。
6月9日(Muir to Johnson): 5月28日付けのJohnsonの手紙に答え、Tuolumnenに関しての追加記事が役に立ってもらってよかったと返信します。編集長のFitchと会い、San Francisco Evening Bulletinも、州の管理下におくという条件のもとで、ヨセミテ公園の境界拡大に関しては賛成であるという立場であると確認しています。そして今回の原稿料は、Centuryの方で適切につけてもらえればよい書いて結んでいます。
6月中旬: Muirはアラスカ旅行に旅立ちます(9月上旬に戻ってきます)。
8月-9月: Century誌に、Muirの書いた二つの記事が掲載されます。”The Treasures of The Yosemite”(8月号)にはMuirが推薦するヨセミテ国立公園の境界を示す地図とともに、主に渓谷内の案内記事がかかれています。また公園内の人為による破壊のイラスト(写真を基に作成)とともに、僅かばかりですが、伐採、牧羊による森林破壊問題を書いています。”Features of The Proposed Yosemite National Park”(9月号)は、Tuolumne Medows、Tuoulmme渓谷、Hetch-Hetchy渓谷、Mt. Dana、Mt. Lyell付近など主に渓谷外の紹介記事になっています。最後のところでVandever議員が国立公園の法案を提案したと述べ、できるなら8月号で示した境界まで広げてほしいと書いています。 また、Johnsonは9月の記事に脚注を付け、出版の準備の時点で、公地委員会は記事に書かれたように境界を広げることにしており、法案を提案した貢献者がVandever議員であると書きました。さらに、同号には”Amateur Management of the Yosemite Scenery”というJohnsonの記事もあり、Muirの二つの記事、及び1月号の自分の記事について触れ、National Parkの必要性とCYVの運営の問題を強調しています。
9月9日: しかしながらVandever議員本人は、センチュリー誌は自分の法案提出とはなんら関係がないと、CYVメンバーのJohn P. Irishに書き送っています。
9月中旬: CYVのJohn P. IrishはOakland Tribune誌に投稿し、Muirが昔、ヨセミテ渓谷に住んでいたとき(Hutchingsに雇われていたとき)に、木を切ったという糾弾の記事を書きます。それにMuirはヨセミテでは一本の木すら切ったことはない(”I never cut down a single tree in the Yosemite, …”)と反論する投稿をします[註:Carrの手紙に記録されているように、Tuolumne渓谷で渡渉のために大木を切り倒しています]。
9月30日: 議会閉会の日、Vandeverの法案は修正法案H.R. 12187として全く討議も無いままに両院を通過します。
10月1日: Harrison大統領はH.R. 12187にサインし、これによりヨセミテ渓谷を取り囲む1512平方マイルの一帯が森林保留区となり、その管理の詳細を内務省長官(当時はJohn Noble)に任せることが決定しました[註:一年後に成立するForest Reserve Actは、管理についてなんら定めていないことに注意]。
資料:
[1] John Muir, “The Treasures of the Yosemite,” The Century / Volume 40, Issue 4, pp. 483-500, Aug. 1890
[2] John Muir, “Features of the Proposed Yosemite National Park,”The Century / Volume 40, Issue 5, pp. 656-667, Sep. 1890
[3] Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”(1923)
[4] John Muir, ”The Creation of Yosemite National Park, Letters of John Muir to Robert Underwood Johnsson” Sierra Club Bulletin XXIX (1944)
[5] Linnie Marsh Wolfe,”Son of the Wilderness: The life of John Muir”,The Univiesity of Wisconsin Press(1945) 
[6] Holway R. Jones,”John Muir and the Sierra Club: The Battle for Yosemite”, Sierra Club (1965)
[7] Stephen Fox, ”The American Conservation Movement: John Muir and His Lagacy”,The Univiersity of Wisconsin Press(1981)
[8] Richard J. Orsi, ”Sunset Limited: The southern Pacific Railroad and the Development of the American West”, University of California Press(2005)
以上は、Holway Jonesの「John Muir and The Sierra Club」(1965年)と、1944年にSierra Club Bulletinで公表されたMuirがJohnsonに宛てた書簡を中心に、ヨセミテ国立公園設立の過程をまとめたものです。ところで、Jonesはヨセミテ国立公園法案の設立の過程が、かなり謎に満ちたものであったこと、その背後にはヨセミテ渓谷管理委員会(CYV)やSouthern Pacific Railroadのさまざまな思惑があったことなどを指摘しています。今回は、それらについての補足をしたいと思います。
[1] Southern Pacific Railroadとヨセミテ渓谷管理委員会の関係
Jonesは、CYVがSouthern Pacific Railroad寄りのメンバーによって占められていたこと、その中でも一番有力だったのは、Southern Pacific Railroadの土地担当でもあったWilliam H. Millsだったと書いています。そして1870年の終わり頃から、CYVがヨセミテ渓谷内に造る橋の建設などで、Southern Pacificの技師にアドバイスを受けていたことや、CYVがSouthern Pacificの影響を多大に受けている州議会とも良好な関係であったことを指摘しました。しかしながら、Mills本人の詳しい調査は行いませんでした。
Stephen Foxは、”The American Conservation Movement”(1980年)の中で、Muirとのヨセミテ旅行から帰ったばかりのJohnsonが、Century誌編集長のGilderに、”The valley is going to destruction in the hands of a political Commission owned by the Southern Pacific – as everything and everybody seems to be.”と書き送っていたことを指摘しました。Johnsonが、Southern PacificとCYVとの深い関係を信じていたことが伺えます。
Richard Orsiは、”Sunset Limited”(2005年)で、Millsに関する詳細な調査結果を報告しています。それによると、Millsが1875年以降、Southern Pacificの傘下になったSacramento Record Union(Muirが1876年の”God’s First Temple”を投稿しています)の編集者であり、当時、すでに水力採鉱への反対といった自然保護運動を行っていたことを指摘しています。1879年からはCYVのメンバーとなり(1882年からはSouthern Pacificの土地担当となる)、それから1889年まで、ヨセミテ渓谷の管理に努力をしたそうです。Millsは、ヨセミテの自然の景観を壊すようなルートをとる線路敷設へ反対したり、森林火事対策のための、マネジメントファイアや下栄えの伐採などを導入しました。しかし、CYVの主流派の管理方針が渓谷を破壊へ導くだけだとし、1889年にはそのポストを降りることになりました。後にMillsはヨセミテ渓谷を連邦に返還する運動が高まりを見せときには、Muir側に付いたと述べています。
[2]  Vandever案(H.R.8350)の謎
R. U. Johnsonは回顧録”Remembered Yesterdays”(1923年)の中で、自分の6月の下院公地委員会の話によって、Muirの境界に基づく法案(bill)が作られ、その後Vandeverにより修正案(measure)が作られ、Plumb議員により上院に法案を持ち込まれ、その数ヵ月後の10月1日に成立したと書いています:
”The next summer (1890) I appeared before the House Committee. The members had never heard before of Muir, though they knew of the Muir Glacier, but they responded with commendable unanimity to my presentation of the scheme, and a bill was drafted on the line of Muir’s boundaries. The measure was instroduced by General Vandever, member from Los Angeles, Plumb took it up in the Senate, and a few monthes afterword, namely October 1, 1890, the Yosemite National Park become a fact.”
しかし、1890年3月16日の連邦議会の記録や、JohnsonとMuirとの間で交わされた書簡が示すように、これは事実とは異なって書かれています。Jonesは、Vandever議員がH.R.8350を提案し、後にJohnsonがMuirの提案に基づく境界の修正を訴えたと書いています。そしてVandeverの提案した境界が、MuirがJohnsonに提案したものとはかなり異なっていること、またVandever自身も、Century誌との関連がないことを書いていることを上げ、VandeverとJohnson・Muirらとの関連(協力)を否定しています。一方、CYVとVandeverの関連に関しては、CYVの二つの報告書をあげ、(1)この法案は、Vandever議員とHoleman議員が、ヨセミテの水系の森林破壊を防ぐために、協力して作成されたものだと書かれていること、(2)また、1893年にCYVが内務省長官に宛てた手紙の中で、この法案の提出はCYVの依頼によるものだと書かれていることをあげています。しかし、最終的にはヨセミテ渓谷をとりまく国立公園一帯が、州のものではなく、連邦の管轄になってしまったことからも、CYVの主張を額面どおりにとるのは出来ないのではないかと疑問を投げかけています。
 Stephen Foxは、JohnsonとMuirは1889年6月のヨセミテ旅行の数週間後に、当時のSouthern Pacificの社長でもあり、議員でもあったStanfordに助力を求めたものの、コミットメントがもらえなかったという説を唱えています(註:この説の出所はJohnsonの手紙のようで、現在JM Paperのコレクションとして、Univ. of the Pacificで保存してあるようです。Fox、Orsi共に手紙の内容は引用していません)。そして、Huntingtonが1890年の春に新社長になり、”Is it not possible, that Huntington’s promised reform of the Southern Pacific will have a good influence in this Yosemite matter?”という、OlmstedがJohnson宛に書いた、Southern Pacificの社長交代が与えるヨセミテへ国立公園設立運動の好影響を書いた手紙の内容と関連付けています。 
Orsiも同様に、JohnsonとMuirがSouthern PacificのStanford議員や、主任弁護士のW. W. Stowに援助を求めたと書いています。そして(おそらく)Southern Pacificの依頼をうけて、Vandeverが法案を準備したと言う説をとっています。 Muir本人も1896年のSierra Clubの会合で、”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co. never counted on for anything good, helped nobly in pushing the bill for this park through Congress.”と、何らかの形でSouthern Pacificが働いていたことを認めています。
[3]修正案H.R.12187の謎
H. Duane Hamptonは、著書”How the U.S. Cavalry Saved Our National Park”(1971年)の中で、1890年の議会記録(38. CR, 51st Cong., 1st Sess., XXI, Part 3, p. 2372, Part 11, pp. 10752., 10740,, 10794.)を元に、以下のようにまとめています:
”Earlier, on March 18, 1890, Congressman Vandever had introduced another bill designed to establish a forest reservation in the area surrounding the Yosemite grant to California. It was hoped that this might stem the destruction in the Valley. The bill was referred to the Committee on Public Buildings and Grounds as H. R. 8350 and not reported out of that committee. On September 30, 1890, five days after the Sequoia bill had been signed into law, Congressman Lewis E. Payson of Illinois, the same “Judge Payson” who, in 1885, had run afoul of the “kangaroo courts” established in the Yellowstone National Park, introduced a substitute bill for H. R. 8350, designed to “establish the Yosemite National Park.” Payson’s bill, besides incorporating everything in the original Vandever bill, provided for the setting aside of that area soon to be known as the General Grant National Park, though this name was not stipulated in the bill. Congressman Charles E. Hooker of Mississippi stated that the bill “is going to excite controversy, debate, and discussion that can not fail to take time.” The bill did create controversy, debate, and discussion, but not in either house of Congress. The bill passed the House without debate. Payson’s substitute House bill (H. R. 12187) was introduced into the Senate by Senator Preston B. Plumb of Kansas, on the same day it passed the House. The bill passed the Senate without debate or discussion. The bill establishing Yosemite and General Grant National Parks was signed by the President on October 1, 1890.”
これによると、3月18日に提案されたVandever法案(H.R.8350)が、委員会(Committee on Public Buildings and Grounds)からは外には出なかったこと、連邦議会会期末日の9月30日に、Payson議員(イエローストーン国立公園の設立時に貢献)が、ヨセミテだけでなくGeneral Grant National Parkも含む修正案H.R. 12187を下院に提出し、何の議論も行われることなく通過、すぐさまPlumb議員が上院に持ち込み、そこでも討論されることなく通過したようです。修正案の重要ポイントは、VandeverのH.R.8350で提案された公園境界ではなく、Johnsonが委員会で主張したMuir案にかなり近い、境界が提案されていることです。このHampton説は、Muirの伝記としてはおそらく最もポピュラーな”Son of Wilderness”(1945年)でのWolfe記述(1890年8月及び9月号に掲載されたMuirの記事が議会に影響を与え法案成立に到った)との食い違いが見られます(Wolfeはこれに関し特に根拠となる資料は提示していません)。さて議会の記録では、Vandeverの提案した法案は、”A Bill (H. R. 8350) to establish the Yosemite National Park in California”と「National Park」の文字が含まれています。しかし修正案(H,R, 12187)では、名称が変わり、”An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations”となり、一見、森林保留区のためのような法案名となっています。そして本文中には2箇所のみでYosemite Valleyという言葉が書かれているだけです。また、その5日前に通過したセコイア国立公園の法案は、”An act to set apart a certain tract of land in the State of California as a public park.”と「park」という単語が明確に使われています。Jonesはこのことに関し、修正法案作成者(不明)が反対派の目に留まらないように、わざと「forest reservation」という言葉を使ったのではないかと指摘しています。
[4]セコイア国立公園の設立運動とDaniel K. Zumwaltのロビー活動
ヨセミテ国立公園の法案と平行して、セコイア国立公園の法案設立の動きがあったことは見逃せません。Hamptonによれば、Vandever議員は7月28日に法案を提出し、8月23日には、下院公地委員会のLewis E. Pysonによって法案は下院に提出され、際立った反対もなく通過し、法案は上院の公地委員会へと提出されました。California Academy of Science、San Francisco Chronicle、San Francisco Examiner、San Francisco Bulletin、Oakland Tribune、Sacramento Bee、Fresno Expositorといったメディアは法案の支援を示します。下院公地委員会の委員長Plumbは委員会からの後押しも受け、法案は下院へと提出され、9月25日にはHarrison大統領のサインを受けることになりました。さらにHamptonは、セコイア国立公園法案を後押していたStewartの書簡を探し出し、以下のように抜粋しています:
”The inclusion of the General Grant area in the bill may have been due to the efforts of one man. Writing in 1929, George W. Stewart, one of the men responsible for the establishment of Sequoia National Park, stated, “The creation of General Grant National Park was due to the timely suggestion of D. K. Zumwalt of Visalia [California] at the psychological moment . . . Mr. Zumwalt happened to be in Washington at the time . . . the bill creating Yosemite Park was up for passage, and his recommendation that the General Grant Grove be also made a park was acted upon favorably . . . by Congress.” George W. Stewart to Col. John R. White, June 8, 1929, reproduced in Fry and White, Big Trees, p. 29.”
これは、当時ワシントンにいたZumuwaltが、法案H.R. 12187の第三項、General Grant国立公園の追加を推薦したと言うものです。
 OrsiはZumuwaltについても詳しい調査をしています。ZumwaltはSouthern Pacificの土地担当エージェントでもありながら、アウトドア愛好家で、5年近くに渡ってセコイアの保護運動に参加していました。1890年の夏にはワシントンへ、Vandever議員を助けるために、コミュ二ティーのスポークスマンとして向かいました。しかしその一方で、内務省のGLO(General Land Office)に対して、鉄道会社が取得した土地の受け渡しを促進するためのロビー活動をすることでした。資料によれば、Southern PaficicはZumwaltのワシントンへの交通滞在費の面倒を見ていました。残されている数少ない、本社とZumuwaltの間で交わされた書簡によると、Southern Pacificがセコイア国立公園の設立、そしてヨセミテ国立公園の拡大に興味があったと指摘しています。Jones(及びOrsi)は、法案通過の10日以内には、Southern Pacificの旅客部門が、ヨセミテ国立公園法案(H.R.12187)の第三項に書かれたGeneral Grant National Parkの拡張部分も含む、セコイア国立公園の旅行案内書を出版したことを指摘しています。
■ まとめ
ヨセミテ国立公園の成立過程は、連邦議会の資料の不備、1906年のSan Francisco大地震によるSierra ClubやSouthern Pacific RRの資料の遺失も影響し、依然その鍵となる部分が謎に包まれています。今後の新資料発見に期待したいところです。以下に定説ともいえるJones説及びその後の発見の簡単なまとめをして、結びたいと思います。
1880年代になり、Southern Pacific RailroadはCYVに影響を与えるようになります。やがてCYVによる渓谷の管理の仕方への問題が持ち上がり、1888年ごろから、新聞での糾弾や議会での告発が始まります。そのような時、1889年6月、JohnsonはMuirとヨセミテを訪ね、渓谷やTuolumne Meadowsなどでの荒れた自然を目にあたりにし、ヨセミテ一帯を国立公園する運動を起こすアイデアを話し合いました。当時既にCYVは、ヨセミテ渓谷の水源を守るべく、州立公園の範囲をMerced水系一帯に広げるための法案作成を推薦していました。ヨセミテキャンプから戻ったMuirは、早速Bulletinへ、渓谷の荒廃についての投稿記事を書きます。そしてJohnsonは、1890年1月にCentury誌に、CYVの管理の問題と、ヨセミテ国立公園の設立を提案する特集を組みます。また(Johnsonの依頼を受けた)Olmstedなどが、東部のメディアに問題提起をする投稿を行います。3月にはようやくMuirの記事原稿も進み始め、4日のJohnsonへの手紙では、地図を同封しヨセミテ国立公園の具体的な境界を推薦します。その二週間後、南カリフォルニアVentura郡のVandever下院議員は、連邦議会でヨセミテ国立公園法案(H.R.8350)を提出します。そして 6月2日、Johnsonは議会の公地委員会でVandever案を拡大するように主張をしました。この後、9月末までヨセミテ国立公園法案の情報は全く途絶えてしまいます。しかし、議会会期の最終日9月30日、Vandever案(HR8350)の修正案HR12187が当然浮上し、一日のうちに両院を通過し、翌日には大統領のサインを得て、ヨセミテ国立公園の設立が決定しました。
Fox、Hampton、Orsiらは、Jones説を補足する形で『JohnsonとMuirは、ヨセミテ旅行から帰るとすぐに、Southern Pacificにコンタクトをとり、国立公園設立のための協力を求めたが、思ったようには進まなかった。Vandeverが提案した法案もやがては消えかかってしまう。しかし9月、法案は突然修正案としてよみがえり、議会を通過、大統領のサインを得た(Fox)』、『9月30日に突然修正案が議会に提出され、なんら討論もなされることなく通過してしまった(Hampton)』、『? Southern Pacificと深い関係のあるMillsはCYVのメンバーとして、ヨセミテ渓谷の管理や保護に努めようとした、しかし、主流派の経営の仕方に落胆して1889年にはCYVを去る。? ヨセミテで国立公園のアイデアを話し合ったJohnson、MuirはSouthern PacificのStanford議員、弁護士のW. W. Stowに助けを求めるが、なかなか進まなかった。? 9月にはSouthern PacificのZumuwaltがワシントンでロビー活動をしており、その手助けもあり法案は9月30日には議会を通過した(Orsi)』といった新たな発見を付け加えています。


[3.4] Sierra Clubの設立(1892年)とMuir
1886年カリフォルニア州立大(Berkeley)の教授J. Henry Sengerは、ヨセミテ渓谷の管理官(註:初代はGarlen Clark、二代目はJ. M. Hutchings)W. E. Dennisonに、シエラネバダを探検したい同好の士が集まれる登山関連の資料館を渓谷に作れないだろうかと尋ねる書簡を送りました。Dennisonもしくはヨセミテ渓谷管理委員会がどう返信したのか記録は残されていませんが、これをきっかけに大学内に登山クラブのようなものを作るというアイデアが広まっていくことになりました。ベイエリアから程遠くないMartinezに居を構え、LeConteをはじめとした教授らともつきあいの深かったMuirが、この話を聞いていたことは想像するに難くありません。やがて1890年の末ごろからMuir、Senger、Armes(William Dallan Armes:カリフォルニア州立大で英語の講師を務めており、Muirとは1890年の9月から知己)、二人のStanford大の教員、ビジネスマンらが集まって話し合いがもたれるようになり、1891年の5月には、クラブの名前はSierra Clubにしようという案がすでにでき上がっていました。一方、ヨセミテ国立公園設立運動にMuirと共に働いたR. U. Johnsonは、できたばかりのYellowstoneとYosemite国立公園を守るような組織を作る重要性を感じていました。1891年には幾人かの知人に手紙を書き、助力を求めています。友人の勧めでBoone and Crockett Clubへコンタクトもしましたが、戻ってきた答えは、Rocky山系のみを活動の対象に限りたいというものでした。もちろんMuirにも手紙を出し、”Count on me, Armes will start a branch here.”(5月13日)という興味を示す返答が戻ってきました。このようにして、大学の教職員や学生といったSan Franciscoベイエリアの知識者コミュニティの登山への興味と、Johnsonに啓発されたヨセミテを守ろうといったアイデアが結びつきはじめました。
正式なクラブ発足の手続きが踏まれるようになるのには、さらに時間が必要でした。1892年の1月1日には、SengerはRocky Mountain Clubに手紙を送り、会則の写し等を送ってくれるように依頼します。またSan Franciscoの弁護士Warren Olneyにも助力を求め、快諾が得られました。1月16日にはSengerとOlneyは初めて会合を開き、近くクラブ設立に興味ある人を全員集めることになります。その招待状を受け取ったMuirは5月10日に、”I am greatly interested in the formation of an Alpine Club. I think with you and Mr. Olney that the time has come when such a club should be organized. You may count on me as a member and as willing to do all in my power to further the interests of such a Club…Mr. Armes of the State University is also interested in the organization of such a club and I advise you to correspond with him.”と返信しています。さらに5月22日に出した手紙では、28日にSan FranciscoのOlneyの事務所で開かれる会合に参加する旨が書いてありました。そして、”Hoping that we will be able to do something for wildness and make the mountains glad.”と結ばれていました。
1892年6月4日までにはすべての書類の準備は終わり、あとは27名のメンバーのサインをするだけとなります。クラブの会長にはMuir(当時54歳)、副会長はOlneyとStanford大学の初代地学部教授John C. Branner、カリフォルニア州立大のArmesとSengerは書記、そしてUS Geological SurveyのMark B. Kerrが会計係として選ばれました。クラブ規約は年に2回の会合を取り決めており、結成後最初の会合は9月16日、San FrancicsoのCalifornia Academy of Science(住所:809 Market Street)で、チャーターメンバーやその友人ら約250人を集めて開かれました。都合でMuirの出席はならなかったものの、会合は大成功に終わり、さらに同秋に2度の会合が開かれました。11月5日の会合では、アルプスの氷河について研究したJohn Tyndall、マッターホルンを初登頂したEdward Whymper、内務省長官(1889-1893)John W. Noble、ネブラスカ州出身上院議員Paddock(Forest Reserve Actを提出)、農務省森林部長のB. E. Fernow、北極探検家J. W. Greeley、ヨセミテを含めカリフォルニアの地質調査で名を馳せたJ. D. WhitneyとClarence King、USGSのPowell、そしてRobert Underwood Johnsonの10人の名誉会員が選ばれました。
さて、ヨセミテ国立公園ができてからまだ間もない1892年、すでにワシントンではヨセミテ国立公園の境界を小さくしようという法案成立の動きが出ていました。設立と同時にクラブは最初の保護運動を開始することになります。
参考:1892年6月4日、チャーターメンバーによってサインされた同意書の出だし。
We, the undersigned, hereby associate ourselves together for the purpose of forming a Corporation under the laws of the State of California, to be known as the Sierra Club. Said Corporation shall not be for the purpose of pecuniary profit, but shall be for the purpose of exploring, enjoying and rendering accesible the mountain regions of the Pacific Coast, and to enlist the support and co-operation of the people and the goverment in preserving the forests and other features of the Sierra Nevada Mountains, and for such other pruposes as may be set forth in the Articles of Incorporation to be formed. The principal place of business of Said Corporation shall be at the City and County of San Francisco, State of California.
Dated at San Francisco, California, June 4th, 1892.
Here follows the list of Charter Members.


[3.5] ヨセミテ国立公園の境界変更案:Caminetti法案(1892年)
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1890年10月1日にヨセミテ一帯を国立公園にする法案が通過すると、Mariposa、Tuolumne、Mono、Fresno郡の人々は、自分たちの税収源が突然失われてしまった事に気づきました。また山岳地帯で自由に放牧をしていた牧畜業者たちは、一帯が突然閉鎖されてしまった事に反対していました。やがて新聞記事、牧畜業者や林業者組合の会合などで反対意見は勢いづき、1891年1月末には連邦議会への嘆願書が出されるに到ります。
このような中、1892年2月10日、連邦下院議員のAnthony Caminetti(元カリフォルニア州の議員)は、鉱山、牧畜、林業者らにとって重要な一帯を、ヨセミテ国立公園の境界から除くための法案HR5764を農務委員会に提出しました(しかしながらCaminettiは、自然資源の保護の重要性も理解しており、脚下されたものの、1892年5月26日には、ヨセミテ国立公園の保護のために1万ドルの予算をつける予算修正案を申請したり、前述HR5764で、ヨセミテ国立公園の湖沼に農務省長官の裁量で魚の放流ができるという項も付加していました)。
同じ頃、内務省長官Noble(R. U. Johnsonとは1890年10月以来書簡のやり取りがある。1891年6月には二人はYale大学より名誉称号を授与されている)は、議会で前年度(1891年)の年次報告をし、夏の間ヨセミテ国立公園をパトロールする第四騎兵隊(Saf Francisco、Presidioが駐屯地)I中隊長のWood大尉(ヨセミテ国立公園長代理)の推薦に基づき、公園境界の見直しを推薦します。Muirは3月24日にNoble宛に手紙を出し、境界の縮小案に賛成の意を表明します。一方、チャーターメンバーのJames Mason Hutchings(Muirがヨセミテに住んでいたとき働いていたホテルの経営主)やJohn T. McLean博士は、同月25日と26日に同じくNoble宛に強固に反対する手紙を出します。特にHutchingsは、更にMt. DanaとMt.Warren一帯(T1N/R25E)を公園に取り込むことを推薦しています。
6月に結成されたばかりのシエラクラブは、10月1日にOlneyの事務所で理事会を開き、クラブとして活動を開始することを決めます。2週間後に開かれた総会では、Caminetti法案の説明がされます。Caminetti議員は、11月5日の総会に出席し、Olneyとディベートをする予定でしたが、これは都合で実現できませんでした。そして、このときクラブは、法案反対の請願書を連邦議会の農務委員会へと送る事で決議しました。当時の理事会の議事録は、1906年のサンフランシスコ大地震の火災で焼失しまい、前述のMuirの境界変更への賛成意見が自分で取り下げられたのか、他のメンバーに押し切られたのかは不明ですが、最終的には境界変更を全く認めないということで嘆願書は作成されました。反対の主な理由は以下の通りです。
[1]T4S/R25、T4S/R25E、T3S/R25E(地図右下の三区画)はSan Joaquin川の重要な水源地帯である。[2]T1S/R19E、T2S/R19E、T1S/R20E(地図中央左の三区画)は重要な森林地帯でまたTuolumneとMercedのセコイアグローブもある。[3]T1N/R19E、T2N/R19Eは州の水源地帯として保護されるべきである(現在はEleanorとCherry湖が出来ている)。[4]T2N/R20EとT2N/R21Eの上半分、T2N/R22E、T2N/R23E、T2N/R24E、T1N/R22Eの上半分、T1N/R23Eの上半分、T1N/R24E、T1S/R25E(残りの地図上側の区画)はTuolumne川の水源地帯であり、Hetch-Hetchyを含む一帯は、将来重要な観光地になることが考えられる。
1893年2月、Caminetti案が農務委員会の議題に上ることを知ったR. U. JohnsonはMuirに電報を打ち、シエラクラブとして抗議することを求めます。2月6日、Muirは委員長宛に”The Caminetti bill is in favor of sheepmen and timbermen chiefly the latter. We urge delay until the light shines”と電報を送りました。これがどう影響を与えたのかは定かではありませんが、まもなくCaminetti案は委員会内で消滅してしまいました。
しかし翌1894年8月1日に、Caminettiは大統領の許可があれば、議会の承認なしに内務省長官が、その裁量で公園の境界変更が出来るという法案(HR7872)を公地委員会へ提出します。すでに長官Nobleは、1893年3月にHarrisonからClevelandへの政権交代に伴い退任しており、新たにHawk Smithが就任していました。MuirはSmithもNobleのように境界変更に賛成する事を恐れ、シエラクラブとしての意見書を送る事にします。シエラクラブの書記のElliot McAllister(カリフォルニア州議員)は、1985年1月15日にCaminettie法案を破棄を呼びかける州法案を提出、これは両院で通過し連邦議会へと送られました。やがてCaminetti法案は1895年3月2日に廃案となり、またCaminnetti本人も選挙での二選目を果たすことができませんでした。こうしてヨセミテ国立公園の最初の境界変更の危機はとりあえず回避することが出来ました。
地図:Caminetti議員が提案したヨセミテ国立公園の境界変更案(青)。赤は1890年に設定された公園境界線。
この記事は”John Muir and the Sierra Club” (Holway R. Jones著、1965年出版)の11〜15ページを要約したものです。また”Yosemite: The Embattled Wilderness”(Alfred Runte、1990年)、”How the U.S. Cavalry Saved Our National Parks”(H. Duane Hamption著、1971年)、”Remembered Yesterdays”(Robert Underwood Johnson著)も参考にしました。


[3.6] Forest ReserveとMuir
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ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯が国立公園となった半年後の1891年3月、General Land Law Revision Act(正式名称:”An act to repeal timber-culture laws, and for other purposes.”)が制定されました。この主目的は、1873年に制定されたTimber-Culture Actの無効化をはじめとする、一連の土地に関する制度を変更するものでしたが、その最後(Sec.24)には、たった一文からなる文言が付け加えられていました。それは後にForest Reserve Actと呼ばれるもので、大統領が独自の裁断で保留林を定める権限を与えていました。Harrisonを始めCleveland、Mckinley、そしてRooseveltへと続く歴代の大統領は、国有地の森林を違法な伐採などの破壊から守るべく、総計194.5Mエーカーにもなる広大な保留林へと指定していくことになります。しかしForest Reserve Actは、保留林が何の目的のためにあり、どう保護・管理されるべきかは全く定めておらず、それがはっきり示されるためには、1897年のForest Management Act(Organic Act)の成立を待たなければなりませんでした。やがて保留林は、Roosevelt政権下の1905年に、管轄が内務省のGeneral Land Office(GLO)から農務省のForest Serviceへ移されます。そして1907年にはNational Forest(国有林)と改名され、現在に至る森林管理がなされていくことになります。保留林の目的が未だはっきりとしない1890年代中期、Muirもこの問題に係ることになりました。
話は戻って、Forest Reserve Actが制定されてすぐの3月30日、Harrison大統領はすぐさまYellowstone国立公園を取り囲む一帯を保留林と指定しました。その半年後にはMuirの”A Rival of Yosemite: The Canyon of the King’s River, California”がCentury誌に掲載され、Kings渓谷一帯をNational Parkにすることを訴えています。
”Some of the sequoia groves were last year included in the national reservations of Sequoia and General Grant Parks. But all of this wonderful King’s River region together with the Kaweah and Tule sequoias should be comprehended in one grand national park.”
この時点でMuirが、”national reservations”と”national park”を同じものとして取り扱っていることが伺えます。これは前年の9月25日、セコイア国立公園を制定した法律『An act to set apart a certain tract of land in the State of California as a public park』の中で、”reserve”と”public park”の語がほぼ同義で使われているためと考えられます。同様の混乱は、1893年4月のCentury誌の論説”A Memorable Advance in Forest-Preservation”にも見うけられましたが、同年9月のEliza Ruhamah Scidmoreの投稿記事”Our New National Forest Reserves”で、保留林の目的が環境保全と資源利用であると明確に指摘されています。
1894年1月、Century誌は”The Army and the Forest Reserve”という論説を載せ、森林関連の権威であったCharles S. Sargentが”Garden and Forest”誌で提案していた、保留林の管理案を紹介・支持しました。同年11月24日、シエラクラブは会合で、保留林についての問題を話し合い、軍務省の管轄の下におかれるべきだという決議を提出しています。翌年Century誌の1895年2月号は、”A Plan to Save the Forests”をいう特集を組み、Muir、Bernard E. Fernow(農務省森林部3代目部長)、Frederick L. Olmsted(Landscape Architect、ヨセミテ渓谷州立公園の立役者の一人)、Theodore Roosevelt(当時はCleaveland政権下で人事業務を担当。後にNY州知事、副大統領を経て大統領)、Gifford Pinchot(当時は駆け出しの森林学者、後に森林部4代目部長を経てForest Serviceの初代局長となる)をはじめとする識者の意見が紹介されました。Muirの主張は、[1] George P. Marshが唱えていた説にのっとり、森林が環境に与える影響を指摘し、[2]森林破壊の最大の敵が伐採と牧羊であることをあげ、[3]それらから守るためには,利益に惑わされない政府の軍が最適であること、[4] そして保留林はそのまま保存するだけではなく、資源として管理され使われる物でもあること、[5]ただ一部の自然は手付かずのまま残しておくというもので、Sargentの案を支持していました。8月になるとMuirは、Tuolumne渓谷の下降やHetch-Hetchyでのキャンプを含むヨセミテ探訪をし、ヨセミテ国立公園の設立翌年から始まった軍のパトロールのおかげで、ヨセミテの荒れた自然が回復しつつあることを確認し、旅行後すぐCenturey誌のR. U. Johnsonに状況を知らせています。11月23日のシエラクラブの会合では講演をし、最初にヨセミテに来た時、ヨセミテ国立公園の設立時、故郷ウィスコンシンにあるFountain Lake周りの土地の一部を買い取り、自然の保存(Preservation)を試みた話と交え、保留林の軍によるパトロール、そして”Forest management must be put on a rational, permanent scientific basic, as in every other civilized country”と持続性のある森林資源として使うための管理の必要性を述べました。
1896年2月15日、内務省長官Hoke SmithはNational Academy of Science(米国科学院)のWolcott Gibbsに、アメリカの森林の状況に関する質問状を送りました。これにより森林委員会(National Forest Commission)が結成され、連邦議会は25,000ドルの予算を許可しました(メンバーの給与はなし)。Muirは1896年の7月に外部メンバーとして加わり、Sargent(委員長、Harvard大教授)、W. H. Brewer(元Whitney隊メンバー、Yale大教授)、Arnold Hauge(USGS局長)、Henry L. Abbot(陸軍技術部隊・退役将軍)らと共にSouth Dakota、Wyoming、Montana、Washington、Oregon、California、Arizona州の山岳森林地帯の状況視察をしました。PinchotはMontanaでメンバーに合流します。MuirとPinchotはCrater LakeやGrand Canyonのアウトドアで共に過したすばらしい時の事を、お互いの日記や手紙の中に書きとめています。一行がカリフォルニアに立ち寄ったとき、Muirは視察中に見た森林の荒廃と、その保護の必要性を”The Examinar”誌に投稿します。
10月にフィールドでの活動を終えた委員会は報告書作成に取り掛かります。しかし作業は手間取り、当初の期限であった11月1日になっても提出できませんでした。結局1897年1月29日になって、新たな13の保留林(総計21Mエーカー)の推薦だけがGibbs経由で内務省長官David R. Francisに提出されました(Wolfeは『Son of the Wilderness』で、Muirの貢献として、保留林区のひとつStanislaus Forest Reserveを推薦したと記していますが、特に資料は示されていません)。そして2月22日、任期終了直前のCleaveland大統領は、突然その13の森林地帯を保留林に指定しました。これは連邦議会に大混乱を巻き起こすことになりました。議会は、それを無効とするための文言を、通過しかかっていた別の法案に付け足そうとしましたが、大統領はその法案全体に拒否権を行使しました。こうして問題はMcKinley政権に持ち越され、6月までReserve Actの廃案化も含め保留林についての論議・法案作成が行われることになります。
この頃Muirは、”The New Forest Reservation”(Mining and Scientific Press)と”The National Parks and Forest Reservations”(Harper’s Weekly)を投稿し、森林の政府による管理の必要性、そして一部手付かずの自然を守ることを訴えます。そして”The American Forest”(Century)では、森林に関する法律制定の流れや、各国での森林管理の動きを述べ、最後に連邦政府のこれからの管理に大きな期待を寄せて書き終えています(内容から判断して記事は5月ごろに書かれています)。5月1日には、半年遅れで森林委員会の正式報告書が提出されました。その内容は森林が水系に与える影響や管理の現状をヨーロッパの例を挙げて説明、それが国の資源として使われるために指定されるものであることを推薦しています。さらにその管理は政府によってなされるべきで、そのような組織が出来るまではとりあえず軍が担当するといったものでした。一方、連邦議会では、委員会の報告書とは別にUSGSのWalcottや上院議員のPettigrewらが中心となって、新しい法案がまとめられつつありました。そして6月4日、McKinley大統領のサインを得てForest Management Actが成立することとなります。これは以後63年近くに渡るアメリカの保留林(国有林)管理のベースとなるもので、USGSの保留林の測量を許可し、内務省長官が管理のルールを決め、倒木や成長した木を販売、伐採の前には木にマーキングをするといった項目が盛り込まれていました。
こうして保留林は、Muirが当初期待したような、一部を手付かずの状態で保存するようなことはなく、持続可能な天然資源の供給源としての位置づけがなされました。以後Muirは1901年にかけて、”The American Forests”も含み、10本の国立公園関連の記事をAtlantic Monthlyに投稿し、それらは1901年11月に編纂され『Our National Parks』として出版されることになります(幾度か再版を重ね、1911年までに8,000冊近くが売れました)。そのいくつかの記事のなかでは、Muirの自然(森林)保護への新たなアプローチが散見できます。例えば”Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年2月)では、Mount Rainier Forest Reserve(1897年2月22日指定)とGrand Canyon Forest Reserve(1893年2月20日指定)を国立公園に指定することを呼びかけていまます。また”Hunting Big Redwoods”(1901年9月)では、Sierra Forest Reserveにあるセコイアの林が、ほとんど守られていないことを指摘すると共に、セコイア国立公園の拡大や、公園内部に残された私有地の政府による買い上げなどを唱えています。Muirは、軍によってパトロールされる国立公園のみが、自然を守るための唯一の方法と考えはじめたようです。
地図:
1907年時のカリフォルニアのForest Reserve 『The Ever-Changing View: A History of the National Forests in California』 Anthony Godfrey著, US Dept. of Agricilture/Forest Service
資料:
* Forest Reserveに関するMuirの記事
 6章参照:[M198][M203][M209][M217]
* National Parkに関するMuirの記事
  6章参照:[M219][M222][M224][M228][M232][M234]
* 『Our National Park』John Muir (1901/Nov.)
* Muir以外の著者によるCentury誌のForest Reserveに関する一連の記事(〜1894年)
1889年6月:”How to Preserve Forests”
1892年6月:”The Pressing Need of Forest Reservation in the Sierra”
1893年4月:”A memorable Advance in Forest-Preservation”
1893年9月:”Our New National Forest Reserved”
1894年1月:”The Army and the Forest Reserves”
1894年11月:”Congress and the Forestry Question”
* Harold K. Steen, ”The US Forest Service: A History”, University of Washington Press,1976年(2004年版)
* Glen O. Robinson, ”The Forest Service: A Study in Public Land Management”, The John Hopkins University Press, 1975年
* Gifford Pinchot, ”Breaking New Ground”, 1946年/ Island Press, 1998年
* Char Miller, ”Gifford Pinchot and the Making of Modern Environmentalism”, Island Press, 2001年
* Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”,1923年, /復刻版 www.kessinger.net
* William Frederic Bade,”The Life and Letters of John Muir”,Houghton Mifflin Co.,1924年
* Linnie Marsh Wolfe, ”Son of the WIlderness: The Life of John Muir”, The Univ. of Winsonsin Press(1945年/2003年版)
* Thurman Wilkins,”John Muir: Apostle of Nature”, Univ. of Oklahoma Press(1995年)
* Michael P. Cohen,”The Pathless Way”, The Univ. of Winsonsin Press(1984年)
* Stephen Fox,”The American Conservation Movement: John Muir and His Lagacy”, The Univ. of Wisconsin Press (1981年)
* Frederick Turner,”John Muir – Rediscovering America”,Perseus Publishing (1985年)
* Ronald Eber, ”Wealth and Beauty: John Muir and Forest Conservation”, 『John Muir: Family, Friends, and Adventures』より、Univ. of New Mexico Press (2005年)
* Ronald Eber, ”John Muir and the Pioneer Conservationists of the Pacific Northwest”,『John Muir in Historical Perspective』より、Peter Lang Publishing (1999年)
* Holway R. Jones,”John Muir and Sierra Club”, Sierra Club, 1965年
* Roderick F. Nash ”Wilderness & the Amarican Mind” Yale Univ. Press (2001年・4版)
* Forest Reserve Act(1891), Forest Management Act(1897)等に関しては連邦議会図書館より。
註:
MuirとPinchotの関係については、1897年9月のシアトルでの出会いをどう解釈するかによって、さまざまな解説がなされています。今回はあえて触れず、別の機会に詳しくまとめる予定です。


[3.7] ヨセミテ国立公園:境界変更(1905年)
20061209.jpg
1890年10月1日、ヨセミテ国立公園が制定されてから、ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブを除くヨセミテ一帯は、連邦政府により保護・管理されることになりました。この法律は、内務省長官が管理の為のルールや規定を作ることを定めており、当時の内務省長官Nobleは、軍隊を用い、伐採、放牧などの取り締まりをさせることを決めています。早速サンフランシスコのGolden Gate BridgeそばのPresidioに駐屯している騎兵隊は、5月〜10月の間Wawonaに本部を置き(ヨセミテ渓谷が連邦に返還される1906年まで)、ヨセミテをパトロールすることになります。最初のヨセミテ公園長(代理)に任命(1891〜1892)されたのは、第四騎兵連隊I-中隊の指揮官Abram E. Wood大尉でした。ヨセミテに入った騎兵隊は、早速判然としない公園の境界問題に直面します。特に西側の公園内には、かなりの数の私有地が存在し、パトロールをかなり困難なものにしました。また放牧者らも、私有地を使い、公園内へと簡単に侵入してきました。Wood大尉は1891年度の内務省長官への報告書で、公園内に含まれる私有地が65,000エーカーにも及び、さらに300もの鉱山の採掘権が許可されていることを指摘しています。そして、公園の規模が小さくなるものの、分水嶺や、川などで新境界を指定することにより、私有地を公園からほとんど除外でき、パトロールが簡単になると述べていました。また連邦議会では、Camminetti議員らにより、境界変更の法案を通す試みが行われましたが、シエラクラブの反対運動によって、成立しませんでした。
1903年、ヨセミテ国立公園内に広大な私有地を持つYosemite Lumber Companyが公園内で伐採を始めると、ついに連邦議会も境界問題にアクションをとり始めます。連邦議会は調査に$3,000の予算をあて、1904年4月28日、内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関してどの区域が公園として不必要か調査するよう指示します。6月14日、Hitchcock長官は陸軍技術部隊のH. M. Chittenden少佐、USGSの地形図作成係Bob Marshall、内務省Genaral Land Officeの地図課Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)を設立しました。委員会は6月24日にWawonaに到着し、公園の調査を開始しました。7月9日にはHetch Hetchyを含む主要な地点のフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。7月2日にMuirは、Chittendenから、会って意見を聞きたいという手紙を受け取ります(実際Muirが委員会と会ったのかは資料がなく、不明です)。8月23日には、Muir、LeConte、Colbyらにより、Mercedグローブも含んだ公園南西部の3区画を削除し、東側には現在のTioga Pass(鉱山を含む)、June Lake、Mammoth Lakes付近(同じく鉱山を含む)に区画を追加するという対案書が作成され、委員会に送られました。さらにColbyは28日にChittenden宛に、公園内には多くの採掘権があるものの、それらはほんのわずかばかりの土地しか占めていない。ならば、ある制限のもとで、公園内でそにまま採掘させるのは可能ではないか。その方が、すばらしい景色を楽しめる大きな公園区画を失うよりは良いのではないかとも書き送っています。
公園内の私有地の買い上げも考慮されましたが、評価額は$4Mにも及び、連邦がそのような予算を捻出するのは不可能であること、さらの鉱山の採掘権の問題もあり、最終的な委員会の提案は、新しいヨセミテ国立公園の新境界を、北・東、そして南の境界はTuolumne及びMercedの水系で囲まれ、西側は、ほぼGLOの測地境界とするものでした。シエラクラブとしては不満だったものの、何故か反対運動はしませんでした。12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案:”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)は議会を通過し、1905年2月7日にRoosevelt大統領によってサインされました。これによって、ヨセミテ国立公園は総面積を1,512平方マイルから1,082平方マイルの約2/3に縮小され、現在とほぼ同じ形状の境界線を持つことになりました。しかしヨセミテ渓谷とMariposa Groveは依然カリフォルニア州のもので、公園内には22,000エーカーの私有地が残されていました。
地図:黄色は1890年に決められたヨセミテ国立公園の境界。白はChittendenらのヨセミテ境界調査委員会が提案し、採用された1905年の新境界。ヨセミテ渓谷、Mariposa Groveは、依然州の所有地。西側の突起は、Tuolumne、Merced Groveを含む地帯。シエラクラブの対案は、1890年の境界から南西の区画を削り、東側に3区画を付け足すもの。


[3.8] ヨセミテ渓谷、連邦へ返還: 1906年
2005-02-10   (2007前半までに書き換え予定)
1890年の法案H.R. 12187の通過により、連邦によるヨセミテ一帯の保護が始まりましたが、依然二つの大きな問題が残されたままでした。ひとつはヨセミテ渓谷が依然カリフォルニア州の所有下にあり、保護よりも観光が重視され、景観の荒廃が進んでいたこと。もうひとつは連邦の管轄となったものの、かなりの広さで私有地が残っており、管理上の問題があったことです。騎兵隊によるパトロールで、とりあえず羊などによる自然破壊に歯止めをかけることができましたが、ヨセミテは国立公園としてはこれらの不安定な要素を含んでいました。以下は1890年にヨセミテ国立公園が設立してから、渓谷が州の管理から連邦へと返還され、ヨセミテ全域の管理が連邦に帰する1906年までの主な出来事・運動のまとめです。
1890年:ヨセミテ国立公園設立の法案(HR. 12187)が通過する直前、上院は内務?長官Nobleにヨセミテ渓谷管理の問題の調査を命じた[1]。1891年:”The Forest Reserve Act”(H.R.7254)法案が通過、大統領の判断で森林保護区を作れるようになる[2]。1892年:R.U.Johnsonの訴えに応じ、Muirはシエラクラブを結成する[3]。Nobleはその最終報告書で、ヨセミテ渓谷が連邦に返還されるべきと結論を下す[1]。1893年:Clevelandが大統領となり、内務省長官とともに保護のスタンスを表明する[4]。1894年:大統領の許可があれば、内務省長官は公園内の私有地の調整ができるという法案、Caminetti Bill(H.R.7872)が通りかかるが、シエラクラブの運動により廃案となる[5]。Muirの「Mountains of California」が出版される[6]。1895年:Muirはヨセミテに行き、ハイシエラが自然破壊から回復しつつあることを報告[7]。1896年:Sargentらを中心に森林委員会ができ、全国の森林の調査を開始する[8]。1897年:任期終了直前のClevleandはH.R.7254を用い、21Mエーカーに及ぶ森林保護区を定める大統領令を出す。しかし上院の反対に会い、その実行は一年間保留となる[8]。1898年:Clevelandの大統領令が下院によって認められる[9]。 1899年:MuirはUnion Pacific鉄道の実権を握るE. H. Harrimanのアラスカ遠征隊に加わる[10]。1901年:HarrimanはさらにSouthern Pacific鉄道の実権も握る。”The Right of Way Act”(H.R. 11973)が通り、内務省長官の権限で、国立公園内にダムなどを建設できるようになる[11]。11月、Rooseveltが大統領となり、すぐに保護の方針を示す[12]。1903年:5月にRoosevelt大統領はMuirともにヨセミテでキャンプをする[13]。1904年:議会は内務省長官のHitchcockに対して、ヨセミテの境界を見直すようにと指示、年末には報告書が提出される[14]。1905年:2月にヨセミテの境界を変更・縮小する法案(H.R. 17345)が通る[14]。またほぼ時を同じくして、カリフォル二アではシエラクラブ原案によるヨセミテ渓谷返還の案が通過(Muirの要請でHarrimanが州議会に影響をあたえた)、直ちに連邦での法案通過へと動き始める。しかし会期末日だったので、合同案(S.J.R. 115)の形で予算だけを通す[15]。それに応じ、騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしたが、州の運営委員会の抵抗で延期となる[16]。年末には正式返還のための法案(H.J.R. 14)が下院に提出される。 1906年:若干の土地境界の修正をした法案(H.J.R. 77)が下院に提出される。Muirは更にHarrimanに援助を求め、最終的には法案(H.R. 118)となり上下院を通過し、6月11日の大統領Rooseveltのサインにこぎつけた[17]。直ちに騎兵隊はヨセミテ渓谷に司令部を移し、以降National Park Serviceが取って代わるまでの管理を行う[17]。
以上、キーポイントとして数点が指摘されると思います:1890年のヨセミテ国立公園設立のときとは異なり、Muirが表立った保護・ロビー活動を開始したこと、鉄道会社がまたもや法案通過に大きな役割を果たしている事、森林保護の意識が議会で高まってきた事、そして大統領・内務省長官が保護や開発に関して大きな実力を握っていた事です。
参考:
* Linda Wedel Greene,”Historic Resource Study: YOSEMITE”, U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* William Frederic Bade, “The Life and Letters of John Muir”(1924年)
* Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”(1923年)
* Linnie Marsh Wolfe,”Son of the Wilderness: The life of John Muir”,The Univiesity of Wisconsin Press(1945年)
* Linnie Marsh Wolfe,”John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir”,The Univiesity of Wisconsin Press(1938年)
* Alfred Runte, “Yosemite The Embattled Wilderness”, University of Nebraska Press(1990年)
* Mark Neuzil abd Bill Kovarik, “Mass media and environmental conflict”, SAGE publication(1996年)
第3章”The Mother of the Forest”
* 法案の原本の写し:連邦議会図書館、デジタルアーカイブ
* The Atlantic Monthly、The Century 、Harper’s New Monthly、Harper’s New Monthly、The North American Review、Scribner’s Monthlyの原本の写し: コーネル大学、Making of America デジタルアーカイブ
* Overland Monthlyの原本の写し:ミシガン大学、Making of Americaデジタルアーカイブ
* Maury Klein,”The Life and Legend of E. H. Harriman”, The University of North Carolina Press(2000年)
* William Colby,”The Story of the Sierra Club”,Sierra Club Handbook(1947年)
* Stephen R. Mark,”Seventeen Years to Success: John Muir, William Gladstone Steel, and the Creation of Yosemite and Crater Lake National Parks”, U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* Theodore Roosevelt,”Theodore Roosevelt: An Autobiography”(1913年)
* Theodore Roosevelt,”John Muir: An Appreciation”(1915年)
* Theodore Roosevelt,”In Yosemite with John Muir”(1913年)
[1] Greene(3章D):ヨセミテ国立公園設立の法案、”An act to set apart certain tract of land in the State of California as forest reservation”(H.R. 12187)が通過する直前の1890年9月22日、上院は内務省長官Nobleに対してヨセミテ渓谷のマネジメントの問題を調査するよう指示した(調査の予算はなし)。Nobleは手紙などにより情報収集を行い、1891年に提出した報告書で、ヨセミテ渓谷の運営委員会は、公共のリゾートという本来の目的を逸脱し、州の利益のために土地を耕してしまったと結論付け、更なる調査の必要性を指摘した。1891年3月2日、上院は報告を聞き、更に調査を続ける事をNobleに申請した。1891年10月3日のWeigel少佐の報告と1892年11月15日のStidger大尉の報告に基づき、Nobleは1892年12月29日の最終報告書で、ヨセミテ渓谷は連邦に返還されるべきだと結論付けた。当時の一致した見解としては 1)建材、燃料、見通しを良くするために木が切られていた、2)渓谷の25〜50%は有刺鉄線で囲まれていたり、草や穀類が植えられていた、3)貴重な植物系は牛などの動物や隙返しなどにより破壊されていた、4)渓谷内のビジネスは独占状態となっていた、5)唯一の放牧地は厩舎や運送会社関係者によって占められ、馬などを使ってくる旅行者の為の余裕はない、6)ハイカントリーの植生は牧羊者により被害を受けていた、7)火事の鎮火作業を怠ったため、マリポサグローブのセコイアにダメージを与えてしまったことなどが挙げられる。
[2] 1891年3月3日、”An act to repeal the timber-culture laws, and for other purposes.”(H.R. 7254)、 通称”The Enabling Act(The Forest Reserve Act)”が通過した。これによって、1873年に制定された”Timber Culture Act”(S.680)を無効とし、大統領の権限で森林保護区が指定できるようになる。”Timber Culture Act”とは簡単に言うと、40エーカーにわたる森林を10年にわたり大切に守ったものには160エーカーの土地を譲渡する、という聞こえのよい法であったが、かなり欺瞞性の高いものであった。”The Enabling Act”の主たる目的は、水系の保護(特に上流や川沿いを守って侵食や洪水を防ぐ事)や木材の供給の保護・保存をする事にあった。連邦議会図書館で、この法案の通過に絡むディベートの記録が残されている、R. U. Johnsonの知り合いであるPlumの名前が見受けられる。法案自体も9ページとかなり長い。大統領の権限について述べるその最後、Sec. 24は、同じくJohnsonの知り合いである下院のHolmanによって書かれたとのこと。
[3] Wolfe(6章): 1889年以来、R.U. JohnsonはMuirにカリフォルニア(少なくともヨセミテ)の自然の保存活動をするような組織を作る事を訴えていた。1892年5月末の会合の後、 6月4日正式にシエラクラブが設立された。その趣旨は”To explore, enjoy and render accessible the mountain regions of the Pacific Coast; to publish authentic information concerning them; to enlist the support and corporation of the people and the goverment in preserving the forests and other natural features of the Sierra Nevada Mountains”と、太平洋岸の山々の探査・報告、シエラネバダの自然保護などにあった。チャーターメンバーは182人。Muirは死去する1914年まで会長を務めた。Colby:1900年よりクラブのSecretary(事務官)であるColbyは、初期の功績として、Caminetti案(ヨセミテ国立公園を半分にする法案)への反対運動、公共への教育活動、ハイシエラの地図の作成、ヨセミテ渓谷返還運動などを挙げている。Mark: Muirは会合には不規則にしか参加しなかったため、すぐにクラブの取りまとめは他の役員によって行われるようになる(1898年には殆ど参加していない)。ColbyはTuolumne Meadows(Soda Springs)でのシエラクラブアウティングを開催し大成功を収め(1901年)、以後毎年行われるようになる。
[4] Wolfe(6章):1893年初頭、当選を決めたCleveland大統領は、R.U. Johnsonに保護の姿勢をとることを表明していた。また、内務省長官候補のHoke Smithも同じ姿勢をとった。1893年2月14日、任期終了間際のHarrisonは”The Enabling Act”を使い、 13Mエーカーにわたる水系を森林保護区と定めた。そのうち4Mは中南部シエラネバダが占めていた。しかしパトロールは入らず、牧羊、林業者の問題が残されたままとなる。6月にMuirは東海岸へ行き、JohnsonによりCentury誌のスタッフ、有名人などに紹介される。BostonではHarvardのDendrologist(樹木学者)のCharles S. Sargentと会う。
[5] Wolfe(6章)、Bade(16章)、Runte(6章):1892年、すでに林業者と牧畜業者は、ヨセミテの境界を変更(規模を半分にする)する為の法案提出(Caminetti Bill)への反対運動を開始した。法案は下院を大差で通過したが、上院に来る前にMuirとシエラクラブらの運動により(Muirは東海岸の新聞にインタビューを受けたり、また政府の有力者に電報を打ったりした)、持ち越されることになった。法案は幾度かの修正を受け、1894年には「大統領の許可があれば、連邦議会のレビューなく、内務省長官は境界の変更ができる」という法案(H.R. 7872)が提案された。法案に賛成の立場にたつ上院のレポートはその理由として、1890年のヨセミテ国立公園を定める法案は会期の最終日に通ったもので、その影響を受ける者が注意深くレビューする機会がなかったため、65,000エーカーに及ぶ譲渡地や300近い採掘権の要求が公園内に残されてしまったことを挙げている(1894年12月10日、下院報告書1485)。しかしながら、内務省長官Hoke Smithは、法案の通過に異議を唱えるのにやぶさかではないという態度で臨んだ。
[6] The Mountains of California: 第1章「The Sierra Nevada」の冒頭は1890年8月にCenturyに投稿した”The Treasures of The Yosemite”の一部を使っている。ほかの章はOverland Monthlyの1875年6月号、 Harper’s の1875年11月、1877年7月号、Scribner’s Monthlyの1878年2、11、12月号、 1879年1、2、3月号、 1880年7月号、 1881年5、9、10月号、 Centuryの1882年6月号を基にしている(”Sierra Thunder Storms”と”In the Sierra Foot Hills”の章の出展は現時点で不明)。
[7] Wolfe(”John of the Mountains”): 1895年8月7日、Glen Aulin付近(オリジナルは”at the head of the Grand Cascede”と書いてある)でキャンプ、そこから、Tuolumne渓谷を単独で下る、8月12日にはHetch-Hetchに貫けた。食料が尽きたので帰る途中、Lekensに出会う。Lukensは食料が十分あるので、一緒にHetch Hetchyへ行こうと促され、Muirは再び渓谷に戻り一緒にキャンプをする。その後、ハイシエラに戻り8月26日、Mt. Connessに登った。8月31日にはヨセミテ渓谷で、昔住んでいたキャビンを探す。9月12日には公園及び渓谷の状況を書いた手紙をR. U. Johnsonに送る。[註:この年Muirの投稿記事には、鉄道会社に関してのコメントが見られる。Century1895年2月号の特集”A Plan to save the forests”への投稿記事では、”Now railroads, carrying everywhere the rapidly increasing population, have rendered nearly every tree in the country accessible to the ax and to fire, till at last the Goverment has taken alarm, and seems ready to adopt measures to stay destruction and save what is left.”と書いている。この特集には後の大統領ルーズベルトの投稿もある。また11月23日のシエラクラブの会議で 発表された記事、”The National Parks and Forest Reservations”では”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co., never counterd on for anything good, helped nobly in pushing the bill for this part through Congress”と鉄道会社のヨセミテ国立公園設立への貢献を認めている。]
[8] Wolfe(6章):1894年ごろGifford Pinchotが中心となってSargent、JohnsonらとともにNational Forestry Commission(森林委員会)を作る計画と練り上げた。それは森林保護区の測量や新しい保護区の推薦、その管理のポリシーなどを提案するものであった。 1896年、内務省長官SmithはNational Academy of Scienceの会長(Wolcott Gibbs、政府への科学面でのアドバイザー)に人選を頼み(ただし無給)、委員会のメンバーがきまる。委員長のSargentをはじめAbbot、Brewer、Agassiz、Hague、Pinchotらが選ばれた。委員会は7月より調査に出かけ、Muirも同行した。
[9] Wolfe (6章)、Bade(16、18章):1897年1月18日、MuirはOlney(シエラクラブの幹部メンバー)に手紙を書き、シエラクラブとしてのヨセミテ渓谷返還を訴えるべきことを示唆する。2月には州に法案を提出するも反対にあう。これが通るのは1905年。同月、Cleveland政権の終了間際に森林委員会のレポートが完成する。大統領はそれに感銘してExecutive Order(以下EO)を発令、13の保護区(21Mエーカー)を設定した。直ちに保護反対派は電報などで抗議活動をする。彼らをバックにする上院の議員たちはEOを非現実的と非難。わずか一週間の後に、上院は反対なしでEOを無効とする補足案をSundry Civil Billに付け足すことに成功した(ただし、カリフォルニアの保護区はPerkinsとWhiteの二人の上院議員の働きでそのまま残された)。大統領はもし補足案が含まれていれば、Sun Dry法案に拒否権を発動(Veto)すると表明。そのまま会議は閉会した(1897年3月4日)。更に5月には、議会で特別のセッションが開かれ、EOを1898年3月まで1年間保留する決議を出し、McKinley大統領が6月にサインする(それに応じ新政権の内務省長官Blissは保護区を入植者に開放。直ちに申し込みが殺到した)。この頃MuirはAtlantic誌に”The American Forest”(1897年8月)及び”The Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年1月)を投稿している。1897年8月にMuirは Sargentらとアラスカに行き、その帰りシアトルでPinchotと口論をしている。1年後の1898年、上院はEOを無効にする事を可決。しかし下院の土地委員会では否決される。かつ下院での採決は100:39で無効案は否決された。
[10] 当時Union PacificとIllinois Central鉄道の実権を握っていたEdward H. Harrimanがアラスカ遠征隊を計画。Muirもそのメンバーに加わる事になった[註: 参加にいたる理由は不明。それまで幾度かアラスカ?検をしていた実績を買われたことが考えられる]。1899年5月26日、サンフランシスコからオレゴンへ向かい、出発。ポートランドでHarriman一行と会う。Wolfeの”John of the Mountains”には出発から8月にカリフォルニアに戻るまでのほぼ毎日の日記がある。Harrimanをはじめ、U.S. Geological SurveySのHenry Garnett、U.S. Biological SurveyのC. Hart Merriamらと知り合った。Klein: 1900年にSouthern Pacific鉄道の社長Huntingtonが死去すると、Harrimanは1901年以降、その経営の実権も握った。HarrimanとRooseveltはNY州知事選(Rooseveltが出馬)のとき、Harrimanの友人Odell(NY州の議員)を介し1898年に知り合った。Rooseveltが副大統領になってからはOdellがNY州知事となる。Rooseveltは1903年、大統領に就任。Harrimanとの蜜月期は大統領選を境に終焉に向かい、1906年には決別となる。やがて追い討ちをかけるように、Rooseveltは鉄道会社への規制を強める方向へと動き始めた。
[11] Greene(3章D-8):1901年2月15日:当時すでに内務省長官は公共用地に発電、通信路、灌漑、水路を通す許可を出せる権利があった。この法案”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands.”(H.R. 11973)により、それが国有林や国立公園内の土地にも適用される事になる。この頃既にSan Franciscoは、人口増加のため、新たな水源探しを始めていた。この法案はやがて有名になるHetch-Hetchy渓谷でのダム建設に大きく関わることになる。 
[12] Wolfe(7章):1901年9月:現職のMckinley大統領が暗殺された為、副大統領のTheodore Rooseveltが急遽就任(1909年まで大統領)した。Rooseveltは12月に議会で森林保護の必要性を訴えた:”An Imperative business necessity”。その頃、C. Hart Merriam(Harriman遠征隊で同行)はMuirに手紙を送り、大統領が保護に興味があることを伝えている。この年、Muirの”Our National Parks”が出版される。[註:”Among the Animals of the Yosemite”と ”Among the birds of the Yosemite”はThe North Americal reviewの1898年11月、12月号の記事より、他のはAtlantic Monthlyの記事(1897年8月、1898年1月、4月、1899年8月、1900年4月、8月、1901年4月、9月より)をまとめたもの] 
[13]Bade(18章):1903年3月:カリフォルニアの上院議員Chester RowellはMuirに手紙を送り、ワシントンから届いた個人的な情報として、大統領がカリフォルニア訪問の際、Muirとハイシエラに行きたいと思っていることを伝えた。既にSargentと世界旅行の予定を立てていたが、それを延期し、5月15日にはRooseveltとMuirのヨセミテキャンプが実現する。Rooseveltはマリポサでの出迎えの群集に”Ladies and Gentlemen: I did not realize that I was to meet you to-day, still less to address an audience like this! I had only come prepared to go into Yosemite with John Muir, so I must ask you to excuse my costume”と、彼のプランを発表し、その後3日間をMuirとヨセミテの自然の中ですごす事になった。残されているMuirの手紙によると、妻宛には”I had a perfectly glorious time with the President and the mountains. I never before had a more interesting, hearty, and manly companion.”またMerrianには”Camping with the President was a memorable experience. I fairly fell in love with him.”と書かれている。ヨセミテから帰ってきたばかりのRooseveltは、州都サクラメントのスピーチで、森林保護なくして農業への水の供給はできないこと等を述べている。[註:Bade自身は1916年にRooseveltと会って当時の話を聞いている。] Johnson(”Men and Women of Distinction”の章):Rooseveltがヨセミテに行く計画があると聞いて、大統領に手紙を送ってMuirと会うことを薦めた。Rooseveltは乗り気だったので、Johnsonは早速Muirに連絡を取った。またMuirがJohnsonに伝えたキャンプファイアを囲んだ大統領との話が書かれている。Johnsonは既にRooseveltがNew York州の議員であった頃からの知り合いであった。Wolfe(7章):Muirのサンフランシスコでの出迎えのことや、ヨセミテ渓谷での逸話が色々と書かれている。Roosevelt:回顧録の中で、Muirが意外にも鳥に関する興味・知識が無いことを指摘している。またMuirが別れ際に、(Sargentに?)頼まれてRooseveltに渡そうとした手紙に関しても述べている。
[14] Runte(6章)、Greene(3章F):1904年4月28日、議会は内務省長官Ethan Allen Hitchcockにヨセミテの境界に関し、どの部分を公園として残すべきか調査するように命令を出す。6月14日にはChitterden、Marshall、Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)が設立された。7月9日にはフィールド調査を終了、一行はその後サンフランシスコに行き、関係者ら(Muirも含まれていた)の意見を聞く。12月5日にはHitchcockは最終報告を議会に提出。1905年2月7日にRooseveltは”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)法案のサインをする。これによりヨセミテ公園の境界が大きく変わり、且つ小さくなり、現在の境界とほぼ同じになった。
[15] Greene(3章G)、Wolfe(7章)、Johnson:1904年12月年末にはヨセミテ渓谷を連邦に返還する案の論議がカリフォルニアで熱を帯びてきた。反対派は州の議員(John Curtin)や新聞社のSF Examinerであった。1905年1月:MuirのリクエストでColbyがカリフォルニアでの法案の原案を書く。このころは殆どの新聞が返還案を支持していた。1月8日にはヒアリングが行われる、2月2日には州の下院に於いて45:20で可決、2月23日には州の上院で一票差で通過する(このときMuirはCaliforniaで政治的影響力のある、Harrimanに助けを求めていた)。3月3日にはカリフォル二ア知事Pardeeがサインし、カリフォルニア州としてヨセミテ渓谷とマリポサグローブを連邦に返還することが決定する。このことは、すぐ電報でカリフォルニア出身の上院議員George C. Perkinsに送られる。上院で法案を提案、通過した。次に下院に送られたが、会期の最終日となっており、即日で新法案の提出はできないという決まりがあるため、Joint Resolution(S.J.R. 115)として提案。これはすぐ下院を通過した。
[16] Greene(3章G):S.J.R. 115が通過するとすぐ、内務省長官と軍はヨセミテ国立公園全体を管理するのに都合のよい渓谷へと騎兵隊のキャンプ地を設営する事、及び州の所有物を連邦へ引き渡す事を州に求めた。しかし、ヨセミテ運営委員会は法案がそのような事を許可することはどこにも書いていないとし、抵抗する。騎兵隊は他の一般キャンパーを同じとみなされ、指示したキャンプ場所は大隊規模が幕営できるような広さのところではなかった。勿論州の所有物の引渡しも拒否した。よってBensonはその年、ヨセミテ渓谷に移ることはを断念する。
[17] Greene(3章G)、Wolfe(7章): 1905年12月、PerkinsはJoint Resolution S.R. 14を提出。1906年1月15日、下院のJ. N. GilletはJoint Resolution 77を提出、一部の土地をS.R. 14から削る。もし、法案が一定期間内に許可されなければ無効となるため、Muirは再びHarrimanに助けを求めた。HarrimanがMuirへ書いた1906年4月16日の手紙には”I will certainly do anything I can to help your Yosemite Recession Bill”と書いている。5月には最終案”Joint Resolution Accepting the recession by the State of California of the Yosemite Grant and the Mariposa Big Tree Grove, and including the same, together with fractional sections five and six, township five south, range twenty-two east, Mount Diablo meridian, California, within the metes and bounds of the Yosemite National park, and changing the boundaries thereof.”(H.R. 118)は下院を通過、三度目のHarrimanの力で上院を通過し、6月11日、Roosevelt大統領のサインをもってヨセミテ渓谷、マリポサグローブはヨセミテ国立公園に取り込まれることになった。[註:Greeneは、この背景について面白い事を書いている。1903年にYosemite Valley Railroadに対抗すべく、Southern Pacific Railwayの援助を受けたFresno Traction Companyが設立された。目的はYosemite Valley Railroadに対抗して、Wawona経由でヨセミテ渓谷への鉄道を引く事であった。そのためには、ヨセミテ国立公園南西部を1905年に決まった公園指定区からはずさなければならなかった。H.R. 118にはまさにそのための修正が加えられている。Greeneの407ページの地図に1864年、1890年、1905年と1906年の境界の変化が詳しく描かれている。]
[18] Greene(3章G):1906年6月15日、内務省長官は、監督官のBensonにヨセミテ渓谷にキャンプを設立し、渓谷、マリポサグローブの管理をするよう正式な指示を出す。また州知事Pardeeに電報を送り、運営委員会が法律を認め、州による管理(Guardian)を廃止、所有物の返還を行うよう求めた。これにより8月1日をもって、州による管理に終止符が打たれ、ヨセミテ全域が連邦の管理下となった。


[3.9] Hetch-Hetchy渓谷、ダム建設論争:1901〜1913年
2005-02-17   (2007前半までに書き換え予定)
1901年、人口増加に伴い将来の水の供給に不安を抱えるサンフランシスコ市[1]は、”The Rights of Way”法案[2]に従い、ヨセミテ公園内のHetch-Hetch渓谷にダムを作る許可を申請しました。これ以降Conservations-for-Preservation(保存の為の保護)派とConservations-for-use(利用のための保護)派の間で、是非論争が巻き起こります。最終的には1913年にRaker法案[3]が通過し、ダム建設が許可されます。以下はその12年間の流れです。
1901年:2月15日、”The Rights of Way”法案が通過する。Tuolumne川にダム建設を考えるサンフランシスコ市長のPhelanは、1900年から技師(City Engineer)のGrunskyに命じ、候補となる水源の調査をさせていた。7月29日、個人としてTuolumne川沿いに”Water Rights”(水利権)を申請する公示を出した。10月15日、PhelanはHetch-Hetchy渓谷とLake Eleanorにダムを建設する許可を内務省長官Hitchcockに申請する[4]。 1902年:Eugene Schmitzがサンフランシスコ市長に就任。 1903年:1月20日、Hitchcockは申請を却下する。2月20日、元市長のPhelanは自分が所得した権利をサンフランシスコ市に移譲する。ヒアリングなどの後、12月22日、Hitchcockは正式な却下を市に通達[5]。 1906年:サンフランシスコ市はHetch-Hetchyのダム建設計画を正式に取りやめる[6]。4月18日、サンフランシスコ大地震が起きる。5月28日、森林局長のPinchotはCity EngineerのMasonに手紙を送り、彼がダム建設をサポートする旨を表明する[7]。さらに11月15日、内定した内務省長官James R. Garfieldがダム建設に好意的であると伝える[8]。 1907年:3月5日、内務省長官にGarfieldが就任。7月にはサンフランシスコで公聴会に出席。この頃Tuolumne川の灌漑区は、すでに彼らへの水割り当てが確保されていたので、サンフランシスコ市側についていた[9]。 1908年:1月、Muirは”The Hetch Hetchy Valley”を書く。この頃には、地元の新聞は開発側の勝利が近い事を書いていた。4月21日、MuirはRoosevelt大統領に手紙を送り、助けを求める。4月22日、City EngineerのMasonはダム建設の許可を申請する。4月27日、RooseveltはGarfieldに対してMuirからの手紙を添え、ダム建設はLake Eleanorだけにできないかと書簡を送る。 しかし、Garfieldは5月11日に条件付でダム建設を許可した[10]。12月には下院で公聴会が行われる[11]。 1909年:2月9日、下院土地委員会のレポートが提出される[12]。3月4日、Taft政権が成立、新内務省長官にRichard A. Ballingerが選ばれる。10月、Taftはヨセミテを訪れ、Muirと4マイルトレイルを下り、ダムの件について話をする。またTaftはBallingerと不仲のPinchotを罷免[13]。 1910年:1月4日、サンフランシスコ市で45Mドルの公債発行が20対1で許可される。2月25日、BallingerはGarfieldのHetch Hetchy渓谷に関する部分の許可に疑問を投げかける。4月13日、サンフランシスコ市はLake Eleanor付近の土地と水利権を所得。5月にTaft大統領は計画を見直すための調査を指示した[14]。 1911年:3月、Ballingerは健康上の理由で辞任し、Fisherが後を継ぐ。6月22日、サンフランシ??コ市はCherry Lake付近、及びその水利権を所得。 1912年:James Rolph, Jr. がサンフランシスコの市長に就任。7月15日、John R. FreemanはHetch-Hetchyにダムを建設する為の計画を発表。9月1日、O’shaughnessyがCity Engineerになる。調査に関する最終公聴会が11月に開かれる。 1913年:2月19日、委員会のFisherへの報告は、建設費が他の候補地よりも20Mドルほど安い事などを挙げ、Hetchy-Hetchyでのダム建設を推薦する。3月1日、Fisherは以降、この件に関しては連邦議会の許可が必要であるとした[15]。3月、Wilsonが新大統領となり、サンフランシスコでHetch Hetchyダム建設を推進していたFranklin K. Laneが内務省長官となる。8月にはRaker法案(H.R. 7207)が提出される。9月3日、下院を183対43で通過(205人は棄権)[16]、さらに12月6日には上院を43対25で通過[17]、12月19日大統領Wilsonがサインをする。以上のような経過でダム建設が正式に認められ、1923年に今のO’Shaughnessy Damダムが完成した。
参考:
San Francisco Public Utilities Commision(SFPUC) :サンフランシスコ市の電気・水道のなどサービスを行う。当時のダム建設推進側から見た歴史を書いている。
Sierra Club: 1914年までJohn Muirが初代会長をつとめた。Hetch-Hetchy渓谷ダム化反対派。同じく歴史の項を参照。
Linda Wedel Greene,”Historic Resource Study: YOSEMITE”, U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
Linnie Marsh Wolfe, “Son of the Wilderness: The Life of John Muir” The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)
Robert Underwood Johnson, “Remembered Yesterdays”, Kressinger Publishing, ISBN: 1-417-91700-8
New York TimesのHetch Hetchy論争に関する記事
連邦議会資料: ”San Francisco And The Hetch Hetchy Reservoir: Hearing held before the Committee of the Public Lands of the House of Representives December 16, 1908 on H.J. res. 184,”下院公地委員会での公聴会報告書
連邦議会資料: ”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco”1909年2月8日の下院公地委員会の報告書。Lake EleanorとHetch Hetchy渓谷へのダム建設の許可を与える事を推薦している。Muirら反対派の手紙などが添付されている。
連邦議会資料:”Hetch Hetchy Reservoir Site Hearing Before The Committee on Public Lands United Sstates Congress. Senate 63rd. Congress 1st. sesseion on H.R. 7207,”9月24日に開かれた、上院公地委員会での公聴会の報告書。
 
連邦議会資料:”An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes.”(H.R. 7207) Raker法案。
連邦議会資料:Martin S. Vilas,”Water and power for San Francisco from Hetch-Hetchy Valley in Yosemite national park,”(1915) 数少ないダム建設賛成派の資料。
連邦議会資料:1901-19071908-19111912-1920のページに上記を含むHetch-Hetchy関連資料がある。Muirの反対を唱えるパンフレットも見ることができる。
[1] Greene(pp. 380〜383): 1857年The San Francisco Water Works社は市に大型の給水施設を作った。1860年にはThe Spring Valley Water Works社は市の南、San Mateo郡に貯水池を作りそこから32マイルにわたり水を引き始めた。1871年に市は、その給水能力が将来限界に達することに気づく。当時、ベイエリアへの水の供給はThe Spring Valley社とThe Contra Costa Water社らによる独占状態になっており、法外な値段を請求していた。The Spring Valley社はさらにAlameda、Santa Clara郡からも水を引く権利を得たものの、その供給能力にやがて限界が来るのは明らかであった。そのような中でSan Francisco市は新たな水の供給源を(150マイルという長大な距離を送るという問題があるものの)シエラネバダに探し始めた。
[2] ”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands”(H.R. 11973)、これにより内務省長官の裁量で保護区内(ヨセミテも含む)にダムなどを作る許可が出せるようになった。 出だしは”Be it enacted by the Senate and House of Representives of the United States of America in Congress assembled, That the Secretary of the Interior be, and hereby is authorized and enpowered, under general regulations to be fixed by him, to permit the use of rights of way through th epublic lands, forest and other reservations of the United States, and the Yosemite, Sequioia, and Grant national parks, California, for electrical plants, poles, and lines for the generation and distribution of electrical power, and for telephone and telegraph purposes, and for canals, …”と始まっている。
[3] カリフォルニア出身の下院議員John Edward Rakerによって1913年に提出された。正式名称は”An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes.”(H.R. 7207)。10ページに及ぶかなり長いもの。):Hetch-Hetchy論争で有名なRakerだが、NPSの設立など国立公園に関わる法案成立に貢献をしているとGreene(pp. 503)は指摘している。
[4]SFPUC、Vilasのレポート及び下院公地委員会の報告書(1909年2月8日)より。註:”The Rights of Way”法案は明らかに内務省長官の裁量次第で、ヨセミテにダム建設が可能となることがわかる。不思議なことに、この法案設立時にシエラクラブなどが反対したという記録は、調べた限り見当たらない。 Wolfe(pp. 311)は影響力のあるサンフランシスコ市民により”Yosemite”も対象に入ると付け加えられた、と書いている(詳しい資料はない)。面白い事に、SFPUCは市長が”The Rights of Way”の通過前年にTuolumne川を含む候補地調査の指示を出していたことを書いている。
[5] Greene(pp.385,386):Hitchcockが許可しなかった理由は、1890年の公園設立の法案(H.R. 12187)に従い、内務省長官が自然の景観を保護する義務があること、そしてLake ElarnorやHetch Hetchy渓谷はそのような範疇に入るとしたからであった。註:資料により日付に違いあり。Greene(pp. 384,385)の各1903年1月20日、12月22日に対して、SFPUCは6月20日、9月22日としている。
[6] SFPUC:Modesto、Turlockに住む土地所有者約1,200人は彼らが得ているTuolumne川の水権が犯される事を恐れ、サンフランシスコ市に計画を取りやめるよう嘆願書を出す。これは受け入れられ、2月には計画が破棄された。
[7] Wolfe pp. 312.
[8] Johnson(308ページ): PinchotがMansonに宛てた手紙の一部。 ”I cannot, of course, attempt to forecast the action of the new Secretary of Interior [Garfield] on the San Francisco watershed question, but my advice to you is to assume that his attitude will be favorable, and make the necessary preparations to set the case before him.…”
[9] SFPUC History(The Sierra Nevada)より
[10] 1908年の流れはWollfe(pp. 313〜314)に詳しい。Wolfeはまた次の4点を指摘している:Rooseveltはその保護政策に関してはPinchotに大きく頼っていた(pp. 311)、GarfieldとPichotは友人であった(pp. 312)、MuirとPinchotはかなり前(1897年)に口論をしている(pp. 275)、Pinchotが5月13日に”Conservation Conference”を開いたが、Sargent、Muirらは招待されなかった(pp. 314)。Muirの4月21日付けの手紙の全文はBadeの18章にある。Masonの申請日はSFPUCを参照。Garfieldの許可はまずLake ElearnorとCherry Lakeを優先的にダム化すること。更に必要な事が証明できたならばHetch Hethyをダム化できるといった内容のもの(Vilas)。
[11] 連邦議会資料公聴会の記録で、サンフランシスコ市のCity Engineer MansonやR. U. Johnsonへの質疑記録が残されている。またMuirら反対派の文書がある(pp. 32、42)
[12] 連邦議会資料:”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco”、下院報告書2085。報告書の表紙のまとめには、サンフランシスコ市に許可を与える事、しかしそれは内務省長官により将来取り消される可能性があることを書いている。付録として、Parsonのレポートがあり、Muir(pp. 15)、Bade(pp. 16)らの手紙もついている。 この時点で反対派はシエラクラブ、Appalachian Mountain Club、新聞・雑誌社のみであった。
[13] Wolfe(pp. 322〜324):Taftがヨセミテ渓谷にダムを作るという冗談を言った話は有名。Wolfeはこれらの会話の出所は大統領周辺にいた記者らの記事とコメントしている。 
[14] Greene (pp. 500):シエラクラブのHetch-Hetchy Timelineによるとこの年シエラクラブ内での意見は589がダム反対、残りの161は賛成であった。
[15] Greene pp. 500より。
[16] Wolfeのpp. 339及びJohnson pp. 310より。
[17] 票数はVilasより。連邦議会ライブラリーには、この間、8月から12月までの上下院での討論の記録が残っている。総400ページほどのかなり長いもの。また8月5日の下院土地委員会のレポートには1910年から2年にわたって行われた政府機関(US Army Board of Engineers)のダム建設地の調査結果、サンフランシスコ市に委託されたFreemanの報告、内務省長官Laneを含む各方面からの意見のまとめがされている。9月24日の公聴会では反対派のParsons、R. U. Johnson、Modestoの灌漑区の代表Lehaneらが陳述をしている。
註: 各資料間で日付に違いが多々見受けられました。その場合は、連邦議会の資料の日付を最優先して用いています。

第四章 ミューア関連記事

[4] Muir関連記事


[4.1] Holt-Atherton Special Collections
2005-11-10
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ベイエリアから車で東に一時間ほどのところにStocktonという町があります。そこにあるUniversity of the Pacificには、Holt-Atherton Special Collectionsという資料室があり、現存するJohn Muir関連資料の75%が保存されているそうです。つい先日そこを訪問してきました。
図書館の地下にあるこぢんまりとした一角が、Holt-Atherton Special Collectionsと呼ばれていました。10時ちょうどに行くと、相手をしてくれるSutton氏に、ばったり入り口前で出会いました。入り口横(写真上)にはMuir関連の展示品があります。ドアを開け中に入ると、やや広めの受付室(写真下)になっており、その奥が資料閲覧室となっていました。大きなワークデスクがいくつかあり、Muirの蔵書を入れた本棚や、友達だった画家のKeithの描いた油絵(Vernal FallとLiberty Cap)がありました(あまりうまい絵とは思えませんでした、Sutton氏によるとMuirが最大の購入者だったとのこと)。
資料室の一般的な説明をしていただいた後、Sutton氏はいくつかの宝物を持ってきてくれました。
先ずは、ルーズベルト大統領がMuirに出した手紙でした(1903年)。ぜひ自分のヨセミテ旅行に同伴してくれるようにと要請した手紙で、確かに ”I do not want anyone with me but you, and I want to drop politics absolutely for four days, and just be out in the open with you.…”とタイプで書いてあり、最後にはサインがしてありました(R. U. Johnsonの自伝によると、JohnsonがTRに紹介したとのこと)。消印は当然ワシントンでしたが、あて先はUC Berkeleyの学長気付けのMuir宛となっていました。 あとはMuirの写った写真や、アラスカで書いたジャーナルのひとつを見せていただきました。本で読んで知っていても、やはり現実に見るとかなり感動しました。またアラスカJournalに描かれていたスケッチのうまさにはびっくりでした。途中John Muirの25セントコインの話になり、まだ見つけてないんだよと話したら、なんとコインを持ってきてくれ、あげるよとのこと。大感謝!
その後Wurtz氏から、資料を依頼するときの書類の書き方、マイクロフィルム読み取り機械の使い方を教わりました。早速、1872年と73年のジャーナルのマイクロフィルムを頼み眺め始めました。字はかなり読みづらかったでしたが、日付、山の単語、スケッチになど助けられ、”なんとなくわかった気分”になりました。そのうち、「こんなのもあるよ」と、自筆をタイプ変換した資料を持ってきてくれました。これまで見たことの無い資料(Wolfeの「John of the Mountains」に掲載されていない)をいくつか見つけ、早速コピー依頼。これで、1873年夏の空白部(Mt. Lyell登山とMerced山群での行動)がうまり、また1872年秋の氷河移動の測定大ルート(Mt. Hoffmann−Tuolumne Canyon−Mt. Lyell)の仮説もほぼ検証できました。
帰り間際に「これはどう?」と別の箱を持ってきてくれました。ファイルのひとつには、なんと1869年夏の日記のタイプ版が収まっていました。これこそ後年(1911年)出版された、「My First Summer in The Sierra」のもととなった日記です。早速、Cathedral Peakを登った日の記述をチェック、「My First Summer in The Sierra」とはかなり書風が違うことを確認。全100ページほどあり、コピーを待つ時間が無かったので、後に自宅に送ってもらうように頼んで帰途に着きました。ちなみにこの1869年の夏の日記は紛失しており、所在は知れないそうです。当然マイクロフイルムもありません。
というわけで、あっという間の2時間半でした。また幾度か訪ねることになりそうです。 「My First Summer in The Sierra」と1869年のジャーナルの食い違いについては、そのうち報告したいと思います。
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受付室、奥が資料閲覧室。


[4.2] 「Sierra Journal」 vs. 「My First Summer in the Sierra」
2005-11-12
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“There is another rock, more striking in form than this, standing isolated at the head of the lake, but it is not more than half as high. It is a knob or knot of burnished granite. perhaps about a thousand feet high, apparently as flawless and strong in structure as a wave-worn pebble, and probably ows its existence to the superior resistance it offered to the action of the overflowing ice-flood.” John Muir 「My First Summer in The Sierra」, August 8th 1869*
1869年夏のジャーナルのコピーが届きました。以下はざっと読んだまとめです。
タイトルは”Sierra Journal, Summer of 1869 Volume 3”です。全142ページで、7月28日から9月22日までをカバーしています。途中の5ページ(7月28日の後半から7月31日の前半の部分)が抜けています。最後のページは、各スケッチの簡単なタイトルとそのページが列記されています。これはタイプを打った人が添付したものと思われます。スケッチに相当する部分には、タイプはなく空白になっており、原書に忠実になるように作成したように思われます。残念ながらスケッチは一枚もありません。空白(スケッチ)総数は40を越えています。ジャーナルのかなりの文がそのまま使われており、Frederick Turnerが、「John Muir:Rediscovering America」で書いているように、「My First Summer in the Sierra」(以下”MFS”と略)が、このジャーナルに基づいて書かれたことがうなずけます。細かい違いや気づいた点をいくつか列記すると:
1. 8月上旬:インスピレーションを感じ、Prof. Butlerに会いにIndian Canyonを下った話はほぼ同じです。
2. 8月8日:MuirはPolly Domeに登りますが、その裾野のところを次のように書いています”and climbed the mountained rock which dips its westerned slopes beneath the waters of the lake.” もちろんこの部分は、現在Tioga Roadが水際を走っています。Tenaya Lakeのスケッチをしたとも書いてありますが、確かにそのページには空白があります。
3.8月9日:Muirは先行しTuolumne Meadowsに入ります。そこで数時間過ごした(After enjoying the new wilderness a few hours)後、戻ってきたと書かれています。
4. 8月12日:BillyはDelaneyによって解雇された(he was discharged)と書かれています。
5. Mono Lake方面に行った間の日記は、やはり抜けています。
6. 9月2日:この日の日記は、MFSの同日の日記とほぼ同じです。1869年10月3日、MuirはCarr宛に手紙をだし、9月2日の日記を引用しています(「Letters to a Friend」に原文あり)。その内容はこれらとかなり違っています(山の名前もDanaではなくTiger Peakとなっています)。謎の引用です。
7. MFSと同様に、Dana、Lyell、Mammoth Mountain(Peak)、Cathedralなどの山の名前が正確に使われています。9月8日はいくつかの知らない山を登ったと書いているので、WolfeやWilkinsが書いているように、このときMt. Lyell登ったという説は間違っていると思われます。
8. 9月7日はMuirがCathedral Peakを初登頂したとされている日です。MFSでは、”up to its topmost spire, which I reached at noon”と書いています。「Sierra Journal」では、”up to the base of its topmost spires which I reached at noon”と書かれています。続く”The view from the Cathedral Spires…”の部分は同じです。MFSには無く重要な文は、”…and up its spires and at the highest point ate my luncheon. But so high and giddy is the sheer precipitous front I found I could not swallow the bread whole looking down.”です。尖峰の上で昼食をとったと書いています。
9. 9月22日:結びの部分がぬけていて、”The Range of Light”を書いていたのかどうかはわかりません。 
10. MFSのように氷河の記述があるので、Muirが氷河のアイデアをもったのは1869年と言えそうです。
11. 同様に、羊による自然破壊をすでに述べています。
* 8月8日、Polly Domeから見たPywiack Domeを表現した文。おそらく写真のような風景も見たと思われます。


[4.3] Journal of the ”First Summer”
Steven J. Holmesの「The Young John Muir: An Environmental Biography」は、ヨセミテ生活時代及びそれ以前の手紙などを詳細に検証し、正確なMuir像を描き直そうとしています(筆者の言葉を借りれば”Reimaging Muir, Remapping Biography”となります)。その中では「The Story of My Boyhood and Youth」、「A Thousand-Mile Walk to the Gulf」、「My First Summer in the Sierra」及びBadeやWolfeによるナレーションをそのまま資料として使う危険性を指摘しています。ところで「My First Summer in the Sierra」には(Muir研究者の間では知られている)、原本となった「Sierra Journal」(1887年)と言う手書きのジャーナルがあるそうです[註]。そしてHolmesは、巻末のAppendix A:「Journal of the ”First Summer”」で、Turner、Cohenも含み、これまでのMuirについて書いた本が、この「Sierra Journal」」の資料としての信憑性を深く検証していなかったこと、もしくはWilkinsらのようにMy First Summerをそのまま資料として使っている研究があることを指摘し、次の三点から深い資料検証を行っています:
[1]「Sierra Journal」の内部構成や内容の非一貫性、
[2]「Sierra Journal」と、同じ頃書かれた別のジャーナルとの書き方の違い、
[3]そして「Sierra Journal」と、1869年前後に書かれ現存しているジャーナルとの書き方の違い。
検証部はかなり長いので省き、結論をまとめると、1887年の「Sierra Journal」は1869年の夏のジャーナルの直接の書き写しではなく、かなり修正が加わっている。よってMuirが当時見たり、感じたりしたことを知る信頼できるソースではない。しかしながら、大まかな場所や自然の対象物に関する記述は信じられるであろうとしています。
以下はHolmesによる結論です。
”Thus, a critical evaluation of the 1887 notebooks suggests that they are not a straightforward copy of the original journal, but are already subsutantially revised with an eye toward publication. Accordingly, we cannot take the account found in these notebooks as reliable evidence of what Muir experienced – what he thought, felt, imagined, hoped, dreamed, or feared – in Yosemite during the summer of 1869. However, if my analysis of the general patterns of his 1887 process of revision is correct, we can take these 1887 notebooks as a fairly reliable guide to the sheer facts of the places and natural objects that Muir encountered that summer.” Stephen J. Holmes (The Young John Muir pp.259より)
参考として、冒頭部だけですが、すべての全文が残る9月2日のエントリーを挙げておきます。
1869年10月3日、MuirがCarrに宛てて書いた手紙で引用した9月2日の日記:
”Sept. 2nd. Amount of cloudness .08. Sky red evening and morning, not usual crimson glow but separate clouds colored and anchored in dense massive mountain forms. One red, bluffy cap is placed upon Castle Peak and its companion to the south, but the smooth cone tower of the castle is seen perring out over the top. …”
「Sierra Journal」(1887年)より:
”Sep 2 This has been a grand red rosy Crimson day. What it means I don’t know, but it is the first change from tranquil sunshine with purple evenings & dawns & still white moones. There was nothing however like a storm. …”
「My First Summer in the Sierra」(1911年)より:
”September 2. ?A grand, red, rosy, crimson day, ?a perfect glory of a day. What it means I don’t know. It is the first marked change from tranquil sunshine with purple mornings and evenings and still, white noons. There is nothing like a storm, however. …”

[註]昨年「Sierra Journal」vs.「My First Summer in the Sierra」と言う記事を書き、「1869年のジャーナルのタイプ」とぬか喜びをしてしまいましたが、これは「1887年のジャーナル」と言うことになります。お詫びして訂正させていただきます。

2006-02-06


[4.4] John MuirとJeanne C. Carr
2006.01.2.jpg
Kindred & Related Spirits
The Letters of John Muir and Jeanne C. Carr
Bonnie Johanna Gisel編纂
2001年University of Utah Press
1865年よりMuirはJeanne Carrと文通を始め、多くがヨセミテ渓谷在住時代にやりとりされました。この本は、それらの手紙を集め解説したものです。Muir本人は著作の中でJ. Carrに直接触れていませんが、彼女はMuirの生涯に大きな影響を及ぼしました。Muirが書いた手紙は没後Badeによって編纂され、”The Life and Letters of John Muir”として、1923年に出版されました。その多くはMuirからCarr宛に書いたものです。”The Life and Letters ”はMuir関連本にとっての一次資料であり、現在では再版本(”John Muir: His Life and Letters and Other Writings” by John Muir, Terry Gifford編纂)のみならず、オンライン化もされ、手軽に閲覧できるようになっています。しかしながら、CarrがMuirに宛てて書いたものは、限られた研究者のみが閲覧(現在はHolt-Athertonが保管)できるだけでした。この本は、二人の手紙に興味のある方にとっては、必読の本です。
個人的に興味を引かれた手紙や解説をいくつかあげると:
-インディアナポリスでMuirが目を負傷したときに、ヨセミテ渓谷の記事を友達に読んでもらいなさいとアドバイスした手紙(1867年4月15日)。[註]本人は、前の年に読んだと返信しています。
-George Perkins Marshと会ったことを示唆するMuir宛の手紙(1871年12月31日)。[註]1864年に書かれたMarshの本、”Man and Nature”は、当時の森林破壊を憂える人々にとってバイブルのようなもので、Muirが”God’s First Temples”を書く前(1876年)に、この本を読んだ可能性が十分考えられます。Sargent、Pinchotらはこの本に大きな影響を受けています。
-1905年、Carrに書いた手紙が雑誌編集員(George W. James)の手に入って公表されそうになり、Muirが必死になって一部を削除しようとしたことの詳しい解説。
-上と絡み、MuirとElvira Hutchingsとの恋愛(不倫)噂に関する論議への解説。[註]J.CarrやYelvertonと共にMuirの恋愛話は、いくつものMuir関連本のネタとなっています(参考文献:Frank E. Buske, 「An Episode in The Yosemite: “To Love is Painful”」、The John Muir Newsletters, Vol. 7. Number 2, Spring 1997)。
-Muir、Keith、Kelloggらと共に、Tuolumne渓谷を遡行したときのことを、夫(E. Carr)に報告した手紙(1873年7月11日)。
-上の手紙に絡み、Muirが直径4ft.・高さ80ft.の木を切り倒して、Tuolumne Riverに渡渉用の橋を架けようとしたこと。[註]ヨセミテ国立公園設立直前の1890年9月上旬、反対派のJ. P Irishは、Oakland Tribune紙上で、昔MuirがHutchingsのホテルで働いているときに、立ち木を切ったと糾弾しました。Muirは一度もヨセミテで木を切ったことはないと返答しました”I never cut down a single tree in the Yosemite…”。
-Louie Strentzelに宛ててMuirを紹介した手紙(1873年10月29日)。
-J. CarrによるTuolumne Meadows・Shadow Lakeなどでのスケッチ。


[4.5] WhitneyはMuirをShepherd(羊飼い)と呼んだのか?
2006-01-09
”A more absurd theory was never advanced than that by which it was sought to ascribe to glaciers the sawing out of these vertical walls and the rounding of the domes. Nothing more unlike the real work of ice, as exhibited in the Alps, could be found. Besides, there is no reason to suppose, or at least no proof, that glaciers have ever occupied the Valley, or any portion of it, as will be explained in tile next chapter, so that this theory, based on entire ignorance of the whole subject, may be dropped without wasting any more time upon it. ” −Josiah D. Whitney 「The Yosemite Guide-Book」(1870)より
California Geological SurveyのWhitneyが、ヨセミテ渓谷の氷河形成説を唱えるMuirを「Sheepherder」や「Shepherd」(羊飼い)と呼んだという話は、いろいろな本で取り上げられています。本によってはかなりセンセーショナルに書かれているこの話の出所を、少し調べてみました。
Muirに関する最初の伝記ともいえる「The Life and Letters of John Muir」(1923)を編纂したBadeは、その9章で、「The scorn with which Whitney and his assistants rejected Muir’s theory and observations as those of a “shepherd” had not the slightest discouraging effect upon him…」と書いています。次にWolfeは、そのピューリッツアー賞受賞作「Son of the Wilderness」(1945)の中で、「…calling him “that shepherd,” “a mere sheepherder.””an ignoramus,” and the like.」と書いています。1950年、Muirの「Studies in The Sierra」復刻版に前書きを寄せたBill Colbyは、「He referred to Muir as a “sheepherder” and “guide.”」と書いています。しかし、残念ながら3人とも話の引用元を示していません。シエラネバダの歴史解説本「History of the Sierra Nevada」(1965)を書いたFrancis P. Farquhar[註1]は、その”John Muir and Range of Light”の章で、「Muir was called a sheepherder, an ignoramus.」と引用し、「The Yosemite Guide-Book」(1869)を資料にしています。Shirley Sargentの「John Muir inYosemite」(1971)は、上記の一節を「The Yosemite Guide-Book」(1869)より引用しているのみです。Cohenは「The Pathless Way」(1984)のなかで、Farquharの本を参考にして「…Whitney, who simply dismissed Muir as sheepherder」と書いています。Stephen Foxの「The American Conservation Movement: John Muir and His Legacy」(1980)は「Whitney spurned the theories of “that sheperd”」と書き、Thurman Wilkinsの”Clarence King”を引用しています。しかしWilkinsは、著書「Clarence King」(1958)の中で、「John Muir, “that shepherd.” as Whitney called him…」と書いているものの、資料は全く示していません。Frederick Turnerは「John Muir:Rediscovering America」(1985)の中で、”mere sheepherder”や”ignoramus”と言う表現を使っているものの、特にWhitneyが言ったとは書いていません。「The Geomorphic Evolution of the Yosemite Valley and Sierra Nevada Landscapes」(1997)を書いたJeffrey P. Schafferは、「In his 1869 Yosemite Guide Book, Whitney called Muir “a mere sheepherder, an ignoramus.”」と引用し、「The Yosemite Guide-Book」(1869)の中で、Whitenyが書いたとしています。Bill Guytonは「Glaciers of California」(1998)の中で、 「Whitney wrote harshly and condescendingly about him, calling him “ignorant sheepherder”with “absurd” ideas among other things.」 と書いていますが、その引用元は示していません。
確かにWhitneyは、「The Yosemite Book」(1869)や「The Yosemite Guide-Book」(1870,1871)の三冊の中で、”absurd”や”an ignorance”という語を含む一節(上で引用)を使っています。しかし、それらはBlakeもしくはもしくはClarence Kingに対して向けられたものです。そして、”ignoramus”、”sheepherder”、”shepherd”といった単語は、本のどこを読んでも使われていず、Whitneyが本でそう「書いた」という説は間違いのようです[註2]。では、そう「話した」のでしょうか?残念ながらBade、Colby、Wolfeの誰一人として確実な資料を提示しておらず、判断がつきかねる状況です。ともあれ、この三人の記述が以降の逸話形成のソースのようです。
[註1]Colby、Bade、そしてFarquharは共にシエラクラブの会長を務めています(Colbyは2代目で1917-1919、Badeは3代目で1919-1922、Farquharは1933-1935、1948-1949の間任期)。
[註2]FarquharやSchafferの引用する「The Yosemite Guide-Book」(1869)は実際に見たことはありません。しかし上記の一節が、「The Yosemite Book」(1869)、普及版「The Yosemite Guide-Book」(1870,1871)の三冊で同様に使われていることや、1869年のMuirの行動、MuirがWhitneyの説に疑問を抱いた年が1870年4月13日(Carrにその考えを手紙で伝えた)であることを考えれば、この本だけがMuirについて特別な記述をしている可能性はないと思われます。「The Yosemite Book」の各版に関してはOctavo版の前書きで、Snyderがまとめています。
参考:
ヨセミテ渓谷の形成に関する論争
Whitneyの「The Yosemite Book」


[4.6] The Range of Light
“Then it seemed to me the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light.” John Muir
Sierra Nevada」[英訳:The Snowy (Mountain) Range]という単語は、1776年、サンフランシスコ湾付近から、その山々を遠望したスペインの伝道師Pedro Fontによって、初めて地図に記されました。1890年、MuirはCentury誌に投稿した記事「The Treasures of The Yosemite」(8月号)の中で、自分にとっては「Sierra Navada」は「Snowy Range」ではなく「The Range of Light」と呼ぶべきだと書きました:Then it seemed to me the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light[1]。 「The Range of Light」がMuirによる造語なのかどうかは定かではありませんが、このフレーズは、その後のMuirの著書「The Mountains of California」(1894年)、および「The Yosemite」(1912年)でも使われています[2][3]。本人によれば、「The Range of Light」という表現は、初めてヨセミテを訪れた1868年に、San Joseの南東Pacheco Pass(CA152号上)からSierra Nevadaを望んだときに思いついたと説明しています[註]。また1911年に出版された「My First Summer in the Sierra」[4]では、「The Range of Light」を使い、結びとしています:Here ends my forever memorable first High Sierra excursion. I have crossed the Range of Light, surely the brightest and best of all the Load has built; and rejoicing in its glory, I gladly, gratefully, hopefully pray I may see it again. 「The Range of Light」はもはや「Sierra Nevada」の代名詞です。ハイシエラで時を過ごすことにより、誰もが「The Range of Light」の表現のもつ奥深さを感じ取れることでしょう。
[1] The Tresures of The Yosemite(1890):
One shining morning, at the head of the Pacheco Pass, a landscape was displayed that after all my wanderings still appears as the most divinely beautiful and sublime I have ever beheld. There at my feet lay the great central plain of California, level as a lake thirty or forty miles wide, four hundred long, one rich furred bed of golden Compositae. And along the eastern shore of this lake of gold rose the mighty Sierra, miles in height, in massive, tranquil grandeur, so gloriously colored and so radiant that it seemed not clothed with light, but wholly composed of it, like the wall of some celestial city. Along the top, and extending a good way down, was a rich pearl-gray belt of snow; then a belt of blue and dark purple, marking the extension of the forests; and stretching along the base of the range a broad belt of rose-purple, where lay the miners’ gold and the open foothill gardens?all the colors smoothly blending, making a wall of light clear as crystal and ineffably fine, yet firm as adamant. Then it seemed to me the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light. And after ten years in the midst of it, rejoicing and wondering, seeing the glorious floods of light that fill it,?the sunbursts of morning among the mountain-peaks, the broad noonday radiance on the crystal rocks, the flush of the alpenglow, and the thousand dashing waterfalls with their marvelous abundance of irised spray,?it still seems to me a range of light. But no terrestrial beauty may endure forever. The glory of wildness has already departed from the great central plain. Its bloom is shed, and so in part is the bloom of the mountains. In Yosemite, even under the protection of the Government, all that is perishable is vanishing apace.
[2] The Mountains of California(1894): 
When I first enjoyed this superb view, one glowing April day, from the summit of the Pacheco Pass, the Central Valley, but little trampled or plowed as yet, was one furred, rich sheet of golden compositae, and the luminous wall of the mountains shone in all its glory. Then it seemed to me the Sierra should be called not the Nevada, or Snowy Range, but the Range of Light. And after ten years spent in the heart of it, rejoicing and wondering, bathing in its glorious floods of light, seeing the sunbursts of morning among the icy peaks, the noonday radiance on the trees and rocks and snow, the flush of the alpenglow, and a thousand dashing waterfalls with their marvelous abundance of irised spray, it still seems to me above all others the Range of Light, the most divinely beautiful of all the mountain-chains I have ever seen.
[3] The Yosemite(1912):
Looking eastward from the summit of the Pacheco Pass one shining morning, a landscape was displayed that after all my wanderings still appears as the most beautiful I have ever beheld. At my feet lay the Great Central Valley of California, level and flowery, like a lake of pure sunshine, forty or fifty miles wide, five hundred miles long, one rich furred garden of yellow Compositoe. And from the eastern boundary of this vast golden flower-bed rose the mighty Sierra, miles in height, and so gloriously colored and so radiant, it seemed not clothed with light, but wholly composed of it, like the wall of some celestial city. Along the top and extending a good way down, was a rich pearl-gray belt of snow; below it a belt of blue and lark purple, marking the extension of the forests; and stretching long the base of the range a broad belt of rose-purple; all these colors, from the blue sky to the yellow valley smoothly blending as they do in a rainbow, making a wall of light ineffably fine. Then it seemed to me that the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light. And after ten years of wandering and wondering in the heart of it, rejoicing in its glorious floods of light, the white beams of the morning streaming through the passes, the noonday radiance on the crystal rocks, the flush of the alpenglow, and the irised spray of countless waterfalls, it still seems above all others the Range of Light.
[註] Muirの最初のヨセミテ旅行(1868年)の記録は、Bade編のMuirの手紙集のVI章に引用されています。それにはPacheco Passからの記述はあるものの、「The Range of Light」という表現は使われていません。したがって、実際には文を書く都合上、「The Range of Light」を1868年に思いついた風に書いたと考えるのが妥当だと思われます。


[4.7] Muirの出版数
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その生涯に数多くの著作・出版を残したJohn Muirですが、どのようなペースで著作を行ったのでしょうか。グラフを作成してみました。横軸は年度、縦軸は著作数です。その総数は330+ほどですが、簡単なビラや新聞のコラムのようなものも、かなり含まれています。最初に出版されたのは”The Calypso Borealis”(1866)。その後、ヨセミテ渓谷に住むようになってから、著作が増えていきます。主なテーマは氷河、探検に関する雑誌投稿です。ヨセミテを去った74年からは、新聞のコラム記事が多くなってきますが、結婚後1881年のピークを境に、著作数が落ち始めます。この間もアラスカ、シエラネバダ、ユタでの探検のことが主に書かれています。自然保護に関するものは、76年の”God’s First Temples”を含め数本しかありません。果樹園の仕事から解放される1888年付近から90年代前半にかけても、意外なことに自然保護を訴える著作はあまり見受けられません(1890年の有名な二作に注意)。1890年代後半になって森林保護に関する著作が見え出します。1900年代に入ってからは、海外への長期旅行が増えたため、著作量がかなり減る年もあるようです。そして、1900年代後半(特に1909年)には、Hetch-Hetchy関連でかなりの数(量は少ない)を出版しています。
グラフは”John Muir:A Reading Bibliography”(William F. Kimes & Maymie B. Kimes著)に使われている資料番号から作成しました(註:他の著者の引用も、著作として取り扱われています)。


[4.8] John Muir and the Sierra Club
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Hetchy−Hetchy論争に代表される初期のヨセミテの自然保護の話になると、MuirとSierra Club(シエラクラブ)を避けて通ることはできません。Holway R. Jonesによる”John Muir and the Sierra Club: The Battle for Yosemite”(1965年)は、Sierra Clubの正史(1913年以前)ともいうべき本です。出版のきっかけは、Jonesが書いた修士論文”The History of the Sierra Club”がクラブの興味を引いたことから始まります。その資料室の使用や、歴代の会長ColbyやFarquharの直接協力なども得て、Muir、Johnson、Colbyを始めとする当時の中心人物の書簡や、ワシントンでの連邦資料などに基づき、この本は書きあげられました。設立時の全メンバー名、風刺画、反対パンフレットの数々、ダム化以前及び以降のHetch−Hetchy渓谷の貴重な写真(意図的に修正を加えたダム賛成派の宣伝写真などもあります)も含まれており、資料価値をさらに高めています。
第1章は”The Founding of the Sierra Club”と題し、シエラクラブが創立されたときの話と、最初の二つの運動:Caminetti案(できたばかりのYosemite国立公園を縮小する案)への反対、及びForest Reserve(森林保安区)を守るための支援運動について調べられています。2章ではクラブ創設(1892年)以前にさかのぼり、ヨセミテ渓谷がカリフォルニアの州立公園になった時(1864年)と、ヨセミテ国立公園が成立された時(1890年)のことがまとめられています。3章では、ヨセミテ渓谷を国立公園に編入(1906年)するために行ったMuirやクラブの運動が、そして4〜6章(本のほぼ半分)を割いて、Hetchy-Hetchy渓谷のダム化反対運動について書かれています。
次の三点がどう書かれているかが気になりました:(1)Muirが国立公園成立時に果たした役割、(2)ヨセミテ渓谷を国立公園に編入するための運動、(3)Sierra Clubによるダム化案への対案ともいえるColby Brief[註1]。(1)では、通説どおり、Vandeverらとの関係は無かったとし[註2]、Muirの貢献は雑誌記事を書いた程度となっています。(2)に関しては、かなり詳しく書かれています。そして、Colbyの果たした役割がかなり重要だったことがわかります。MuirにHarrimanへの助力を求めるようにアドバイスをしたのもColbyだったそうです。JohnsonはNYでHarrimanの秘書から電話を受け、Harrimanが関係者に協力させるよう指示を出したと、Muirに報告の手紙(1906年1月17日)を出しています。(3)は、Hetch-Hetchy渓谷まで道路を敷き、そこにヨセミテ渓谷のような宿泊施設を作り、夏冬使える観光や周辺へのハイキングなどの基地とする案です。ダム化は反対するものの、観光施設のためのHetch-Hetchy渓谷の開発は容認するもので、当時のMuir・Sierra Clubの「保護」の考え方がわかる興味深い文書です。
かなり面白い本ですが、残念なことに絶版となっています(古本で入手となります)。そのうち詳しい要約を書きたいと思います。
[註1] 正式名:”Brief of Sierra Club in Opposition to Grant of Hetch Hetchy Valley to San Franciscofor a Water Supply”
[註2] Johnsonは下院公地委員会で、Vandever案で提案された公園の境界を、Muirの推薦する境界(手紙でJohnsonに送った地図)に拡大するよう主張しました。Vandeverの案は、最終的にはSouther Pacific RailwayのZumwaltのロビー活動により、さらに広大なものとなります。VandeverはCentury誌(Johnson)との関連を否定しており、その意味ではJohnsonの貢献度はかなり曖昧です。Jonesの本が書かれた1965年には、Zumwultのロビー活動に関しては誰も指摘していません。


[4.9] 東良三(あずま りょうぞう)とMuir
西村さんから、「東良三」の書いた”アラスカ:最後のフロンティア”(山と渓谷社)のあとがきの部分を送っていただきました。それによると、1910年(明治43年)、東は、ワシントン州Tacoma付近のミッション系大学Puget Sound Collegeに入学しました。やがて、Mt. Rainierに登るチャンスが来、その途中、キャンプMuirという場所(洞穴)で一夜を過ごすことになりました。東はそのとき初めてMuirの存在を知り、これをきっかけにMuirの著書を買い集め、読み始めます。やがて東はMuirにMartinezを尋ねたい旨を書き送ると、快諾の返信が届きました。
「そして私は、1914年、卒業前の夏期休暇にタコマから遠くサンフランシスコまで一日半の汽車の旅をつづけ、さらに金門湾から75キロも北方のマルティネッという農村まで馬車にゆられて、あたかも最後の著となった『アラスカ氷河探検記』の執筆に余念のなかった老先輩ミュアを、果樹園にかこまれた広大な私邸に訪ねたのでした。私はときに二十五歳のとるにたらぬ一苦学生。五十も年長の偉人との出会いは、とても釣りあいのとれぬ妙なコントラストだったといえましょう。しかし、遠路を訪ねてきた日本人ということで、こころよく迎え入れてくださった老師の純白の長いひげを見たとき、あたかもいにしえの聖人のような気高さを感じました。そしてしっかと私の小さな手を握ってくださった掌の暖かさ。私は思わず師の脚下にひざまづいて、うやうやしく頭をさげました。私のミュア邸逗留は二日一晩にすぎませんでしたが、この高名な大自然人の知遇を得たことは、その後の私の生涯に、直接間接に大きな影響をあたえずにおきませんでした。」(265ページより)
西村さんの資料をEber氏に送ると、こんどは氏の方から、Sierra Club Bulletinの写しが送られてきました。ほんの一部だけですが、それによると:
1973年、Kimes夫妻が、Muir関連の資料を調べていたとき、Mr. IshigakiがMuir家に本の翻訳の許可を申し出ていたことがわかります。その追伸から、1942年に”Travels in Alaska”の翻訳がなされていたことがわかります。その本を探すため、Muirの伝記を書いた東に問い合わせると、”Travels in Alaska”は、東から(間接的に)本を借りた戸伏により翻訳されたことがわかりました。東はやがて米国を訪れ、Kimesらと会います。それ以降の幾度かのインタビューに基づき、このSCBの記事が書かれました。Muirとの出会いについては、SCBの方がやや詳しく書かれています。Oaklandに着いたときに、Sierra Clubのメンバーが馬車で迎えに来て、6時間かけてMartinezに着きました。Muirの脚下にひざまづいたときには、涙したようです。また”Travels in Alaska”を執筆中の2階の勉強部屋へも案内してもらいます。そこにはヨセミテ渓谷の大きな絵[註:多分Keithの絵]と、Emersonのポートレイトが掛かっていたこと、また机の上には大きな聖書が載っていたそうです。また”Cruise of the Corwin”以来のMuirの友人である船長のHooperが夕食時にMuir邸を訪れ、たまたま船員(キャビンボーイ)を探している話になり、Muirが”Take Ryozo! He should see Alaska”と言いました[註:それがアラスカ旅行(1915年−1918年)のきっかけとなりました]。1977年に東は、自然保護やMuirの伝記「自然保護の父ジョン・ミュア」の功績を認められ、Sierra Clubの生涯名誉会員となりました。東は、アメリカ大陸(西部)で140峰以上を登り、アラスカへも9度訪問しました。
Kimesの本より:
東は、”Stickeen”を訳して雑誌に投稿したそうです。しかし、本人ですらその雑誌を、所有していなかったそうです。また”Travels in Alaskaは、東京大学のIto教授に貸され、それから戸伏の手に渡り訳されたそうです。東によると、訳の出来はかなりすばらしかったとのこと(1942年出版、3,000部刷)。
東の主要著書:
北米大陸の探検時代(上・下)
四十八州アメリカ風土誌
アラスカの背前途人と資源
アメリカ国立公園考
カナダの山岳と国立公園
カナダという国
ローマへの道、聖地巡礼の旅
自然保護の父ジョン・ミュア
その他十数冊
Ronald Eber氏はかなり真剣に資料を探しています。新聞・雑誌記事など(特に日本の国立公園設立に関するあたり)、どのような物でも結構です、見かけられましたらご一報ください。


[4.10] 東良三(著)「自然保護の父ジョンミュア: The Life of John Muir」について
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本のタイトルは「自然保護の父ジョンミュア: The Life of John Muir」で、昭和47年に山と渓谷社から出版されました。東は1970年に国立公園協会主催のカナダ・アメリカ国立公園視察団に参加、その道中、理事長の「千家哲鷹」氏にミュア伝の執筆を勧められたのが著作のきっかけになったと書いています。『およそ自然を愛し、山に憧れ、国立公園の秀麗な風光に思いを馳せ、自然保護に心を傾ける人ならば、ジョン・ミュア(John Muir 1838-1914)の名と、その偉業のあらましを知っておかねばなりません。』という出だしで本は書き始められています。内容は年代順に書かれており、青春時代のミュア、未開のカリフォルニアへ、秘境ヨセミテの探査、原始自然の中で、アラスカ氷河探検、未知の大自然を求めて、自然保護の第一人者、世界諸国への旅、大自然人の終焉と9章構成になっています。また巻末にはミュアウッズ国家記念物、氷河湾国家記念物、国立ジョン・ミュア史跡地、ミュアの著書と参考資料、ジョン・ミュア略年譜が付いています。
「自然保護」がタイトルに入っていますが、意外にもMuirの自然保護運動については、あまり書かれていませんでした。東本人は、『本書は、七十六年の全生涯を自然探求に捧げ、極度の清貧簡素の生活をつづけながらも、前世紀のアメリカの未開時代に、早くも次々に前人未到の原始境を踏破し、その崇高な美の世界を私たち後人に伝えた、世にも稀な非凡の自然人、ジョンミュアの数奇な探検一代記である』と本を位置づけています。このタイトルと内容のミスマッチは、原稿のタイトルが『自然界の聖者 ジョンミュアの生涯』であったことから、出版時に変えられたものと思われます。Muirのことのみならず、ヨセミテ、セコイア、キングス・キャニオン国立公園の情報、カリフォルニアの探査歴史、当時の日本政府要人らのカリフォルニア訪問などが面白く取り混ぜられています。さてMuir本人に関する記述ですが、大まかには正しいものの、かなりの誤記、勘違いも見受けられました(例えばヨセミテに関しては:1869年夏の記述、Muirの氷河説が認められたこと、Hetch Hetchy渓谷を高原と記述、Mt. Whitney初登頂、ダム問題に関してのルーズベルト大統領の立場、ヨセミテ国立公園の境界の変遷の経緯、公園へ自動車を乗り入れることへの意見など)。内容と巻末の文献リストから判断して、Badeの”The Life and Letters of John Muir”(1923)、”Letters to a Friend”(1915)、Muirの主要著作に頼って書かれているように見受けられました。Wolfeの本は読んでいないようです。細かいところはさておき、私個人としては、Muir邸を訪ねた唯一の日本人(たぶん)の東が、どうMuirを捉えようとしたかに興味を覚え、楽みながら読むことが出来ました。本書は『どうか、この書が、国土を愛し、その自然に親しみ、わが国立公園と国定公園に包含されているといなとを問わず、あらゆる日本の秀麗な景観の永久保存に心を寄せるすべての人々に、善意にもとづくなんらかの示唆をあたえることができますように…。』と結ばれています。
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原稿最初のページ。『野の聖者』というのは凄い命名です。本では序章に当たりますが、この副題は除外されています。
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原稿では、英文の引用がかなりあります。残念ながら出版の段階で除外されたようです。また原稿と本との間で、年代や名称の違いが見受けられました。活字を組む際に間違いがあったと思われます。
[訂正]
西村さんから間違いの指摘をいただきました。
「(おそらく)Muirに会った唯一の日本人」ではなく「(おそらく)Muir邸を訪ねた唯一の日本人」でした。
Muirは世界旅行の際、日本を訪れています(1904年)。東はときのことを調べ、「Harper’s weekly」(1905年)に掲載されたことを突き止めたと書いています(Kimesの本を調べましたが、そのような出版記録はありません)。また、横浜には「スワイン」夫妻という文通相手がいたとのこと。Muirが出した手紙(の訳)が掲載されており、「日本に言ってみたい」とのことが書かれています。Wolfeの本の300ページには、5月に長崎と横浜に立ち寄ったこと、昔Muirの抱いていた日本人移民へのイメージ(娘のHelenの回顧)が書かれています。


[4.11] John Muir Conference 2006
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この学会(”John Muir Conference”)は、John Muir関連の資料の殆どが集まっているStocktonのUniv. of the Pacificで、3日にわたって行われました。初日はMuirが結婚後一生を過ごしたMartinezの家へのツアー(私は参加していません)、2、3日目が発表にあてがわれました。平均参加者数は80人といったところでした。スコットランドやフィンランドからも参加された方がいました(写真上、タータンチェックのキルトをはいています。壁にはKeithの絵が掛かっています)。スコットランド訛りでMuirのフレーズを話されると、なかなかすごいものを感じました。テーマは、Muirがアメリカ外で行った旅行や社会的影響に関するものでした。Muirの功績の簡単な紹介、スコットランドの生家(町)の紹介、そこで行われている現在の教育活動、Robert Burnsの詩がMuirに与えた影響、Muirが親友の画家Keithに与えた影響、カナダ生活時代に働いていた工場そばのMuirの小屋跡の調査、Muirの採集した植物サンプルの発見作業、スコットランドやインド、南米、アフリカなどに行ったときのルートの調査などといろいろな発表がありました。参加者は、大学の研究者・学生を始め、Sierra Club、Restore Hetch Hetchyといった保護団体のキーメンバーもいましたし、一般のMuirに興味のある人も多々見られました。司会のSwagerty教授は、Muirへの興味がグローバル化してきたことを指摘していました。アトラクションは、絵を含み、Keith、LeConte、Muirの資料がいくつか展示されたこと。Muirの義父が、娘Louie(Muirの妻)にピアノを弾かせてよく歌った曲(南北戦争時の北軍の歌)をUC Berkleyのライブラリから探し出し、ピアノの伴奏付きでみんなで歌ったこと、Muirの長女Wandaの家系であるHannaファミリーが自分のワイナリーのワインをふるまったことです。個人的な収穫だったのは、発表者であるBonnie Johanna Gisel女史(”Kindred & Related Spirits:The Letters of John Muir and Jeanne C. Carr”の著者)とRobert W. Righter氏(”The Battle Over Hetch Hetchy”の著者)と直接話ができて、本の記述に関して質問できたこと、ついでに持って行った本にサインをもらったことです(笑)。
ところで、発表者の一人Eber氏に声をかけられ、「東良三」について何か知らないかと尋ねられました。Sierra ClubのMuirの簡単な紹介文(日本語版のみ)には:「高名な登山家である東良三(あずま りょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。」とあります。氏曰く”東良三”は1914年にMartinezのMuir家を訪ねており、彼について調べたいとのことでした。氏の唯一の資料はSierra Club Bulletin 1979年 7/8月号のみでした。どなたが情報をご存知でしたらお教えください。
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会場風景
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Hanna家のワインサービス
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発表前、Muirの展示資料を準備するJohn Muir CenterのSutton氏
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Muirの”The Story of My Boyhood and Youth”の初期の原稿。かなりの校正がなされている。上の写真はDunbarの町の風景。
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アラスカ旅行時のジャーナルに描かれたエスキモーや氷河の絵。かなり細かく字が書かれている。
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Gisel女史のスライドショー。Muirが採集した植物のサンプルの写真に、手紙、スケッチ、写真、環境音楽を組み合わせて作られたもの。終わったときには、会場からため息が漏れていました。2008年 には Heyday Books,(Berkeley, California-publisher Malcolm Margolin)から出版されるとのことです。


[4.12] カリフォルニア 25セントコインデザイン秘話
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写真:デザイナー Garrett Burke(右)
2002年6月、コイン収集家のBurke夫人は、カリフォルニアの25セントコインのデザイン公募があることを知り、夫のGarrett(グラフィックデザイナー)に応募を促しました。無理だろうと最初は乗り気ではありませんでしたが、2ヶ月後には参加を決意しました。ある日、Life誌(1962年10月19日号)の表紙写真のイメージをもとに、突然アイデアが閃き、30秒ほどで最初のスケッチが書き上げられました。8,300の応募は、2度の選考の後、5つに絞られ、新知事になったばかりのシュワルツネッガーによってヨセミテ・Muirデザインが選ばれました。会場を一番沸かした裏話は、[1]応募の前まで、ヨセミテに一度も行ったことがなかったこと、[2]最終選考に残った時点で、シュワルツネッガー知事に自薦のパンフレットを送り、それには”Governor Schwarzenegger, Imagine a force of nature almost as might as you”とメッセージをつけたこと、そして授賞式で、知事に会ったとき、駐車場のパーキングメーターが(25セント)コイン切れしており、罰金切符をもらったことでした。
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写真2:最初のスケッチ
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写真3:アイデアの元になったLife誌の表紙
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写真4:デザインの変遷。左のものが氏による。あとはUS Mintによって修正・デザイン。
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写真5:デザインのコンセプトをまとめたノート。氏はヨセミテ以外のデザインも考えていました(5-6ほどサンプルを紹介してくれました)。
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写真6:Muirとルーズベルト大統領の写真(Muirについて述べた言葉も紹介していました)が、ヨセミテ路線で行く動機付けになりました(この写真はかなり有名なので、ぜひ覚えておきましょう)。
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写真7:コンセプトデザインをへて、Muirのイメージの元となった写真。Merced川ぞいのMuir。後ろはRoyal Arch。杖の持ち方に注意。
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写真8:Inspiration Point付近からの写真にはめ込まれたMuir。
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写真9:キャンペーンに使われたカード。