Hitoshi について

西村仁志です。環境共育事務所カラーズ&広島修道大学。

ヨセミテ国立公園でのレンジャー体験

text by 河合佳代子 Kayoko Kawai
 ヨセミテ国立公園は、米国カリフォルニア州にある全米でも最も人気のある国立公園の1つだ。
 私はこのヨセミテ国立公園に11週間(1994年6月〜8月)インタープリテーション部の実習生として滞在し、レンジャーの人達の中で働く経験を持つことができた。 
 今回は実習生の立場から見たインタープリテーション・レンジャー(後はレンジャーと記す)の現場の様子の一部を報告する。

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ヨセミテの4コマ漫画

Fur and Loafing in Yosemite





 ヨセミテ・アソシエーションからの新刊「Fur and Loafing in Yosemite」漫画家Phil Frankがサンフランシスコ・クロニコル紙に執筆しているユニークな風刺のきいた4コママンガ。ユニークなパークレンジャー、キャンプ場と共生し大自然の生活を楽しむクマたち。「チョー普通の」キャンパーなどが登場する。詳細はヨセミテ・アソシエーションのこのページで。

ジョン・ミューアの生涯

Sierra Club/Fact Sheet “John Muir”より
 ジョン・ミューアは、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれた。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔を持つ。11歳まで海岸沿いの小さな町で暮らしていたが、1849年、ミューア一家は合衆国に移民することを決意。まず、ウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住んだ。
 厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働いた。農作業のあいまに、つかの間働く手を休められたときには、ミューアは弟を連れて、自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策した。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていった。
 彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、風変わりだが実用的な仕掛けをいくつも作りだしている。正確に時を刻む時計や、夜明け前に彼をベッドから転げ落とす愉快な目覚まし装置などである。1860年、ミューアは、彼の発明した品々を、マディソン郡で行われた州の品評会に出品し賞賛を受けた。同年、ウィスコンシン大学に入学。成績は優秀であったが、3年後、マディソン郡を去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅した。
 1867年、ミューアはインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明した。1ヶ月後に視力は回復したが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになった。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのである。それは、ミューアの放浪の日々の始まりでもあった。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸した。その後も彼は世界中を旅することになるが、その時以来、カリフォルニアは彼の第二の故郷となった。
 そして、ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテだったのである。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達した。彼はその時の感動をこう記している。「私には、『シエラ」は、ネバダ山脈ではなく、雪の山脈でもなく、光の山脈と呼ばれるべきもののように思われた。それは私がかつて目にしたなかで、最高、神聖なまでに美しい山々の連なりであった。」その夏、ミューアは羊を率いてヨセミテに移ったのである。
 1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を生みだした。彼の名は国中に広まり、当時の著名人…ヨセフ・ルコンテや、アサ・グレイ、そしてラルフ・ワルド・エマーソンなどがヨセミテの彼のキャビンを訪れている.
 1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家として成功の端緒につく。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けたが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見する。
 1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれた。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めた。
 しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、彼はアラスカの地に幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けた。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど…。
 後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説いた。また、万人に「山に登ってその福音を聴きなさい」と奨励した。ミューアの山に対する愛情は、彼の著作に一種の崇高さをもたらしてる。それを読む者は、大統領であろうと、代議士であろうと、平凡な市民であろうと、彼の自然に対する限りない愛情と情熱に鼓舞され、しばしば行動へと駆り立てられるのである。
 ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びた。彼は、同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかった。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議されたのである。またミューアは、セコイヤ、マウントレイニヤ、ペトリファイドフォーリスト、グランドキャニオン等の国立公園の制定にも携わった。彼がよく、「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以である。
 ジョンソンをはじめとする人々は、たえず境界線をおびやかす牧畜業者などから、生まれたばかりのヨセミテ国立公園を保護する組織の成立をミューアに提案した。ミューアは1892年、彼の言葉によれば、「自然のために何事か為し、山々に喜んでもらうため」にシエラクラブを設立し、1914年にその生涯を終えるまで会長を務めることになる。
 1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版した。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトはミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で、注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのである。
 ミューアとシエラクラブは、ヨセミテや、シエラネバダ山脈を守るために幾多の闘いをくり広げたが、その最も劇的なものは、公園内でのヘッチヘッチィバレーのダム化反対運動であった。しかし、1913年、何年にもわたる努力も空しく、ミューアがヨセミテそのものになぞらえたヘッチヘッチィバレーは、急成長するサンフランシスコに水を供給する貯水池となる運命を辿った。ミューアが、ロスアンジェルスの娘の家で、短い病の後に生涯を終えたのは、その翌年のことである。
 ミューアの生涯は、世界中の環境保護を支持する人々を鼓舞し続けてきた。高名な登山家である東良三(あずまりょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。彼は日本においてミューアの偉業を紹介した第一人者でもあり、ミューア自身についてはもちろん、南北アメリカの自然について20冊を超える著書を出版し、戸伏太兵(とぶせたへい)による訳書『アラスカの旅 ジョン・ミューア』(1942年、聖紀書房)の出版にも尽力した。
 ミューアは、おそらくアメリカにおいて最も著名で、影響を及ぼしたナチュラリストであり、環境保護者である。彼は、私たちが継承した自然に触れ、それを保護することの重要性を説き続け、その言葉は、私たちの自然に対する認識を高めた。自然保護は、今日的課題であるが、ミューアの揺るぎない貢献は、時代を超えて、世界中の環境保護活動に携わる人々を励まし続けている。

小圃千浦とヨセミテ

Chiura Obata and Yosemite




小圃千浦「ヨセミテ、宵の月」1930



 チウラ・オバタ(小圃千浦/1885-1975 カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)は戦前からヨセミテを日本画で描きつづけた画家である。ヨセミテへのスケッチ旅行をきっかけに認められ、カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授を務めるが、第二次大戦中は不幸にも日系人強制収容所へ拘留されてしまう。しかし生きる希望を失わず、収容所内で美術学校を開き、ここからその後多くの日系人アーティストを輩出することになる。
 チウラは岡山に生まれ、仙台で美術教師をしていた兄六一の養子となり仙台で育つ。14歳で家出し東京で邨田丹陵(むらた・たんりょう)の弟子となり、3年後若干17歳で日本美術院正会員になるが、1903年18歳で単身渡米する。サンフランシスコで舞台美術や邦字紙のイラストなどで生計を立て、1912年には妻ハルコと結婚する。1927年カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが、チウラの大きな転機となった。(この仲間の中には写真家アンセル・アダムスもおり、ふたりは親友となる。)
 チウラはシエラネバダ山中にキャンプし、2ヶ月間魔物にとりつかれたように制作に打ち込み、150枚ものスケッチを描いた。バークレーに戻り、ライダー教授により大学で日本画デモンストレーションの機会を与えられるが、多くの学生が押し寄せたため、チウラは大学の講義をもつようになる。
 同年個展「ヨセミテ・シリーズ」を開催し、大きな評価を得るようになる。その後日本でも浮世絵版で有名な高見澤商店による木版画で「ヨセミテ・シリーズ」を出版している。
 1941年日米は開戦。西海岸では日系人11万人が適性外国人と見なされ、強制収容所へ送られた。チウラもタンフォラン収容所に送られるが、「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもとにミネ大久保、日比松三郎・久子夫妻などとともに「タンフォラン美術学校」を収容所内に創立した。同美術学校には6歳から70歳以上、600人もの人たちが受講したという。その後トパズ収容所に移り、そこでも美術学校を開校する。
 終戦後チウラは大学に復職、バークレー校で名誉教授となる。その後の人生は日本の自然と文化をアメリカ人に紹介することに捧げ、また毎年ヨセミテでのキャンプとスケッチは欠かさなかった。
 ヨセミテの大いなる自然はチウラのアーティストとしての感性をさらに磨き、また生きる希望を与えたといってもいいだろう。
 チウラの孫娘Kimi Kodani Hillはバークレー市内に住み、チウラの作品を散逸から守り管理している。画集「Obata’s Yosemite」(1995,Yosemite Association発行)の発刊にも尽力し、現在は同会の理事として活躍中である。このファミリーは4世代にわたってヨセミテに通いつづけ、キャンプ&ハイキングを愛する素晴らしいひとたちだ。
 またいま、カリフォルニア大学バークレー校植物園にはチウラとハルコ・オバタ夫妻を記念した日本庭園とゲートがある。(写真は1942年タンフォラン美術学校で教えるチウラ)

(参考:下嶋哲朗「アメリカに生きた日系人画家たち〜希望と苦悩の半世紀1896-1945」日本テレビ放送網1995)
参考WEBサイト
The Great Nature of Chiura Obata

にしむら@ヨセミテ大好き!






西村仁志(にしむらひとし)
京都生まれ京都育ち。20代から環境教育や自然体験に興味をもち、何かしたい思いがふつふつと湧いて、周囲の心配をよそに1993年勤め人をやめる。アメリカへの一人旅のあと、無職で家族とたのしく暮らしていたら「環境共育」と”Colors of Nature”のキーワードに出会い、個人事務所「環境共育事務所カラーズ」を開業。環境共育と市民参加のコーディネートがお仕事。2006年からは同志社大学大学院総合政策科学研究科准教授を兼業。
1995年からヨセミテに通いはじめて、その奥深さと楽しさにすっかりハマってしまっている。妻と1女1男あり。
(写真はマウント・ホフマンにて)
1995 妻同行。4マイルトレイルを歩く。ミラーレイクへの乗馬ツアー。
    マリポサグローブ。ツォロミーメドウズ、モノレイク行き。
1996 ハーフドーム登頂
1997 家族同行。ヨセミテ滝、イーグルピーク登頂。
1998 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    ランバートドーム、マウントホフマン、クラウズレスト、マウントデナ登頂
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
1999 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク、マウントホフマン登頂
    ライエル渓谷(ジョンミューアトレイル)ハイキング。
2000 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。
    ラフティングなど、お気楽に過ごす。
2000 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。長男同行。
    Budd Creek、Budd lake、カシドラルピークをめぐるハイキング。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
2001 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。家族同行。
2001 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。モノパスへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2002 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。特筆すべき行動はないがタイオガパスを越えマンモスレイクス+ホットクリークへ。
2002 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。20 Lakes Basinへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2003 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。公園内のほぼすべての車道を走破した。
2003 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。テナヤピーク周辺ハイキング。マウントホフマン登頂。
2004 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。コネスベイスン、カシドラルレイクをめぐるハイキング。
2005 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。
2005 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク。ジョンソンピーク登頂。
2006 8月 ツォロミーメドウズで4泊5日キャンプ。乗馬したり、周辺ブラブラでお気楽キャンプ。
2007 3月 マリポサ3泊でヴァレーの散策とスノーシューハイク。
2008 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。ドッグレイク周辺ハイク〜ランバートドーム登頂。Mt.ホフマン登頂。
詳細な経歴書はここにあります。
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ヨセミテで撮影した写真は2000ショット以上あります。ヨセミテ国立公園や自然解説「インタープリテーション」についての出張スライド&トークショーもできます。メールでお問い合せください。京都、山梨、鳥取、北海道で実績あります。

ヨセミテでのキャンプ&ハイキングのグループ(4〜8名程度)のコーディネートを引き受けます。シーズンha
限定されますが、1年前には打ち合わせに入る必要があります。ご相談のメールはこちらまで。



加藤則芳「ジョン・ミューア・トレイルを行く」を読む

Noriyoshi Kato “John Muir Trail”
 
この本のもとになった作家−加藤則芳さんのジョン・ミューア・トレイルの旅についてはNHK-BSで「アメリカ自然保護の父ジョン・ミューアの道を行く」(1995年9月)として放映されたもの。ちょうどその夏に私は初めてのヨセミテへの旅へ出かけて帰ってきたばかりだったので、この映像は鮮烈なものだった。
 ジョン・ミューア・トレイルは、この本でも詳しく紹介されている通り、ヨセミテ渓谷から、セコイア国立公園まで延々340キロにわたって整備された原生自然トレイルである。
 加藤さんは実はこの前年にもこのトレイル全行程踏破を試みているが、両足首の疲労による捻挫によってあえなく「痛恨のリタイア」を喫している。このことも包み隠さず、この失敗で得た教訓を活かして、2年目のチャレンジを図って成功したのだ。
 よく誤解されるのだが、「バックパッキング」と「キャンピング」はイコールではない。「キャンピング」は巨大トレーラーのキャンピングカーでの生活までもが含まれるが、「バックパッキング」には妥協がない。自分の背中に背負える分だけの装備が全てで、まさに家を全部背負って歩くわけだ。私自身は重い荷物を持って歩く「バックパッキング」はあまり好きではない。キャンプ場に定住して毎日軽装デイパックで、あちこち歩き回るスタイルがいい。トレイルでも軽快で楽しい。しかしこの本を読むと、重い荷物を背負ってでも出かけてみようかとという誘惑にかられる。
 この本でも紹介されているが、ヨセミテのトレイルやキャンプ場で出会うのはアメリカ人ばかりではない、ドイツ、フランス、イギリス等からきた欧州人もいっぱいいる。日本人はどうしているかというと、日帰りツアーバスでヨセミテ滞在時間は3時間。自分の足で歩くのはレストランとギフトショップの中だけという悲しい旅だ。
 話が横道にそれたが、この本は実践資料類も充実しており、ヨセミテ国立公園はもちろん、シエラの山々をバックパッキングで歩きたい、キャンプしたい方の必読書としてお勧めする。この本をたよりにシエラの山々を歩きまわる楽しい人たちが増えてほしいものだ。もちろん”ヨセミテ国立公園大好き”もよろしく。(平凡社・2200円)

Oakdaleの中華料理屋「Pearl Palace」


 ヨセミテをチェックアウトしてベイエリアへの帰り道に120号線を使うと、OakdaleかEscalonあたりでランチタイム(もしくは早めの夕食)になる。ファーストフード店はいろいろあるのだが、それでなくともヴァレーではサンドイッチやらハンバーガーばかり食べているので、チャイニーズにはつい惹かれてしまう。
 この「Pearl Palace」はオークデールの街中、120号添いにあるので、分かりやすい。店の見た目はボロいが、安くてボリュームがあり、うまい。もちろんパーキングあり。

11回目のヨセミテの旅(2002.8/20〜9/1)



Helen LakeからNorth Peakをのぞむ

毎年8月はTuolumne Meadowsのキャンプ場に5泊するのが通例になっている。しかし今年のこの時期の旅はHawaiiにしようかどうかという迷いがあって、キャンプ場予約開始日の4/15に予約を入れることができなかった。その後もぐずぐずしていると「ついに今年はヨセミテに行けるよ」とYさんから連絡があり、その言葉に後押しされて、遅蒔きながら5月になってからプランを開始した。
キャンプ場の予約状況をみているとやはりTuolumne Meadowsの8/23,24の週末は予約はすでにいっぱいになっていた。そのため今回はWawonaのキャンプ場に2泊し、その後Tuolumne Meadowsに3泊という変則的な日程で行くことになった。

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10回目のヨセミテの旅(2002.5/28〜6/7)


タイオガレイク

ほんとうはこの年2月に10回目のヨセミテとなるはずの旅を計画していたのだが、9/11テロのあおりをくって、最終決断が延び延びになって結局中止してしまった。
記念すべき10回目は3ヶ月遅れの5月にようやく実現した。そういえば前回の9回目のヨセミテは帰りにハワイ島に寄って帰ってきたので日本の帰国は9/7。事件はその4日後だったので、もうすこしで足止めを食って帰れなくなるところだった。(ハワイに足止めなら大歓迎だが。)
今回は、たつろうさん、けいこさん、えいこさん、橋本ファミリー4名にあさやんと私という総勢9名の賑やかな旅だ。

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9回目のヨセミテの旅(2001.8/21〜30)


マウント・ホフマン頂上にて

8/21

台風11号の襲来で当初乗るはずの関空発UA810は欠航。UAと電話で連絡を取り合うがその後もキャンセル待ち。当日19時成田発UA826ホノルル乗り換えで行けることが分かり、取り急ぎ京都駅から新幹線で出る。
ダイヤは大幅に乱れており、おまけに満席でデッキに立つ。なんとか間に合う時間に東京に着けるはずが、大雨のため浜松で足止め。結局1時間ストップして、この計画もお流れ。翌日成田出発でサンフランシスコで合流予定のケンちゃんに連絡をとり、この日は千葉のケンちゃん宅に泊めてもらうことになった。

8/22

朝9時、ケンちゃんと一緒に成田空港へ向かう。京成電鉄で約45分と便利がいい。この時点でUA852サンフランシスコ便(1600発)はキャンセル待ち。UA838サンフランシスコ便(1725発)も同様であった。そして頼みの綱UA826ホノルル行き(乗り継ぎでサンフランシスコへ)はOKが出ていたのだが、なんと欠航になっていた。(ショックー)ケンちゃんはUA838を無事チェックイン完了。(いいなー)
翌日関西発の臨時便はOKが出ているが、もう成田では後がない。もう関西には戻りたくない。
カウンターでは15時にもう一度来いと言われる。ケンちゃんと一緒に昼食をとり(喉を通らないが)、一緒にラウンジで時間待ち。
1500、ケンちゃんを残しもう一度カウンターへ。(ケンちゃんのUA838はこの時点で3時間遅れに)
3〜4席空席がありそうだということでとりあえずゲートに行ってくださいといわれ、荷物を預けて「やったー」と出国手続きを済ませ、ゲートに向かう。ラウンジのアライさんにも「乗るよ」と電話。
ところがゲートのカウンターでは、「その後その空席は埋まってしまいました。チェックインしてゲートに現れない人が出れば別ですが・・・」、そしてゲートの係員はぼくの荷物を降ろす指示を電話で出している。
「ガーン!話が違うぞー!」
という間に搭乗が始まる。横で祈る気持ちで待つ。
待つこと約10分。また係員が電話でやりとりしている。「その1席使ってもいいですか?」と聞こえる。「ニシムラ様!」と呼ばれる。「乗っていただけます。」「ありがとうございます!」
他にも数人待っていたようだが、これはプレミアメンバーの威力だ。
そしてその席はビジネスクラスだった。ラッキー×2。
この日2回目の朝9時30分、サンフランシスコに無事到着。レンタカーを借り出して駐車場に停め、まずはマーくんが関西空港から到着。そして国内線でロスアンジェルスから到着のヒロミちゃん、ミホちゃんを出迎え。3時間遅れのケンちゃんを皆で食事をしながら待ち、ついに午後3時まえに全員集合してバークレーに向かった。
アウトドアストアR.E.I.で買い出しのあとホリデイインエキスプレスにチェックイン。

8/23

朝起きて7時、同室のケンちゃんとロビーに朝食に降りる。コーヒー、ジュース、マフィンやドーナツ。8時出発の約束をしているがあと3人はいつまでたっても降りてこないので内線電話してみるとまだ寝てた。(6月一緒に行ったIさんもそうだったので必ずモーニングコールしないとね)
出発はやや遅れて8時10分。ほぼ予定通り1200クレーンフラットのガソリンスタンドに到着し昼食。
タイオガロードに入り、オルムステッドポイント、テナヤ湖、ビジターセンターにストップして、1430 ツォロミーメドウズキャンプ場にチェックインした。
テントを設営して、ほっこりとしていたら赤色の4WDがサイトにやってきた。マリコさんとボーイフレンドのタカさんだ。(ふたりとも20代)5月頃からぼくにメールをくれていて、今回はサイトを訪ねて来ることになっていた。
全員の紹介をして、いろいろ長い話をしていたらもう夕方。マリコさんとは翌日ハイキングに一緒に行く約束をして二人は下山。ストアに食料やビール、薪を買いだしに行く。
この日はキャンベルの野菜スープ。夜は焚き火を囲んでみんなでしりとり大会。寒いな〜。7度くらい。

8/24

6時に起床してお湯を沸かしていたら、タカさんに送られてマリコさんやってくる。タカは仕事でヴァレーへ。マリコさんも一緒に朝食を食べる。マンモスには唯一のスーパー「ボンズ」があって、その話をいろいろしてくれる。
今日はモノパスへのハイキング。マリコさんは話好きで、皆といろんな話が弾む。ぼくのこともえらく持ち上げてくれる。(「にしむらさんは京都のジョンミューアです。」)
景色がきれいで高低差の少ない楽なコースで、2日目の小手試しには最適。
昼食後、峠を越えてモノレイクを望むポイントまで歩く。
1500に帰着。ライエルフォーク川の水浴びの場所とやり方もみなさんに伝える。(今回はキャンプサイトが川に近い)今回はゴーグルがあるので潜ってみると綺麗なニジマスがつかめそうなところにたくさんいた。
なんとこの日はショップが停電で閉鎖。こまった。もう薪もないし。タイオガパスリゾート(クルマで15分)に買い出しに行く。
1830からマーガレット・アイズラーのフルートのレンジャープログラムに皆で参加。参加者は毎年は多くても20〜30人ほどだが、今回は50人以上いた。すごい人気!
サンセットとフルート演奏に感動していた。
キャンプサイトに戻って、皆一緒に夕食。タカも仕事を終えて合流。今日ガイドのプログラムで使ったというブラックベアの皮を見せてもらう。
火を囲んで、みなでしりとり。

8/25

今日は朝から麓の街リーバイニングでお洗濯と買い物。またまたマリコ&タカと1130にモノレイクのビジターセンターで待ち合わせ。モービルガスステーションで一緒にランチを食べた後、モノレイク湖畔を見に行く。ハエが水面に黒々といる。「ケンちゃん、あそこに浮いて」と女の子達は容赦ない。
マリコ&タカは明日からサンフランシスコへ行くということで、ここでお別れ。ありがたいことに薪をたっぷりといただいた。
午後は休息、昼寝、川遊びなど自由。
なんと夜2130にカズさんグループが隣のサイトに到着。彼らの分もサイトを予約しておいたのだ。カズさんご夫妻のほか友人含め計7名。大騒ぎしてテント3張たてて就寝。

8/26

今日はマウントホフマン行き。朝ご飯と片づけを簡単に済ませて、0800に出発。0820メイレイクの駐車場にクルマをとめ、まずはメイレイクをめざす。0850到着。(結構早い)
休憩を終えて0900にまた歩き出す。皆なかなかの健脚でバテる人がいない。3度ほどの休憩だけで1030にあっさり頂上に着いてしまった。(このペースは後日私のハイキングの師匠もびっくりしていた)
ここから見るとヨセミテ渓谷は山火事の煙が充満している。その向こうでは4ヶ所程から煙が上がっているのが見えていた。
ほんとは頂上でランチと思っていたが、これではキャンプに帰れてしまう。早く帰ってメドウのグリルでハンバーガーを食べようという提案をしたら、みんなもそうしようということになり急ぎ下山。
午後はまた川遊びその他。
夕食はカズさんグループと合同。こちらは焚き火でチキンを焼くのとシーザーサラダ。カズさんグループはパスタやカレーほかいろいろ。途中ケンちゃんがサンセット見に若者たちを連れて行く。帰ってきたらまた食べて、こんどはスターウォッチングに出かけていく。その間ぼくはワイン飲みっぱなし。

8/27

残り日程が少なくなると、みな早朝の時間も惜しんで散歩に出かけている。ケンちゃんはもうどこか山の中に消えている。
ちょうど出るタイミングが合い、ミホちゃんと川をさかのぼる散歩へでかける。帰ってきたらヒロミちゃんがコーヒー入れてくれていた。うれしー。
今日はヨセミテ渓谷へ。タイオガロードを下っていくと、「わー」っと歓声が上がるところでも、なんと煙っていて何がなんだかわからない。降りきってトンネルビューまで上がり、クルマを降りるが、またまた何にもわからない。「ほんとはここから、こんな景色が見えてね」って言っても始まらない。ひどいもの。
ほんとはグレイシャーポイントへと思っていたがこれはキャンセル。
まずはブライダルベール滝をみて、(6月と比べるともう水量はチョロチョロ)、クルマをカリービレッジに置いてハッピーアイルへ。調子が良ければヴァーナル滝の下まで行こうかなと思ったが、いまいち皆の士気があがらない。「さきにピザ食べよう!ごちそうします。」ということでカリービレッジに戻る。
おいしいピザだったが、またまた士気が上がらない。
どうも暑いのと、景色が良くないのと、人が多いこと。それもいかにも観光客っていう人びと。ツォロミーの涼しさやハイカーやキャンパーの素朴さにすっかり慣れてしまうと、ヴァレーはいかにも俗世間なのだ。
そんな中ヨセミテ・ミュージアムではいい出会いがあった。いつもなら先住民のおばさん(ジュリア・パーカーさんとか)がかご編みの実演をしているところで、この日はレンジャーのシェルトン・ジョンソンが民族楽器の笛を何種類も持ってきて解説しながら吹いていたのだ。いろいろやりとりもして、楽しい出会いだった。
いちおうビジターセンター、アンセルアダムスギャラリー、ビレッジストアと一巡して、アワニーで休憩。ミホちゃんが「私たちのキャンプに帰ろう」という。やっぱりここに居場所がないのだ。
すこし空気が澄んできたので、エルキャピタンを見た後、もういちどトンネルビューを見に行く。こんどはバッチリだった。良かった。
夕食はキャンプに帰ってから、デリで買ったサンドイッチを切ってみんなで分けて食べた。

8/28

また皆早起きで、どこか朝のお散歩に。今日はメドウの真ん中で朝焼けを拝む。もうこれで最終日。
残りの食料を食べきって、食器やコッヘルも後片づけ。シュラフやテントもたたみ、荷物をまとめる。
結局出発は1000になってしまった。カズさんグループも。
途中オークデールのマクドナルドで昼食。1500バークレーの師匠宅に一同立ち寄ってお茶をいただきながら5日間の報告。そしてベイブリッジを渡ってサンフランシスコへ。ミヤコインのチェックインは1600だった。
1700 友人のオサム&アキコ夫妻日本よりミヤコインに到着。彼らは翌日からモントレー&ヨセミテへの旅だ。ジャパンタウンの中華料理屋で皆で夕食。あとでカズさんグループもやってきて総勢なんと14名になった。
カズさんグループを送り、翌日の朝ご飯を買い出しにスーパーへ。

8/29

キャンプの癖で早起き。ケンちゃんと部屋で朝食をとり、朝のお散歩へ行く。
メールチェックしたら、「EVN」さんからメールが入っている。「空港近くのモーテルにいるので、会いませんか」という内容。
0830オサム&アキコ夫妻を送り、ぼくらは0900に出発。空港でみなでお茶して、ゲートへ向かう皆を見送って解散した。
「EVN」さんに電話し、昼食を一緒にすることになった。サンマテオのダウンタウンの日本料理店。いろいろ旅の話をし、今夜よければルームシェアしましょうということになり、半額を出して泊めてもらうことになった。「レッドルーフイン」という宿で約70ドル。
この日は1830にすやまさんの家に集合となっている。「EVN」さんも同行。
「せーちゃん」「カネゴン」もやってきて、一緒に夕食しながらヨセミテの話しました。その間、「EVN」さんはほとんどすやま家のベビーシッターでした。

8/30

朝6時起床。「EVN」さんもこの日はゴルフということでつきあって早起きしてくれる。支度をして、「EVN」さんに見送られて出発。ありがたいことに空港までは10分もかからない。レンタカーを返却して、UA国内線カウンターにいく。早朝からもうたくさんの人が来ていて、「プレミアメンバー」用の列に並ぶが、こっちはこっちで長い行列。もしかすると一般の行列のほうが短かったかも。無事チェックインをすませて身軽になって、やっと朝食へ。ゲート近くのカフェでマフィンとカプチーノ。
出発時間まで1時間以上あるのでメールの返事をかきためる。
今回は日本には帰らない。このままハワイ島のコナへ行く。次の旅が始まる。