「ヨセミテ紀行」は以前のサイトデザインのままになっていましたが、「Travel Note」のカテゴリー名をつけてBlog内に移動させました。
(2003,2004年のヨセミテ行きが書けていないままになっていますが…)
「ヨセミテ」の語源
1851年、マリポサ大隊のBunnellによって命名[1]された「ヨセミテ渓谷」ですが、Daniel E. Anserson氏が「ヨセミテ」の語源について、簡潔な紹介記事を書いています[2]。 それによると 「ヨセミテ」はミウォーク(Miwok)族により、ヨセミテ渓谷に住むインディアンを指して使われていた言葉とのことです。その意味は”those who kill”(註:日本語では「殺し屋たち」という意味でしょうか)。「ヨセミテ」の”yos”は「to kill」、”e”は「one who」、そして複数形をさす”meti”の三つの部分に分解されるようです(註:細かい事ですが、”Yosemite”ではなく”Yosemeti”を使い、それを3つに分解しています)。ヨセミテ渓谷を取り囲むインデアンの部族は、彼らを恐れ、そう呼んでいたようです。テナヤを酋長とするヨセミテ族はシエラの東側のモノ・パイユート族を含むいくつかの部族から成り立っていました。パイユートは伝統的に平和的なミウォーク族の敵でした。 さて、ヨセミテ族はヨセミテ渓谷を”Awooni”(アワ二ー)と呼んでおり、それは gaping mouth (註:gapping は「裂ける」、「ぎざぎざになる」)を意味しています。また、そこに住む自分たちを”Ah-wah-ne-chee”(アワニーの住人)と呼んでいました。もともとは渓谷内の最大の村(ヨセミテ滝の南東にあった)を指していましたが、後に渓谷全体を指すようになりました。マリポサ大隊の指揮官Savageは、酋長テナヤが説明しようとしたアワニーの意味を取り違えたとBunnellは述べています[3]。Bunnell自身はヨセミテを”Grizzly Bear”の意味だと書いてていますが、これもまたSavageによる間違いだったようで、”isimati”というMiwokの「熊」を”yosemite”と聞き違えたようです[4,5]。
加州25セント硬貨いよいよ
ハーフドームとジョンミューアをデザインした25セント硬貨がいよいよ月曜日にお目見えのようです。
Yosemite Forum 2005
NPSが”Yosemite Forum 2005″のゲストスピーカーとスケジュールを発表していました。
これは月例で行われる講演会で、ヨセミテおよびシエラネヴァダにまつわるさまざまな分野の研究者がゲストスピーカーとして招かれています。
http://www.nps.gov/yose/news/2005/form0125.htm
Conditions Update
NPSのConditions Updateのページで、最近のヴァレーの写真が公開されています。雪化粧です。
ハーフドーム(1月27日)
ヨセミテ・フォール(1月27日)
加藤則芳オフィシャルサイト”Backpacker’s Almanac”
「ジョン・ミューア・トレイルを行く」でおなじみの作家・加藤則芳さんがオフィシャルBlogを立ち上げられました。
2005年4月1日スタートで、東海岸のアパラチアン・トレイル3500kmの旅に出られます。
加藤則芳オフィシャルサイト “Backpacker’s Almanac”
以下、加藤さんから頂いたメールです。
加藤さんから、こんなふうにこのサイトを見ていただいているのはとても光栄です。
これも、執筆者のみなさん+ヨセミテファンのみなさんのおかげです。
Half Dome初登頂:1875年
”The Yosemite Book”(1869年版)でWhitneyに登頂不可能(”rising to the height of 4,737 feet above the Valley, perfectly inaccessible, being probably the only one of all the prominent points about the Yosemite which never has been, and never will be trodden by human foot.”)と言わしめたハーフドームでしたが、その初登は意外にも早くやってきました。以下はMuirの文[1,2]にもとづく初登の記録です。
バレーの住人John Conwayは、岩登りの得意な自分の子供たちをHalf Domeに向かわせます。鉄釘を岩の割れ目に打ち込み、それにロープを固定しつつ最後の斜面(現在のケーブルルート、斜度46度)を登らせるつもりでした。子供たちは300フィートの高さまで達しましたがそこから先は岩にドリルで穴を開けない限り突破できないことがわかります。そこでConwayは、子供たちに撤退を命じます。その数年後(1875年)、同じバレーの住人George C. Andersonは、彼らが残したロープを辿り、最高到達地点まで達します。そこからは、5〜6フィート間隔で岩にドリルで穴を穿ち、ボルトを打ち込んでいきました。ボルトはロープの固定と足がかりとして使われます。そして数日後(10月12日)、ついに頂上に達しました。Mt. Shasta[3]の旅から帰ってきたばかりのMuirは、11月10日に第9登[4]を果たしました。面白い事に、切れおちている崖による視覚への影響のせいか、ドームの上から見る渓谷の眺めは、そこより低い場所に比べて劣ると書いています。また彼らしく、頂上にある植物の事が書かれています。
Muir本人としてはHalf Domeが手付かずの状態であってほしかったようですが(”For my part I should prefer leaving it in pure wilderness…”)、1919年にシエラクラブによって600フィートのジグザグの階段状トレイルが前衛のドームに、最後の部分には800フィートの長さの2本のケーブルが恒久的に建設されることになります[5]。
Conditions Update
NPSのConditions Updateのページのハーフドームの写真が1/14のものに更新されていました。
ハーフドーム(1月14日)
120号
Big Oak Flatゲート〜Merced Grove〜Crane Flat付近の道路(写真)には結構雪が残っていました。
チェーン規制こそありませんでしたが、雪上の運転となるので注意が必要です。 渓谷内の道の一部は朝には凍っていました。 Badger Passへの道路にもチェーン規制は入っていませんでした(一部雪あり)。
Big Oak Flat(Grovelandの西)への近道Old Priest Road(急登)は一週間前からクローズになったとのことです。
今日は晴れ
YAの生中継カメラを見ていますが、今朝はすっきりと晴れていますね。