粉末日焼け止め

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いよいよハイキングのシーズンが近づいて来ました。つい先日、ユニークな日焼け止めを見つけました。粉末状になっており、ケースに内蔵された山羊の毛のブラシで、はたきこむ仕組みになっています(SPF30)。あのクリームのべとべと感が全くありません(「おしろい」をはたく感じで使用)。数週間後、フィールドでの使用具合を報告したいと思います。大きさを比較するため、単三電池をおきました。重さは40グラム弱。

Royal Robbins

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30年以上前にできた、Royal Robbinsというアウトドアーのアパレルメーカーがあります。創始者であるRobbinsは1950年代から60年にかけて、Half Dome北西壁(1957年)、El Capitan Salathe壁(1961年)やNorth American壁(1964年)の初登攀を含め、ヨセミテ渓谷でのビッグウォールクライミングの黄金期に大活躍をしました。先日、氏のスライドショーを見る機会がありました。話はまず、MuirのCatherdral Peakの初登頂(1869年)から始まり、AndersonのHalf Dome初登頂(1875年)と続きます。そして、主題のヨセミテ渓谷での主要岩壁・岩峰の登攀史が、自分のクライミングも含め紹介されました。後半は、ヨーロッパやパタゴニアでのクライミングに軽く触れた後、筋を痛めて先鋭的なクライミングが出来なくなって70年代から始めた、カヤックによるシエラネバダの三大渓谷:San Joaquin、Kings、そしてKern Riverの下降の話でした。一番時間が割かれたのはHalf DomeとEl Capitanで、数々の信じられないようなスライドをみることが出来ました。El CapitanのNoseルート(1958年)を初登攀したWarren Harding(1924−2002)とは、そのクライミングに関する思想などの違いはあるものの、よい友達だったと話していました。71歳とは思えないエネルギッシュなRobbinsでした。手はあまり大きくはありませんが、かなり厚みがありました。

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Tuolumne Meadows Report

4月20日のレポートですが、Tuolumne Meadowsの残雪はかなり多いようです。去年の4月20日は、61インチの雪が残っていましたが、今年はそれを越える83インチだそうです。
This time of year we start getting summer hiking calls. The questions are not always easy to answer since we spend our summers further north. We can provide current weather facts though: Tuolumne Meadows had 61” of snow on the ground on this date last year (April 20th) and this year we have 83” of snow on the ground. We have also already exceeded our record precipitation for the month of April with over 5 inches of water content in the snowfall so far, any additional precipitation will just raise the record.

ヨセミテ地図

地図をすべてサムネイルにしました。
1.サンフランシスコ−ヨセミテ
2.ヨセミテ国立公園全域
3.ヨセミテ渓谷
4.Tioga Road沿い
5.Wawona(Mariposa Grove)
6.Hetch Hetchy

Tioga Road除雪開始日: 5月1日

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1980年から2005年までの26年間のTioga Road開通・閉鎖日グラフ。一番下の棒は1980年。一番上は2005年。横軸は1月1日から数えた日数で、1グリッドは10日。5月31日は151もしくは152日目にあたります。開通が一番遅れた年は1998年で7月1日。閉鎖が一番早かったのは2004年で10月17日。
除雪開始日が5月1日との発表がありました。
5月中のTioga Road開通の可能性は99%ないと思われます。6月末(独立記念日前)の開通を目指すといったところでしょうか。
高地での雪の状況は:
Spring has been very wet and snowpack at the higher elevations is very deep (109 inches at Tuolumne Meadows as of April 5; the snowpack hasn’t been this deep there in April since 1983). Snow has also fallen at the lower elevations, however the snowline is between 5,000 and 6,000 feet.…
と、1983年以来の雪の深さだそうです。ちなみに1983年のTioga Road開通日は6月29日でした。
2005年(去年)のGPとTioga Rd.の除雪の記録を再掲載
今年の開通日予測の目安になると思います。去年は意外と早くGP rd.が開いたんですね。

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The Last Season

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The Last Season、Eric Blehm著、HarperCollins Publisher(2006)
On good days they were “heroes” called upon to find a lost backpacker, warm a hypothermic hiker, chase away a bear, or save a life. On bad days they picked up trash, tore down illegal campfires, wrote citations, and were called “f#@*^* a**&^%$#” simply for doing their job. On the worst days they recovered bodies – Eric Blehm
1996年7月20日11時30分、セコイア・キングス国立公園のベテランバックカントリーレンジャーのRandy Morgenson(当時54歳)は、JMT上のMather Passから無線管制室に定期の連絡を入れました。その後Morgensonからの定期交信は途絶えてしまい、24日にはBench LakeにあるMorgensonのレンジャーステーションをベースにSearch and Rescue(SAR)が開始されます。一時は3台のヘリコプターも含み50人以上が動員されましたが、消息はつかめず、SARは三週間後に打ち切りとなりました。5年後の2001年7月14日、電源スイッチが入ったままの無線機、靴、そして遺体の一部が発見されます。これは事故だったのか、それとも自殺だったのか…。本の1/3はSARの話、残りはMorgensonの28年にわたるNPSのレンジャーとしての活躍の記録でもあり、この二つのストーリーが折り合わされて書かれています。Morgensonの両親はヨセミテ渓谷で働き、本人もヨセミテで育ちました。短い間ですがヨセミテでのレンジャーも勤め、妻とTuolumne Meadowsで冬のパトロールをしていました。進路決定に当たっては、Ansel Adamsと話をしています。Backpacker誌5月号と来月号で、本の紹介記事(主に”missing”章のダイジェスト)が組まれています。Jon Krakauerの「Into the Wild」のようなベストセラーになるでしょうか?

東良三の描いたJohn Muir

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本のタイトルは「自然保護の父ジョンミュア: The Life of John Muir」で、昭和47年に山と渓谷社から出版されました。東は1970年に国立公園協会主催のカナダ・アメリカ国立公園視察団に参加、その道中、理事長の「千家哲鷹」氏にミュア伝の執筆を勧められたのが著作のきっかけになったと書いています。『およそ自然を愛し、山に憧れ、国立公園の秀麗な風光に思いを馳せ、自然保護に心を傾ける人ならば、ジョン・ミュア(John Muir 1838-1914)の名と、その偉業のあらましを知っておかねばなりません。』という出だしで本は書き始められています。内容は年代順に書かれており、青春時代のミュア、未開のカリフォルニアへ、秘境ヨセミテの探査、原始自然の中で、アラスカ氷河探検、未知の大自然を求めて、自然保護の第一人者、世界諸国への旅、大自然人の終焉と9章構成になっています。また巻末にはミュアウッズ国家記念物、氷河湾国家記念物、国立ジョン・ミュア史跡地、ミュアの著書と参考資料、ジョン・ミュア略年譜が付いています。
「自然保護」がタイトルに入っていますが、意外にもMuirの自然保護運動については、あまり書かれていませんでした。東本人は、『本書は、七十六年の全生涯を自然探求に捧げ、極度の清貧簡素の生活をつづけながらも、前世紀のアメリカの未開時代に、早くも次々に前人未到の原始境を踏破し、その崇高な美の世界を私たち後人に伝えた、世にも稀な非凡の自然人、ジョンミュアの数奇な探検一代記である』と本を位置づけています。このタイトルと内容のミスマッチは、原稿のタイトルが『自然界の聖者 ジョンミュアの生涯』であったことから、出版時に変えられたものと思われます。Muirのことのみならず、ヨセミテ、セコイア、キングス・キャニオン国立公園の情報、カリフォルニアの探査歴史、当時の日本政府要人らのカリフォルニア訪問などが面白く取り混ぜられています。さてMuir本人に関する記述ですが、大まかには正しいものの、かなりの誤記、勘違いも見受けられました(例えばヨセミテに関しては:1869年夏の記述、Muirの氷河説が認められたこと、Hetch Hetchy渓谷を高原と記述、Mt. Whitney初登頂、ダム問題に関してのルーズベルト大統領の立場、ヨセミテ国立公園の境界の変遷の経緯、公園へ自動車を乗り入れることへの意見など)。内容と巻末の文献リストから判断して、Badeの”The Life and Letters of John Muir”(1923)、”Letters to a Friend”(1915)、Muirの主要著作に頼って書かれているように見受けられました。Wolfeの本は読んでいないようです。細かいところはさておき、私個人としては、Muir邸を訪ねた唯一の日本人(たぶん)の東が、どうMuirを捉えようとしたかに興味を覚え、楽みながら読むことが出来ました。本書は『どうか、この書が、国土を愛し、その自然に親しみ、わが国立公園と国定公園に包含されているといなとを問わず、あらゆる日本の秀麗な景観の永久保存に心を寄せるすべての人々に、善意にもとづくなんらかの示唆をあたえることができますように…。』と結ばれています。

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『光の峰』 The Range of Light

日本登山の黎明期に活躍した「小島鳥水」は、その投稿「高山の雪」(明治44年7月)のなかで以下のように書いています。
『また北米で有名な、シエラ・ネヴァダ山Sierra Nevadaのシエラは鋸歯ということだが、ネヴァダは万年雪(Neve)と語源を同じゅうした「雪の峰」ということである、米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば 「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」 と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。』
以上は、岩波文庫(緑135−1)の「山岳紀行文集:日本アルプス」(小島鳥水著、近藤信行編)の「高山の雪」の章(342ページ)に書かれています。その解説によると、小島は大正4年から、アメリカに移り、横浜正金銀行サンフランシスコ支店のロサンゼルス分店長を勤め、そして大正八年からはサンフランシスコ支店長を務め、その傍らSierra NevadaやCascadeの山々に登ったそうです。
小島が引用したMuirの記述はもちろん、”Then it seemed to me that the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light”の部分です。東京の八木書店のウエブサイトには、小島が東良三に送った書簡の写真が掲示されています。

東良三(あずま りょうぞう)とMuir

西村さんから、「東良三」の書いた”アラスカ:最後のフロンティア”(山と渓谷社)のあとがきの部分を送っていただきました。それによると、1910年(明治43年)、東は、ワシントン州Tacoma付近のミッション系大学Puget Sound Collegeに入学しました。やがて、Mt. Rainierに登るチャンスが来、その途中、キャンプMuirという場所(洞穴)で一夜を過ごすことになりました。東はそのとき初めてMuirの存在を知り、これをきっかけにMuirの著書を買い集め、読み始めます。やがて東はMuirにMartinezを尋ねたい旨を書き送ると、快諾の返信が届きました。
「そして私は、1914年、卒業前の夏期休暇にタコマから遠くサンフランシスコまで一日半の汽車の旅をつづけ、さらに金門湾から75キロも北方のマルティネッという農村まで馬車にゆられて、あたかも最後の著となった『アラスカ氷河探検記』の執筆に余念のなかった老先輩ミュアを、果樹園にかこまれた広大な私邸に訪ねたのでした。私はときに二十五歳のとるにたらぬ一苦学生。五十も年長の偉人との出会いは、とても釣りあいのとれぬ妙なコントラストだったといえましょう。しかし、遠路を訪ねてきた日本人ということで、こころよく迎え入れてくださった老師の純白の長いひげを見たとき、あたかもいにしえの聖人のような気高さを感じました。そしてしっかと私の小さな手を握ってくださった掌の暖かさ。私は思わず師の脚下にひざまづいて、うやうやしく頭をさげました。私のミュア邸逗留は二日一晩にすぎませんでしたが、この高名な大自然人の知遇を得たことは、その後の私の生涯に、直接間接に大きな影響をあたえずにおきませんでした。」(265ページより)
西村さんの資料をEber氏に送ると、こんどは氏の方から、Sierra Club Bulletinの写しが送られてきました。ほんの一部だけですが、それによると:
1973年、Kimes夫妻が、Muir関連の資料を調べていたとき、Mr. IshigakiがMuir家に本の翻訳の許可を申し出ていたことがわかります。その追伸から、1942年に”Travels in Alaska”の翻訳がなされていたことがわかります。その本を探すため、Muirの伝記を書いた東に問い合わせると、”Travels in Alaska”は、東から(間接的に)本を借りた戸伏により翻訳されたことがわかりました。東はやがて米国を訪れ、Kimesらと会います。それ以降の幾度かのインタビューに基づき、このSCBの記事が書かれました。Muirとの出会いについては、SCBの方がやや詳しく書かれています。Oaklandに着いたときに、Sierra Clubのメンバーが馬車で迎えに来て、6時間かけてMartinezに着きました。Muirの脚下にひざまづいたときには、涙したようです。また”Travels in Alaska”を執筆中の2階の勉強部屋へも案内してもらいます。そこにはヨセミテ渓谷の大きな絵[註:多分Keithの絵]と、Emersonのポートレイトが掛かっていたこと、また机の上には大きな聖書が載っていたそうです。また”Cruise of the Corwin”以来のMuirの友人である船長のHooperが夕食時にMuir邸を訪れ、たまたま船員(キャビンボーイ)を探している話になり、Muirが”Take Ryozo! He should see Alaska”と言いました[註:それがアラスカ旅行(1915年−1918年)のきっかけとなりました]。1977年に東は、自然保護やMuirの伝記「自然保護の父ジョン・ミュア」の功績を認められ、Sierra Clubの生涯名誉会員となりました。東は、アメリカ大陸(西部)で140峰以上を登り、アラスカへも9度訪問しました。
Kimesの本より:
東は、”Stickeen”を訳して雑誌に投稿したそうです。しかし、本人ですらその雑誌を、所有していなかったそうです。また”Travels in Alaskaは、東京大学のIto教授に貸され、それから戸伏の手に渡り訳されたそうです。東によると、訳の出来はかなりすばらしかったとのこと(1942年出版、3,000部刷)。
Ronald Eber氏はかなり真剣に資料を探しています。新聞・雑誌記事など(特に日本の国立公園設立に関するあたり)、どのような物でも結構です、見かけられましたらご一報ください。

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