Muirの自然保護運動(続き): 1890年10月1日にヨセミテ一帯を国立公園にする法案が通過すると、Mariposa、Tuolumne、Mono、Fresno郡の人々は、自分たちの税収源が突然失われてしまった事に気づきました。また山岳地帯で自由に放牧をしていた牧畜業者たちは、一帯が突然閉鎖されてしまった事に反対していました。やがて新聞記事、牧畜業者や林業者組合の会合などで反対意見は勢いづき、1891年1月末には連邦議会への嘆願書が出されるに到ります。
このような中、1892年2月10日、連邦下院議員のAnthony Caminetti(元カリフォルニア州の議員)は、鉱山、牧畜、林業者らにとって重要な一帯を、ヨセミテ国立公園の境界から除くための法案HR5764を農務委員会に提出しました(しかしながらCaminettiは、自然資源の保護の重要性も理解しており、脚下されたものの、1892年5月26日には、ヨセミテ国立公園の保護のために1万ドルの予算をつける予算修正案を申請したり、前述HR5764で、ヨセミテ国立公園の湖沼に農務省長官の裁量で魚の放流ができるという項も付加していました)。
同じ頃、内務省長官Noble(R. U. Johnsonとは1890年10月以来書簡のやり取りがある。1891年6月には二人はYale大学より名誉称号を授与されている)は、議会で前年度(1891年)の年次報告をし、夏の間ヨセミテ国立公園をパトロールする第四騎兵隊(Saf Francisco、Presidioが駐屯地)I中隊長のWood大尉(ヨセミテ国立公園長代理)の推薦に基づき、公園境界の見直しを推薦します。Muirは3月24日にNoble宛に手紙を出し、境界の縮小案に賛成の意を表明します。一方、チャーターメンバーのJames Mason Hutchings(Muirがヨセミテに住んでいたとき働いていたホテルの経営主)やJohn T. McLean博士は、同月25日と26日に同じくNoble宛に強固に反対する手紙を出します。特にHutchingsは、更にMt. DanaとMt.Warren一帯(T1N/R25E)を公園に取り込むことを推薦しています。
6月に結成されたばかりのシエラクラブは、10月1日にOlneyの事務所で理事会を開き、クラブとして活動を開始することを決めます。2週間後に開かれた総会では、Caminetti法案の説明がされます。Caminetti議員は、11月5日の総会に出席し、Olneyとディベートをする予定でしたが、これは都合で実現できませんでした。そして、このときクラブは、法案反対の請願書を連邦議会の農務委員会へと送る事で決議しました。当時の理事会の議事録は、1906年のサンフランシスコ大地震の火災で焼失しまい、前述のMuirの境界変更への賛成意見が自分で取り下げられたのか、他のメンバーに押し切られたのかは不明ですが、最終的には境界変更を全く認めないということで嘆願書は作成されました。反対の主な理由は以下の通りです。
[1]T4S/R25、T4S/R25E、T3S/R25E(地図右下の三区画)はSan Joaquin川の重要な水源地帯である。[2]T1S/R19E、T2S/R19E、T1S/R20E(地図中央左の三区画)は重要な森林地帯でまたTuolumneとMercedのセコイアグローブもある。[3]T1N/R19E、T2N/R19Eは州の水源地帯として保護されるべきである(現在はEleanorとCherry湖が出来ている)。[4]T2N/R20EとT2N/R21Eの上半分、T2N/R22E、T2N/R23E、T2N/R24E、T1N/R22Eの上半分、T1N/R23Eの上半分、T1N/R24E、T1S/R25E(残りの地図上側の区画)はTuolumne川の水源地帯であり、Hetch-Hetchyを含む一帯は、将来重要な観光地になることが考えられる。
1893年2月、Caminetti案が農務委員会の議題に上ることを知ったR. U. JohnsonはMuirに電報を打ち、シエラクラブとして抗議することを求めます。2月6日、Muirは委員長宛に”The Caminetti bill is in favor of sheepmen and timbermen chiefly the latter. We urge delay until the light shines”と電報を送りました。これがどう影響を与えたのかは定かではありませんが、まもなくCaminetti案は委員会内で消滅してしまいました。
しかし翌1894年8月1日に、Caminettiは大統領の許可があれば、議会の承認なしに内務省長官が、その裁量で公園の境界変更が出来るという法案(HR7872)を公地委員会へ提出します。すでに長官Nobleは、1893年3月にHarrisonからClevelandへの政権交代に伴い退任しており、新たにHawk Smithが就任していました。MuirはSmithもNobleのように境界変更に賛成する事を恐れ、シエラクラブとしての意見書を送る事にします。シエラクラブの書記のElliot McAllister(カリフォルニア州議員)は、1985年1月15日にCaminettie法案を破棄を呼びかける州法案を提出、これは両院で通過し連邦議会へと送られました。やがてCaminetti法案は1895年3月2日に廃案となり、またCaminnetti本人も選挙での二選目を果たすことができませんでした。こうしてヨセミテ国立公園の最初の境界変更の危機はとりあえず回避することが出来ました。
地図:Caminetti議員が提案したヨセミテ国立公園の境界変更案(青)。赤は1890年に設定された公園境界線。
この記事は”John Muir and the Sierra Club” (Holway R. Jones著、1965年出版)の11〜15ページを要約したものです。また”Yosemite: The Embattled Wilderness”(Alfred Runte、1990年)、”How the U.S. Cavalry Saved Our National Parks”(H. Duane Hamption著、1971年)、”Remembered Yesterdays”(Robert Underwood Johnson著)も参考にしました。