山火事?

Fire Management


マリポサグローブでのマネジメントファイア

 ヨセミテでは時折、自然発火による山火事が起きる。1990年には大規模な火事がおこり、そのため国立公園は夏シーズン中長期にわたって閉鎖され、一般客は立ち入れなかった。いまでもそのとき焼け焦げた森をヨセミテ渓谷からクレーンフラットに向かう道路沿いにみることができる。(余談だが、一説によるとその夏はビジターのいないヨセミテ渓谷では在庫していた食料が食べ放題だったとかで、いまでも関係者の間で「あの夏は最高だった」と語り草になっているらしい。)
  当初国立公園管理事務所では山火事の消火作業を行っていた。しかし最近では自然のなかでの山火事の役割が知られるようになり、逆に森に人工的に火を入れる作業「ファイア・マネジメント」を行い、また自然発火による火災も力ずくで消火するというよりも、燃焼範囲を管理するようになっている。
 火事が時折起こることで森の中に日光が入り、樹木の世代更新が促進されることが、森の健康を保つことにつながるのである。また何十年も火事のない森には乾燥した枯れ枝等が蓄積し、いったん火がつくと手のつけようがない大規模で壊滅的な火災に発展する可能性がある。
 ジャイアント・セコイアの樹は、種の発芽に熱が必要不可欠(山火事の熱で松ぼっくりのかさが開き、中の種子がはじけて飛ぶ)であることも研究によって明らかになっている。また黒く焼け焦げた幹は樹皮が周囲から発達して被い、焼け焦げた部分を自分で治癒してしまうという、まさに「山火事と共生する樹」であることがわかったのである。
このような理由から、公園管理事務所では10年に一度位のローテーションを組み、公園中の森に定期的に森に火を入れる作業を行っている。
 眺望のきくところでは、空に煙がたちのぼっているのを見かけることがあるかもしれない。それはたいていマネジメントファイアによる煙だ。グレイシャーポイントでは、「MANAGEMENT FIRE,DO NOT REPORT(見えている煙はマネジメントファイアだから、通報しなくていいよ。)」という標識が上がっていることがある。さらにその説明と作業エリアの地図まで掲示してあり(左写真)、公園管理事務所の仕事内容を理解してもらうという姿勢が見える。
 ジャイアントセコイアの森、マリポサグローブで偶然にもファイアマネジメントの作業現場に遭遇したことがある。立入禁止にもすることなく、トラムの通る道沿いの樹からも炎が上がっていた。もちろん国立公園局の消防車が待機しており、仮設プールに大量の水を貯め、燃え具合を消防士(女性もいた)が顔を真っ黒にしながら管理していた。ふだんはビジターが目にすることのない風景だが、国立公園を裏からささえる役割の大変さと大切さを感じた。

アメリカの国立公園事情

text by 西村仁志


■アメリカの国立公園
 アメリカは世界で最初に国立公園制度をつくった国である。1872年のイエローストーン国立公園創設から8年前にさかのぼる1864にはリンカーン大統領の署名によりヨセミテがカリフォルニアの州立公園に指定されている。日本はまだ幕末の頃であり、またアメリカもまだ南北戦争の最中であった。そんな時代にすでにこの国の政府関係者が自然の保護について真剣に考えていたというのは驚くべきことだ。現在では海外領を含む全米に54の国立公園があり、アメリカ国民だけではなく世界中から多くの訪問客を迎えている。

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ヨセミテの自動車ライセンスプレート

Yosemite License Plates



(c)カネゴン・転載不可

ヨセミテ国立公園内の自然保護や復元のプロジェクトのための資金集めを行っている民間非営利の団体(NPO)であるThe Yosemite Fund(ヨセミテ基金)はカリフォルニア州在住者を対象に「ヨセミテの自動車ライセンスプレート」を企画運営している。このライセンスプレートはカリフォルニア州DMV(DEPARTMENT OF MOTOR VEHICLES)が発行する正式なもので、その発行時と更新時に一定の金額がThe Yosemite Fundに入るしくみになっている。
この詳細や申し込み要項はこのページから。
(ライセンスプレートの写真提供をいただいたカネゴンさんありがとうございました。)

冬のヨセミテの楽しみ方

Yosemite in winter


冬のヨセミテ渓谷


 冬は最も静かで、厳かなヨセミテの姿と出会えるシーズンです。他のシーズンとは違う風景、楽しみ方があります。ぜひ冬のヨセミテも心ゆくまで楽しみましょう。
■どうやって行く?
アムトラック(鉄道)、VIAバス、パーラーカーツアーズのバスなどは、冬シーズンも運行されているため、特別に備えをする必要はありません。
自家用車やレンタカーで行かれる方は、道中のルートの凍結や積雪に十分ご注意ください。チェーン規制も行われますので、チェーン準備が必須です。サンフランシスコ・ベイエリアからは120号線(Manteca-Oakdale経由)はアップダウンがきついため、冬シーズンは天候の影響を受けることが多いので要注意です。140号線(Mariposa-El Portal経由)は比較的マシです。
■行動範囲は
例年11月〜5月中旬まで、グレイシャーポイントロードとタイオガロード(クレーンフラット以東の120号線)が積雪のため閉鎖となるため、観光客の現実的な活動範囲はヨセミテヴァレー地区とワワナ地区(マリポサグローブを含む)だけとなります。それ以外は山スキーを履いていくことになりますね。
■宿泊は
ヴァレー内のアワニーホテル、ヨセミテロッジは通常通り営業です。カリービレッジは冬期休業したり、一部の施設を休業することがあります。カリービレッジのキャンバステントキャビンは冬期営業用にはヒーターが入っています。
ヴァレー内のパインズキャンプ場は365日営業しています。スノーキャンプを楽しみたい方はどうぞ。
ゲートの外のEl Portalの2軒のロッジ(Ceder LodgeとYosemite View Lodge)も変わりなく営業しています。
■服装・装備など
冬のヨセミテヴァレーは最低気温が氷点下になりますが、マイナス5〜10度くらいなので、長野の志賀高原あたりと同じと考えてよいでしょう。毛糸の帽子、マフラー、防寒ジャケット、セーター、暖かい手袋、長ズボン、アンダーウエア、スノーブーツなどの準備が必要です。
雪のハイキングを積極的に楽しもうという場合には雪山用スパッツなどもあるといいですね。
■楽しい活動
冬の時期はクロスカントリースキー(軽くて扱いやすい歩くスキーです)のレンタルや、ガイドツアーなども行われます。 またバジャーパス(グレイシャーポイントロード近く)にはスキーのゲレンデ、カリービレッジにはスケートリンクもオープンします。これらも冬ならではの活動です。
これら現地ツアー・アクティビティの案内はこちらです。「Winter」のところをご覧ください。
(写真は米国国立公園局のものです)

ヨセミテ国立公園でのレンジャー体験

text by 河合佳代子 Kayoko Kawai
 ヨセミテ国立公園は、米国カリフォルニア州にある全米でも最も人気のある国立公園の1つだ。
 私はこのヨセミテ国立公園に11週間(1994年6月〜8月)インタープリテーション部の実習生として滞在し、レンジャーの人達の中で働く経験を持つことができた。 
 今回は実習生の立場から見たインタープリテーション・レンジャー(後はレンジャーと記す)の現場の様子の一部を報告する。

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ヨセミテの4コマ漫画

Fur and Loafing in Yosemite





 ヨセミテ・アソシエーションからの新刊「Fur and Loafing in Yosemite」漫画家Phil Frankがサンフランシスコ・クロニコル紙に執筆しているユニークな風刺のきいた4コママンガ。ユニークなパークレンジャー、キャンプ場と共生し大自然の生活を楽しむクマたち。「チョー普通の」キャンパーなどが登場する。詳細はヨセミテ・アソシエーションのこのページで。

ジョン・ミューアの生涯

Sierra Club/Fact Sheet “John Muir”より
 ジョン・ミューアは、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれた。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔を持つ。11歳まで海岸沿いの小さな町で暮らしていたが、1849年、ミューア一家は合衆国に移民することを決意。まず、ウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住んだ。
 厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働いた。農作業のあいまに、つかの間働く手を休められたときには、ミューアは弟を連れて、自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策した。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていった。
 彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、風変わりだが実用的な仕掛けをいくつも作りだしている。正確に時を刻む時計や、夜明け前に彼をベッドから転げ落とす愉快な目覚まし装置などである。1860年、ミューアは、彼の発明した品々を、マディソン郡で行われた州の品評会に出品し賞賛を受けた。同年、ウィスコンシン大学に入学。成績は優秀であったが、3年後、マディソン郡を去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅した。
 1867年、ミューアはインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明した。1ヶ月後に視力は回復したが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになった。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのである。それは、ミューアの放浪の日々の始まりでもあった。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸した。その後も彼は世界中を旅することになるが、その時以来、カリフォルニアは彼の第二の故郷となった。
 そして、ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテだったのである。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達した。彼はその時の感動をこう記している。「私には、『シエラ」は、ネバダ山脈ではなく、雪の山脈でもなく、光の山脈と呼ばれるべきもののように思われた。それは私がかつて目にしたなかで、最高、神聖なまでに美しい山々の連なりであった。」その夏、ミューアは羊を率いてヨセミテに移ったのである。
 1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を生みだした。彼の名は国中に広まり、当時の著名人…ヨセフ・ルコンテや、アサ・グレイ、そしてラルフ・ワルド・エマーソンなどがヨセミテの彼のキャビンを訪れている.
 1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家として成功の端緒につく。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けたが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見する。
 1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれた。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めた。
 しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、彼はアラスカの地に幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けた。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど…。
 後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説いた。また、万人に「山に登ってその福音を聴きなさい」と奨励した。ミューアの山に対する愛情は、彼の著作に一種の崇高さをもたらしてる。それを読む者は、大統領であろうと、代議士であろうと、平凡な市民であろうと、彼の自然に対する限りない愛情と情熱に鼓舞され、しばしば行動へと駆り立てられるのである。
 ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びた。彼は、同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかった。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議されたのである。またミューアは、セコイヤ、マウントレイニヤ、ペトリファイドフォーリスト、グランドキャニオン等の国立公園の制定にも携わった。彼がよく、「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以である。
 ジョンソンをはじめとする人々は、たえず境界線をおびやかす牧畜業者などから、生まれたばかりのヨセミテ国立公園を保護する組織の成立をミューアに提案した。ミューアは1892年、彼の言葉によれば、「自然のために何事か為し、山々に喜んでもらうため」にシエラクラブを設立し、1914年にその生涯を終えるまで会長を務めることになる。
 1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版した。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトはミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で、注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのである。
 ミューアとシエラクラブは、ヨセミテや、シエラネバダ山脈を守るために幾多の闘いをくり広げたが、その最も劇的なものは、公園内でのヘッチヘッチィバレーのダム化反対運動であった。しかし、1913年、何年にもわたる努力も空しく、ミューアがヨセミテそのものになぞらえたヘッチヘッチィバレーは、急成長するサンフランシスコに水を供給する貯水池となる運命を辿った。ミューアが、ロスアンジェルスの娘の家で、短い病の後に生涯を終えたのは、その翌年のことである。
 ミューアの生涯は、世界中の環境保護を支持する人々を鼓舞し続けてきた。高名な登山家である東良三(あずまりょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。彼は日本においてミューアの偉業を紹介した第一人者でもあり、ミューア自身についてはもちろん、南北アメリカの自然について20冊を超える著書を出版し、戸伏太兵(とぶせたへい)による訳書『アラスカの旅 ジョン・ミューア』(1942年、聖紀書房)の出版にも尽力した。
 ミューアは、おそらくアメリカにおいて最も著名で、影響を及ぼしたナチュラリストであり、環境保護者である。彼は、私たちが継承した自然に触れ、それを保護することの重要性を説き続け、その言葉は、私たちの自然に対する認識を高めた。自然保護は、今日的課題であるが、ミューアの揺るぎない貢献は、時代を超えて、世界中の環境保護活動に携わる人々を励まし続けている。

小圃千浦とヨセミテ

Chiura Obata and Yosemite




小圃千浦「ヨセミテ、宵の月」1930



 チウラ・オバタ(小圃千浦/1885-1975 カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)は戦前からヨセミテを日本画で描きつづけた画家である。ヨセミテへのスケッチ旅行をきっかけに認められ、カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授を務めるが、第二次大戦中は不幸にも日系人強制収容所へ拘留されてしまう。しかし生きる希望を失わず、収容所内で美術学校を開き、ここからその後多くの日系人アーティストを輩出することになる。
 チウラは岡山に生まれ、仙台で美術教師をしていた兄六一の養子となり仙台で育つ。14歳で家出し東京で邨田丹陵(むらた・たんりょう)の弟子となり、3年後若干17歳で日本美術院正会員になるが、1903年18歳で単身渡米する。サンフランシスコで舞台美術や邦字紙のイラストなどで生計を立て、1912年には妻ハルコと結婚する。1927年カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが、チウラの大きな転機となった。(この仲間の中には写真家アンセル・アダムスもおり、ふたりは親友となる。)
 チウラはシエラネバダ山中にキャンプし、2ヶ月間魔物にとりつかれたように制作に打ち込み、150枚ものスケッチを描いた。バークレーに戻り、ライダー教授により大学で日本画デモンストレーションの機会を与えられるが、多くの学生が押し寄せたため、チウラは大学の講義をもつようになる。
 同年個展「ヨセミテ・シリーズ」を開催し、大きな評価を得るようになる。その後日本でも浮世絵版で有名な高見澤商店による木版画で「ヨセミテ・シリーズ」を出版している。
 1941年日米は開戦。西海岸では日系人11万人が適性外国人と見なされ、強制収容所へ送られた。チウラもタンフォラン収容所に送られるが、「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもとにミネ大久保、日比松三郎・久子夫妻などとともに「タンフォラン美術学校」を収容所内に創立した。同美術学校には6歳から70歳以上、600人もの人たちが受講したという。その後トパズ収容所に移り、そこでも美術学校を開校する。
 終戦後チウラは大学に復職、バークレー校で名誉教授となる。その後の人生は日本の自然と文化をアメリカ人に紹介することに捧げ、また毎年ヨセミテでのキャンプとスケッチは欠かさなかった。
 ヨセミテの大いなる自然はチウラのアーティストとしての感性をさらに磨き、また生きる希望を与えたといってもいいだろう。
 チウラの孫娘Kimi Kodani Hillはバークレー市内に住み、チウラの作品を散逸から守り管理している。画集「Obata’s Yosemite」(1995,Yosemite Association発行)の発刊にも尽力し、現在は同会の理事として活躍中である。このファミリーは4世代にわたってヨセミテに通いつづけ、キャンプ&ハイキングを愛する素晴らしいひとたちだ。
 またいま、カリフォルニア大学バークレー校植物園にはチウラとハルコ・オバタ夫妻を記念した日本庭園とゲートがある。(写真は1942年タンフォラン美術学校で教えるチウラ)

(参考:下嶋哲朗「アメリカに生きた日系人画家たち〜希望と苦悩の半世紀1896-1945」日本テレビ放送網1995)
参考WEBサイト
The Great Nature of Chiura Obata

にしむら@ヨセミテ大好き!






西村仁志(にしむらひとし)
京都生まれ京都育ち。20代から環境教育や自然体験に興味をもち、何かしたい思いがふつふつと湧いて、周囲の心配をよそに1993年勤め人をやめる。アメリカへの一人旅のあと、無職で家族とたのしく暮らしていたら「環境共育」と”Colors of Nature”のキーワードに出会い、個人事務所「環境共育事務所カラーズ」を開業。環境共育と市民参加のコーディネートがお仕事。2006年からは同志社大学大学院総合政策科学研究科准教授を兼業。
1995年からヨセミテに通いはじめて、その奥深さと楽しさにすっかりハマってしまっている。妻と1女1男あり。
(写真はマウント・ホフマンにて)
1995 妻同行。4マイルトレイルを歩く。ミラーレイクへの乗馬ツアー。
    マリポサグローブ。ツォロミーメドウズ、モノレイク行き。
1996 ハーフドーム登頂
1997 家族同行。ヨセミテ滝、イーグルピーク登頂。
1998 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    ランバートドーム、マウントホフマン、クラウズレスト、マウントデナ登頂
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
1999 ツォロミーメドウズで1週間キャンプ。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク、マウントホフマン登頂
    ライエル渓谷(ジョンミューアトレイル)ハイキング。
2000 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。
    ラフティングなど、お気楽に過ごす。
2000 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。長男同行。
    Budd Creek、Budd lake、カシドラルピークをめぐるハイキング。
    グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク
2001 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。家族同行。
2001 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。モノパスへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2002 6月 アッパーパインキャンプ場で4泊5日キャンプ。特筆すべき行動はないがタイオガパスを越えマンモスレイクス+ホットクリークへ。
2002 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。20 Lakes Basinへのハイキング。マウントホフマン登頂。
2003 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。公園内のほぼすべての車道を走破した。
2003 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。テナヤピーク周辺ハイキング。マウントホフマン登頂。
2004 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。コネスベイスン、カシドラルレイクをめぐるハイキング。
2005 6月 アッパーパインキャンプ場で5泊6日キャンプ。
2005 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。グラニットレイク周辺クロスカントリーハイク。ジョンソンピーク登頂。
2006 8月 ツォロミーメドウズで4泊5日キャンプ。乗馬したり、周辺ブラブラでお気楽キャンプ。
2007 3月 マリポサ3泊でヴァレーの散策とスノーシューハイク。
2008 8月 ツォロミーメドウズで5泊6日キャンプ。ドッグレイク周辺ハイク〜ランバートドーム登頂。Mt.ホフマン登頂。
詳細な経歴書はここにあります。
ファンレターはこちらまで。
ヨセミテで撮影した写真は2000ショット以上あります。ヨセミテ国立公園や自然解説「インタープリテーション」についての出張スライド&トークショーもできます。メールでお問い合せください。京都、山梨、鳥取、北海道で実績あります。

ヨセミテでのキャンプ&ハイキングのグループ(4〜8名程度)のコーディネートを引き受けます。シーズンha
限定されますが、1年前には打ち合わせに入る必要があります。ご相談のメールはこちらまで。



加藤則芳「ジョン・ミューア・トレイルを行く」を読む

Noriyoshi Kato “John Muir Trail”
 
この本のもとになった作家−加藤則芳さんのジョン・ミューア・トレイルの旅についてはNHK-BSで「アメリカ自然保護の父ジョン・ミューアの道を行く」(1995年9月)として放映されたもの。ちょうどその夏に私は初めてのヨセミテへの旅へ出かけて帰ってきたばかりだったので、この映像は鮮烈なものだった。
 ジョン・ミューア・トレイルは、この本でも詳しく紹介されている通り、ヨセミテ渓谷から、セコイア国立公園まで延々340キロにわたって整備された原生自然トレイルである。
 加藤さんは実はこの前年にもこのトレイル全行程踏破を試みているが、両足首の疲労による捻挫によってあえなく「痛恨のリタイア」を喫している。このことも包み隠さず、この失敗で得た教訓を活かして、2年目のチャレンジを図って成功したのだ。
 よく誤解されるのだが、「バックパッキング」と「キャンピング」はイコールではない。「キャンピング」は巨大トレーラーのキャンピングカーでの生活までもが含まれるが、「バックパッキング」には妥協がない。自分の背中に背負える分だけの装備が全てで、まさに家を全部背負って歩くわけだ。私自身は重い荷物を持って歩く「バックパッキング」はあまり好きではない。キャンプ場に定住して毎日軽装デイパックで、あちこち歩き回るスタイルがいい。トレイルでも軽快で楽しい。しかしこの本を読むと、重い荷物を背負ってでも出かけてみようかとという誘惑にかられる。
 この本でも紹介されているが、ヨセミテのトレイルやキャンプ場で出会うのはアメリカ人ばかりではない、ドイツ、フランス、イギリス等からきた欧州人もいっぱいいる。日本人はどうしているかというと、日帰りツアーバスでヨセミテ滞在時間は3時間。自分の足で歩くのはレストランとギフトショップの中だけという悲しい旅だ。
 話が横道にそれたが、この本は実践資料類も充実しており、ヨセミテ国立公園はもちろん、シエラの山々をバックパッキングで歩きたい、キャンプしたい方の必読書としてお勧めする。この本をたよりにシエラの山々を歩きまわる楽しい人たちが増えてほしいものだ。もちろん”ヨセミテ国立公園大好き”もよろしく。(平凡社・2200円)