High Sierra

何気無く使っている「High Sierra」という言葉ですが、”The Geologic Story of Yosemite National Park” (N. King Huber著、Yosemite Association出版) によると、それはJ. D. Whitneyによって造られた言葉と書いてありました。確かにWhitneyの「The Yosemite Book」(1868年出版)の第四章には「The High Sierra」とタイトルが付いており、以下のような文章で始まっています。
「Having, in the last chapter, given as full a description of the Yosemite Valley as our space will permit, we proceed next to call the reader’s attention to the higher region of the Sierra Nevada, the Alps of California, as the upper portion of the great chain of mountains is sometimes called; this region we designate, for convenience, as the ”High Sierra.” It is, however, especially the elevated valleys and mountains which lie above and near the Yosemite that we wish to describe, and to endeavor to bring to the reader’s notice, as this is not only a region central and easy of access, but one extremely picturesque, and offering to the lover of high mountain scenery every possible inducement for a visit.」

Who is Yoshie?

1988年以来アメリカ人の夫とサンマテオ在住。トゥオルムニメドウズで最初の犬がレンジャーに見つかるまでの約8年間は夏はメドウズ、それ以外をバレーで毎週末クライミングをして過ごしました。それ以降は夏から秋までビショップ(イースタンシエラ)??、冬はシエラフットヒルでクライミングとボルダリング。2000年頃から度重なる怪我のためハードなクライミングを引退し、ハイシエラを歩き始めました。コロラドロッキーの14000フィート峰を登って青春時代を過ごした夫にあおられながら、少ない機会を利用してピークバギングをしています。シエラで好きな山はハイウェイ395沿いにあるMt. Morrisonと去年登ったMiddle Palisade。好きなクライミングルートはメドウズのバックカントリーにあるMathes CrestとバレーのNabisco Wall。元気のあるうちにBlack KaweahとMt. Russellを登る野望を抱いています。あまりハードコアな性格ではなく、どちらかというとゆっくり森林や湿地帯、メドウズを愛犬と歩きながら花や鳥を観察する方が性に合っているかも。自然と犬、アメフトとバスケット観戦に情熱を燃やしています。

ヨセミテ国立公園における環境教育活動

Environmental Education in Yosemite N.P.

「すべての人にとって、パンと同じように美も必要なのです。」ジョン・ミューア

■国立公園における環境教育の方針
19世紀から20世紀初頭にかけ、ヨセミテをはじめシエラネバダの山々を歩き、生活し、大自然から多くのことを学びとった「アメリカ自然保護の父」ジョン・ミューアは、活動の基本的姿勢として、「自然の美しさ、すばらしさを多くの人々に知ってもらうこと。」を旨としていた。「知らない人に自然保護を訴えてもわかってもらえない。」と。

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Kleiber(クライバー)

Kleiber(クライバー)
親父はクライマーだったので、育ちは日本の山の中。アメリカで言ったら、ロッキー近郊のような所。親父とキャッチボールをした記憶はなく、山で遊んでもらった記憶しかありません。
若い頃はクライマーでした。そして、医者の強い勧めがあり、2年前からヨセミテをジム代わりに歩き回っています。したがって、今はクライミングはやらないというのが原則ですが、もちろん森林地帯よりも岩が大好きです。
痩せたいと思っている方、ヨセミテを歩く事です。徹底して歩けば、5Kg10Kg簡単に落とせます。ただし、冬のリバウンドに要注意。
にしむらさんが『ヨセミテ国立公園大好き!』人間とすれば、私は『グランド・サークル大好き!』人間。こちらのペンネームはGould。アメリカを離れる時が来たら、『ヨセミテ国立公園大好き!』をコピーして、『グランド・サークル大好き!』を立ち上げようかと思ってます。今の最大の関心は、万難を排して、12月に『TheWave』に行く事。
アメリカで最も行きたいところは、もちろんマッキンレーの頂上。そして、夢はエベレスト最年長記録を塗り替える事。全盛期を超えるべく、少しずつ体調を回復させつつありますが、まだまだ長い道のり。日本の山しか知らなかった私には、世界は物凄く高いというのが、正直な実感。
すやまさん・吉野屋さんは、北カルフォルニアのサンノゼ地区にお住まいのようですが、私は南カルフォルニアのロサンゼルスに住んでおり、いくらドライブ好きでも、ヨセミテはとても遠い。したがって、ヨセミテ天然ジム通いは基本的に2週間に一度が限界です。
三人とも、データを管理するのが得意のようですが、直感だけで生きている私はデータ管理が苦手。したがって、皆様のお役にたてる機会も少なく、とても申し訳なく思っております。
さて、私にはもう一つ全く違った趣味があります。車も好きですが、車ではありません。ここまで読んでピンときた、南カルフォルニア在住の同好の方、連絡お待ちしております。

レンジャープログラムに参加しよう!




レンジャープログラム・ヨセミテ博物館前にて
このレンジャー、シェルトン・ジョンソンはヨセミテの名物レンジャーの一人。
クラリネットの演奏を交えてのリズミカルなトークに参加者はどんどん引き込まれていく。


 ぜひ一度はレンジャープログラムに参加しよう。ヨセミテに限らず、ほとんどのアメリカの国立公園ではパークレンジャーによる無料の解説(インタープリテーション)プログラムが行われている。無料とはいっても、??らは国家公務員/プロの解説者(インタープリター)であるから、その内容は興味深く、たいへん質の高いものである。
 インタープリテーション/インタープリターとは直訳すると「通訳」なのだが、この場合は英語から日本語への通訳という言語間の通訳ではなく、自然のなかのさまざまな営みの意味を人間が解釈できるように解説すること。つまり自然は人間の言葉を喋れないので、自然と人間をつなぐ「通訳」というわけだ。
 レンジャープログラムに参加するには申し込みも、予備知識もなにも必要なく、情報紙”Yosemite Guide”に掲載されているスケジュール通りに集合場所にいくだけでいい。(一部には有料のもの、事前申し込みが必要なものもある。また「弁当持参」「暖かい服装で」と明記されているプログラムもあるので、ビジターセンターや”Yosemite Guide”で必ず確認必要。)1〜2時間程度のウォーク&トーク、日帰りハイキング、スライド&トーク、キャンプファイヤー&トーク、歌など形態もさまざま。またテーマも、動物、植物、地学、天体、歴史、先住民の文化、詩や音楽などさまざまである。これらはすべて英語なのだが、「英語は苦手でさっぱりわからない」という方も億劫がらずに一種のエンターテイメントと思って参加してみるといいだろう。


マーガレット・アイズラーも私の敬愛するレンジャーの一人。
彼女は以前オーケストラに在籍していたが、ヨセミテの大自然に惹かれてレンジャーとして働いている。
彼女の名物プログラムは夏にTuolumne Meadowsで日没時に行われる「Music Walk」で、
ランバートドームに登り、落ちる夕陽を眺めながらフルートの演奏と詩の朗読を行うものだ。

ジョン・ミューアの生涯

Sierra Club/Fact Sheet “John Muir”より
 ジョン・ミューアは、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれた。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔を持つ。11歳まで海岸沿いの小さな町で暮らしていたが、1849年、ミューア一家は合衆国に移民することを決意。まず、ウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住んだ。
 厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働いた。農作業のあいまに、つかの間働く手を休められたときには、ミューアは弟を連れて、自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策した。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていった。
 彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、風変わりだが実用的な仕掛けをいくつも作りだしている。正確に時を刻む時計や、夜明け前に彼をベッドから転げ落とす愉快な目覚まし装置などである。1860年、ミューアは、彼の発明した品々を、マディソン郡で行われた州の品評会に出品し賞賛を受けた。同年、ウィスコンシン大学に入学。成績は優秀であったが、3年後、マディソン郡を去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅した。
 1867年、ミューアはインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明した。1ヶ月後に視力は回復したが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになった。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのである。それは、ミューアの放浪の日々の始まりでもあった。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸した。その後も彼は世界中を旅することになるが、その時以来、カリフォルニアは彼の第二の故郷となった。
 そして、ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテだったのである。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達した。彼はその時の感動をこう記している。「私には、『シエラ」は、ネバダ山脈ではなく、雪の山脈でもなく、光の山脈と呼ばれるべきもののように思われた。それは私がかつて目にしたなかで、最高、神聖なまでに美しい山々の連なりであった。」その夏、ミューアは羊を率いてヨセミテに移ったのである。
 1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を生みだした。彼の名は国中に広まり、当時の著名人…ヨセフ・ルコンテや、アサ・グレイ、そしてラルフ・ワルド・エマーソンなどがヨセミテの彼のキャビンを訪れている.
 1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家として成功の端緒につく。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けたが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見する。
 1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれた。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めた。
 しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、彼はアラスカの地に幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けた。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど…。
 後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説いた。また、万人に「山に登ってその福音を聴きなさい」と奨励した。ミューアの山に対する愛情は、彼の著作に一種の崇高さをもたらしてる。それを読む者は、大統領であろうと、代議士であろうと、平凡な市民であろうと、彼の自然に対する限りない愛情と情熱に鼓舞され、しばしば行動へと駆り立てられるのである。
 ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びた。彼は、同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかった。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議されたのである。またミューアは、セコイヤ、マウントレイニヤ、ペトリファイドフォーリスト、グランドキャニオン等の国立公園の制定にも携わった。彼がよく、「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以である。
 ジョンソンをはじめとする人々は、たえず境界線をおびやかす牧畜業者などから、生まれたばかりのヨセミテ国立公園を保護する組織の成立をミューアに提案した。ミューアは1892年、彼の言葉によれば、「自然のために何事か為し、山々に喜んでもらうため」にシエラクラブを設立し、1914年にその生涯を終えるまで会長を務めることになる。
 1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版した。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトはミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で、注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのである。
 ミューアとシエラクラブは、ヨセミテや、シエラネバダ山脈を守るために幾多の闘いをくり広げたが、その最も劇的なものは、公園内でのヘッチヘッチィバレーのダム化反対運動であった。しかし、1913年、何年にもわたる努力も空しく、ミューアがヨセミテそのものになぞらえたヘッチヘッチィバレーは、急成長するサンフランシスコに水を供給する貯水池となる運命を辿った。ミューアが、ロスアンジェルスの娘の家で、短い病の後に生涯を終えたのは、その翌年のことである。
 ミューアの生涯は、世界中の環境保護を支持する人々を鼓舞し続けてきた。高名な登山家である東良三(あずまりょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。彼は日本においてミューアの偉業を紹介した第一人者でもあり、ミューア自身についてはもちろん、南北アメリカの自然について20冊を超える著書を出版し、戸伏太兵(とぶせたへい)による訳書『アラスカの旅 ジョン・ミューア』(1942年、聖紀書房)の出版にも尽力した。
 ミューアは、おそらくアメリカにおいて最も著名で、影響を及ぼしたナチュラリストであり、環境保護者である。彼は、私たちが継承した自然に触れ、それを保護することの重要性を説き続け、その言葉は、私たちの自然に対する認識を高めた。自然保護は、今日的課題であるが、ミューアの揺るぎない貢献は、時代を超えて、世界中の環境保護活動に携わる人々を励まし続けている。

小圃千浦とヨセミテ

Chiura Obata and Yosemite




小圃千浦「ヨセミテ、宵の月」1930



 チウラ・オバタ(小圃千浦/1885-1975 カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)は戦前からヨセミテを日本画で描きつづけた画家である。ヨセミテへのスケッチ旅行をきっかけに認められ、カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授を務めるが、第二次大戦中は不幸にも日系人強制収容所へ拘留されてしまう。しかし生きる希望を失わず、収容所内で美術学校を開き、ここからその後多くの日系人アーティストを輩出することになる。
 チウラは岡山に生まれ、仙台で美術教師をしていた兄六一の養子となり仙台で育つ。14歳で家出し東京で邨田丹陵(むらた・たんりょう)の弟子となり、3年後若干17歳で日本美術院正会員になるが、1903年18歳で単身渡米する。サンフランシスコで舞台美術や邦字紙のイラストなどで生計を立て、1912年には妻ハルコと結婚する。1927年カリフォルニア大学バークレー校の美術部教授ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが、チウラの大きな転機となった。(この仲間の中には写真家アンセル・アダムスもおり、ふたりは親友となる。)
 チウラはシエラネバダ山中にキャンプし、2ヶ月間魔物にとりつかれたように制作に打ち込み、150枚ものスケッチを描いた。バークレーに戻り、ライダー教授により大学で日本画デモンストレーションの機会を与えられるが、多くの学生が押し寄せたため、チウラは大学の講義をもつようになる。
 同年個展「ヨセミテ・シリーズ」を開催し、大きな評価を得るようになる。その後日本でも浮世絵版で有名な高見澤商店による木版画で「ヨセミテ・シリーズ」を出版している。
 1941年日米は開戦。西海岸では日系人11万人が適性外国人と見なされ、強制収容所へ送られた。チウラもタンフォラン収容所に送られるが、「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもとにミネ大久保、日比松三郎・久子夫妻などとともに「タンフォラン美術学校」を収容所内に創立した。同美術学校には6歳から70歳以上、600人もの人たちが受講したという。その後トパズ収容所に移り、そこでも美術学校を開校する。
 終戦後チウラは大学に復職、バークレー校で名誉教授となる。その後の人生は日本の自然と文化をアメリカ人に紹介することに捧げ、また毎年ヨセミテでのキャンプとスケッチは欠かさなかった。
 ヨセミテの大いなる自然はチウラのアーティストとしての感性をさらに磨き、また生きる希望を与えたといってもいいだろう。
 チウラの孫娘Kimi Kodani Hillはバークレー市内に住み、チウラの作品を散逸から守り管理している。画集「Obata’s Yosemite」(1995,Yosemite Association発行)の発刊にも尽力し、現在は同会の理事として活躍中である。このファミリーは4世代にわたってヨセミテに通いつづけ、キャンプ&ハイキングを愛する素晴らしいひとたちだ。
 またいま、カリフォルニア大学バークレー校植物園にはチウラとハルコ・オバタ夫妻を記念した日本庭園とゲートがある。(写真は1942年タンフォラン美術学校で教えるチウラ)

(参考:下嶋哲朗「アメリカに生きた日系人画家たち〜希望と苦悩の半世紀1896-1945」日本テレビ放送網1995)
参考WEBサイト
The Great Nature of Chiura Obata