『光の峰』 The Range of Light

日本登山の黎明期に活躍した「小島鳥水」は、その投稿「高山の雪」(明治44年7月)のなかで以下のように書いています。
『また北米で有名な、シエラ・ネヴァダ山Sierra Nevadaのシエラは鋸歯ということだが、ネヴァダは万年雪(Neve)と語源を同じゅうした「雪の峰」ということである、米人ジョン・ミューア John Muirは、かつてヨセミテ谿谷 Yosemite Valleyの記を草して、このシエラ山は全く光より成れる観があると言って、シエラをば 「雪の峰と呼んではいけない、光の峰と名づけた方がいい」 と言ったが、雪のある峰であればこそ、光るので、我が富士山が光る山であるのは、雪の山であるためではあるまいか。』
以上は、岩波文庫(緑135−1)の「山岳紀行文集:日本アルプス」(小島鳥水著、近藤信行編)の「高山の雪」の章(342ページ)に書かれています。その解説によると、小島は大正4年から、アメリカに移り、横浜正金銀行サンフランシスコ支店のロサンゼルス分店長を勤め、そして大正八年からはサンフランシスコ支店長を務め、その傍らSierra NevadaやCascadeの山々に登ったそうです。
小島が引用したMuirの記述はもちろん、”Then it seemed to me that the Sierra should be called, not the Nevada or Snowy Range, but the Range of Light”の部分です。東京の八木書店のウエブサイトには、小島が東良三に送った書簡の写真が掲示されています。

東良三(あずま りょうぞう)とMuir

西村さんから、「東良三」の書いた”アラスカ:最後のフロンティア”(山と渓谷社)のあとがきの部分を送っていただきました。それによると、1910年(明治43年)、東は、ワシントン州Tacoma付近のミッション系大学Puget Sound Collegeに入学しました。やがて、Mt. Rainierに登るチャンスが来、その途中、キャンプMuirという場所(洞穴)で一夜を過ごすことになりました。東はそのとき初めてMuirの存在を知り、これをきっかけにMuirの著書を買い集め、読み始めます。やがて東はMuirにMartinezを尋ねたい旨を書き送ると、快諾の返信が届きました。
「そして私は、1914年、卒業前の夏期休暇にタコマから遠くサンフランシスコまで一日半の汽車の旅をつづけ、さらに金門湾から75キロも北方のマルティネッという農村まで馬車にゆられて、あたかも最後の著となった『アラスカ氷河探検記』の執筆に余念のなかった老先輩ミュアを、果樹園にかこまれた広大な私邸に訪ねたのでした。私はときに二十五歳のとるにたらぬ一苦学生。五十も年長の偉人との出会いは、とても釣りあいのとれぬ妙なコントラストだったといえましょう。しかし、遠路を訪ねてきた日本人ということで、こころよく迎え入れてくださった老師の純白の長いひげを見たとき、あたかもいにしえの聖人のような気高さを感じました。そしてしっかと私の小さな手を握ってくださった掌の暖かさ。私は思わず師の脚下にひざまづいて、うやうやしく頭をさげました。私のミュア邸逗留は二日一晩にすぎませんでしたが、この高名な大自然人の知遇を得たことは、その後の私の生涯に、直接間接に大きな影響をあたえずにおきませんでした。」(265ページより)
西村さんの資料をEber氏に送ると、こんどは氏の方から、Sierra Club Bulletinの写しが送られてきました。ほんの一部だけですが、それによると:
1973年、Kimes夫妻が、Muir関連の資料を調べていたとき、Mr. IshigakiがMuir家に本の翻訳の許可を申し出ていたことがわかります。その追伸から、1942年に”Travels in Alaska”の翻訳がなされていたことがわかります。その本を探すため、Muirの伝記を書いた東に問い合わせると、”Travels in Alaska”は、東から(間接的に)本を借りた戸伏により翻訳されたことがわかりました。東はやがて米国を訪れ、Kimesらと会います。それ以降の幾度かのインタビューに基づき、このSCBの記事が書かれました。Muirとの出会いについては、SCBの方がやや詳しく書かれています。Oaklandに着いたときに、Sierra Clubのメンバーが馬車で迎えに来て、6時間かけてMartinezに着きました。Muirの脚下にひざまづいたときには、涙したようです。また”Travels in Alaska”を執筆中の2階の勉強部屋へも案内してもらいます。そこにはヨセミテ渓谷の大きな絵[註:多分Keithの絵]と、Emersonのポートレイトが掛かっていたこと、また机の上には大きな聖書が載っていたそうです。また”Cruise of the Corwin”以来のMuirの友人である船長のHooperが夕食時にMuir邸を訪れ、たまたま船員(キャビンボーイ)を探している話になり、Muirが”Take Ryozo! He should see Alaska”と言いました[註:それがアラスカ旅行(1915年−1918年)のきっかけとなりました]。1977年に東は、自然保護やMuirの伝記「自然保護の父ジョン・ミュア」の功績を認められ、Sierra Clubの生涯名誉会員となりました。東は、アメリカ大陸(西部)で140峰以上を登り、アラスカへも9度訪問しました。
Kimesの本より:
東は、”Stickeen”を訳して雑誌に投稿したそうです。しかし、本人ですらその雑誌を、所有していなかったそうです。また”Travels in Alaskaは、東京大学のIto教授に貸され、それから戸伏の手に渡り訳されたそうです。東によると、訳の出来はかなりすばらしかったとのこと(1942年出版、3,000部刷)。
Ronald Eber氏はかなり真剣に資料を探しています。新聞・雑誌記事など(特に日本の国立公園設立に関するあたり)、どのような物でも結構です、見かけられましたらご一報ください。

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John Muir Conference 2006

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ヨセミテとはほとんど関係ないのですが、簡単な報告をします。この学会(”John Muir Conference”)は、John Muir関連の資料の殆どが集まっているStocktonのUniv. of the Pacificで、3日にわたって行われました。初日はMuirが結婚後一生を過ごしたMartinezの家へのツアー(私は参加していません)、2、3日目が発表にあてがわれました。平均参加者数は80人といったところでした。スコットランドやフィンランドからも参加された方がいました(写真上、タータンチェックのキルトをはいています。壁にはKeithの絵が掛かっています)。スコットランド訛りでMuirのフレーズを話されると、なかなかすごいものを感じました。テーマは、Muirがアメリカ外で行った旅行や社会的影響に関するものでした。Muirの功績の簡単な紹介、スコットランドの生家(町)の紹介、そこで行われている現在の教育活動、Robert Burnsの詩がMuirに与えた影響、Muirが親友の画家Keithに与えた影響、カナダ生活時代に働いていた工場そばのMuirの小屋跡の調査、Muirの採集した植物サンプルの発見作業、スコットランドやインド、南米、アフリカなどに行ったときのルートの調査などといろいろな発表がありました。参加者は、大学の研究者・学生を始め、Sierra Club、Restore Hetch Hetchyといった保護団体のキーメンバーもいましたし、一般のMuirに興味のある人も多々見られました。司会のSwagerty教授は、Muirへの興味がグローバル化してきたことを指摘していました。アトラクションは、絵を含み、Keith、LeConte、Muirの資料がいくつか展示されたこと。Muirの義父が、娘Louie(Muirの妻)にピアノを弾かせてよく歌った曲(南北戦争時の北軍の歌)をUC Berkleyのライブラリから探し出し、ピアノの伴奏付きでみんなで歌ったこと、Muirの長女Wandaの家系であるHannaファミリーが自分のワイナリーのワインをふるまったことです。個人的な収穫だったのは、発表者であるBonnie Johanna Gisel女史(”Kindred & Related Spirits:The Letters of John Muir and Jeannie C. Carr”の著者)とRobert W. Righter氏(”The Battle Over Hetch Hetchy”の著者)と直接話ができて、本の記述に関して質問できたこと、ついでに持って行った本にサインをもらったことです(笑)。
ところで、発表者の一人Eber氏に声をかけられ、「東良三」について何か知らないかと尋ねられました。Sierra ClubのMuirの簡単な紹介文(日本語版のみ)には:「高名な登山家である東良三(あずま りょうぞう)は、その青春期にミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設者の一人になった。」とあります。氏曰く”東良三”は1914年にMartinezのMuir家を訪ねており、彼について調べたいとのことでした。氏の唯一の資料はSierra Club Bulletin 1979年 7/8月号のみでした。どなたが情報をご存知でしたらお教えください。

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カリフォルニア 25セントコイン

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写真:デザイナー Garrett Burke(右)
2002年6月、コイン収集家のBurke夫人は、カリフォルニアの25セントコインのデザイン公募があることを知り、夫のGarrett(グラフィックデザイナー)に応募を促しました。無理だろうと最初は乗り気ではありませんでしたが、2ヶ月後には参加を決意しました。ある日、Life誌(1962年10月19日号)の表紙写真のイメージをもとに、突然アイデアが閃き、30秒ほどで最初のスケッチが書き上げられました。8,300の応募は、2度の選考の後、5つに絞られ、新知事になったばかりのシュワルツネッガーによってヨセミテ・Muirデザインが選ばれました。会場を一番沸かした裏話は、[1]応募の前まで、ヨセミテに一度も行ったことがなかったこと、[2]最終選考に残った時点で、シュワルツネッガー知事に自薦のパンフレットを送り、それには”Governor Schwarzenegger, Imagine a force of nature almost as might as you”とメッセージをつけたこと、そして授賞式で、知事に会ったとき、駐車場のパーキングメーターが(25セント)コイン切れしており、罰金切符をもらったことでした。

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Lyell Camp :1872

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William Keith, Mt. Lyell, 1874 , Oil on Canvas (1872年スケッチ、頂上は見えていません) Hearst Art Gallery, Saint Mary’s College
John Muir Conferenceという4年に一度行われる会合が、StocktonのUniv. of the Pacificで開かれたので、聞きに行きました。午後には、スコットランド出身の親友の画家William Keithについての話があり、いくつかの絵の展示や、スライドショーがありました。写真はそのうちの絵の一枚で、1872年10月、Lyell渓谷のキャンプ地でのスケッチに基づいて描かれたものです。MuirはCarrの紹介を受けて訪ねてきたKiethらを引き連れ、ヨセミテ渓谷からCathedral Pass、Tuolumne Meadowsを越え、Mt. Lyellの麓(絵)に達します。そこで初めてKeithらは風景のすばらしさに感動します: 
”At length, toward the end of the second day, the Sierra Crown began to come into view, and when we had fairly rounded the projecting headland before mentioned, the whole picture stood revealed in the flush of the alpenglow. Their enthusiasm was excited beyond bounds, and the more impulsive of the two, a young Scotchman[註:Keithのこと], dashed ahead, shouting and gesticulating and tossing his arms in the air like a madman. Here, at last, was a typical alpine landscape.” 
Muirは画家たちをそこに残したまま、単独でMt. Ritterの(初)登頂を目指しました:
”They decided to remain several days, at the least, while I concluded to make an excursion in the mean time to the untouched summit of Ritter.” 
「Mountains of California」の「A Near View of the High Sierra」の章より。