「学校で地域を紡ぐ−『北白川こども風土記』から−」を読む

菊地暁・佐藤守弘編「学校で地域を紡ぐ−『北白川こども風土記』から−」(小さ子社,2020)

西村仁志(広島修道大学人間環境学部)

『北白川こども風土記』(左)と本書(右) (写真:一色範子氏提供)

1.『北白川こども風土記』とは

 本書は1959年に発刊された『北白川こども風土記』という一冊の本について、さらに全国各地で発刊された<こども風土記>という作品群について、民俗学、歴史学、教育学、メディア論、アーカイブ論、芸術学など各分野の研究者たちによって論じられたものである。

 この書評においてはまず前置きとして『北白川こども風土記』とは一体なにかから始めないといけない。この本は京都市立北白川小学校に在籍した1946年生まれの48名の子どもたちによる3年間(1957-59年)にわたる「郷土しらべ」課外学習の成果をまとめ出版したものである。児童らは京都市左京区北白川という地域の歴史、人物、地形・地質、産業、伝統文化などについて、現場を訪問し、地域在住の関係者を訪ねてヒアリングを行い、また丹念な資料収集を行って、文章を書き、図や表を作成するなど、たいへん丁寧な調査研究と執筆活動を行ったものである。

 北白川の地は、京都盆地の東端、比叡山と大文字山の中間の山裾に位置し「白川」が形成した扇状地上に位置する。縄文時代から人が住み始め、またには「北白川廃寺」とされる古代寺院が奈良時代末期から平安時代にかけて存在した。近世では都市近郊農村として、女性たちは京の都に花や野菜を売りに出る「白川女」となり、男性は、山中にあった花崗岩の石切場から産出される石材加工等を生業とするなどした。また江戸時代からは白川の急峻な流れを利用して多くの水車が作られ、製粉、製糊、伸銅などの産業も創出されてきた。

 そのため住民たちは農地を必要としなくなってきたことから昭和初期から区画整理と宅地化が進み、隣接する京都大学の教職員たちがこの地に居をかまえた。国立民族学博物館の初代館長を務めた梅棹忠夫(民族学者)もその一人であるが、梅棹はこうした北白川の新旧住民の共存について「花うり族と大学族」とその特徴を表現している。『北白川こども風土記』の活動には両方の子どもたちが参加したことで、歴史伝承、伝統文化等については地域の古老から聞き取り、また考古学、地質学などは京都大学関係者からのアドバイスを得ることができたことで、質の高い成果につながったといえる。実際にこの活動を三年間にわたって指導したのは北白川小学校教諭(当時)の大山徳夫であるが、梅棹はこの『北白川こども風土記』について著書『梅棹忠夫の京都案内』のなかで「これはおどろくべき本である。子どもというものが、よい指導を得た場合にはどれほどりっぱな仕事をすることができるか、ということをしめすみごとな見本である」と述べている。

 発刊から60年が経ち、顧みられることも少なくなった『北白川こども風土記』であるが、2016年には再び光が当たる。本書の編著者たちが出会い、公開研究会「こどもと郷土−『北白川こども風土記』を読む」が開催されたことが、その後本書を生むことになる。

2.「学校で地域を紡ぐ−『北白川こども風土記』から−」の内容

 前置きが長くなったが、ここから本書の内容について紹介する。まず「『北白川こども風土記』抄」として、絶版になり入手が困難になっている同書について一部を再掲載し、また執筆を行った山岡亮平氏が当時をふりかえる文章を寄稿している。

 序章では編者の菊地暁(京都大学人文科学研究所・民俗学)が「学校で地域を紡ぐ−北白川から、さらにいくつもの<こども風土記>へ」と題して『北白川こども風土記』の出版経緯と特徴を論じている。また日本各地で<こども風土記>というジャンルが生まれてきた初発として民俗学者の柳田國男が1941年から朝日新聞に連載し単行本として刊行した「こども風土記」であるとする。また大正期から教育手法・教育運動として展開された「綴方運動」も密接に関連していると述べている。戦後の新制教育のなかで、身近な郷土をテーマとして取り上げた児童たちの調査、記録、執筆による<こども風土記>は各地で取り組まれたのである。(「コラム3」では、一色範子(京都市安井児童館・教育学)が全国各地の175件の「こども風土記」をリストアップし、うち106件について内容の調査を行っている)。『北白川こども風土記』の出版以後も各地で実践が続くが、高度経済成長、産業構造の変化、文部行政の方針転換、受験戦争の激化などにより次第に困難になっていったとみられる。

 第1章は村野正景(京都府京都文化博物館・博物館学)が『北白川こども風土記』を生んだといえる北白川小学校の郷土室の活動や歴史についての調査をもとに執筆している。村野はこの郷土室が「単なる学校の一施設の整備という範疇を超えた地域に開いた学校博物館活動だった」とし、単なる保管や展示のみならず市民参加の場としての価値を見出し、今回の『北白川こども風土記』への再注目が始まったことで、学校や地域内外の人々をつないだ新たな展開が期待できると提言している。

 第2章は、北白川の住民である堀内寛昭が執筆している。出版のきっかけとなった北白川小学校郷土室での子どもたちの原稿展示が地域住民でもあった京都大学教授の目にとまり、学校と育友会(PTA)、地域の協働によって出版へと進んでいくエピソードが紹介される。

 第3章は、黒岩康博(天理大学・近代史)が『北白川こども風土記』の活動に貢献した「大学の先生や有識者」と「土地の古老」について述べ考察している。いわば梅棹の言う「花うり族と大学族」であるが、その中間にある、大正期以降に北白川に居住した3名の有識者(医師、僧侶)が果たした貢献についても光をあて、こうした地域における知的先達の存在が大きな役割を果たしたことを明らかにしている。

 第4章は、石神裕之(京都芸術大学・考古学)が「戦後社会科教育と考古学」と題して、戦後に生まれた社会科教育の展開のなかで北白川に存在する遺跡、史跡が学習素材としてどのように活用され、『北白川こども風土記』の成立の背景となるに至ったかについて論じるとともに、子どもたちを指導した大山教諭が苦悩した点として、歴史教育・郷土教育の「本質」でもある民主教育としての目標に迫れなかったという自己評価について深く考察を行っている。

 第5章は、高木史人(武庫川女子大学・口承文芸論)が「評言からみえるもの」と題して、子どもたちが聞き取った古老の言説、そして子どもたちが書き記す「ことば」の様相について分析し論じている。ユニークなのは子どもたちが端々に書き加える新たな解釈や感想、そして新たな伝説をも生み出すであろう命名や仮説の提示に言及している点である。

 本書はここでカラー印刷ページが挟まれる。前半は「こども風土記33選」で、編著者らが戦中から現在まで全国で作られた「こども風土記」の表紙を掲げ解説している。後半部分はユニークだ。「白川道中膝栗毛」と題して、著者でありまた本書の装丁を手掛けた谷本研(成安造形大学・現代美術)と中村裕太(京都精華大学・現代美術)が『北白川こども風土記』で織田少年が記した「白川街道を歩いて」に導かれて、それを追体験すべく、馬を牽いてかつての都から近江を結んだ山越えの街道筋13キロを辿る道中記である。またこの道中記についてもうひとりの編者である佐藤守弘(同志社大学・視覚文化論)は、「その場所の固有性−歴史、文化、環境など−を徹底的に調査して作品に組み込む」サイト・スペシフィック・アートとして、二人の活動を評しているとともに、今回、本書が生まれる共同研究の出発点となったのが二人の活動であったと紹介している。

 第6章は佐藤が『北白川こども風土記』で表紙、扉絵や挿絵として使われている児童作の「版画」について論じている。これら版画の制作も児童の課外活動として行われ、この本の内容を一層豊かなものとしている。その中には「明らかに凸版とは異なる印象を与える版画」もあり、当時の北白川小学校における版画教育の幅の広さが伺えると指摘している。また「既に失われた北白川の風景を、自らの想像力を駆使して描き出した」と見られる三点の版画に言及し、ここでも「花うり族と大学族」が共有できるものとして「過去」が持ち出され、それが版画の対象になったのではと述べている。

 第7章は池側隆之(京都工芸繊維大学・映像デザイン)が『北白川こども風土記』をメディア・プラクティスすなわちメディアを通じた実践としての価値について検討している。池側は「郷土研究の「主体」が生徒であることで、記録者の自己に向かうベクトルと、コミュニティを中心とする社会という外に向かうベクトルの狭間に、メディア・プラクティスとしての『北白川こども風土記』への取り組みが機能していた」と指摘し、また書籍から展開した映画『北白川こども風土記』(共同映画社,1960)そして8ミリ映画『郷土学習のしかた』が単なる記録映画ではなくメディア・プラクティスそのものが描かれたものであると評している。

 最後の第8章は趣を異にし、当時の児童であり「湖から盆地へ」という一節を執筆した藤岡換太郎(静岡大学・地球科学)が担当している。つまり本書と『北白川こども風土記』の両方に執筆している唯一の著者である。藤岡は北白川小学校卒業ののち、中学高校を経て、大学では地質学(地球科学)を専攻して研究者となる。父親は京都大学教授で地理学が専門であった藤岡謙二郎で、藤岡が書いた「湖から盆地へ」も父親から聞いた話を書いたと告白している。60年の歳月を経て、あらためて研究者として白川の流れ、そして扇状地が地域の文化や文明の発展にどのように影響したかについて取りまとめている貴重な論考である。

3.「地域に根ざした教育」としてみる『北白川こども風土記』

 このように先駆的であり、かつ新旧住民の地域内の特殊な関係性をもとに紡ぎ出された『北白川こども風土記』を多彩な研究分野から論じる研究はいずれの章も興味深いユニークな論考であった。一級の論者たちによる充実した論集であることは間違いない。しかし重箱の角をつついて、なにか物足りない部分があるとすれば当時子どもたちを指導した大山教諭の自己批判にたいする「モヤモヤ」が残ったという点だ。現代における子どもたちの新たな郷土学習のありようを提示することで、大山教諭の当時の「無念」をぜひ晴らしてあげたかったということでもある。

 この書評を書くにあたって、本書ならびに『北白川こども風土記』は、私自身の専門である環境教育において注目されている分野のひとつである「地域に根ざした教育−Place Based Education(PBE)」と大きな関連があるとみた。PBEは英語圏で1990年代から登場してくる概念で「持続可能性教育」の概念も含んだものといわれている。高野孝子(早稲田大学・持続可能性教育)によれば「場や地域に根ざした教育とは、ある場所に注目し、そこにある暮らし、社会、経済、事業、自然環境、動植物、文化、芸術、伝統、光景などすべてを、全体として学びの場とするもの。この学びの場を通じて、個人と集団に、幸福・福祉の向上、アイデンティティの確立、格差・抑圧からの解放といった成果が期待される、同時に公正で、生態的に持続可能な社会づくりにも貢献する。」(高野,2014)と定義づけ、さらに近年では英語圏の実践者や研究者の間で「Place and Community Based Education」という言葉も使われるようになってきていることを受け「PBEの概念には、人と人の関係性の集合体である地域社会を含んでいる」と指摘している。また高野は「2000年代初め頃、博士論文調査のために出かけた北米の幾つかの場所で、先住民たちによるPBEのうねりに出くわした」、さらに「その頃すでに”Place”は、地理学や哲学、建築学や文学、社会人類学、環境歴史学、社会学などにとどまらず、さまざまな分野からの視座で取り上げられ、互いに影響を与え合っていた。」と述べている。これはまさに本書の編著者たちの共同研究そのものである。本書を読むにつけ、こうした世界的なPBEの流れは必然的に日本の地域研究、そして「子どもたちの郷土学習」のなかにも生じてきているとみている。『北白川こども風土記』の発刊以後、世界では60年かけて「地域から学ぶということ」の意味が掘り下げられ、また拡大してきたのだ。

 もうひとつ、私自身も関わるものとして「公害教育」の動向を紹介しておきたい。これは1960-70年代にかけ激甚な公害被害を受けた地域において一部の熱心な教員たちによって子どもたちを公害から守り、公害問題についての認識を高めようという教育実践が先駆的に行われたものだ。まさに<子ども風土記>運動が盛んであったのと時期をほぼ同じくしている。ときに加害企業の責任追及の授業が行われるなどし、「偏向・イデオロギー教育」であるとして排除された事例もある。一方で1971年施行の学習指導要領では小中高社会(公民)科、保健体育科において公害問題が記述されたことで、公害教育は制度のなかに取り込まれていったと考えられる。序章の「コラム2」では福島幸宏(東京大学・アーカイブ論)が今田保による『丹後ちりめん子ども風土記』をはじめとする4巻のこども風土記を紹介しているが、これらは「低成長期の地域変容と社会運動にある意味結びついた内容」であったとされ、「公害教育」との類似性を感じずにはいられない。近年、私も含め環境教育研究者はこの「公害教育」の再評価と、現代において持つ意味について再考し、持続可能性や社会的公正の概念、あるいは対話によるパートナーシップを重視した新たな「公害教育」の展開に注目しているのである。

 第4章で石神が『北白川こども風土記』が内外で大きな評価をうけながらも、大山教諭が自らの実践について「風土記は縦の流れのみを追った郷土史」としたうえで「子供達に郷土に対する問題意識を植えつけ、それを組織化していくだけの指導力というものが私にはなかった」と自己批判したエピソードを紹介している。「あんたのとこやからできたんや」という外からの冷たい指摘の意味もそうして咀嚼し飲み込まざるを得なかった「無念」は、まさに新しい「地域に根ざした教育」の実践でもって提示され、晴らされるべきだと考える。

4.さいごに

 最後に告白すると、実は私自身がこの北白川「花うり族」の出身である。しかも父系、母系の両方だ。西村姓は北白川の人間であれば容易にネイティブであることが明らかになる。また各家を「屋号」でもって呼びあうのも普通に行われてきており、『北白川こども風土記』には私の祖父や、祖母の実家の水車も登場する。白川女であった祖母の大八車の荷台に乗せられて、正月飾りの材料のために一乗寺の農家に稲藁をもらいに行った思い出や、仏壇に供える花束を近所のお得意様に届けてお駄賃やおやつをもらうのも楽しみだった。私が北白川小学校に在学するのは1970〜1975年度なので、発刊からはすでに10数年経過後である。しかしこの本で描かれた当時の北白川の姿は私の記憶のなかにもある。白川街道沿いには酒屋、八百屋、文具店、駄菓子屋、クリーニング店、仕出し屋、花屋、米屋、銭湯が立ち並び、地域住民(おっちゃん、おばちゃん)の顔がそこかしこにあった。また執筆した児童たちが空想したかつての地域の姿も、同様に想像してみることもできた。こうして『北白川こども風土記』は「北白川のこども」として自分自身の、そして後に続く子どもたちのアイデンティティーを育ててくれた本であったことは間違いない。

 60年後に再びこの本に光をあててくださった編著者のみなさんには、ほんとうに感謝したい。

 

参考文献:高野孝子『PBE 地域に根ざした教育:持続可能な社会づくりへの試み』(海象社,2014)