15.ディープ・プレイ ― バリ島の闘鶏に関する考察
クリフォード・ギアツの『文化の解釈学』の最終章である本章では、バリ島の闘鶏を題材に、文化の象徴的な側面を分析し、社会的アイデンティティや権力関係の表現としての意義を探ります。ギアツは、闘鶏が単なる娯楽ではなく、バリ社会における「意味の体系」の一部として機能していることを示し、文化を「テクスト(解釈されるべきもの)」として理解するアプローチを強調しています。
1. 「ディープ・プレイ」とは?
本章のタイトル「ディープ・プレイ(Deep Play)」は、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムの概念に由来します。ベンサムは、「合理的に考えれば誰も関与すべきでないような、高いリスクを伴う遊びや行動」を指してこの言葉を使いました。ギアツは、バリの闘鶏が経済的・社会的に高いリスクを伴いながらも、バリの人々にとって極めて重要な文化的実践である点に着目し、これを「ディープ・プレイ」の概念を用いて説明します。
闘鶏が「ディープ・プレイ」たりうる理由
1. 高額な賭け金が動く
• 闘鶏では、村人が自分の持つ資産の相当部分を賭けることがあり、経済的に非合理的な行動に見える。
2. 名誉と社会的地位がかかる
• 勝敗は単なる金銭的な損得以上の意味を持ち、村の中での評判や地位の確認・強化の場となる。
3. 暴力的な闘争の象徴的表現
• 闘鶏は、人間同士の競争や対立を象徴的に表現する場として機能する。
2. 闘鶏の社会的・文化的意味
(1) 闘鶏とバリ社会の構造
ギアツは、闘鶏がバリ社会の階層構造や人間関係を映し出す鏡のような役割を果たしていると主張します。
• 闘鶏に参加するのは特定の社会層
• 主に社会的地位が確立された男性が関与し、女性や若者はあまり関わらない。
• これはバリ社会における権力構造やジェンダーの役割を反映している。
• 「親密な敵対関係」を可視化
• 闘鶏の場では、村内の親族や隣人同士が敵味方に分かれて賭けを行う。
• これは普段は抑圧されている競争心や対抗意識が一時的に表面化する場である。
• 競争と調和のバランス
• 闘鶏を通じて人々は競争しつつも、最終的には日常生活の秩序に戻る。
• つまり、社会の結束を損なうことなく競争が許容される仕組みとなっている。
(2) 闘鶏と象徴
ギアツは、闘鶏は単なる賭け事ではなく、バリの世界観を象徴する儀式的行為であると考えます。
• 闘鶏は「文化的テクスト」
• バリの人々にとって、闘鶏は「読むべきテクスト」のようなものであり、その中に社会の価値観や権力関係が反映されている。
• 闘鶏と男性性の象徴
• 闘鶏は「男らしさ(マスキュリニティ)」の象徴であり、戦いに勝つことは社会的な威信を高める。
• 「鶏(cock)」という言葉は英語でも男性の象徴としての意味を持ち、バリの闘鶏も同様の象徴的意味を持つ。
• 秩序と混沌の対立
• 闘鶏は日常の秩序(宗教的な調和や村の平和)とは対照的に、暴力と混沌を一時的に解放する場として機能する。
• これは、社会の緊張を発散させるカタルシス的な側面を持つ。
3. バリの闘鶏と「意味の体系」
ギアツは、文化を「意味の体系」として解釈するアプローチを本章で具体的に示しています。
(1) 文化は「解釈されるべきテクスト」
• 闘鶏を通じて、バリの人々は「自分たちの社会とは何か」を理解し、象徴的に表現している。
• つまり、闘鶏を分析することは、バリ文化の核心的な価値観を解読することに等しい。
(2) 「ディープ・プレイ」としての象徴的実践
• ギアツは、闘鶏を単なる娯楽ではなく、象徴的な実践として解釈することで、その社会的・文化的意味を明らかにする。
• 彼のアプローチは、文化を単なる行動の集合ではなく、意味のネットワークとして理解することを強調している。
4. まとめ
• バリの闘鶏は、単なる賭け事ではなく、社会的な関係や価値観を象徴する「文化的テクスト」である。
• 闘鶏における「ディープ・プレイ」は、名誉や社会的地位が賭けられる高リスクな行為であり、それが文化的に意味を持つ。
• バリ社会において、闘鶏は男性性、競争、権力関係、秩序と混沌の対立など、さまざまな象徴的要素を含んでいる。
• ギアツのアプローチは、文化を「意味のネットワーク」として解釈し、行動や儀礼の象徴的側面を重視する点に特徴がある。
本章の意義
本章は、ギアツの「厚い記述(Thick Description)」という手法を具体的に示した代表的な研究です。彼は、文化を単なる行動のパターンではなく、象徴的な意味が編み込まれた「テクスト」として捉え、それを解読することで文化の本質に迫ることができると主張しました。本章は、人類学や文化研究における象徴解釈の手法の一つの典型例として広く引用されています。
以下はDeepResearchによる解説
ディープ・プレイとは何か
「ディープ・プレイ(deep play)」は、人類学者クリフォード・ギアーツがバリ島の闘鶏(とうけい)を分析した有名な論文(『文化の解釈学』所収)のタイトルであり、同時に重要な概念を示す言葉です。その元々の意味はイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムに由来します。ベンサムは「ディープ・プレイ」を、賭けの額やリスクが非常に高く、理性的に考えれば誰も参加しないような「割に合わない遊び」と定義しました。つまり、勝って得られる利益よりも、負けたときの損失があまりに大きい賭け事を指します。ギアーツはこの概念を借用し、バリ島で行われる闘鶏がまさにそうした「ディープ(深い)な遊び」であると指摘しました。一見すると、バリの男性たちは雄鶏同士の戦いに法外な額のお金を賭けています。賭け金はしばしば参加者の日常収入から見て非常に高額で、合理的に考えれば負けるリスクを冒すのは不合理に思えます。この点でバリの闘鶏は「深い遊び」――賭けるもの(ステークス)が極端に大きい遊戯――の典型だというわけです。
しかしギアーツが問いかけたのは、なぜバリの人々はそれほどリスクの高い闘鶏に熱中するのかということでした。もし単にお金のためだけなら、期待値の低い「割に合わない」賭けに人々が夢中になるのは不思議です。ギアーツの答えは、闘鶏にはお金以上に重大な「意味」や「価値」が懸かっているからだ、というものです。つまり、ディープ・プレイと呼ぶべき闘鶏では、賭けられているのは金銭だけでなく男性たちの名誉や評判、社会的地位といった象徴的な価値なのです。バリの人々、とりわけ男性たちにとって、闘鶏は単なる娯楽ではなく、自分たちの社会関係や自己イメージをかけた真剣勝負なのです。だからこそ「深み」があり、夢中になるだけの意義があると考えられます。
バリ島の闘鶏と文化的意味
ギアーツは1958年に妻とともにバリ島の村でフィールドワークを行い、違法でありながら村中で人気の闘鶏を観察しました。最初、村人たちは彼ら夫婦をよそ者として相手にしませんでしたが、ある日、闘鶏に警察の手入れが入った際にギアーツ夫妻も村人と一緒に咄嗟に逃げ出しました。この出来事をきっかけに、村人は二人を仲間として受け入れるようになり、ギアーツは闘鶏の世界を深く知ることになります。このフィールド体験から書かれたのが「ディープ・プレイ――バリ島の闘鶏に関する考察」です。
闘鶏は2羽の雄鶏を戦わせ、その勝敗に観衆が賭け金を投じる伝統的な勝負事です。ギアーツの記述によれば、バリの闘鶏には複雑な賭けの仕組みがあります。中心となる大きな賭け(金額の大きい賭け)は対戦する鶏の所有者たちやその近しい者同士で行われ、周囲では観衆同士が小口の賭けを多数交わします。額の大きい「中心賭け」の試合ほど鶏同士の実力が拮抗しており、勝敗が予測しにくくなります。人々はできるだけ大きな中心賭けが成立するように努め、そうすることで試合そのものをよりスリリングで「深い」ものにしようとします。まさに賭け金の大きさが試合の深さ(深刻さ)を生み出すのです。逆に、賭け金が小さく勝敗が見え透いたような試合は「浅い」闘鶏とみなされ、あまり真剣には扱われません。
ギアーツは闘鶏を詳細に観察し、その文化的文脈を丁寧に描写しました(このような詳細な記述は「厚い記述(Thick Description)」と呼ばれ、人類学の手法として重視されています)。彼は闘鶏を単なる賭博行為としてではなく、バリ社会の象徴的な「テキスト」として読み解こうとしました。闘鶏はバリ人にとって何を表現しているのか?ギアーツの分析によれば、闘鶏の場はバリの社会構造や価値観を映し出す一種の舞台なのです。雄鶏(cock)はバリの文化において男性そのものを強く象徴しています。実際、バリ語で雄鶏を指す言葉には男性器や勇敢な男といった意味合いもあり、雄鶏は男性のプライドや名誉のメタファーなのです。闘鶏で争う雄鶏たちは、実はそれぞれの鶏の飼い主である男性たちの代理人と言えます。鶏同士を戦わせることは、男性同士が直接争う代わりに、己の威信を賭けて競い合っているのです。言い換えれば**「闘鶏という人間同士の競争を、動物に肩代わりさせたもの」**であり、勝った者は周囲から尊敬と称賛を得ます。負ければ面目を失いかねない真剣勝負ですが、同時に実際には人間同士が傷つくことなくプライドを懸けた決闘ができる安全弁の役割も果たしています。
闘鶏に誰でも参加できるわけではない点も、社会的意味を持っています。村の闘鶏には基本的に成人男性しか関わりません。女性や子供、社会的地位の低い者は闘鶏の賭けに加わることはできず、観戦すら制限されます。主要な賭け手・主催者になるのは地元で評判や権威のある男たちです。こうしたルールは村ごとに昔から伝えられており、一種の伝統的規範として共有されています。つまり、闘鶏の場そのものが村の男性社会の序列を反映しており、誰が中心になり得るか、誰が周縁にとどまるかが象徴的に示されます。対戦カードも、近しい親族同士は避けられ、過度に身分が離れた者同士でも行われないといった暗黙の了解があります。多くの場合、互いにライバル意識のある者や競争心を燃やす者同士が鶏を闘わせるため、試合ごとに村内の対立構図や緊張関係が投影されます。観衆も自分と縁のある側に賭け金を投じ、声援を送ります。こうして闘鶏は村の人間関係を戯画的に描き出すと同時に、その場を共有することで人々に強い連帯感や興奮を与えます。
ギアーツは、闘鶏で人々が感じる熱狂や恐怖、歓喜や失望といった感情に注目しました。これらの感情は、日常生活で直接表現することが難しい社会的緊張や欲求を代償的に吐露していると考えたのです。闘鶏で一喜一憂することによって、バリの人々は自分たちの社会に内在する競争心や名誉欲、序列意識といったものを再確認しています。ギアーツは闘鶏の機能について「もし機能と呼びたいのであれば、それは解釈的なものである」と述べました。つまり、闘鶏は何か実利的な効果(経済的利益や社会秩序の維持など)を直接もたらすわけではありませんが、象徴的な意味を通じて人々が自らの文化や置かれた関係性を理解するための装置になっているということです。ギアーツの有名な表現を借りれば、**闘鶏とは「バリ人が自分たち自身について語る物語」**なのです。人々は闘鶏という物語を繰り返し演じ、観ることで、自分たちの社会とは何かを感じ取り、学習していると言えます。
興味深いのは、闘鶏で勝敗がついても、勝者が本当に村の権力者になるわけでも、敗者が地位を追われるわけでもない点です。先述の通り、闘鶏は現実の人間関係を投影していますが、その結果が直接現実の権力構造を書き換えることはありません。大勝ちして大金を得ても、それで身分が上がるわけではなく、惨敗しても直ちに社会的地位を失墜するわけではないのです。**闘鶏はあくまで現実社会を映した比喩(メタファー)**であり、シミュレーションのようなものだとギアーツは指摘します。だからこそ人々は安心して熱狂できるとも言えます。闘鶏は実社会の縮図でありながら、同時に演劇のようなものでもあり、参加者にとっては自己分析の場であり観客にとっては娯楽と社会教育が一体化したような体験なのです。
ギアーツの理論の影響
ギアーツのこの闘鶏分析は、人類学における「解釈人類学(interpretive anthropology)」あるいは「象徴人類学(symbolic anthropology)」の代表的な実践例となりました。彼は文化を「人間が自ら紡ぎ出した意味のクモの巣(webs of significance)」になぞらえ、文化の研究とはその巣に張りめぐらされた意味を読み解く作業なのだと主張しました。闘鶏の分析はまさに、文化をテキストのように解釈するこのアプローチを体現しています。1970年代当時、人類学では機能主義や構造主義など、社会構造や制度の分析に重きを置く理論も主流でしたが、ギアーツの登場によって文化の「意味」に焦点を当てる潮流が強まりました。ギアーツの理論的貢献は、社会や行動の背後にある象徴や解釈を無視しては文化を理解できないと示した点にあります。例えば、従来の機能主義人類学者であれば「闘鶏は社会的緊張を解消する安全装置だ」「男性の連帯を強化する儀礼だ」といった機能面の説明にとどまりがちでした。しかしギアーツは、そのような機能以上に、闘鶏という現象がバリの人々にとってどのような意味世界を構成しているかを解明したのです。このアプローチにより、人類学者は文化現象を記号や象徴の集合として理解し、それを詳細に記述・解釈する作業に新たな正当性が与えられました。
ギアーツの著した『文化の解釈学』(1973年刊)は、人類学のみならず歴史学や社会学など幅広い分野に影響を及ぼしました。彼が提唱した「厚い記述(Thick Description)」という概念は、単なる事実描写ではなく背景にある文脈や意味を掘り下げて記述することを指し、エスノグラフィ(民族誌)を書く上での標語的な用語となりました。実際、ギアーツの論文はその語り口の鮮やかさや洞察の深さから一般読者にも読みやすく、多くの人々に文化人類学の面白さを伝えました。人類学者以外でも、文化史研究者や民俗学者、社会学者などがギアーツの議論に触発され、自分たちの分野で象徴や儀礼の意味を読み解く研究を発展させています。たとえばアメリカの歴史学では、ギアーツは知的歴史(思想史)の新方向づけに貢献した「守護聖人」のように語られたこともあります。それほどまでに「文化をシンボルの体系として解釈する」という彼の視点は、新鮮で示唆に富むものだったのです。
また、「ディープ・プレイ」という言葉自体も文化分析のキーワードとして定着しました。ギアーツ以降、他の社会や文脈でも、人々が一見不合理なほど大きなリスクやコストを払って熱中する活動について「それはディープ・プレイだ」と言及されることがあります。スポーツの熱狂や株式投機、さらにはオンラインゲームに至るまで、人々が熱狂に身を投じる現象を理解するために、ギアーツの議論が引き合いに出されることもあります。こうした日常への応用を別にしても、少なくとも人類学や文化研究の世界では「バリ島の闘鶏」の分析は半世紀近く経った今も古典的名作と位置付けられています。
もっとも、ギアーツの理論には批判も寄せられました。たとえばウィリアム・ローズベリーは1980年代に「人類学がギアーツの魅力的な物語に酔わされてはいないか」と問い、ギアーツの闘鶏分析がバリ社会の経済的現実や権力関係を軽視していると批判しました。彼は、闘鶏によるギャンブルが家計にもたらす負担や、植民地時代からの統治者(オランダや後のインドネシア政府)が闘鶏を禁じた政治的背景、あるいは女性が闘鶏から排除されているジェンダーの問題など、ギアーツが十分に触れていない側面にも目を向けるべきだと指摘したのです。このような批判は、ギアーツの解釈人類学が象徴や意味の分析に夢中になるあまり、社会の構造的要因(経済・政治・歴史)を軽んじているという懸念に基づくものでした。しかし逆に言えば、そうした批判的対話も含めて、ギアーツの理論は人類学の議論を活性化させたとも言えます。ギアーツの仕事を土台にして、象徴と権力の関係を探求する研究や、意味の分析に権力論や経済分析を接続しようとする動きも生まれました。
総じて、クリフォード・ギアーツの「ディープ・プレイ――バリ島の闘鶏に関する考察」は、文化人類学における画期的な研究として評価されています。この論考によって示されたディープ・プレイの概念は、文化現象の深層にある意味の網目を解き明かすことの重要性を教えてくれます。バリ島の一見風変わりな風習である闘鶏が、実はバリ社会そのものを映し出す鏡であり、人々が自分たちの文化を理解するための「物語」になっているという洞察は、多くの読者に驚きと発見を与えました。ギアーツの理論とそのアプローチは、後の世代の研究者たちに「文化を読む」視点を根付かせ、人類学を超えて広範な人文・社会科学領域に影響を与え続けています。これから人類学を学ぶ初学者にとっても、「ディープ・プレイ」の分析は、文化を解釈するとはどういうことかを教えてくれる格好の教材と言えるでしょう。
参照情報
• Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight (Clifford Geertz) – Wikipedia(en) – バリ島の闘鶏に関するギアーツの論文について背景や概要を解説したページ。ディープ・プレイの概念(ベンサムの定義など)についての記述もあり。
https://en.wikipedia.org/wiki/Deep_Play:_Notes_on_the_Balinese_Cockfight
• Clifford Geertz, “Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight” – オリジナルの論文全文(英語)。バリ島での闘鶏の詳細な描写と分析が記されている。ギアーツの名著『The Interpretation of Cultures』(1973)所収。
(※原典の書籍情報: Clifford Geertz, The Interpretation of Cultures, Basic Books, 1973. 所収論文「Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight」)
• ギアーツ『文化の解釈学』第15章「ディープ・プレイ――バリ島の闘鶏に関する覚書」 – 上記論文の日本語訳。バリ島の闘鶏を題材に、文化の象徴解釈を試みた一章。吉田禎吾・中牧弘允ほか訳、岩波書店、1987年刊。
• Garage, “Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight by Clifford Geertz” (2017) – ロシアのガレージ現代美術館による英語解説。ギアーツの論文を概要し、闘鶏の社会的階層や象徴性、雄鶏=男性性の比喩、勝敗の意味などをわかりやすく要約している。
• Ananta Kumar Giri, “Symbolic Anthropology of Clifford Geertz and Beyond”, The Eastern Anthropologist, 73(1), 2020 – ギアーツの象徴人類学を評価・批判的に検討した学術論文。ギアーツの厚い記述や文化解釈の功績、および権力の分析が不足しているという指摘など、後続の議論展開について述べる。ギアーツの理論が歴史学など他分野に与えた影響にも言及。
• William Roseberry, “Balinese Cockfights and the Seduction of Anthropology”, Social Research, Vol.49 No.4, 1982 – ギアーツの闘鶏論文に対する批判的論考。象徴分析に偏りすぎるあまり、経済や権力の現実を捨象しているのではないかと指摘した。人類学における解釈アプローチの限界と補完の必要性を論じた一例。
参考文献
• Clifford Geertz (1973) 『The Interpretation of Cultures』 – ギアーツによる文化人類学の代表的論文集。本質問のテーマであるバリ島の闘鶏の論文(Deep Play)は本書に収録されている。他にも「厚い記述」や宗教・イデオロギーに関する論考を収め、文化を記号的に分析するギアーツ理論の全貌を示す。文化を「意味の網の目」と捉える序章の一節は、人類学の名言として有名。日本語訳『文化の解釈学』(岩波書店、1987年)も刊行されている。
• Jeremy Bentham (1780頃) “Deep Play” (in The Theory of Legislation) – ベンサムは功利主義の観点から、賭博におけるリスクとリターンを分析し、割に合わないほどリスクの高い遊戯を「ディープ・プレイ(深い遊び)」と名付けた。ギアーツはこの概念を引用し、バリ島の闘鶏の特徴を説明するのに用いた。元の文脈では賭け事の規制に関する議論だが、その用語は文化の象徴的分析に転用され新たな意味付けがなされた。
• Clifford Geertz (1972) “Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight” – ギアーツのバリ島調査に基づく民族誌的エッセイ。発表は1972年(米国科学アカデミー紀要 Daedalus 誌上)で、後に1973年の著書に収録。バリの村における闘鶏儀礼を余すところなく描写し、その背後にある社会心理や象徴世界を解読した名高い論文。異文化理解において出来事の「意味」を読み解く手法の好例として、現在でもしばしば教育現場で取り上げられる。
• Sherry B. Ortner (1984) “Theory in Anthropology since the Sixties” – アメリカの人類学者オートナーによる、人類学理論の発展に関する論文。1960年代以降の動向を整理する中で、ギアーツの解釈人類学が果たした役割にも触れている。象徴や意味を重視するアプローチ(ギアーツ派)と、より構造や実証を重視するアプローチとの対比を論じ、ギアーツの位置づけと影響を知る上で参考になる。
• 杉島敬志 編 (2011)『文化人類学の名著30』 – 日本人類学者による人類学の古典的名著の解説書。ギアーツ「ディープ・プレイ(バリ島の闘鶏)」もその一つとして取り上げられており、内容の要点や意義が初学者向けに解説されている。他の名著と比較しつつ、ギアーツの論の独創性や、後の議論への影響について短くまとめられており、理解を深める手助けとなる。