先日、6月8日(土)に開催された「シチズンシップ共育企画」の10周年記念シンポでは高田研さん(都留文科大学教授)による記念講演で、「森のようちえん」の実践を通じて得た、体験学習のプログラム化・事業化、そして「ファシリテーション」という専門性に対する批判的な観点からの問題提起が、あったわけ。
高田さんはかつてこうした自然体験学習の実践に関して「ハコの中の教育から、自然という際限のない空間と繰り返す長い時間の流れの中に子どもたちを投げ込み、そこにあらたな教育の場を求めてきた。言い換えると、近代教育のパラダイムを変える一つの契機を得、実践してきている。」と言っていた。
実はこのことについては講演に続いて行われたパネル討議ではあまり議論を深めることができなかったのだが、パネリストとして私と一緒に登壇した山崎清治さん(生涯学習サポート兵庫)は、こうした体験学習のプログラム化・事業化は、例えば足りない栄養分を摂取するための「一種のサプリメントのようなものだと思う」と言っている。
つまり、「そんなもんで栄養分を摂ってたんではあかんとわかっていながらも、栄養分は必要だからそれで代用する」ってことかな。
関連して、もうひとつ思い出したことがある。もう15年近く前になるが、藁谷豊さん(ワークショップ・ミュー代表・2004年没)は『まなびの時代へ—地球市民への学び・30人の現場』(小学館)において、1990年代に環境庁、文部省、農林水産省、建設省(当時)などの各省庁がなだれをうったように環境教育関連政策、事業に取り組みはじめた状況について「他人事で精気のない響き」として違和感を覚えている。「『環境教育』と看板をかけ替えた、従来の教育スタイルが繰り返されるのではないか。環境がすべてに優先し、今と同じか、今以上の息苦しさの中にある未来になりはしないか。環境ファシズムとなって人間が疲弊するだけの社会になりはしないか。」と指摘したのだった。
(奇しくもこのパネル討議の進行役を務めたのが藁谷さんのもとで修行を積んだ青木将幸さん)
こうして考えてみると、やはり私たちは何年経っても成果志向主義、効率主義という「システム」の罠にはまり続けているんだなと思う。
というか、それが「大好き」なんだと思う。あるいはそれがうまくいく(ように見える)ことに「快感」を覚えるようになっている。だからなかなか止められない。
この呪縛から解き放たれるためにはどうすればいいか。
ひとつは、「私の置かれている現実と必然性」から教育実践を組み立てていくことではないか。
そこを起点として考えること。
高田さんところの「森のようちえん」とか、これまた大阪・西淀川でやってきた新しい公害教育の取り組みを起点にして考えることは大事やな。
やはり高田さん、只者ではないなあ。