厚い記述:解釈的文化理論への道:クリフォード・ギアツ『文化の解釈学(The Interpretation of Cultures, 1973)』を読む(1)

1.厚い記述:文化の解釈学的理論への道

Thick Description: Toward an Interpretive Theory of Culture(厚い記述:解釈的文化理論への道)の概要

1. 本章の目的

クリフォード・ギアツは、本章で文化人類学の理論と方法論を提示し、特に「厚い記述(Thick Description)」の概念を提唱する。これは、文化の記述を単なる行動の観察にとどめるのではなく、その行動が持つ象徴的な意味や社会的背景を深く解釈することを意味する。

ギアツは、文化を単なる行動パターンの集合ではなく、象徴の体系(semiotic system)として捉えるべきであると主張する。彼の文化観は、マックス・ヴェーバーの「人間は自ら編み出した意味の網の中に生きる動物である」という考えに基づいており、人類学の役割はこの網を解釈することにあると述べる。

2. 厚い記述とは何か?

(1)ライルの「ウィンク(まばたき)」の例

ギアツは、厚い記述の概念を説明するために、哲学者ギルバート・ライル(Gilbert Ryle)の「ウィンク(wink)」の例を用いる。

薄い記述(Thin Description):「ある人が右目を閉じた。」

厚い記述(Thick Description):「仲間に対して秘密の合図を送った」「皮肉を込めたまばたきをした」「ジョークの一部としてウィンクした」など。

このように、同じ行動でも、その背景や文化的文脈を理解しなければ、その意味は見えてこない。文化を記述する際には、表面的な行動だけでなく、その行動が持つ意味や意図を深く掘り下げる必要がある

3. 文化の解釈的アプローチ

(1)文化の概念の見直し

ギアツは、文化概念の乱用について批判し、より厳密で解釈的な文化概念を確立する必要があると主張する。従来の文化人類学では、文化を「生活様式の全体」「行動のパターン」「社会的遺産」など、さまざまな定義で捉えてきたが、これらはあまりに広範で一貫性に欠けると指摘する。

彼は、文化を「意味の網」として捉え、人類学の役割を「自然科学のように法則を探求するのではなく、意味を解釈すること」に置くべきだと述べる。

(2)文化の記述は「解釈的な作業」である

ギアツは、文化人類学の主な手法は「民族誌(ethnography)」であり、これを単なる観察やデータ収集のプロセスではなく、「解釈的な作業」と考える。

文化の記述は、データの蓄積ではなく、そのデータが持つ意味を解明することが目的である。

文化は象徴的な行動の集合であり、その行動を文脈の中で解釈することが必要である。

人類学者の役割は、文化を単なる客観的事実として記述するのではなく、それを「読む」ことにある。

4. 厚い記述の具体例

ギアツは、厚い記述の考え方を具体化するために、自身のフィールドワークの一例を紹介する。

(1)バリ島の闘鶏

ギアツは、後の章で詳しく分析する「バリ島の闘鶏(Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight)」を例として挙げる。

薄い記述(Thin Description):「バリの人々は定期的に闘鶏を行い、金銭を賭けている。」

厚い記述(Thick Description):「バリの闘鶏は、単なるギャンブルではなく、社会的な地位や名誉を象徴する儀式であり、村の権力関係を可視化する場である。」

このように、文化的な行動を正しく理解するためには、単なる外面的な観察ではなく、その背後にある社会的・象徴的な意味を深く読み取ることが必要である

5. 人類学の役割と厚い記述の意義

(1)人類学の目的:文化の意味を解釈すること

ギアツは、文化人類学の目的は文化の象徴的な意味を解釈し、それを社会の文脈の中で理解することにあると述べる。

文化を記述することは、単なるデータ収集ではなく、象徴的意味を明らかにすることが目的である。

文化の研究は、自然科学のように普遍的な法則を探求するのではなく、意味の解釈に重点を置くべきである。

(2)民族誌(Ethnography)の役割

民族誌は、文化の記録ではなく、文化の意味を解釈するためのツールである。

フィールドワークの目的は、文化の象徴体系を理解し、それを読解することである。

人類学者の仕事は、異文化の象徴的行動を記述し、それを解釈することにある。

6. まとめ:本章の意義

本章は、ギアツの文化理論の基盤をなす重要な章であり、「厚い記述」の概念を中心に、文化の解釈的アプローチを提唱している。その意義を以下にまとめる。

1. 文化は象徴の体系であり、人類学の役割はその意味を解釈することである。

2. 厚い記述を用いることで、文化的な行動の表面的な観察を超え、その背景にある社会的・象徴的な意味を明らかにできる。

3. 文化の研究は、単なるデータ収集ではなく、解釈的なアプローチを通じて深い理解を得ることを目的とする。

本章は、文化人類学の方法論に革新をもたらし、文化研究のあり方を根本から変えた。特に「厚い記述」の概念は、文化を理解するための重要な手法として、多くの研究者によって応用されている。


以下はDeep Researchによるさらなる解説

文化人類学者クリフォード・ギアーツは、1973年の著書『文化の解釈学』の第1章「厚い記述:文化の解釈理論に向けて」において、「厚い記述」という概念を提唱しました。この概念は、一見すると単なる詳細な描写のようですが、実際には文化や行動の文脈と意味を深く読み取るための記述手法を指しています。ギアーツによれば、人類学者がフィールドワーク(現地調査)で行うべき民族誌記述は、単に目に見えた事実を箇条書きにすることではなく、その背後にある動機や意図、文化的象徴性まで含めて描き出す「知的な試み」です。こうした厚みのある記述を通じて、文化に宿る多層的な意味合いを解明しようとするのがギアーツの目指したアプローチでした。

「厚い記述」の対極にあるのが「薄い記述(Thin Description)」です。薄い記述とは、行動や出来事を表面的な事実だけで記述することで、背景も意味も解釈も伴わない報告に過ぎません。例えば、ある異文化の村で子供がお守りを身につけていたとします。薄い記述であれば「その村では子供がお守りを着けている」と書くだけで終わります。しかし厚い記述では、「なぜ子供にお守りを持たせるのか」「そのお守りは村の宗教的・歴史的な文脈でどのような意味を持つのか」「親や共同体にとってどんな役割や象徴性があるのか」といった背景事情や人々の解釈まで掘り下げて書き記します。単なる事実に留まらず、その事実の持つ意味網(メッシュ)の中にまで踏み込むのが厚い記述なのです。

ギアーツはこの概念を提唱する際、イギリスの哲学者ギルバート・ライルの議論から着想を得ています。ライルは著作『思考の考察(The Thinking of Thoughts)』(1971年)で、人の瞬き(まばたき)を例に「厚い記述」と「薄い記述」の違いを説明しました。例えば、二人の少年が片目をぱちっと閉じたという同じ動作をしても、一方は単なる無意識のまばたき(生理的反射)かもしれないし、他方は仲間に対するウィンク(ウインク)、つまり秘密の合図かもしれません。薄い記述では「少年がまばたきした」とだけ記述され両者の違いは表れません。しかし厚い記述では、「少年は意図的に片目をつむり、それが仲間内では秘密の合図として理解されている」といった具合に、行為の意図や社会的符号性(サイン)まで含めて記述します。さらに、もしそのウィンクを別の人物が冗談で真似た(ふりをした)場合や、それをさらに第三者がパロディ化した場合など、重層的に文脈が積み重なると、表面の動作は同じでも意味は全く異なるものになります。厚い記述とは、このように動作一つとってもその裏に潜む意図・背景・文化的文脈を読み解き、出来事を多層的に理解するアプローチだといえます。

解釈人類学における位置づけ

ギアーツは自らのアプローチを「解釈人類学(Interpretive Anthropology)」と呼び、文化を記号(シンボル)の体系として理解しようとしました。彼は社会学者マックス・ウェーバーの言葉を引用して「人間は自ら紡ぎ出した意味の網の中に吊るされた動物である」と述べ、その「意味の網」こそが文化であり、人類学の目的はその網を解釈することにあると考えました。つまり、文化の分析とは法則の解明ではなく、意味の解読なのだという立場です。当時の人類学では、文化を科学的に分析して一般法則を見出そうとする試み(例えば機能主義や構造主義的な手法)が主流でしたが、ギアーツはそうしたアプローチに疑問を呈し、人文科学のように意味の解釈を重視する方法へと舵を切ったのです。厚い記述はまさにその象徴であり、異文化の習慣や儀礼を分析する際には、調査者が自分の文化的偏見を自覚しつつ、その現地の人々にとっての意味合いをできる限り丁寧に書き留め、解釈することが求められると説きました。

ギアーツの厚い記述の提唱によって、民族誌(エスノグラフィー)は単なる事実の羅列から「物語性」や「解釈」を伴う記述へと深化しました。ギアーツ自身、インドネシアやモロッコで行ったフィールドワークから得た知見を厚い記述によって描き出しています。有名な「ディープ・プレイ:バリの闘鶏に関するノート」では、バリ島の闘鶏という一見すると残酷な賭け事の風習を、バリ社会における男性の名誉や地位争いの象徴として読み解きました。ここでは闘鶏そのものの描写のみならず、そこに込められた闘争・威信・芸術的な意味までも厚く記述し、バリ人の世界観を文化内部から理解しようと試みています。このように、厚い記述は文化をテキストのように読み解くことを可能にし、人類学者が現地の語り手として文化の「意味」を伝えることを目指す方法論として確立しました。

歴史学への影響

ギアーツの厚い記述の手法は、文化人類学だけでなく歴史学にも大きなインパクトを与えました。1970年代以降、社会史や文化史の分野で「日常生活や象徴体系に潜む意味」を解明しようとする新しい歴史研究の潮流が生まれます。いわゆる「文化のターン(cultural turn)」と呼ばれる動きの中で、歴史家たちは過去の風俗習慣や儀礼、事件などを単なる年表的事実としてではなく、その時代の人々にとってどんな意味や象徴性があったのかを理解しようと努め始めました。この際にギアーツの提唱した厚い記述の考え方が参照され、歴史学的エスノグラフィーとも言うべき手法が発展しました。

例えば、18世紀フランスで起きたある職人たちの事件を扱う際、従来なら起こった出来事とその結果を記述するだけで終わっていたかもしれません。しかし文化史の視点を取り入れた歴史家は、その事件の当事者が拠って立つ世界観や価値観、象徴的な行為の意味を丹念に掘り下げ、事件を「厚く」描き出します。実際に、ヨーロッパ史の分野ではミクロヒストリー(微視的歴史)と呼ばれる個別事例の詳細な歴史分析が盛んになりましたが、その背景には人類学的な厚い記述の影響が指摘されています。歴史家ロバート・ダントンはパリの職人による「猫殺し事件」の研究で、事件そのものの記述に加えて職人階級の文化的ユーモア感覚や階層闘争の象徴性を分析し、出来事の深層にある意味を明らかにしました。このような研究姿勢はギアーツ的な方法論と共鳴するところが大きく、歴史学に新たな解釈的深みをもたらしたと評価されています。

もっとも、歴史学者による厚い記述の導入には課題も指摘されました。細部の文脈や特殊性にこだわるあまり、歴史の大局的な構造や比較が見えにくくなる可能性があるという批判です。事実、厚い記述的な文化史研究が進むと、歴史叙述が細分化・断片化しすぎて全体像を統合しにくくなるとの議論も起こりました。しかし、多くの歴史家はそれでもなお過去の文化現象の豊かな意味世界を再現することに価値を見出し、人類学から学んだ解釈の技法を積極的に採り入れています。こうして厚い記述は、歴史学においても過去の人々の心性や文化を理解する有力なアプローチの一つとして定着しました。

社会学・民俗学など他分野への影響

厚い記述の考え方は、社会学や民俗学をはじめとする他の社会科学・人文学分野にも広がりました。社会学では、もともとマックス・ウェーバー以来「理解社会学(verstehende Soziologie)」として、人間の主観的意味を理解する伝統がありましたが、ギアーツの仕事はそれを改めて後押しする形となりました。とりわけ定性的調査(質的調査)の分野で、フィールドワークによる詳細な参与観察記録やケーススタディを書く際に「厚い記述」が一つの理想的指針とみなされるようになりました。社会学者の中にはギアーツの議論を踏まえ、文化現象を解釈する際のガイドラインを提唱した者もいます。たとえばノーマン・デンジンは1980年代に解釈的相互作用論という著作の中で、厚い記述とは「単に人々の行動を書き留めるだけでなく、その文脈、細部、感情、当事者同士を結ぶ社会関係までも描き出すものであり、それによって初めて出来事の持つ意義が理解できるようになる」と説明しました。現代の質的社会調査では、インタビューや参与観察の結果を報告する際に背景事情や語り手の感情、場の雰囲気などを豊富に記述することが推奨されますが、これも厚い記述の概念が研究手法として広く受け入れられた結果と言えます。

また、近年の文化社会学の分野でもギアーツの影響は色濃く残っています。文化社会学者ジェフリー・アレクサンダーはギアーツの方法論を「人文学と社会科学を橋渡しする意味中心の社会科学」と評価し、自らの理論枠組みに取り込んでいます。彼らは社会現象を分析する際に、数量的データの分析だけでは捉えきれない象徴やナラティブ(語り)の重要性を強調し、文化を理解するには厚みのある意味の記述が不可欠だと論じています。このように、厚い記述は社会学における質的研究・文化分析の基盤概念の一つとなっており、調査結果の信頼性(クリデビリティ)や妥当性を高めるためにも詳細な記述が欠かせないという認識が共有されています。

民俗学(フォークロア研究)においても、厚い記述の影響は見ることができます。民俗学は各地の伝承や民俗慣習を記録・分析する学問ですが、かつては伝承のテキスト(例えば昔話の文面や祭りの手順)だけを収集して比較研究する傾向もありました。やがて1960年代以降、伝承をその現地の社会的文脈やパフォーマンス(上演)の状況とともに捉える「文脈主義」的な見方が台頭し、これは厚い記述の考え方と軌を一にするものです。つまり、ある民俗儀礼について研究する際にも、儀礼の手順や表面的な現象だけでなく、そこで語られる象徴的な意味や参加者の語る背景ストーリー、その地域社会における位置づけなどを総合的に記述・解釈することが重視されるようになりました。今日では民俗学の調査報告でも、例えば祭りの様子を描写する際にその歴史的由来や参加者の思い、地域コミュニティの価値観などを丁寧に盛り込み、読者がその文化の内側から理解できる記述を目指すのが一般的です。これも広い意味で厚い記述のアプローチが民俗学に根付いた結果と言えるでしょう。ギアーツ自身が直接民俗学の研究者だったわけではありませんが、文化の解釈に重きを置く視点は、人類学と親和性の高い民俗学にとっても大いに示唆的であり、フィールドワーカーが現地の語りを尊重しつつ文化現象を記述する手法として共有されているのです。

おわりに

クリフォード・ギアーツの「厚い記述」は、文化の捉え方と研究手法に革新をもたらした重要な概念です。それまで見過ごされがちだった「意味の層」を文化の核心に据えることで、人文学と社会科学の橋渡し役ともなりました。解釈人類学の旗印のもと、厚い記述は単なる学術用語を超えて、フィールドワークや質的分析に携わる研究者の基本的な姿勢として定着しています。文化人類学のみならず、歴史学・社会学・民俗学といった隣接領域でも、人間の営みに内在する意味を理解し記述する際の指針として広く受け入れられてきました。入門者にとっては難解にも思える概念かもしれませんが、要は「表面的な事実の裏に隠れた物語を読み解くこと」が厚い記述の本質です。ギアーツの厚い記述は、文化研究に豊かな洞察をもたらし、今なお「文化」を考える上で欠かせない視点を提供し続けています。

参照情報

Clifford Geertz (1973)The Interpretation of Cultures: Selected Essays. New York: Basic Books.

(※ギアーツ自身による論文集。第1章に厚い記述の概念を提唱した論文「Thick Description: Toward an Interpretive Theory of Culture」を収録。文化を「意味の網」ととらえ、その解釈を人類学の目的とする立場を詳述している。)

Ronald G. Walters (1980)“Signs of the Times: Clifford Geertz and Historians.” Social Research 47(3): 537–556.

(※歴史学者ウォルターズによる論文で、ギアーツの人類学が当時の歴史学に与えた影響を検討している。非数量的な社会史研究において、ギアーツの厚い記述が果たした役割と、その長所・短所について論じられている。)

Joseph G. Ponterotto (2006)“Brief Note on the Origins, Evolution, and Meaning of the Qualitative Research Concept ‘Thick Description’.” The Qualitative Report, 11(3): 538–549.

(※質的研究方法論の観点から「厚い記述」の起源と発展を概観した論文。哲学者ライルからギアーツへの概念継承、および社会学や教育学など人類学以外の領域で厚い記述がどのように受容・応用されたかを整理している。)

Jeffrey C. Alexander (2008)“Clifford Geertz and the Strong Program: The Human Sciences and Cultural Sociology.” Cultural Sociology 2(2): 157–168.

(※文化社会学者アレクサンダーによる論文で、ギアーツの思想を文化社会学の「ストロング・プログラム」と関連づけて論じている。ギアーツが提唱した意味中心の社会科学の重要性を評価し、社会学理論における位置づけを検討している。)

Norman K. Denzin (1989)Interpretive Interactionism. Newbury Park, CA: Sage.

(※社会学者デンジンの著書。厚い記述の概念を踏まえ、質的社会調査におけるデータの解釈と描写の方法論を体系化している。特に厚い記述によって調査結果に深みと説得力を持たせる手法について具体例を挙げて解説している。)

池田光穂『「厚い記述」のメタファー』(ウェブ記事)

(※文化人類学者・池田光穂による解説ページ。「厚い記述」の定義やライルの瞬きの例、ギアーツの思想的背景、日本語訳文献などが詳しく説明されている。ギアーツの概念を日本語で理解するのに有用な一次情報を含む。)