エッセイ「私と公害教育」

「環境教育」に関わって30年近くなります。1993年に自営の「環境共育事務所カラーズ」を開業し、「子どもの自然体験活動」からスタートした私の環境教育ですが、その後、参加体験型の学びやまちづくり、地域での市民活動者育成、そして大学での「環境教育論」担当など、テーマや対象も多様になっていきました。

 実はこうした仕事を始めて間もない1995年3月に水俣を訪れる機会がありました。最初は1993年に開館したばかりの「熊本県環境センター」と「水俣病資料館」の視察調査、そして患者支援団体の「ガイアみなまた」への滞在でした。マーマレードの瓶詰め作業を手伝い、スタッフの方々の子どもたちと遊んだことなどが思い出され、春のあたたかな日差しと八朔の香りの記憶がいまでも蘇ります。その後、水俣青年会議所から1997年「環境学校みなまた」、1998年子どもたち対象の環境ワークショップに相次いで呼んでいただきました。90年代は水俣市が「環境モデル都市づくり宣言」(1992)、吉井市長(1994〜)」の市民間の和解策「もやい直し」の推進、また被害者団体と政府の和解協定(1996)、水俣湾の汚染魚仕切り網の撤去(1997)などが背景にあり、主催団体としては水俣病のことは積極的に語らない行事であったように思います。つまりこれらは「公害教育」から切り離された<環境教育>であったように思います。そしてそれ以後20年、私の水俣との交流は途絶えてしまっていました。
私が「公害教育」を自分のこととして自覚するのはこれらのずっと後のこと、2009年になってからです。高田研さんからのお誘いで、あおぞら財団の「公害地域の今を伝えるスタディツアー」の企画運営に携わり、3年間にわたって富山、新潟、西淀川で患者さんやそのご家族、支援者、弁護士、医師、公害教育に関わる教員の方々、さらには原因企業の方からも直接お話しをうかがうことになりました。私にとっても、スタディツアー参加のみなさんとともに「公害から学ぶ」という体験でした。そして地域や関係者の方々の実情に触れることとなった参加者は少なからず「公害を語る」立場や役割の認識をしたと思います。

それ以来、大学の私の担当科目「環境教育概論」、「人間環境学概論」などで公害のことを取り上げるようになりました。いまの大学生は公害問題について小・中学校の社会科等で「過去の出来事」として習っているだけで、今につながる問題、さらには自分の問題であるという認識はほとんどありません。ところが大学生たちは、私の拙い授業によってでも、企業によって引き起こされた人為的な環境汚染、そしてその後の地域内の差別と分断、訴訟、患者救済や解決、地域再生に向けた努力などについて知ると、高度経済成長という時代背景、環境意識、企業の経営、人権、そして自分自身の社会人、家庭人としての将来と関連づけて考え始めることがわかりました。

また、研修や講演等で小・中・高の学校教員の方々と接する機会では、私の訪問した公害地域や公害教育の話になると、たいてい「初めて聴く話」として驚かれます。教員の側に公害は今につながる問題として、さらには自分にもつながる問題としての認識があれば、たとえ一つの単元でとりあげるトピックであっても、その内容や生徒・学生の学びはまったく違ったものになるのではと思います。こうした経験から、私は「公害を学ぶ」や「公害について学ぶ」というあり方から、「公害から学ぶ」というところに、すべての人々にとって学びの意義があると考えるようになりました。
とりとめない話になりましたが、公害教育は私たちが産業、技術、地域、社会との関わりを考え、またSDGsが掲げる「誰一人取り残さない」、そして一人ひとりが存在の豊かさを実現できる社会を創出していくうえで、大切な学びと視点を与えてくれます。ぜひすべての生徒・学生・教員のみなさんに「公害から学ぶ」機会をもっていただきたいと願います。

公害資料館ネットワークおよび日本環境教育学会:地域環境教育研究会 協働研究会
「公害教育」研究会 2018.6.16