アラン・チャドウィック講話『Ritual and Festivalia(儀式と祝祭)』

アラン・チャドウィックの講話『Ritual and Festivalia(儀式と祝祭)』(1979年9月15日、バージニア州カーメル・イン・ザ・バレー、Stephen Crimi編『Performance in the Garden』に所収)の、まとめです。

この講話は、自然との深い関わりの中から生まれる儀礼と祝祭の意味を問い直すものでした。彼は、古代の神話や天体のリズム、そして植物の営みに見られる霊的秩序に基づき、人間の言葉や動作、芸術表現を再び生命と宇宙の流れとつなげようとします。宗教的ドグマに依らず、園芸という日常の実践を通じて自然と共鳴する場を築くことが、RitualとFestivaliaの本質であると説いています。それは、現代における感性と共同体性の再生への提案でもあります。


1.古代儀式と「犠牲」の精神性

アラン・チャドウィックは講話の冒頭において、プレ・アステカ文化に見られる宗教儀礼と「犠牲」の在り方を紹介する。若者が自ら進んで生贄として選ばれることを名誉とし、その死を共同体全体の一体性の象徴としたこの文化は、現代の価値観から見れば極端であるが、その「犠牲」の概念に内在する精神性の深さにこそ注目すべきだとチャドウィックは語る。彼にとって犠牲とは、理解を超えた「生きた力」への全幅の信頼、すなわち言語化不可能な「スピリチュアルな実在」への応答である。この応答は、個の利益や理性を超えた次元で成り立つものであり、儀礼はそうした「超越的存在」と人間との媒介を果たす役割を担っていた。現代社会では「犠牲」や「儀式」は不適切で非合理的とされがちだが、チャドウィックはそこにこそ人類の精神文化の核があると見る。このような視点は、彼の園芸実践にも通底しており、自然との関係性を単なる道具的なものではなく、神聖なものとして再構築しようとする思想に繋がっている。儀式の持つ「拘束力(holding power)」は、目に見える効果や効率性ではなく、目に見えない次元での深い信頼と関係性によって成り立っているのである。


2.園芸における儀礼と祝祭の再創造

チャドウィックは、本講話において「Ritual(儀礼)」「Festivalia(祝祭)」の再創造を提唱するが、そこに宗教的ドグマを持ち込む意図は一切ないと明言する。彼が求めるのは、自然と人間との関係を再び神聖なものとして捉え直すための、深い感覚的実践としての儀礼であり、園芸という日常の営みに内在する喜びや崇敬の表現としての祝祭である。園芸における「パフォーマンス」とは、単なる作業や生産活動ではなく、「言葉の世界(Verbosity)」から解き放たれた「感覚の世界」への移行であり、そこには自然から受け取る「贈与」と、その「赦し」を通じて人間が豊かさを受け取る過程がある。チャドウィックは、この関係のなかに「果実のような成果(Fruitiousness)」が生まれ、それが「幸福」として人間の内面に芽生えると説く。そしてその幸福は、さらに美や芸術的表現を生み出す原動力となる。したがって、園芸におけるRitualとFestivaliaとは、自然との交歓を祝う人間本来の営みであり、その起点となるのは日々の畑や庭での労働である。この労働は、単なる肉体的な作業にとどまらず、宇宙的・精神的次元と接続する「儀式的実践」として再定義されるべきである。チャドウィックはこのようにして、現代社会に失われた「生の神聖性」を、園芸の実践とともに回復することを目指している。


3.言葉、身体、芸術表現の浄化と再構築

チャドウィックは、現代における言語と身体の表現が「無意味な饒舌(Verbosity)」に堕していることに警鐘を鳴らし、詩、沈黙、動作、美的表現の回復を強く主張する。彼によれば、人間の表現は本来、自然のリズムや霊的存在との交歓を媒介するものであり、単なる情報伝達や知的遊戯にとどまるべきではない。彼が提案する「週に一度の無言の日」は、言葉の暴走を抑制し、沈黙を通して深い感覚や霊的気づきを育む場となる。この沈黙は、消極的な抑制ではなく、生命のリズムや自然の音と再調和するための積極的行為である。また彼は、かつてのスコットランド貴族社会において、午前中は詩でしか親に話せなかったという文化例を引き合いに出し、言語の様式化と意識的な表現の重要性を説く。さらに彼は、動作や姿勢、服装、色彩、香りといった身体的・感覚的表現が、人間の存在全体を詩的かつ神聖なものに昇華する可能性を持つと考える。ここにおいて、詩や舞踏、造形芸術は単なる装飾や娯楽ではなく、自然と宇宙の運行に応答する儀式的表現として位置づけられる。チャドウィックのこの思想は、園芸におけるリズムや形態の観察と同様に、身体や言語の表現もまた精緻な調律を必要とするものであるという認識に基づいている。彼の提案するRitualとFestivaliaは、このような浄化された言葉と身体表現によって、現代人が失った深い自己感覚と世界との一体感を回復することを目指している。


4.神話の再接続と可視・不可視の統合

チャドウィックは、神話のもつ本質的価値を、現代的感性において再評価し、自然や人間存在との新たな接続点として提示する。講話の中盤では、ギリシャ神話の「ティトノスとオーロラ(暁の女神)」の物語を丁寧に語り、神話が単なる古代の空想ではなく、自然界に内在する「可視と不可視の接合点」を示す象徴的言語であることを明らかにする。ティトノスの悲劇—不死となったが老いゆく身体を持ち続ける存在—は、永遠性と肉体性の矛盾を抱えた現代人の存在状況と重ね合わせて読むことができる。チャドウィックは、花の名前「ティトニア(Tithonia)」に隠された神話的由来を引きながら、植物そのものが神話の具現であると捉える視点を提示する。このように、神話と植物の象徴性を重ねることで、自然の形態や変化に対する感受性が再び活性化されるのである。また、彼は神話を「見えない世界(Invisible)」と「見える世界(Visible)」をつなぐ唯一の手段であるとし、それは宗教以前の時代においても、人間と宇宙との関係性を可視化する知の形式であったと述べる。この視点は、教育や表現における神話の復権を求める思想とも結びつき、子どもたちや次世代の感性の中に神話を「生きた現実」として呼び戻す試みである。チャドウィックにとって神話は、過去の遺産ではなく、自然と芸術を媒介する現在進行形の力であり、RitualとFestivaliaを通じて再び現代の生活の中に息づかせるべき、霊的・芸術的資源なのである。


5.四大天使と自然暦に基づくリチュアル

チャドウィックは、本講話の終盤において、Ritualの根幹として四大天使(ウリエル、ミカエル、ラファエル、ガブリエル)と天体のリズム、すなわち季節の節目である二至二分(春分・夏至・秋分・冬至)を挙げる。これは、彼の宇宙的自然観—自然界が目に見える物質的存在にとどまらず、天体の運行や霊的存在との連関によって構成されているという認識—を明確に示している。彼は特に秋分期におけるウリエルとミカエルの交代的役割に着目する。ウリエルは太陽的な霊性をもって豊穣と成熟を導くが、その力が極点に達すると「圧倒的恩寵(Overwhelming Gifts)」となって世界にバランスの喪失を招きかねない。そこで、次に登場するのがミカエルである。ミカエルは、アーリマン的な力(物質主義・機械化された暗黒)を見張りながら、再生と沈黙の期間へと導く「下降の天使」として位置づけられる。

チャドウィックにとって、このような天使たちの交替は、単なる神話的想像ではなく、季節ごとに変容する自然界の中に現実として感じ取られるべきプロセスである。そして人間は、この天体と天使の運行に呼応するようにRitualを創造・実践しなければならない。すなわち、Ritualは単に人間が構築するものではなく、「自然の儀式」としてすでに存在している宇宙のリズムへの応答なのである。このような感受性をもとに形成されるRitualは、宗教儀礼とは異なり、自然そのものの営みに即した「霊的・感覚的な実践」として構想されている。チャドウィックの提唱するRitualは、まさに自然暦と宇宙意識に基づく、生きた儀式であり、人間存在を宇宙的関係性の中に位置づけ直すための枠組みなのである。


6.ギリシャ黄金時代と現代の断絶

チャドウィックは、神話と儀礼が日常生活と不可分であったギリシャ黄金時代に言及し、それがいかに現代において失われてしまったかを痛烈に指摘する。彼によれば、ギリシャ黄金時代—特にアレクサンダー大王の東方遠征以前—は、神話や哲学が「生きられた現実(Lived Reality)」であり、人々は神話を「信じていた」のではなく、「神話そのものとして生きていた」。この生の様式においては、神話は宗教的信仰や物語ではなく、世界と自己との関係性を身体的・精神的に体現するための「存在の形式」であった。すなわち、神話は解釈の対象ではなく、実践の中に内在するものであったのである。

しかし、アレクサンダーによる征服とギリシャ世界の拡散は、この霊的・哲学的共同体を破壊し、個人主義と断絶の時代へと移行させた。その結果、神話は「神話について語る神話」へと変容し、実践から乖離した思弁の対象となってしまった。チャドウィックは、これを「神話の脱神話化(Demythologization)」の過程と見なし、同様の傾向が現代教育や宗教にも見られると批判する。

彼は、神話のこうした失われ方を「太陽の太陽の太陽が見えなくなる」といった比喩で表現し、神話の源泉に到達するためには、再び人間の感覚や共同体の中に儀礼を復活させる必要があると強調する。古代ギリシャの演劇(たとえば『プロメテウス』)が、娯楽ではなく「霊的教育」として民衆すべてに開かれていたことを引き合いに出し、儀式が社会の根幹をなしていた時代の再構築を目指す。チャドウィックにとって、RitualとFestivaliaの復興は単なる懐古ではなく、人間の霊性と共同体性を取り戻すための実践的提案なのである。


7.園芸的共同体と芸術表現としてのFestivalia

チャドウィックは、「Festivalia(祝祭)」を単なる娯楽的な催しとしてではなく、園芸的実践を通じて生まれる内的幸福や共同体的喜びの自然な表出として位置づける。Ritual(儀礼)が自然のリズムと人間の霊的感受性をつなぐ静的な構えであるとすれば、Festivaliaはそこから流れ出す動的な創造行為であり、音楽・詩・衣装・舞踏・演劇・造形芸術など、多様な表現形態を通じて人間の生命力と自然の美を響き合わせる祝典である。彼はその象徴として「蜜蜂の祭り」を例に挙げ、自然界の生きものの営みに対する詩的応答として、歌や踊り、オペラまでもが創造され得ると語る。

特に注目すべきは、チャドウィックが祝祭の中核に「神話的意識」「寓意(Parable)」を据えている点である。Festivaliaにおける表現は、単なる再現や模倣ではなく、可視・不可視、自然・超自然、過去・現在といった諸次元の交差点として構成される。たとえば、神話的存在であるティトノスやオーロラをめぐる物語が、実際の花の名前や形状、季節的変化と結びつくことで、園芸という実践の中に神話が再現されるのである。このようにして、自然そのものが神話を語る舞台となり、Festivaliaはその舞台で繰り広げられる多層的な表現の場となる。

チャドウィックは、こうした芸術的祝祭が個人の感性を解放し、共同体的な感応性を育むと同時に、人間が再び「自然の物語」を語りうる存在となることを期待している。宗教的儀礼ではなく、「自然の美しさと霊性への応答」としてのRitualとFestivaliaの実践は、人間と自然の間に断絶ではなく共鳴を生み出す空間を創出する。このビジョンこそが、チャドウィックの園芸思想における芸術的・霊的頂点のひとつであり、共同体の再構築を目指す彼の最も詩的かつ政治的な提言でもある。