
大学専任教員としての立場、役割が、あと1ヶ月で終わります。
立場上、所属学会などから学会誌に投稿される論文の査読、コメント、学会大会での発表の予備審査などを求められる役割もよくありました。また学位論文の審査や口頭試問の審査も務めることもありました。こうした役割は研究者コミュニティにおいて大切なもので、研究者として大学から給料をもらっている私は引き受ける責任があると思って、(分野がすこし違うなと思っても)辞退することなく引き受けてきました。こうした経験を通して、論文を「評価する側」に立つ時間を長く過ごしてきました。(そしてこうした役割は学位審査を除き基本的にボランティアで、かつ匿名審査なので、社会からは見えない役割です。)
そんななか、ときおり言葉にしにくい違和感を覚えることがあります。それは、研究の方法が稚拙であるとか、先行研究の整理が不十分であるといった、技術的な問題とは少し異なる種類のものです。むしろ、研究としては一定の完成度を備えており、統計的にも整合的で、定められた基準を満たしているにもかかわらず、「本当にこの研究は、ここで終わってよいのだろうか」と感じてしまうような違和感です。
その違和感は、多くの場合、研究が扱っている実践の性質と、論文として提示されている説明の枠組みとの間に生じています。たとえば、私が関わってきた環境教育、野外教育、ウエルネス、あるいはソーシャル・イノベーションといった分野の研究は、本来、場や関係性、プロセス、偶発性といった要素を多く含んでいます。人と人、人と自然、人と社会制度との関係が、時間をかけて変化し、編み直されていく過程こそが、実践の核心にあるはずです。
しかし、論文としてまとめられる段階になると、そうした厚みのあるプロセスが、心理尺度や質問紙、成果指標といった「測定可能なアウトカム」に強く収斂していくことがあります。自己効力感が向上した、態度が変容した、満足度が高まった、といった結果は確かに重要ですし、研究成果として提示しやすい形でもあります。けれども、それらの数値の背後で、どのような関係の変化が起きていたのか、どのような葛藤や試行錯誤があったのかが、十分に語られないまま終わってしまうとき、私は強い物足りなさを覚えました。(例えていうと、生き生きとした地元食材を扱っている料亭に行っているのに、「データ」に収斂されて美味しさがない。という感じです。)
このような違和感が厄介なのは、それが「誤り」ではない点にあります。研究は、設定された問いに対して、適切な方法で答えています。分析も丁寧で、結果も明確です。そのため、単純に否定することはできません。しかし同時に「この研究が本当に捉えようとしていたものは、ここに示されている結果だけだったのだろうか」という問いが、読み終えた後にも残ります。
この問題は、研究者個人の姿勢というよりも、学術研究を取り巻く構造と深く関係しているように思います。論文という形式は、研究に一定の透明性や説明責任を求めます。学会誌ではページ数制限もあります。その結果、どうしても「何がどれだけ変わったか」というアウトカム中心の記述が優先されやすくなります。一方で、「どのように変わったのか」「なぜその変化が生じたのか」といったプロセスの記述は、主観的で曖昧なものとして後ろの方に退きがちです。
けれども、環境教育、野外教育、ウエルネス、あるいはソーシャル・イノベーションといった実践において、本当に重要なのは、数値として測定された変化そのものではなく、その変化を可能にした関係性や場の構造ではないでしょうか。参加者同士の信頼関係がどのように形成されたのか、実践を支えた人々がどのような判断を重ねていたのか、環境や制度がどのように作用していたのか。そうした問いを抜きにしてアウトカムだけを提示することは、実践の核心をすり抜けてしまいます。
私は、成果や効果を測定する研究を否定したいわけではありません。むしろ、それらは実践の価値を社会に伝えるために不可欠です。ただし、成果を生み出した背景や条件、関係の編み直しの過程が語られないままでは、研究は次の実践へと十分に接続されません。結果は共有されても、プロセスが共有されない、という事態が生じてしまいます。
論文を読んで審査したりコメントする立場として感じる違和感とは、言い換えれば、「この研究は、実践のどの部分を切り取り、どの部分を置き去りにしているのか」という問いなのだと思います。論文の完成度が高ければ高いほど、その問いはかえって見えにくくなります。だからこそ、結果の妥当性だけでなく、研究が捉えようとした実践の全体像に、どこまで迫れているのかを問い続ける必要があると感じています。
専任教員としての立場ではなくなりますので、こうした査読などの機会は少なくなることでしょう。実践に根ざした研究が持つ豊かさを、学術の言葉でどのように記述するのかを引き受けることが、これからの研究に求められているように思います。このことを考え続けること自体は、これからも私の関心であり続けると思います。