
アラン・チャドウィックの講話『Fragaria: The Strawberry(苺)』(1978年8月23日、カリフォルニア州コベロ、ラウンドバレー菜園プロジェクト、Stephen Crimi編『Performance in the Garden』に所収)の、まとめです。
アラン・チャドウィックの講話「Fragaria: The Strawberry」において語られる苺は、単なる果実ではなく、生命の神秘と感性、共生と精神性を象徴する存在として位置づけられています。彼は、苺の香りや風味、種子繁殖の意義、共生的生態、さらには古品種の記憶を通して、近代農業が失った豊かさを詩的かつ批判的に描き出しました。とりわけ「死の畑」の比喩に見られるように、工業的農法が自然のリズムを奪い、感性の麻痺を引き起こしていることへの深い憂慮が込められています。苺を育てるという行為は、土と対話し、生命のリズムに身を委ねる精神的実践であり、チャドウィックにとって園芸とは「魔法」と「祈り」が交差する行為でした。苺の寓話は、私たちに農の未来と自然との関係を改めて問いかけています。
1. Fragariaの美学と官能性:自然の中のエロス
アラン・チャドウィックによる講話「Fragaria: The Strawberry」において、苺(Fragaria)は単なる果実や栽培対象を超え、視覚・嗅覚・味覚を統合する「官能の植物」として描かれている。彼は苺をバラ科の植物としてその美しさを称揚し、しばしば「エロス(Eros)」と並び称しているが、ここでいうエロスとは単なる性愛的意味を超えた、自然の根源的な創造力と官能的魅力の象徴である。苺の果実は、「透き通るような赤色」と形容され、単なる色彩ではなく、光の透過性と内包された瑞々しさによって、見る者に「見ることを超えた感覚体験」をもたらす。この「見る/感じる」という境界を越える果実の在り方は、視覚と味覚の相互浸透を生み出す典型例といえる。
苺の果実は、外皮に種子を宿すという特異な構造を持ち、チャドウィックはこれを「ワイヤー(wire)」のような電気的構造になぞらえている。果実の内部を貫く微細な導管が、果肉の柔らかさと合わさって、種子一粒一粒へと生命力を伝達するというイメージは、植物の生命的構造を詩的に、かつ構造的に表現したものである。これは、植物を静的な物体ではなく、内部で脈動し続ける生命の回路として捉えるチャドウィック独自の自然観を示しており、科学的説明と詩的感受性のあいだを橋渡しする思想的架橋といえる。
加えて、苺が持つ「香り(perfume)」への言及は、植物を「嗅ぐ」対象ではなく、「香りに包まれる」経験として提示するものである。チャドウィックは香りの繊細さを語る際に、「匂いを嗅ごうとすると消えてしまう」と述べ、官能的な経験の本質が、意識的な把握ではなく、身体全体での無意識的な受容によって生まれると強調する。これは、感覚が純粋な知覚ではなく、自然との「関係の中に生じる知」であるという、東洋的直観や現象学的知覚論と共鳴する立場である。
このように苺は、色・形・香・味といった諸感覚を横断しつつ、それらが統合された「エロス的存在」として庭の中に顕現する。チャドウィックにとって園芸とは、単なる技術や労働ではなく、自然の美とエネルギーとが人間の身体と精神を通じて響き合う、総体的な芸術行為である。苺という植物は、その官能性において、まさに「庭の魔法(magic of the garden)」を体現する存在であり、人間と自然との感覚的・精神的な繋がりを象徴する「生きたエロス」なのである。
2. 原種の系譜と文化的選抜の詩学
アラン・チャドウィックは、苺(Fragaria)の起源と栽培品種の系譜をたどりながら、その進化と人間との関係を「文化的選抜の詩学」として捉える。苺はバラ科に属する多年草であり、その原種は世界各地、とりわけ北半球の温帯域に広く分布してきた。たとえばヨーロッパ原産のFragaria vesca(ヨーロッパクサイチゴ)、アルプスに自生するFragaria elatior(別名hautbois)、南北アメリカに広がるFragaria chiloensisおよびF. virginianaなどは、それぞれが独自の形態と風味を有し、人間の文化的営みに応じて選抜・交配・栽培されてきた。こうした種の多様性は、単なる生物学的変異ではなく、人と植物の共進化的関係の反映である。
チャドウィックが注目するのは、これらの苺が持つ「固有性(singularity)」の美である。野生種の果実は小粒で、香りが強く、しばしば形がいびつであるが、そこには土壌や気候、そして人びとの生活風景と深く結びついた「風土の記憶」が刻まれている。近代以前の園芸家たちは、この野生の持つ力と詩情を尊重しつつ、それぞれの土地で適応的に品種を育成してきた。チャドウィックはとりわけ「ロイヤル・ソヴリン(Royal Sovereign)」という古典的品種を挙げ、それがいかに風味豊かで香り高く、しかも極めて繊細な存在であるかを語る。このような品種は大量生産には向かず、むしろ人間の注意深い世話と風土への愛着によってのみ守られてきた「文化の宝石」として扱われる。
一方、現代の商業農業は、そうした固有性を「非効率」「不安定」として排除し、保存性や収穫量、形状の均質性を優先した品種を世界中で一律に展開している。その結果、かつては多様で豊かな文化的景観を支えていた苺の品種たちは、消えゆく運命にある。チャドウィックはこの現状を「味覚と感性の貧困」と呼び、苺を育て、味わい、語り継ぐという行為そのものが、文化的持続性の試金石であると捉える。
苺という植物の系譜はしたがって、単なる植物分類学の対象ではなく、人間の感性・記憶・風土との関係を刻んだ詩的遺産である。チャドウィックにとって、園芸とはその詩学的遺産を身体化し、現代に蘇らせる営みである。文化的選抜の詩学とは、機能的合理性では測りきれない「生きられた経験」を継承する行為であり、Fragariaという植物の中に、人間と自然の関係の深層が宿っているという哲学的洞察に他ならない。
3. 種子繁殖と生命の起源への回帰
アラン・チャドウィックは、苺の繁殖方法の違いを通して、生命の在り方や農の倫理を根本から問い直している。とりわけ彼が強調するのは、種子(seed)による繁殖こそが植物の本質的な「生命の起源(origin)」を体現するものであり、それに対して栄養繁殖(ランナー)は、あくまで複製=クローンとしての性格を持つという点である。苺は多年草であり、一般には地上茎(ストロン)から新株を増やすが、この方法では遺伝的多様性が生まれず、植物の本来的な生命力や地域適応性が失われやすい。チャドウィックはその点を深く憂慮し、種子から育てるという行為のなかに、自然界の創造力との真の協働を見出している。
この思想の根底には、生命とは一回性・固有性を持ち、環境との関係性の中で変容しながら新たな存在を生み出す力であるという哲学がある。種子には、親植物とは異なる性質が宿る可能性があり、それゆえに環境条件に応じた適応が可能となる。チャドウィックは、この「origin」という語に重ねて、園芸における真の創造とは、既存の形を維持することではなく、自然との対話の中で未知のものを育む行為だと主張する。
一方で、現代の商業的苺栽培は、収量の安定性や品質の均一性を重視し、クローン苗の大量増殖に依存している。この実践は、種子のもつ創造性を否定し、「予測可能で管理された自然」を作り上げることに他ならない。チャドウィックはこうした現代農法を「死んだ農業(dead agriculture)」と呼び、そこでは土壌も空気も水も、人間の都合に合わせて機能化され、本来的な生命との関係が断絶していると述べている。
種子繁殖の実践はまた、人間の感性と観察力を要求する行為でもある。種を蒔き、発芽を見守り、気候や土の状態を読み取りながら生育を助ける過程には、単なる労働ではなく、「自然の声を聴く」精神性が要請される。チャドウィックにとって、園芸とはこのような霊的協働の場であり、種子から苺を育てるという行為は、自然の本源的リズムと響き合う一種の儀式なのである。
このように、苺の種子繁殖をめぐるチャドウィックの思想は、近代農業の物質的・管理的傾向に対する批判であると同時に、生命の起源と創造性への回帰を志向する哲学的実践でもある。園芸を通して自然と対話し、生命の多様性と儚さを受けとめること。そこに、彼が苺に託した深遠なメッセージが宿っている。
4. 共生と環境適応の美学:苺の社会的知性
アラン・チャドウィックは、苺という植物が持つ環境適応力と共生的性質に注目し、それを単なる生物学的性質ではなく、「社会的知性(social intelligence)」として捉えている。苺は本来、寒冷な地域に自生する植物であり、光と湿度に敏感で、土壌の質や気候の変化に繊細に反応する。だがその一方で、苺は驚くほどの適応能力を備えており、多様な環境条件のもとで生育し、特定の植物との混植(intermarriage)やパーマカルチャー的配置を通じて、他種と協調的に共存することが可能である。このような性質は、チャドウィックにとって、苺が単に「育てられる植物」ではなく、周囲との関係性の中で自らの居場所を形成する「関係的存在」であることを示している。
彼は特に、苺を他の植物や微生物、昆虫との相互作用の中で位置づけることの重要性を強調している。たとえば、苺は近くに植えられたルバーブやレタス、玉ねぎ、そして一部の花卉植物と相互に良好な影響を及ぼし合う。この「コンパニオンプランティング」は、ただの経験則ではなく、生態系の中における情報交換やアレロパシー的相互作用に基づく複雑なネットワークとして理解される。チャドウィックはこうした配置を「ガーデンの対話的構造(dialogic structure)」と呼び、植物同士が音楽のように呼応しながら調和を形成するプロセスとして捉える。
また、苺が育つ空間には「空気と風と光の舞台設計」が必要であり、それを考慮せずに植え付ければ、病害虫の発生や実の劣化が避けられないと彼は説く。この点において、園芸とは生物と環境の関係性を読み解き、その調和を創り出す美学的実践に他ならない。苺はその繊細な生育条件ゆえに、人間の観察力と感性を要求し、また逆に、それを育てる過程で自然との共鳴的な関係を育むことになる。
チャドウィックが語る「社会的知性」は、人間中心主義的な「知性」概念とは異なる。そこでは、知とは思考や判断力だけでなく、環境に調和し、相手と共振し、変化に柔軟に対応する能力である。苺のもつこのような性質は、人間社会においても必要とされる共生性や応答性の象徴であり、園芸を通じてそれを学び直すことは、教育的実践としても大きな意味を持つ。
このように、苺の共生的適応力は、チャドウィックにとって単なる植物の特性にとどまらず、自然界に内在する関係性の倫理と美学を示すものである。苺は、庭という舞台で他者と調和的に生きる「小さな賢者」として、私たちに社会的存在としての在り方を静かに教えてくれている。
5. 死の畑と植物の喪失:産業農業への批判的黙示録
チャドウィックが最も強い調子で批判するのが、近代的な工業型農業がもたらした生命喪失の風景である。彼は苺の大規模栽培が、かつて人間と自然のあいだに存在していた「親密な関係」を断絶し、「死の畑(field of death)」を生み出してしまったと語る。この表現は詩的な比喩ではあるが、その内容は極めて具体的である。つまり、地面は黒いセロファン(cellophane)で覆われ、空気の循環もなく、太陽光や水、微生物の働きも遮断され、苺は工場製品のように均一に生産される。このような人工的環境では、「生と死」という自然の根源的リズムが排除され、生命の循環は停止し、苺自身も「すでに死んでいる」とチャドウィックは述べる。
この「死の畑」の比喩には、単なる環境批判を超えた文明批判の射程がある。チャドウィックは、経済合理性や効率性を追求するあまり、現代社会が生命の本質的価値を見失っていると考える。彼によれば、かつての苺の栽培には、手で触れ、香りを感じ、形を見て、その果実を「人格をもった存在」として扱うような感性があった。ロイヤル・ソヴリンのような古品種は、味と香りの繊細さゆえに、摘み取りも運搬も慎重さを要し、人間の注意深いケアと経験が不可欠だった。だが現代の苺は、傷みにくさや長距離輸送への耐性が重視され、「銃弾のように硬く(hard as a bullet)」、無臭で、味気ない商品として流通している。
また、こうした生産様式は、土壌や環境だけでなく、農に関わる人間の身体や精神にも影響を及ぼす。チャドウィックは、農民が苺に直接触れることもなく、手袋越しに収穫し、機械的に包装するその姿を「園芸からの魂の剥奪」として嘆く。そこには、植物への尊敬も、育てることの喜びも存在せず、ただ労働の疎外と環境からの分断があるのみである。
このように、チャドウィックの言う「死の畑」とは、単なる比喩ではなく、人間が自然とのつながりを喪失し、感性と創造性を麻痺させられた空間を指す。その中で育つ苺は、生命としての尊厳を奪われた存在であり、かつての「庭の魔法(magic of the garden)」の記憶をもはや宿すことはない。苺はここで、産業社会における「失われた自然」の象徴であり、私たちがどのような未来を選ぶのかを問う、静かなる黙示録的存在なのである。
6. ミグノネットの香りと無思考の知:感性の哲学
チャドウィックの苺の香りに関する言及は、感性と知覚に関する彼の哲学的立場を端的に示すものである。彼は、苺の香りを「ミグノネット(mignonette)の香り」と呼び、これが極めて繊細で、注意深く集中して嗅ごうとするとかえって消えてしまうと述べる。この逆説的な知覚現象は、五感を通じて世界と接する際の「力まなさ」、すなわち「無思考の知(non-analytical knowing)」が必要であるという彼の感性の哲学を象徴している。
この「ミグノネットの香り」は、通常の植物の芳香とは異なり、空間に微かに漂うが、意識的に追えば逃げ去り、ふとした瞬間にだけ現れる。そこには、近代的知性が重視してきた分析的思考や対象化とは異なる、身体的かつ瞬間的な感受性が要請される。チャドウィックはこの経験を、「香りが風景の中から立ち現れる瞬間」として捉え、それを感性における「魔法(magic)」と呼ぶ。彼にとって、植物の香りとは単に物質的な粒子の拡散ではなく、植物と人間のあいだに生じる関係性の表現であり、まさに「間(aida)」に立ち現れるものである。
このような感覚の扱い方は、東洋思想や現象学とも通底している。たとえば禅における「無心」や、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」においても、意図的な意識の枠組みを離れたところで、世界との深い接触が可能になるとされる。チャドウィックは苺の香りという一見取るに足らない現象を通じて、人間の知覚が自然との「同調」によって拡張されること、そしてそこにおいてこそ「真の知」が生まれることを語っている。
またこの香りの話は、「知るとは関係を結ぶことである」というチャドウィックの教育観とも深く結びついている。植物の香りを知ることは、その植物の生命のリズムや環境への応答性に身体を重ねることでもある。それは情報や知識の蓄積ではなく、「感じることによって生まれる理解(felt understanding)」であり、園芸という実践の中でしか得られない生の知である。
このように、ミグノネットの香りは、感性の入り口として、自然との深い関係性を示唆するものである。苺という植物を通して現れるこの香りは、単なる感覚的愉悦ではなく、チャドウィックが説く「自然の神秘への門」であり、園芸とはこの門をくぐるための芸術的実践なのである。
7. Royal Sovereignの寓話:失われた風味と農の未来
チャドウィックがとりわけ情熱的に語るのが、「ロイヤル・ソヴリン(Royal Sovereign)」という苺の品種である。彼にとってこの苺は単なる果実ではなく、かつての園芸文化が体現していた「香り」「風味」「繊細さ」といった感性の頂点であり、同時に現代の農業が失いつつある価値を象徴する「寓話的存在」である。チャドウィックは、この苺を育て、食し、語るという行為のなかに、農という営みの本質が凝縮されていると考えていた。
Royal Sovereignは、20世紀初頭にイギリスで育種された古典的な品種である。果実は柔らかく、香り高く、そして何よりも味わいが極めて豊かであったとされる。しかし、この苺は輸送に弱く、また保存も効かないため、現代の市場流通に適応できず、商業的には次第に淘汰されていった。チャドウィックはこの事実を「風味と香りを殺すことで、形と利便性を得た」と喝破し、それはまさに「感性の死」であり、「魂を失った農業」の象徴であると強く非難する。
この苺をめぐる話は、単なる品種の記録ではなく、ある文化の記憶と喪失を語る寓話として機能している。つまり、かつての農園には、ひとつの苺を摘み、手のひらで温めながら香りを確かめ、口に含んでゆっくりと味わうという、自然と感性が深く交差する時間があった。そのような体験の中で、人びとは自然のリズムに自らの感覚を同調させ、植物と共鳴する知を育んでいた。しかし、現代の工業的農業においては、そうした身体的・感性的接触が断絶され、苺はもはや味わうべき対象ではなく、「買われ」「運ばれ」「保管される」ための工業製品と化している。
Royal Sovereignは、そうした時代の分水嶺に置かれた存在であり、「風味」という感性の基準がいかに経済合理性によって葬り去られたかを物語っている。チャドウィックにとって、この品種はノスタルジーの対象である以上に、「農の未来」を問う存在である。つまり、私たちはどのような苺を育てたいのか、そしてどのような味を未来の子どもたちに伝えたいのかという問いを通して、農という営みの価値を再構築する必要があるというメッセージが込められている。
このように、Royal Sovereignという苺の品種は、単なる園芸史の遺物ではなく、チャドウィックの思想における「失われた豊かさ」そのものである。それは、生産性や効率性では計れない、植物と人間の関係性のなかに息づく美と意味を取り戻すための、象徴的な語りなのである。
8. Fragariaの魔法と庭の精神性
チャドウィックにとって、苺(Fragaria)は単なる作物ではなく、「魔法(magic)」と「精神性(spirituality)」を宿す存在であった。この講話において、苺はしばしば、人間と自然、そして見えざる世界との接続点として語られる。すなわち、庭は単なる耕作の場ではなく、「魂の舞台」であり、Fragariaという植物は、そこに魔的に現れる媒介者、あるいは詩的な精霊のような存在である。
彼の思想における「魔法」とは、迷信やファンタジーのそれではなく、生命がもつ創造的潜勢力(potentiality)への深い畏敬と感応である。苺の種子を撒き、発芽し、やがて果実を結ぶまでの過程には、人智を超えた秩序と美が宿っており、それは理性や効率によっては決して完全に説明し得ない領域である。苺の開花と結実の繊細なタイミング、果実が熟す瞬間の香気の立ち上がり、さらには周囲の環境との共鳴──こうした現象をチャドウィックは「ガーデンの魔法(the magic of the garden)」と呼び、それを感じ取ることこそが、園芸の本質であるとする。
この魔法は、単に植物の生理的変化を観察するだけでは立ち現れない。それは、園芸者が心を澄まし、土と対話し、自然のリズムと「共に在る(being with)」という深い身体的・精神的集中のなかでのみ経験される。チャドウィックは、庭仕事を「宗教的行為(religious act)」に等しいものと見なしており、そのなかに、人間の霊性が自然と結び直される回路を見出していた。とりわけFragariaのような繊細な植物は、その存在自体が「注意深さ」と「敬意」を要求する。つまり、この植物を育てることは、自己を自然の一部として再位置づけ、謙虚に仕えることを学ぶ訓練でもある。
また、チャドウィックの語る「庭の精神性(garden spirituality)」は、キリスト教的自然観や西洋神秘主義の文脈とも接続している。Fragariaはしばしば「純粋性」や「愛の象徴」として西洋文学や宗教画に描かれ、その小さく甘美な果実は、楽園喪失後の世界に残された最後の恵みであるかのように扱われてきた。チャドウィックはこうした文化的記憶を背景に、現代においてもなお、苺が人間の魂に語りかける力をもっていると信じていた。
このように、Fragariaはチャドウィックの園芸思想において、「自然と人間の再統合」を象徴する植物である。それは、味や香りといった官能を超えて、世界の神秘に触れる媒介者であり、園芸という実践に内在する精神的変容の可能性を開く「詩的なるもの(the poetic)」の体現者なのだ。