アラン・チャドウィック講話『Classic Herb Garden(薬用植物園)』

アラン・チャドウィックの講話『Classic Herb Garden(薬用植物園)』(1979年9月20日、バージニア州カーメル・イン・ザ・バレー、Stephen Crimi編『Performance in the Garden』に所収)の、まとめです。

講話『Classic Herb Garden』は、ハーブを単なる植物ではなく、宇宙的で霊的な力を宿す「道徳的な存在」として捉え、その本質を語ったものです。ハーブは四大元素や惑星、人体、気質と関係づけられ、見えない世界との橋渡しを担うとされます。チャドウィックは合成香料や現代の商業的農業を批判し、本来の「起源」に根ざした育て方を重視します。また、古代からの知恵や儀式との関わりを再評価し、薬用植物園を精神性の回復と学びの場として構想しています。


1. ハーブは「道徳的な力」である

アラン・チャドウィックの講話「Classic Herb Garden」において、最も根幹に位置づけられているのが、ハーブを「モラルフォース(moral forces)」すなわち道徳的な力とみなす視座である。彼にとってハーブとは、料理や医療、香料といった実用的機能を超えて、自然界と人間、可視的世界と不可視的世界をつなぐ媒介者としての意味を持つ。その存在は、植物体という物質的実体に限定されず、香りや味、気配、作用といった目に見えない感覚領域において、より深い意味を発揮するとされる。

チャドウィックは、「ハーブは量ではなく質で用いられる」と繰り返し説き、薬効や香気はしばしば微量で十分に作用し、むしろ乱用や多量使用はその本質を歪めると考えていた。この「質の重視」は、現代における大量生産・大量消費の文化への批判とも響き合っている。彼にとって、ハーブは単なる物理的な資源ではなく、自然界のリズムや秩序と調和しながら育まれる、精神的・道徳的存在なのである。

また、チャドウィックは、現代人が「目に見えるもの」ばかりを信頼し、「目に見えない力」や「直観的な感覚」を軽視する傾向にあることを指摘し、これはハーブの本質を理解する上で重大な障壁となると述べている。ハーブの持つ霊的な効力や、自然界との共鳴は、論理や機能主義だけでは捉えきれない次元に属しており、それを感じ取るためには、感性や霊性、さらには敬意をもって接する姿勢が必要とされる。

このように、チャドウィックの言う「道徳的な力」とは、倫理的規範というよりも、自然界の本質的秩序や霊的次元と結ばれた力動としての意味合いを帯びており、それを体現するハーブの育成と使用は、人間の生の在り方そのものを問い直す営為となるのである。


2. 可視世界と不可視世界の橋渡しとしてのハーブ

アラン・チャドウィックは、ハーブを「可視(visible)」と「不可視(invisible)」の世界を結ぶ媒介的存在として捉える。その本質は、目に見える形態や構造ではなく、香り、味、触感といった感覚的・内的な作用にこそ宿るとされる。とりわけ嗅覚は、記憶や感情と密接に結びつく感覚であり、チャドウィックは「スミレやユリの香りを即座に再現できるか?」という問いを通して、香りが人間の意識に与える繊細で深遠な影響を強調している。

このような不可視的な力に注目する姿勢は、近代以降の科学的世界観に対する批判と表裏一体である。チャドウィックは、現代の科学技術や産業社会が「目に見えるもの」「測定可能なもの」のみを信頼し、それ以外を無視または切り捨ててきたことを、人間と自然との本質的な関係性を断絶させるものと見なす。その結果、ハーブもまた「成分分析された物質」へと還元され、本来の霊的・感覚的・象徴的な意味を失ってしまった。

さらに彼は、ハーブが人間と宇宙の相互作用を体現する存在であることを説く。ハーブは四大元素(土・水・火・空気)に支えられて育ち、その特性は天体の運行(revolutionibus)や黄道十二宮の影響を受ける。したがって、ハーブを理解し活用するには、感覚的洞察だけでなく、宇宙的秩序への感受性が不可欠である。彼はそれを「目に見えないが確かに働いている力」への信頼と表現する。

こうしたハーブ観は、科学的実証性とは異なる次元で自然と人間との関係を再構築するものであり、現代において失われがちな「世界への畏敬」や「内的感覚の再覚醒」を促すものである。ハーブは、物質と精神、自然と人間、此岸と彼岸とを結ぶ象徴的存在として、現代人に「感じる力」「共鳴する力」の回復を求めているのである。


3. ハーブと四大元素、黄道十二宮との関係

アラン・チャドウィックの自然観において、植物、とりわけハーブは宇宙的秩序の中に位置づけられる存在である。彼は、ハーブの成育と効能は、四大元素――土(Earth)、水(Water)、空気(Air)、火(Fire)――の相互作用に支えられており、さらにその根源には黄道十二宮と惑星の運行(revolutionibus)があると説く。これらは単なる神秘思想ではなく、人間の身体や精神状態とも密接に関連する体系として、古代以来の伝統的自然観に根ざした考え方である。

チャドウィックによれば、四大元素はそれぞれ植物の特定部位に対応する。すなわち、土は根であり「塩」、すなわち物質的基盤であり、メランコリック(melancholic)な気質と関係する。水は葉を表し、柔軟性や潤いをもたらすフレグマティック(phlegmatic)気質。空気は花に対応し、香りや甘味とともにサンギン(sanguine)気質を象徴する。そして火は種子やオイルと関連し、エネルギーと怒りを担うコレリック(choleric)気質を象徴する。

これらの元素は単に植物内部の構造を表すのではなく、人間の身体部位や気質、さらには心の調和にまで影響を及ぼすとされる。チャドウィックは、食事やハーブの使用においても四大元素のバランスが重要であり、特定の部位だけを摂取することは不均衡をもたらすと警告する。たとえばニンジンの根だけを食べることは、メランコリック気質を過剰にし、他の気質を抑制してしまう可能性がある。そのため、葉や花、種子を加えることで、四元素の調和が食卓に取り戻されるという。

さらに、チャドウィックは惑星の支配とハーブの関係を詳細に分類して示す。太陽(Sun)は心臓と金、月(Moon)は脳と銀、火星(Mars)は胆嚢と鉄といったように、各惑星は身体の部位や金属、そして特定の植物群と対応づけられる。たとえば、バーネット(burnet)は月と太陽の両方に関係し、その成長段階に応じて支配星が変化するという。このような照応的自然観は、近代以降に失われた世界の全体性を再発見させる力を持つ。

このように、チャドウィックにとってハーブは、植物・人間・宇宙を結ぶリズムの一部であり、そこには物質的・精神的・霊的な次元のすべてが統合されている。ハーブの本質的な理解には、自然と宇宙の響き合いに対する深い感受性と、生命の全体性を捉える直観的洞察が求められるのである。


4. 合成物質への批判と「起源」の回復

チャドウィックは、現代の合成物質や人工的香料に対する強烈な批判を繰り返す。彼は、これらの「人工物」が自然の霊的起源を否定し、人間と自然との本来的な関係を破壊しているとみなしている。その核心にあるのが「起源(origin)」という概念であり、ハーブを育てること、用いることは、その植物が持つ宇宙的エネルギーの源泉と接続する行為だと説く。

チャドウィックは、ハーブや植物に含まれる効能や香りは、可視的・分析可能な物質ではなく、時と場、そして惑星の位置(revolutionibus)といった宇宙的なリズムに呼応して顕れる「生成的な現象」であると捉える。たとえば、マスタードに含まれる硫黄成分は、植物の生長過程において常に存在するわけではなく、特定の天体の配置と植物の種子の形成という「瞬間」においてのみ現れるという。これは、自然の力が時間的・宇宙的秩序と連動して働いていることを示す一例である。

一方で、合成香料や人工的な食品添加物は、そうした宇宙的秩序から切り離された「アーリマン的(Ahrimanic)」な存在とされる。チャドウィックによれば、これらは「地下的(subterrestrial)」な力から生じ、人間の魂に冷たさと重さをもたらし、感覚や霊的知覚を鈍らせる。彼はこのような物質文化の拡大を、「欺瞞の受容の時代(the period of acceptance of deceptions)」と名づけ、人間の健康と精神性にとって深刻な危機であると警告する。

また、合成物質の台頭は、食の意味を「生命の再生と感謝の場」から「物理的な燃料供給」へと変質させる。チャドウィックは、かつての「黄金時代(Golden Age)」には、人々が食を霊的なヴィジョンと捉え、創造の法に従って生きていたと語る。その時代の人間は、自然の恩恵に感謝し、ハーブや食材を宇宙の秩序の中で受け取っていたという。

「起源」への回帰とは、単にオーガニックな農法や伝統的食文化を復活させることではなく、植物が持つ霊的エネルギーと宇宙的秩序に再び身をゆだねることを意味する。ハーブはその象徴的存在であり、その育成と使用を通じて、人間は自己の内にある感覚の深層、自然とのつながり、そして宇宙への帰属感を再認識する契機を得るのである。


5. 植物の働きは時期と部分で異なる:硫黄とマスタードの例

アラン・チャドウィックは、「植物はその全体で語る」と同時に、「その力は時期と部位によって変容する」という深い洞察を提示する。彼は講話の中で、マスタード(Sinapis)を例に取り、植物の薬効成分である硫黄(sulphur)が、植物の成長の特定段階においてのみ現れることを強調している。この見解は、植物を静的で均質な存在として捉える近代的科学の枠組みに対して、動的で生成的な理解を提示するものである。

チャドウィックによれば、マスタードの植物体の中には、成長初期から開花、結実に至るまでの間、硫黄という成分は明確に検出されない。それが現れるのは、天体の特定の配置(revolutionibus)と植物の種子が形成される「瞬間」が一致したときである。この宇宙的な同期のなかで、硫黄の本質的エネルギーが植物に入り込み、種子内部に変容的に現れるという。このような発現様式は、硫黄があらかじめ存在しているのではなく、「時空的な関係性のなかで顕現する力」であるという理解を示唆している。

また、この事例は、植物の「部分的利用」が全体性を損なう可能性を示している。たとえば、ネギ類(leeks, chives, onions)では、それぞれ異なる部位(葉、茎、球根)が利用されるが、チャドウィックは、それらが「植物の全体性」から切り離されて用いられていることに警鐘を鳴らす。彼は、植物が持つ四大元素との関係を踏まえ、ある部位の使用が特定の元素(例えば土=根)との偏重を招くことを懸念する。これは、食や薬効の観点からも「要素の調和の欠如」として働きかねない。

加えて、チャドウィックはフランスとアメリカにおけるマスタードの製法の違いを紹介する。フランスでは種子の殻(husk)ごと用いてマスタードを作るため、硫黄の力を十分に保持するが、アメリカでは殻を取り除いてしまうため、その霊的効力が失われてしまうという。この差異は、製法の文化的・宇宙的感受性の有無に直結している。

このように、チャドウィックの植物観は、「物質の存在としての植物」を超えて、「宇宙と呼応するリズムの中で変化し続ける生成の存在」としての植物を捉えるものである。そしてこの視座に立つとき、植物の利用は単なる科学的応用にとどまらず、「時期と部分」に対する深い敬意と直観的理解を要する霊的行為となるのである。


6. 祭儀とハーブ:サトゥルナリアとサヴォリー

アラン・チャドウィックの講話において、「祭儀(Ritual)」は単なる文化的慣習ではなく、自然の力と人間の精神を結び直す実践として位置づけられている。その中でも特に象徴的なのが、古代ローマの祝祭「サトゥルナリア(Saturnalia)」におけるハーブ「サヴォリー(Satureia)」の使用に関する言及である。チャドウィックはこの事例を通じて、ハーブが社会的秩序や霊的調和を取り戻す媒介となり得ることを示している。

サトゥルナリアは、太陽の運行が最も弱まる冬至の時期に行われた祝祭であり、カレンダー上は「最も暗い日」であったが、それゆえにこそ「霊的再生と光の回帰」を象徴する重要な日でもあった。この祭儀では、戦争が中断され、犯罪者が赦され、奴隷が一時的に解放されるなど、日常の権力構造が逆転し、社会が一時的に「再編成」される。こうした祭儀の根底には、人間の行為によって乱れた自然秩序や社会関係を「一度解きほぐし、再び結び直す」という深い理念があった。

このとき用いられたハーブ、サヴォリー(Satureia)は、料理用ハーブとして知られるが、チャドウィックはその霊的効能に注目する。彼によれば、サヴォリーは「身体的な失調を霊的視野によって再構成する力」を持ち、その名が「救世主(the Saviour)」の語源にも関わると説く。この語源的連関は、ハーブが象徴的・言語的にも「救済」の思想と結びついていることを示唆する。

サヴォリーのようなハーブの効能は、単に個人の健康を回復するというよりも、「共同体的な治癒」や「社会の再生」に寄与するものとして理解される。つまり、ハーブは個人の内的バランスを整えると同時に、社会全体の秩序や倫理を再構成する鍵としても機能するのである。チャドウィックにとって、こうしたハーブの働きは、香りや味といった感覚的な作用を超えて、霊的・象徴的次元にまで及ぶものとして認識されている。

さらにこの視点は、現代の祭儀や教育におけるハーブの可能性を示唆する。彼は、儀礼と感覚の交差点において、ハーブが人間の感性を呼び覚まし、自然との共鳴を回復させる役割を持つと考えていた。したがって、サトゥルナリアのような儀礼は、単なる過去の風習ではなく、現代においても再生可能な「人間と自然をつなぐ技術」として再評価されるべきなのである。


7. 代表的なハーブとその性質の比較

アラン・チャドウィックの講話におけるハーブ理解は、植物種の分類的把握を超えて、それぞれの植物が持つ固有の霊的・機能的性質を重視する。その象徴的な例が、同一科に属しながらも全く異なる作用をもつ三種の植物、すなわちペトロセリナム(Petroselinum=パセリ)、アンジェリカ・アルカンジェリカ(Angelica archangelica=アンジェリカ)、そしてラヴェッジ(Levisticum=ラヴェッジ)に対する彼の考察である。

ペトロセリナムは、チャドウィックによれば「聖ペテロの岩」として知られ、人間や動物の神経系を再構成し、鎮静と修復の力をもつ「大地の天使」のような存在である。動物たちはこのハーブを本能的に求め、チャドウィックはそれを自然界がこの植物の価値を本質的に知っている証左とみなす。彼はまた、現代の市場で販売されているパセリの多くが人工的な培養によって栄養や霊的力を失っていることを批判し、真正な起源に基づいた栽培の必要性を訴える。

一方、アンジェリカ・アルカンジェリカはその名の通り「大天使のハーブ」であり、パセリとは対照的に、摂取することで身体ではなく精神、とりわけ記憶と霊的洞察の領域に作用する。このハーブは、果実や茎を砂糖漬けにしたり、ティザンヌ(薬草茶)として用いられることが多く、使用と同時に精神的視野を拡張する「上昇の力」を持つとされる。チャドウィックは、このような作用の違いを「地に向かう力」と「天に向かう力」という象徴的枠組みで説明している。

三つ目のラヴェッジは、スコットランドで朝食前に用いられてきた伝統があるように、摂取することで身体から「好ましさ(lovability)」を発散させる「オーラ形成的」な植物である。このハーブは人と人との関係性に作用し、チャドウィックは「人を愛される存在にする」と語る。その一般名(lovage)自体が、この効能を如実に表している。

これらの比較から明らかなのは、チャドウィックが植物を単なる生理作用の集合体ではなく、「人格的性質を有する存在」として理解していたことである。彼の眼差しにおいて、ハーブはそれぞれに特定の方向性や使命を担い、人間の身体・精神・感情の諸層に働きかける独自の力を持つ。近代的植物学が見落としがちな「植物の個性」を再発見するためには、こうした直観的かつ霊的な理解の再導入が求められるのではないだろうか。


8. 修道院の薬草園とパドヴァ大学の植物園

アラン・チャドウィックは、植物と人間との深い関係性を体現する空間として「クラシック・ハーブ・ガーデン(薬用植物園)」の復興を提唱する。そのモデルとして彼が称揚するのが、中世の修道院におけるハーブ園、そして15世紀のイタリア・パドヴァ大学に設置された植物園である。これらは、単なる薬用植物の栽培場ではなく、「神の手(the hands of God)」と人間の精神をつなぐ教育と霊的実践の場であった。

修道院の薬草園は、修道士たちが薬草の栽培・調剤を通じて神の意志と自然の法に触れる空間として位置づけられていた。チャドウィックによれば、そこには薬効の理解を超えて、植物の持つ霊的性質への洞察、そして人間の魂の浄化や共同体の癒しを目指す理念があった。植物は「起源」を宿す存在であり、その育成・利用は神との対話そのものであったという。

この精神性を近代以降で継承した例として、チャドウィックはパドヴァ大学の植物園を挙げる。15世紀末、同大学の教授たちは、教育において自然との結びつきが失われつつあることを危惧し、植物を通して「神の秘密」に触れる場としてこの植物園を構想した。当初は2万8千種に及ぶ植物が育てられたというこの植物園は、単なる植物標本園ではなく、感覚と認識、霊性と科学が交錯する「知の聖域」であった。

チャドウィックは、自身が構想する薬用植物園もまた、この伝統を継ぐものであると語る。それは、世界各地から集めた真の起源を持つ植物を、その本来の土壌や気候条件のもとで育てる空間であり、子どもや学徒が植物の生態だけでなく、宇宙的・倫理的関係性の中でそれらと向き合う場である。彼は、その園においては分類や命名よりも、植物の「語りかけ」に耳を澄ます姿勢が重要であるとし、植物画や古文献、香りや味といった感覚的資料を通じて、記述よりも「認識(perception)」に基づく学びを重視する。

このようにして提示される薬用植物園の構想は、近代的植物園とは異なり、自然・感覚・精神・宇宙を結ぶ統合的な知の場である。その復興は、教育や医療、文化の再構築にもつながる可能性を秘めており、チャドウィックにとっては自然との「宗教的同盟(spiritual alliance)」の象徴でもあった。


9. 植物と鉱物、惑星、身体との照応体系(パラケルスス的医療)

アラン・チャドウィックの講話において特筆すべき点のひとつは、植物、鉱物、惑星、そして人間の身体が織りなす「照応の体系(doctrine of correspondences)」の再提示である。これは中世からルネサンス期にかけて発展した自然哲学の枠組みであり、とりわけスイスの錬金術師・医師であるパラケルスス(Paracelsus)の医学思想に深く影響を受けている。

この体系においては、各惑星が人間の特定の身体部位および金属に対応しており、植物はこれらの惑星的性質を媒介するものとして位置づけられる。たとえば、太陽は心臓と金(gold)、月は脳と銀(silver)、火星は胆嚢と鉄(iron)、金星は静脈と銅(copper)、水星は肝臓と水銀(mercury)、木星は肺と錫(tin)、土星は脾臓と鉛(lead)を支配するとされる。これに応じて、各惑星の影響を受けた植物もそれぞれ異なる身体部位や気質に働きかけると考えられていた。

チャドウィックは、この体系を単なる古代の迷信として退けるのではなく、現代において再評価されるべき「全体的な生命観」として提示する。彼によれば、病気とは身体の部位そのものに起因するのではなく、「四つの気質(temperaments)」――メランコリック、フレグマティック、サンギン、コレリック――の不均衡から生じるものとされる。この考え方においては、病気とは「人を治すべき対象」であり、症状そのものを排除するのではなく、人間の気質や霊的状態を整えることによって回復が導かれる。

こうした視点は、20世紀初頭に活躍したエドワード・バッチ(Edward Bach)のフラワー・レメディにも通じる。バッチは、特定の植物が特定の感情的・霊的な不調を調和させると考え、花を朝露にさらしてエッセンスを抽出し、それを患者に投与することで気質の再調整を行った。チャドウィックはこれを「可視世界と不可視世界を結ぶ媒介作用」として評価し、植物の力は単なる物理的作用ではなく、「霊的な再統合の媒体」であると捉える。

このように、チャドウィックの思想は、自然科学と精神科学を分断する近代的パラダイムに対する根源的な問いを投げかけるものである。彼の照応体系は、人間と自然、宇宙との連関を回復させる鍵として、教育・医療・倫理の分野において再評価される価値を持っている。


10. 薬用植物園は「霊的覚醒の場」

アラン・チャドウィックの講話「Classic Herb Garden」は、自然を対象化し分類する「知識(knowledge)」の体系ではなく、人間の内的感覚と宇宙的秩序との共鳴によって成り立つ「認識(perception)」の道を提唱するものである。彼にとって、薬用植物園とは、植物の名前や成分を覚える場所ではなく、植物の本質的な声に耳を傾け、自らの感覚を通してそれらと交信する場である。

チャドウィックは、「我々は植物を“知っている”のではない、“感じている”のだ」と繰り返し述べる。これは、「学ぶことは外部の情報を蓄積することではなく、感覚を洗練させることである」という教育哲学を内包している。彼が引用するプラトンの言葉「私は知らない、しかし私は知覚する(I do not know, but I do perceive)」は、まさにこの思想を象徴するものである。

そのため、薬用植物園は単なる教育施設ではなく、「霊的覚醒の場」として設計されるべきだとチャドウィックは説く。園内には植物の成分や分類が記された書籍だけでなく、植物の各時期における姿を捉えた手描きのイラストレーション(illustrae)が備えられる。これは、植物の霊的存在としての多様な相貌に触れ、定義や言語では捉えきれない生命の動態を観察するための手段である。

また、彼は「ある植物がもつ力は、その見た目ではなく、その現れる“とき”と“場”にある」と強調する。たとえばスミレの香りは、距離をとってこそ感じられ、近づきすぎると消えてしまう。このように植物の本質は、計測可能な属性ではなく、「関係性」と「場の構造」において現れるものだという思想が、チャドウィックの植物観の核にある。

さらに彼は、現代社会において教育や農業、医療が商業主義に飲み込まれ、本来の「認識を育む場」が失われていることを憂慮する。薬用植物園を通じて、植物の声に耳を傾け、宇宙的秩序と調和して生きる感覚を取り戻すことが、現代人の精神的再生に不可欠であると語る。

このようにチャドウィックの語る薬用植物園は、分類学的・実証主義的な植物園とは根本的に異なる。そこでは、知識の集積よりも「感覚と魂の覚醒」が重視され、植物との出会いを通して人間存在の在り方そのものが問い直される。薬草園は、自己と自然と宇宙を再び結ぶ「生きられた学びの場」として構想されているのである。