アラン・チャドウィック講話『King of the Golden River(黄金の川の王)』

アラン・チャドウィックの講話『King of the Golden River(黄金の川の王)』(1979年10月26日、バージニア州カーメル・イン・ザ・バレー、Stephen Crimi編『Reverence, Obedience and the Invisible in the Garden: Talks on the Biodynamic French Intensive System』に所収)の、まとめです。

「King of the Golden River」は、ジョン・ラスキンが1841年に執筆した寓話をもとに、アラン・チャドウィックが語った物語です。本講話では、豊かな「宝の谷」を支配する強欲な兄たちと、慈愛に満ちた末弟グルックの対照的な生き方が描かれます。兄たちの搾取と冷酷さは谷を荒廃させ、彼らは滅びますが、グルックは困窮者や動物への無償の施しを重ねた末、谷の再生をもたらします。チャドウィックはこの物語を通して、水の純粋性と慈悲の行為の象徴的価値を示し、自然の循環と人間の道徳性の調和が生命を育むことを強調しています。


「黄金の川の王」

昔々、スティリアという地方の人里離れた山間部に、それはもう驚くほど肥沃な谷があったんだよ。この谷はぐるりと大きな岩山に囲まれていて、その山々は空高く突き出し、頂上にはいつも雪が積もっていて、雲の中にそびえていたんだ。雪があるもんだから、そこから大きな流れが生まれて、断崖をいくつも滝になって落ちていた。

そのひとつ、西側に流れる滝は、とても高い崖からまっすぐ落ちていたんだが、その位置が絶妙でね、谷全体が夕暮れや夜明け前の暗さに包まれているときでも、ちょうど太陽の光がその滝に当たるんだ。そうすると、流れ全体が黄金みたいに見えて、まるで火花のように輝く。それが虹をかけながら山とつながって、ひときわ目立っていたもんだから、人々はそれを「黄金の川(ゴールデンリバー)」と呼ぶようになったんだ。

不思議なことに、その滝の水は谷の中には流れ込まない。いつも反対側へ流れていって、山を下り、平野を抜け、町を通って海へと行ってしまうんだ。でも、この谷の周りの山々はとても美しくて雪をいただいているから、年中雲を呼び寄せるんだよ。だから、ほかの土地が夏の暑さで干上がっていても、この谷にはいつもやさしい雨が降る。

だから作物は大きく育つし、干し草は背が高く、りんごは赤く、ぶどうは青々と実り、ワインは濃くて甘く、蜂蜜もたっぷり。みんなが「宝の谷(トレジャーバレー)」と呼ぶのも当然だった。

この谷を所有していたのは三人の兄弟、シュワルツ、ハンス、そして末っ子のグルック。上の二人は体は大きく力も強いんだが、いつも眉をひそめ、人の目をじっと見すぎるようなところがあって、愛想が悪く、怒りっぽい。それでいて農場経営は抜け目なくて、利益にならないものは何でも排除した。果物を食べるからとクロウタドリを殺し、牛に害があるとハリネズミを追い払い、穀物を食べるからとバッタもセミも皆殺しにした。もちろん貧しい人に施すこともなく、教会にも行かない。使用人もこき使い、できるだけ安くこき使ったから、人々からは「黒い兄弟(ブラックブラザーズ)」と呼ばれていた。

末っ子のグルックは全く正反対。優しく、すべての生き物に親切で、困っている人や動物を助けた。だから兄たちとは折り合いが悪く、しょっちゅう殴られたり、耳をはたかれたり、嫌な雑用を押し付けられたりしていた。

そんなある年、ひどい長雨で近隣の作物が全滅した。人々は黒い兄弟の農場に助けを求めに来たが、二人はいつも通り法外な値をふっかけ、持たない者には何も与えなかった。

ある寒い冬の朝、兄たちは出かけ、グルックは「誰も入れるな、何も渡すな」ときつく言い渡されて家の番をしていた。暖炉の前でマトンの脚を焼いていたとき、コンコン、とドアをたたく音がした。最初は風かと思ったが、何度もせかすようにノックが続く。窓からのぞくと、見たこともない小さな男が立っていた。長い鼻は真鍮色、キラキラした目、マスタード色に黒が混じった絹のような髪、コルク栓みたいにくるんとした口ひげはポケットに届くほど長い。服はツバメの尾みたいに広がり、背にはやたら長いマント、帽子には黒い羽根が4フィートも突き出していた。

「やあ、坊や。ノックにこう答えるのは礼儀じゃないよ。中に入れてくれ。びしょ濡れなんだ」
グルックは「すみません、兄たちに殺されます」と断ったが、小さな男は何度も頼む。グルックはマントの滴る水と自分の寒さに耐えかね、「また殴られてもいいや」と思ってドアを開けた。すると男は風とともに部屋に飛び込み、あっという間に床は水浸しになった。

男は暖炉のそばに座り、「マトンを少し分けてくれないか」と言った。グルックは兄たちの罰を恐れつつも、自分に約束されていた一切れを差し出した。そのとき、兄たちが帰宅し、男を追い出そうとするが、不思議な力で逆に吹き飛ばされる。男は「今夜12時にまた来る。それがこの谷への最後の訪問だ」と告げ、嵐のように去っていった。

夜、男は約束通り現れ、黒い兄弟の家と谷を徹底的に破壊した。翌朝、残っていたのは屋根付きの一室と、テーブルの上の一枚のカード。「南西の風、閣下」と書かれていた。それから谷には雨が降らなくなり、豊かな土地は砂漠になってしまった…。

黒い兄弟は、もう農業もできず、わずかに残った金を食いつぶすと、町で悪知恵を働かせることにした。金の装飾品を溶かして売る商売だ。だが、中身に銅を混ぜてごまかしていたことがすぐにばれ、取引は途絶える。残ったのは、グルックが大事にしていた黄金のマグカップ一つだけ。それは亡くなったおじからもらった宝物で、精巧な細工と不思議な顔が彫られていた。兄たちは笑ってそれを奪い、炉に放り込んで溶かし、金にして売ろうとした。

グルックは炉の中のマグを見つめ、溶けていく顔の模様を見て悲しくなった。夕暮れ、山の上の黄金の滝を眺めて「もしあの川が本当に金だったらなあ」とつぶやくと、耳元で「いや、それじゃよくない」と声がした。誰もいないはずなのに、声は炉の中から聞こえてくる。恐る恐る crucible(るつぼ)を開けると、金の中から小さな足、体、腕、そして頭が現れ、全身黄金の服をまとった背の低い男が立ち上がった。

「驚くことはない。わしは黄金の川の王だ。長い間、このマグに封じられていたが、お前の行いで解放された。だからお前に一つ教えよう。黄金の川の源に聖水を三滴落とせば、その人のために川は金になる。ただし、二度目はない。汚れた水を落とせば黒い石になる。」

そう言って王は炉の中に消えた。帰ってきた兄たちは話を信じ、どちらが先に行くかで口論になり、ハンスが抜け駆けして出発した。聖水を盗んで持ち、山を登る途中で食べ物や飲み物を失い、渇きに耐えかねて犬や子どもに出会っても水を与えず、自分で飲んだ。頂上で聖水を落とした瞬間、雷が轟き、彼は黒い岩に変わった。

次にシュワルツが出発したが、同じように渇きに負けて老人や子どもを無視し、水を飲み、自分も黒い岩となった。

グルックは二人の身を案じ、司祭から聖水をもらって山を登った。道中で老人、子ども、そして頂上近くで弱った犬に出会うたび、喉の渇きに苦しみながらも水を分け与えた。犬に最後の三滴まで与えたとき、その犬は姿を変え、黄金の川の王が現れた。

王は言った。「お前の兄たちは黒い岩になった。天使の祝福を受けた水でも、渇いた者を拒めば不浄だ。死で汚れていても、慈悲の心で与える水は聖なるものだ。」
そして王は白百合の花びらから三滴の露をグルックの瓶に入れ、「これを川に注ぎ、山を越えて下れ」と告げて消えた。

グルックが川に三滴を落とすと、水は金にはならず、山腹から谷へと流れ出した。谷は再び潤い、草木は芽吹き、花が咲き、作物が実った。グルックはすべての人を迎え入れ、谷はふたたび「宝の谷」と呼ばれるようになった。失われたものは、献身と慈悲によって取り戻されたのだ。

1. 宝の谷とゴールデンリバーの象徴性

物語の舞台である「宝の谷(Treasure Valley)」は、豊かで自給自足可能な自然環境の象徴として描かれている。周囲を雪を頂く険しい山々が取り囲み、そこから流れ落ちる滝や川は光を受けて黄金のように輝き、「ゴールデンリバー」と呼ばれていた。この谷は降雨が絶えることがなく作物が豊かに実るため、周辺地域が飢饉に見舞われてもその恩恵を享受できる循環的な生態系を有していた。しかし、この谷を潤すべき水は谷に流れ込まず、平地へと流れ去る構造を持っていた。この設定は、自然の恵みが必ずしも人間社会の欲望や経済的富に直結しないことを示唆しており、自然界の循環が持つ超越的な側面を象徴しているのである。

さらに、この谷は人間の行為によって豊かさを維持できるか否かが決まる場として位置づけられている。自然が有する潜在的な再生力は人間の倫理的な行為と密接に結びついており、利己的な行為がこの循環を断ち切れば谷は荒廃する。チャドウィックは、この構造を通じて「自然環境は与えられたものではなく、人間の態度次第で持続性が左右される」という思想を明確にしている。また、ゴールデンリバーの光輝く描写は、水が生命の根源的象徴であることを示し、物語全体の倫理的テーマと重なるのである。


2. ブラックブラザーズの強欲と破壊的農業

シュワルツとハンスの「ブラックブラザーズ」は、谷の富を独占する強欲さと破壊的農業を象徴する存在である。彼らは作物を最大化するために果実をついばむ鳥や穀物に害を与える昆虫を徹底的に駆除し、谷の生態系を単一的で効率的な生産体制へと改変していった。この手法は短期的な利益をもたらすが、持続性や生物多様性の維持を軽視しているため、長期的には生態系のバランスを崩壊させることになる。チャドウィックはこの描写を通じて、近代農業における単一栽培や過剰な農薬使用の問題を寓話的に示しているのである。

また、彼らは貧しい人々を拒絶し、労働者を搾取する冷酷な支配者としても描かれる。彼らの世界観は「利益を生まない存在は排除すべきだ」という思想に貫かれており、自然だけでなく人間社会の弱者に対しても同様の態度を取る。この強欲さが極限化した結果、彼らは自然界からの報復ともいえる現象に直面し、谷の崩壊とともに自らも滅びるのである。チャドウィックはここで、人間中心主義的な価値観が自然の回復力を奪い、最終的に自己破壊をもたらすことを強調している。


3. グルックの慈悲と自然との共生観

末弟グルックは兄たちとは対照的に生命への深い慈悲心を持ち、困窮者や動物に分け隔てなく施しを行う存在である。彼の行動は短期的には損失をもたらすように見えるが、物語全体を通じて谷の再生へとつながる重要な要素となる。グルックの生き方は自然との共生を重視する倫理観を体現しており、チャドウィックが理想とする園芸・農業の精神性そのものである。

また、グルックは困難な状況下でも他者への施しを優先し、自己の利益よりも生命を尊重する態度を貫く。この「応答的行為」は、自然が持つ循環性を回復させる鍵として描かれている。チャドウィックは、自然との関係において単なる効率性や収奪ではなく、倫理的・精神的価値を重んじることが持続的豊かさを生むと強調している。さらに、水がグルックの慈悲の象徴として描かれる点も重要である。彼が与えた「水」は後に谷を潤す水流へと変わり、彼の行為が大きな循環の一部として結実する構造が示されるのである。


4. 水の純粋性と慈悲の行為の象徴性

物語における「聖なる水」は、宗教的儀式により与えられる外面的な権威ではなく、慈悲と無私の行為を通してその効力を発揮する象徴である。兄たちは自らの渇きや恐怖を優先し、動物や子どもに水を与えることを拒むことで水を「不浄なもの」に変え、最終的に黒い石へと変貌する。これは生命を見捨てる行為がいかに自然の循環を断ち切り、自らをも滅ぼすかを示す寓話的表現である。

一方で、グルックは渇きに苦しみながらも他者への施しを優先し、水を「聖なる水」に転換させる。チャドウィックはここで「聖性は形式や物質自体に宿るのではなく、慈悲の行為そのものに宿る」という思想を伝えている。この象徴性は、彼が園芸や農業の実践において重視した「生命への畏敬」とも結びついており、自然界の再生や豊かさは人間の倫理的選択と不可分であることを示しているのである。


5. ゴールデンリバーの解放と再生の循環

グルックが最後に三滴の聖なる水をゴールデンリバーに注いだとき、川は黄金にはならず、谷を潤す水流へと変わった。この展開は、自然を支配し富の対象として利用するのではなく、共生関係の中で回復させる重要性を象徴している。兄たちは自己利益のために聖水を消費し、他者を顧みない行為によって黒い石となったが、グルックは他者への施しを優先することで、谷の再生を可能にしたのである。

このプロセスにおいて重要なのは、「水」が倫理的行為を媒介としてその性質を変化させるという象徴性である。慈悲の行為を通して注がれた水は、豊かさを生み出す力を持つ「聖なる水」として機能し、谷全体の生命を回復させる循環を形成する。チャドウィックは、この寓話を通して自然の再生は外的支配や技術的介入ではなく、人間の倫理的行為と応答的態度によって可能になると説いている。

谷が再び花開く過程は、慈悲と奉仕がもたらす生命の循環を象徴するものであり、グルック自身もその循環の一部として位置づけられる。自然界における再生の力は、人間が自然と関わる際の倫理観に依存するという本質的なメッセージがここに込められているのである。


6. チャドウィックの哲学的意図

本講話はジョン・ラスキンの物語を単なる道徳譚として語るのではなく、人間と自然の関係性を問い直す哲学的テキストとして再構築している。チャドウィックは「慈悲」「水」「循環」というモチーフを通して、近代社会が忘却しつつある自然への畏敬と応答的関係を回復する必要性を訴えるのである。

特に重要なのは「水の純粋性」に込められた象徴性である。聖なる水は宗教的儀式や物質そのものに宿るのではなく、慈悲と無私の行為を通じて初めて聖性を帯びるという思想が提示される。これは、園芸や農業の実践における倫理性の根幹に位置づけられる概念であり、チャドウィックが強調する生命への畏敬とも重なる。

また、チャドウィックは人間の行為が自然環境の持続性に直接的な影響を及ぼすことを示唆している。兄たちの強欲な行為が谷を荒廃させ、グルックの慈悲が再生をもたらしたという物語構造は、人間中心主義的な価値観への批判であると同時に、応答的な関係性の中で自然の豊かさが回復するという希望を示しているのである。


7. 現代への示唆:倫理的農業と持続可能性

「King of the Golden River」のメッセージは現代の持続可能性や倫理的農業の議論に直結する。短期的な収奪型農業や資源管理の失敗は環境劣化を招くが、自然と共生する倫理的行為が豊かさを再生するという教訓は、環境教育やインタープリテーションの実践にも応用できるものである。

チャドウィックは園芸・農業を単なる生産行為としてではなく、倫理的・霊的実践として位置づけていた。本講話に描かれたグルックの行為はその象徴であり、無私の施しと自然への畏敬が持続的な豊かさを生むという視座を提供する。現代社会が直面する環境問題は、技術的な解決策だけでは解決できない倫理的課題を含んでおり、本物語の示唆は極めて示唆的である。

また、チャドウィックは自然の回復力に対する信頼と同時に、人間の行為がその回復を阻害する可能性も持つことを強調している。グルックの慈悲によって谷が再生したように、現代の農業や環境政策においても、自然の循環を尊重し、それを支える倫理的行為が不可欠なのである。