三浦弘夢さん「広島にもっとたくさんの緑を」

101月 - による IsagawaYusuke - 0 - インタビュー記事

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1996年2月29日、広島県出身広島育ち。可部小学校、可部中学校、高陽東高校を卒業の後大学には進学せず造園業関係の仕事に就職。小学生の頃から高校卒業まで、サッカーに打ち込んでいた。家庭の事情により大学進学はせず家庭が少しでも楽になるようにと就職し現在に至る。

■生年月日を教えてください。

1996年2月29日うるう年生まれで、広島県広島市安佐北区可部、安佐市民病院で生まれました。

■小さいころはどんな子でしたか。

おばあちゃんと散歩に行ってお菓子を買ってもらったり、幼馴染と公園に行って駐車場で暗くなるまで遊んでいました。

■小学校はどのように過ごしましたか。

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歩いて30分くらいかけて、可部小学校に通っていました。

習い事でサッカーとそろばんをしていました。そろばんは親に無理やりやらされて実際嫌いでした。

サッカーも親から進められて始めましたが楽しくやっていました。
高学年になるといろんな感情が出てきてどんどんサッカーにはまっていきました。

■中学校はどうでしたか。

可部中学校に入学しました。部活動は帰宅部、でもクラブチームでサッカーをしていました。サッカーは地獄のような食トレーニング、走りがありました。些細なことでみんな坊主にされたりしましたね。僕はへたくそでベンチに入ることもできてなかったです。
勉強は学年が上がるにつれて成績が下がりどんどん悪くなっていきました。勉強は本当に嫌いでしたね。

■高校はどうでしたか。

高陽東高校に選抜Ⅰで入れました。部活はやっぱりサッカー部で中学に比べ高校はとても楽しくサッカーができました。先輩はまあまあ厳しかったです。でも後輩に関しては僕らの代は完全になめられていました。部活仲間との思い出は練習終わりにみんなで川に行って遊んだことですね。あと、高校のすぐ近くにあるお好み焼き屋に行ったことです。引退が決まった試合の後は本当よく泣きました。
勉強面では赤点ばかりで30点取れればよく頑張ったと自分をほめていました。

■高校卒業後の話を聞かせてください。

最初は留学しようとパスポートも取っていたのですが、親が高校3年生の時に離婚して母親の収入だけでは生活するのが厳しくなっていたので3人兄弟の長男というのもあって働くことにしました。

■仕事について教えてください。

造園業で仕事内容は個人邸の庭の手入れや庭造り、公共の木を切ったり、除草などをしたりしています。職場には4人しかおらず一番近い歳の人が33歳で気を使うこともありますがとても雰囲気はいいです。週6で仕事なので休日の日などは昼まで疲れて寝ています。

■広島の未来についてどう考えていますか。

最近は新しく家を建てても昔のように庭木をたくさん植えていない家が増えてきていて、ときどき自分の将来の仕事について不安になることがあります。ですから、これからの広島の未来は緑が多く自然と触れ合える環境を作っていきたいと考えています。例えば公園を芝生にするとか学校とかに木をたくさん植えるなどして、子供たちが緑ともっと接することができる環境を作っていきたいです。
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ききて:芋迫亨太
写真:今井鷹