2005年12月10日

第三章 ミューアと自然保護

[3] Muirと自然保護


[3.1] 背景: 連邦の森林政策

1864年のGeorge Perkins Marshによる「Man and Nature」の出版をきっかけに、連邦政府の森林保護への関心は高まりはじめ、1891年にはForest Reserve Act(森林保留区法)が制定されることになります。これにより大統領は、議会の承認なくForest Reserveを指定し、乱伐採などによる森林破壊からはとりあえず守ることが可能になりました。1897年にはForest Management Act(別名Organic Act)が制定、そのForest Reserveの「資源」としての利用目的が明確にされます。最初Forest Reserveは内務省の管轄下にありましたが、1905年には農務省のForest Service(森林局)に移譲され、やがてNational Forest(国有林)と改名し、森林の保全管理が行われていくことになります。一方Muirは、1889年夏のRobert Underwood Johnsonとの出会いをきっかけに、自然保護運動に関わっていくことになります。その基本は、自然は「レクリエーショナル・ツーリズム」を楽しむ所と考え、それに相反するような土地利用から守るというものでした。しかし、Muirはあらゆる自然を守ろうとしたわけではなく、Forest Reserve内での伐採やダムの建設は認めていましたし、Hetch Hetchy渓谷への道路やホテル建設、ヨセミテ国立公園への自動車の立ち入りなどへも賛成していました。クライマックスともいえるHetch Hetchy論争では、友人であった森林局長Pinchotがダム建設派の立場をとったこともあり、これら二つの保護の考え方は衝突をすることにもなりました。1913年にダム建設は承認されましたが、この長期にわたる論争の間に、国立公園の管理に関して問題意識が高まり、1916年には内務省にNational Park Service(国立公園局)が設立されました。
Muirの自然保護運動を詳しく見ていく際に、この連邦の森林保護政策の流れと登場人物はぜひ抑えておきたいところです。かなり大雑把になりますが、以下数回で要点をまとめてみたいと思います。

失われる森林
入植者たちは、次々と森を切り開き、農作物を植え自然の景観を変えてきました。1850年代までの200年の間に、100Mエーカー近いアメリカ北東部の森林が、改良や開墾などによって消滅してしたといわれています。60年の後には、さらに190Mエーカーが消失してしまうことになります。特に19世紀の伐採は、その多くが”cut-and-run”というもので、切り開いた後は、土地にかかる税金逃れのため、すぐ土地を売り、別の森林を求めて移っていくというものでした。人々は、伐採の後、傍を流れる川が浅くなってしまったことを指摘していました。また売り物になる木のみを運び出し、そうでない木をそのまま放置したため、森林火災の危険も高めてしまうことになりました。
しかし国土には依然広大な森林が広がり、伐採の波は入植者の後を追うように、1800年代初期にはメイン州からニューイングランドへと進み、南北戦争の頃までには五大湖周辺に到り、1880年代にはアメリカ中西部、そして太平洋岸へと向かいつつありました。また伐採業者はHomestead法(1862年)や、Southern Homestead法(1866年)といった法律をうまく使い、次々と広大な土地を、伐採のために安く手に入れていきます。鉄道会社は、入植のために、土地を切り開き線路を敷いていきます。木は線路の枕木として、さらに燃料としても必要でした。このような乱伐採が、社会に与える影響を杞憂する人も一部にはいましたが、特に大きな問題として取り上げられることはありませんでした。

George Perkins Marshの「Man and Nature」
1864年、George Perkins Marshが「Man and Nature:Or, Physical Geography as Modified by Human Action」を出版します。これはMarshがヨーロッパで暮らしていたときに研究したエコロジー、人間が土地に与える影響についてまとめたものでした。土地、水、そして森林の関連に基づき、ヨーロッパの森林の破壊の歴史をまとめたこの本は、その後版を重ね、後に森林の保護の重要性を唱える人々に大きな影響を与えることになります。Muirが1876年にサクラメントの新聞に投稿した記事”God's First Temple”も、明らかにこの本の影響を受けていることが伺えます。1873年、連邦政府は、森林を増やしつつ入植を推進するための法、Timber Culture Actを制定し、西部平原地帯で、40エーカー相当の森林を植樹し、10年にわたり健全に育てれば160エーカーの土地を譲渡するというものでした。しかし実際にこれを利用したのは畜産業者で、放牧のための広大な土地入手を促すことになってしまいました。

Franklin HoughとDiv. of Forestry(森林部)の設立:1881年
このころ、American Association for the Advancement of Science(AAAS)の中心人物であったFranklin Houghは、連邦国勢調査局に集められた、森林に関する資料を解析していました。それは、材木の生産が減少している州と増大している州があり、森林資源の枯渇がおき始めていることを示していました。Houghは1873年8月にAAASの会合で、Marshの説に基づき、”On the Duty of Goverment in the Preservation of Forests.”を発表して、政府による森林保護の必要性を説きます、そして当時の大統領Grantに木のcultivation(耕耘)や森林の保存を訴えました。やがて下院公地委員会のメンバーでもある議員Mark H. Dunnellの協力もあり、$2,000の予算が認められ、Houghは1876年に最初の連邦森林官に任命されます。この後1878年、1880年、1882年と報告書「Report on Forestry」を出し、連邦による森林の管理の必要性などを説きます。1881年には成果が認められ、農務省内にDiv. of Forestry(森林部)が設立され、その初代部長となりました。1882年には「Elements of Forestry」を出版し、アメリカで最初の実践的な森林学を説きましたが、やがて1883年上司との対立で降格され、1885年に退官してしまいます。

Charles Sprauge Sargent
Charles Sprauge Sargent(註:1893年にR. U. Johnsonの紹介でMuirと初めて出会う。後にMuirと共にアラスカや世界旅行をする)は、1872年にHarvard大に新しくできた、Arnold Arboretum(樹木園)の所長に就任し、Frederick Law Olmstedの助力を得て、Boston市の協力を働きかけていました。またHarvard Botanical Gardenの所長も一時勤め、Asa Gray(註:Muirのヨセミテ生活時代から文通)の仕事も手伝っていました。ドイツ生まれの内務省長官Carl Schurzは、Houghの指摘する連邦政府主導の科学的な森林管理の必要性を認め、1880年版の国勢調査書(1884年発刊)のために、Sargentに報告書作成を依頼しました。そのタイトルは”Report on the Forests of North America”で、木のカタログだけでなく、森林火災の統計、火事の原因(伐採、狩猟、蒸気機関車など)、家畜や、鉄道などによる森林へのダメージ、メイン州での伐採後の様子などにも触れ、Marshが指摘したような結論と、森林の科学的管理の必要性を説いています。この仕事により、Sargentの名声は以降高まることになります。(註:1870年版国勢調査書にはWhitney隊メンバーだった、Yale大学教授のWilliam H. Brewerが”The woodlands and forest systems of the United States”という報告を書いています)。

三代目森林部長 Bernhard Fernow
1882年4月、ヨーロッパ(プルシャ)生まれのFernow(1876年に移民)は、オハイオ州で行われAmerican Forestry Congressの会合で、ドイツにおける森林政策の歴史を発表し、注目を浴びます。1883年と1885年の間はAmerican Forestry Association(AFA)の要職を勤め、数多くの啓蒙活動を行いました。やがてCleveland政権(第一期:1885年-1889年)の元、1886年には、アメリカで唯一の正式な森林学を学んだFernowは三代目の森林部の部長として就任することになります。が、森林部には依然管轄する森林はなく、その仕事は木や潅木などについて知りたい農業関係者にアドバイスをするというようなものでした。しかしながら、その12年間の任期中にFernowと彼のスタッフは、総6,000ページにも及ぶ報告書などを作成、また部の予算も増やしていくことに成功しました。

Harrison大統領とForest Reserve Act:1891年
1890年、AAASはBenjamin Harrison大統領(任期:1889年-1893年)に、西部山岳地帯に恒久的に森林を残すための法案を創ることを提案します。法案を通す幾度かの試みが失敗した後、1891年3月、連邦議会の会期末に、内務省長官John NobleはTimber Culture Act(1873年に制定)を無効とする法(General Land Law Revision Act)の最後に(法的にはかなり際どく)小さな項目を付け加えることに成功しました。この第24項はForest Reserve Actとも呼ばれ、大統領が議会の承認なく、独自の権限のみで森林保留区を設定できることを許可するものでした。この時点で森林保留区は、その使用目的や管理のしかたが何も定められておらず、厳密には伐採、採掘、牧畜、道路の建設など、極端には人の出入りも禁止されたことになります。ともあれHarrison大統領はその権限を使い、1893年にホワイトハウスを去るまでには、ヨセミテや、セコイア・グラント国立公園を設立する法案にサインをしたのみならず(註:ヨセミテを国立公園と制定した法案の正式名称は”An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations.”で、「公園」という言葉を使うと反対が出るので、「Forest Reservations」という語が使われたことが指摘されています)、総計13Mエーカーもの広大な森林保留区を指定しました(それらは内務省の管轄となりました)。次期大統領のGrover Clevlandは、さらに5Mエーカーを追加することになりますが、政府が森林保留区での非合法な侵入や利用などに対する保護策を講じない以上、意味はないとして、その後の指定をとりあえず打ち切ることになります。

Gifford Pinchot
1865年、Gifford Pinchotは森林の伐採などで財を成した裕福な家庭(註:祖父の時代にフランスから移民)に生まれました。1885年の夏、大学に入学する直前に父親にForesterになることを薦められます。しかし、当時のYale大学には森林学を教える学部はなく、学生時代にはMarshの「The Earth as Modified by Human Action」(「Man and Nature」の改訂版)や、BrewerやSargentの国勢調査の報告書などを読んだ程度でした。卒業の前年には、FernowやSargentらに会い、アドバイスを受け、1889年にはヨーロッパへ森林学を勉強するため出かけました。ドイツではDietrich Brandisのアドバイスを受け、フランス、スイス、ドイツで学び、一年後に帰国します。Fernowから森林部への就職の誘いがあったもの、それを断り、プライベートのForesterとして仕事を始めることになります。

Cleaveland大統領とForestry Committe
1894年の初頭、Sargentの提案により、Robert Underwood JohnsonとPinchotらは、保有林に関して調査をする委員会を作るための法案を作りはじめますが、計画はうまく進みませんでした。1895年、National Academy of Science(NAS)のWolcott Gibbsの協力を得て、内務省長官がNASに依頼をするという形で委員会を作るというアイデアが生まれます。JohnsonやPinchotの努力が実り、1896年2月、内務省長官Hoke Smithからの正式依頼文書がNASへと送られました。これによりNational Forest Commissionができ、メンバーとしてBrewer、Henry Abbot、Arnold Hauge、Alexander Agassiz、Sargent、そしてPinchotが選ばれ、同年夏には森林の視察が行なわれることになります。Muirはこれに非公式メンバーとして同行し、Pinchotとの親交を深めることになります。Cleveland大統領(第二期:1893年-1897年)はCommissionに対して、1896年11月に演説するための森林管理の計画案と、森林保留区の候補地を推薦するように求めていました。結局、期日までに報告は出せず、South Dakota、Wyoming、Montana、Washiton、Idaho、Utah、そしてCaliforniaの州に、総計21Mエーカーの13の森林保留区を推薦するのみにとどまりました。Clevland大統領は、任期終了直前の1897年2月22日(ワシントンの誕生日)、それら保留区の設定を発表します。これは西部の人々を驚かせ、それを無効とするための追加案が作成中の予算案に盛り込まれました。大統領は法案への拒否権を発動し、ホワイトハウスを去りました。

McKinley大統領とForest Management Act (Organic Act)
National Forest Commissionは内部での意見がわかれ、その報告の取りまとめにかなり手間取り、新McKinley政権に提出されたのは1897年5月でした。これは、森林保護の重要性と森林保留区の現状を報告し、政府による管理の必要性、その為にヨセミテなどで行われているように軍を採用することが推薦されました。一方、議会では、上院の公地委員会の有力な議員Pettigrewが中心となり、森林保留区を管理するための法案の作成を進めており、1897年6月4日にはForest Management Act(別名Organic Act)の作成にこぎつけました。それは、森林保留区が森林の改良や保護、もしくは水流を守るためだけに設定されるものであること、そして国民のための継続した木の供給を行うためにあると定めているものです。さらには内務省長官がルールを作れることも許可しています。また成長した木や死んだ木などを売ること、そして売るための木を伐採するためにはマークをつけるといった細かい事項までが盛り込まれています。また大統領がすでに指定された森林保留区の修正も可能という項目も盛り込まれ、とりあえずClevland大統領が指定した森林保留区の実行化は、カリフォルニアを除き1898年まで留保されることになりました(後にそのほとんどは認可)。法案設立後Pinchotは、内務省長官Cornelius Blissからの特命を受けて、USGSと共に森林保留区をさらに調べることになります。

4代目森林部長: Gifford Pinchot
1898年、Fernowは12年間勤めた森林部を引退し、Cornell大学に新設されるアメリカ最初の森林学部で働くことになります。USGSの局長Charles Walcott推薦により、Pinchotは若干33歳で4代目の部長に就任しました。農務省長官James WilsonやMcKinley大統領のサポートも受け、PinchotはFernowのようなオフィスワーク的なものでは無く、フィールド志向の積極的な部の運営を行っていきます。まず同年10月にはCircular21計画を発動し、材木会社への有償のアドバイスを開始します。テキサス州のある会社は、1.2Mエーカーの森林の管理を委託し、50人近い職員が面倒を見ることになります。さらに1.5Mエーカー近い個人所有の森林管理の依頼が来、徐々に科学的森林管理の評判が広がっていきました。McKinley大統領は、おおむね森林保留区の管轄を内務省から農務省へと移すことには賛成でしたが、その実現がかなり困難であることを農務省長官のWilsonに漏らしています。1899年、Pinchotは内務省長官Hitchcockの森林保留区での放牧(特に羊)に関する質問に応じ、アリゾナでの視察を行った後、許可制でそれを認めるべきだとアドバイスをし、1900年には、当時のアリゾナ羊毛業者組合の実力者であったAlbert F. Potterを森林部に招き、以後の対策の担当を行わせます。1901年までには、森林保留区を所有する内務省との約束が取り決められ、内務省職員が森林のパトロールや、書類手続きをする傍ら、内務省の予算で農務省の森林部職員が林のチェックをし、技術的な管理をすることになりました。

Roosevelt大統領とForest Serviceの誕生
1901年7月、179人の職員を抱えた森林部はBureau(局)へと格上げされました。その2ヶ月後、McKinley大統領は暗殺され、副大統領のTheodore Roosevelt(TR)が、急遽後を継ぐことになります。TRは、1888年に社会に影響力のある上流階級のメンバーを中心に作ったBoone and Crockett Clubという狩猟家のための団体を作り、狩猟のための動物保護、1891年のForest Reserve Act、1894年のYellowstone Park Protection Actなど森林保護への支持を行っていました。PinchotもTRの推薦でそのメンバーとなっていました。また二人はTRがNY州の知事(任期:1898−1900年)であったときに州の森林に関する仕事で既知の間柄でした。まずPinchotが行った仕事は、TRが12月2日に議会で話す森林政策の草稿を書き上げることでした。それには”The fundamental idea of forestry is the perpetuation of forest by use.”と、森林を使いながら維持して行くという基本方針が盛り込まれまれました。TRはPinchotへ保留区の管轄の移譲に向けて働くことを約束しますが、簡単には実現しませんでした。この間Pinchotは、水面下で議員への工作を続けます(Pinchotの依頼を受けたシエラクラブも、カリフォルニアの議員に支持を働きかけていました)。1905年1月、PinchotはAmerican Forest Associationの協力で第二回目のAmerican Forest Congressを開催します。TRを名誉会長、農務省長官Wilsonを会長としForesterのみならず、材木、鉄道、牧畜、鉱山業のリーダーや議員を招き、森林と主要産業との関連、そして未来を見据えた森林資源の有効な使用を訴えるものでした。そのすぐ後、2月1日に連邦議会はTransfer Act(森林保留区の移転)を認め、63MエーカーのForest Reserve(森林保留区)は正式に内務省から農務省の管轄下へと移されました。7月1日にはもうひとつの法案が通り、森林局(Bureau of Forestry)はForest Serviceへと改名されました。このとき140ページほどの”The Use of the National Forest Reserves”(通称「Use Book」)というレンジャー用のマニュアルともいえる小冊子が発刊されます。その書き出しの部分で、Pinchotは、Forest Reserveの目的が産業のための木の恒久的な供給のためにあり、水流を調節する森林地帯を破壊から守ること、そして森林に関する不当な競争から地元民を守ると明言しています。そして森林が、地域そしてホームビルダーのため、政府の費用でパトロールされ、守られるものであると書かれています。そしてその最後には有名なフレーズ”…where conflicting interests must be reconciled the question will always be decided from the standpoint of the greatest good of the greatest number in the long run.”で締めくくっています。

1905年2月17日、PinchotはシエラクラブのColbyに、長期的にはHetch Hetchy渓谷へのダム建設案を支持する立場で、TRにもそう推薦したことを知らせます。これ以降、PinchotとMuirらとの関係は冷えはじめます。1907年には、Forest Reserveは正式にNational Forestと命名されました。この法案には、西部のいくつかの州(カリフォルニア、ネバダ、ユタは除外されていました)では、議会の承認なしでは、大統領がNational Forestを勝手に宣言できないようにする追加項目が付け加えられました。さすがのTRもこれを受け入れざるを得なかったため、法案のサインまでの10日間の間に、Pinchotに命じ資料を集めさせ、新たに16Mエーカーを指定してしまいます。これはMidnight Reserveと呼ばれるものです。これは議会の反感を買い、その後数年はForest Serviceへの予算獲得が困難になってしまいました。TRとPinchotと森林政策のピークとも言えるイベントは1908年にワシントンで開かれたGovernor's Conservation Conferenceです。全州の知事と専門家がホワイトハウスに招待され、森林のみならず、鉱物、土地、水資源(水路、潅漑、電力、飲み水の供給源)等の有効利用と保全に関する会議が行われました。しかしながら、Muir、Sargentをはじめとする政策にかみ合わない考えを持つ自然保護派は招待されず、Johnsonのみがプレスの招待枠と使い(上司の命令によりしぶしぶ)参加しました。TRは、その2期にわたる任期中、1903年のMuirとのヨセミテキャンプや、1906年のヨセミテ渓谷を連邦に返還する法案、Antiquities 法案(大統領がNational Monumentの指定することを許可する法案)へのサインを始め、また5つのNational Parkと18のNational Monumentの設立法案にサインをしていますが、現実路線としては、Pinchotと共に「資源」確保のための森林政策を協力に推し進めました。Hetch Hetchy問題では、1907年にMuirから助力を求める手紙を受け取りますが、それには、気持ちはわかるとするものの、判断は多数の支持によってなされなければならないと返信し、内務省長官James R. GarfieldやPinchotに判断を委ねています。そして、1909年の退任時までには、National Forestの総面積は148Mエーカーとなり、現在のNational Forest Systemの基盤が出来上がりました(現在のNational Forestの総面積は約190Mエーカー)。

Taft大統領、Pinchotを解雇、National Park Serviceのアイデアが生まれる
1909年TR政権の後を継いだのはWilliam Howard Taft大統領です。その内務省長官に選ばれたのはTR政権のもとGarfiled内務省長官に解雇された内務省General Land Office(GLO)のRichard Achilles Balingerでした。Taft大統領は10月にヨセミテを訪れ、Muirと共に4マイルトレイルを下ります。その際、ほぼ決まりかけていたHetch Hetchyダム案の再調査をBalingerに指示します。1910年1月には、Balingerの政治スキャンダルを指摘し続けていたPinchotを解雇します。これは森林局にかなりのダメージを与え、その後10年は、Yale大学で森林学の教鞭をとっていた(Pinchotの学生時代の友人)Henry Gravesが、内務省との不仲を修復し、組織の安定化を目指していくことになります。Pinchot・Balinger問題でメディアにも大きく取り上げられ、政治的なダメージを受けたTaft政権ですが、国立公園に関しては理解がありました。Balingerは1910年度の年次報告書の中で、国立公園の管理を行うためのNational Park Service(NPS)の提案を行います。またTaft大統領は、1911年2月2日に、Antiquities法の提案者であったAmerican Civic AssociationのJ. Horace McFarlandの強い要望で、連邦議会に対して”Bureau of National Park”設立を推薦するメッセージを送りました。しかしながらTaft政権中に、議会がそれに応えることはありませんでした。同年3月、Balingerは、政治的スキャンダルへの非難が集まる中、健康上の理由で任期終了前に辞任、Walter Lowrie Fisherが後を引き継ぐことになりました。

Wilson政権とHetch Hetchyダム建設許可、NPSの設立
1913年3月に就任したWoodrow Wilson大統領は、Hetch Hetchyへのダム建設を推し進めるため、サンフランシスコ出身のFranklin K. Laneを内務省長官に任命しました。これにより、問題は決着に向けて一気に進み、年末にはRaker法案として連邦の決断が下ります。しかしその一方で、Laneは1914年の秋に鉱山業で財を成したシエラクラブメンバーのStephen Matherの陳情を取り上げ、NPS設立準備のための仕事を任せます。1915年にはMarther Mountain Partyという調査隊が結成され、国立公園の現状の視察、調査が行われました。そして1916年8月25日にはRaker議員(Hetch Hetchyダム化法案を作成したRakerと同一人物)らによって準備されたNational Park ActがWilson大統領によってサインされ国立公園局が設立されることになりました。Matherは初代長官に選ばれ(1917年5月)、1929年までその職につきます。そして、その後を継いだのは、内務省長官Laneのもと、アシスタントとしてMatherを手伝った、カリフォルニア州Bishop出身のHorace M. Albrightでした。


資料:
[1] Harold K. Steen, ”The US Forest Service: A History”, University of Washington Press,1976年(2004年版)
[2] James G. Lewis, ”The Forest Service and the Greatest Good: A Centennial History”, The Forest History Society, 2005年
[3] Glen O. Robinson, ”The Forest Service: A Study in Public Land Management”, The John Hopkins University Press, 1975年
[4] Alfred Runte, ”Public Lands, Public Heritage: The National Forest Idea”,Roberts Rinehart Publishers, 1990年
[5] Gifford Pinchot, ”Breaking New Ground”, 1946年/ Island Press, 1998年
[6] Franklin B. Hough, ”On the duty of Goverments in the preservation of Forests”, Proceeding of the American Association for the Advancement of Science, Portland Meeting, August, 1878
[7] Franklin B. Hough, ”The Elements of Forestry”, Robert Clarke & Co.,1882年
[8] George Perkins Marsh,”Man and Nature: Or, Physical Geography as Modified by Human Action”,1864年/ University of Washington Press, 2003年
[9] Robert Shankland, ”Steve Mather of the National Parks”, Alfred A. Knopf Inc., 1951年(1970年版)
[10] Horace M. Albright, ”Creating the National Park Service: The Missing Years”, University of Oklahoma Press, 1999年
[11] Char Miller, ”Gifford Pinchot and the Making of Modern Environmentalism”, Island Press, 2001年
[12] US Dept. of Agriculture, ”The Use of the National Forest Reserves”, 1905年(2005年復刻版),Online版
[13] Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”,1923年, /復刻版 www.kessinger.net
[14] William Frederic Bade,”The Life and Letters of John Muir”,Houghton Mifflin Co.,1924年(1973年,AMS版)
[15] Holway R. Jones,”John Muir and Sierra Club”, Sierra Club, 1965年
[16] Robert W. Righter, ”The Battle Over Hetch Hetchy”, Oxford University Press, 2005年

資料へのコメント:
Forest Serviceの歴史に関しては、[1]が一番詳しく纏っています。[2]は[1]をかなり引用しています。前に紹介したForest Service DVDのコンパニオンブックですが、写真がかなり多く、楽しめます。[5]はPinchotの自伝で、1890年ごろから1910年までのことが、特にRoosevelt大統領をはじめ、ワシントンの様子が克明に書かれています。[11]はPinchotの伝記ですが、特にMuirとの関係についてかなり詳しく調べており、最近のMuir研究文献はかなり参考にしています。NPSの設立関連では[9][10]、[13][14][15][16]はMuir関連書籍です。このエントリーは主に[1][2]に基づいて書きました。

(2006-03-11投稿)


[3.2] God's First Temples : 1876年2月

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1876年2月5日、Muirは”God's First Temples”という記事[1]を、州都サクラメントの新聞Record-Unionに投稿しました[2]。サブタイトル("How shall we preserve our forests")に示されるように、森林の保護を訴える内容で、これまでの雑誌や新聞への投稿とは内容がかなり異なったものでした。Muirは、まず森林保護が、その気象、土壌、川との深い関りゆえ、重要であると唱えています。たとえば、もし森林がなくなれば、砂漠化が進むこと、雨季や雪解け時には水が一気に流れ出し、肥沃な土壌を削り取り、下流の河川やフィールドを土砂で埋めてしまうこと、また、森林の保水効果などについて述べています。次にセコイア(及びレッドウッド)がカリフォルニアだけに見られる希少な木である事を挙げ、特にセコイアの植生についてまとめています。そして、伐採や火事によって森林の破壊が急速に進みつつあることも指摘しています。その中で最も破壊的なものは、羊が山を通りやすいよう、下生えをなくす為につけられる山火であると糾弾し、政府が何らかの対策を採る事を訴えて結んでいます。しかしながら、Badeに拠れば、この記事は殆ど注目されるには到らなかったようです[3]。

写真:羊に食べられてしまい、下生えが全くなくなっている林(ヨセミテの北東、Toiyabe National Forestにて)。

資料:

*1 Frederick Turner, "John Muir: Rediscovering America" Perseus Publishing (1985年)
*2 John Muir, "God's First Temples: How shall we preserve our forests," Record-Union, Feb-5, 1876
*3 John Muir, "The Life and Letters of John Muir"(1924年) William Frederic Bade編纂
*4 Linnie Marsh Wolfe, "Son of the Wilderness: The Life of John Muir" The University of Wisconsin Press (ISBN 0-299-18634-2)
*5 Shirley Sargent,"John Muir in Yosemite",Flying Spur Press
*6 John Muir, "John of the Mountains" The University of Wisconsin Press(ISBN 0-299-07880-9、0-299-07884-1), Linnie Marsh Wolfe編集

[1] Frederick Turner(資料*1、pp. 235)によると、タイトルの”God's First Temples”は、William Cullen Bryantの詩”A Forest Hymn”を引用したとしている。

[2] ”God's First Temples”(資料*2)の全文は、Frederic R. Gunsky編集の”South of Yosemite, selected writings of John Muir”(Wilderness Press、 ISBN 0-89997-095-8)のpp. 197-202で読める。また資料*3の12章では、羊飼いによる山火のこと、及び政府による対策を訴える部分が引用されている。

[3] 資料*3、12章:"It appeared on February 5th, 1876, and while it made little impression upon legislators it made Muir the centre around which concervation sentiment bagan crystallise."

参考:
Muirが自然保護の関して書いた初期の記事として、もうひとつ1877年にReal Estate Circularに投稿した、”Great Evils from Destruction of Forests”があります。Engbergによると、7,000フィート以上の高度での牧羊や伐採の禁止を訴えていると書いたそうです。またGunskyの”South of Yosemite”には、”Proceeding of the American Association for the Advancement of Science, 25th meeting”への論文”On the Post-Glacial History of Sequoia Gigantea”(1876年8月)が掲載されており、そこでもMuirは”God's First Temples”と同じことを書いています。ほかに自然保護などを訴える記事の存在は、1890年まで見当たりません。


[3.2.1]George Perkins MarshとMuir

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ヨセミテ渓谷が連邦からカリフォルニアに譲渡され州立公園になった1864年、”Man and Nature; or, Physical Geology as Modified by Human Action”[1] がGeorge Parkins Marsh(1801-1882)[2]によって出版されました。ローマ帝国の衰退理由を、圧政・戦争などを起因とする森林の荒廃と結び付ける興味深い書き出しで始まり、人間がこれまでに行ってきた動植物種の移動・改良・根絶の歴史や、森林の持つ環境系での役割、そして森林の破壊、海岸や湖沼の干拓・水位操作、灌漑、砂漠・砂丘海岸の変化などが環境に与える影響などを、数多くのヨーロッパや北アフリカでの事例や文献に基づいて論じ、人間が自然を操作することへの注意を喚起し、失われた自然との調和を回復する重要性を提案しています。MarshはVermont州に生まれ、弁護士、連邦議員、トルコ公使の職を勤め、出版時は、リンカーン大統領の命でイタリア公使を務めていました。アメリカの「自然保護」(Conservation)の流れをまとめた連邦議会図書館のウェブサイト”The Evolution of the Conservation Movement”では、Marshが1847年にVermont州で行った発表を、年表の最初の事項として選んでいます。またMarshの研究者David Lowenthalは、この本がCharles Darwin(ダーウィン)の『On the Origin of Species』(種の起源)に次いで重要な本であると評しています[3]。Forest Service(森林局)初代局長のGifford Pinchotは、学生時代に父から改訂版(1874年)の”The Earth as Modified by Human Action”を贈られ、進路決定に影響を与えたと書いています[4]。MuirがMarshの本を読んだという記録は残されていませんが[5]、1876年2月5日にMuirが発表した、自然保護に関する初めての記述”God's First Temples: How Shall We Preserve Our Forests?”[6]は、明らかにこの本の「The Woods」の章の影響を受けていることが伺えます。Marshは、(Muirが青年時代あこがれていた)探検家Humboldtの調査結果もまじえ、森林の保水効果、森林破壊がやがて生み出す河川の洪水、土壌侵食といった災害、そして政府による森林の保護の必要性を説いています。またわずかですが同章で、Muirがそのタイトル”God`s first temples”のアイデアを得たと指摘されている詩”A Forest Hymm”[7]の作者William Cullen Bryantについても触れています[8]。Muirの記事のユニークさは、Marshの説をシエラネバダの森林に当てはめ、当時伐採よりも問題であった、羊飼いが森林の下生えを燃やすことによる植生の破壊とその影響を指摘したこと、そして森林一般というよりは、セコイアへの被害に重きを置いて書いたことといえます。これまでの氷河・登山・紀行・動植物に関する著作に比べて、突然異なる論調で書かれたことを考えると、この頃べイエリアに移っていたMuirが、何らかの方法でMarshの本を入手し、それに啓発され”God's First Temples”を書いたと思われます。

[1] Marshの”Man and Nature(1864年版)”へのアクセス方法:
連邦議会の”The Evolution of the Conservation Movement”ページ、1864年の項で、Man and Nature; or, Physical Geography as Modified by Human Action をクリック。原書のイメージ(総567ページ)、もしくはテキストファイルがダウンロード可。同様に1847の項からは”Address Delivered Before the Agricultural Society of Rutland County, Sept. 30, 1847”がダウンロード可。イメージ#17-18付近で森林について触れている。

[2] University of Vermont Online Research Centre: George Perkins Marsh 

[3] Goerge Perkins Marsh, ”Man and Nature”, University of Washington Press/2003年版 (解説David Lowenthal
原書そのままに製本がされていないので、[1]とページのずれがあるので注意。
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[4] Gifford Pinchot, 『Breaking New Ground』 1947年, (Island Press,1998版)

[5] Bonnie J. Giselは『Kindred & Related Spirits』の322ページで、1871年12月31日にJeanne CarrがMuirに宛てた手紙より”Professor Marsh made us a flying visit”をあげ、MarshがGeorge Perkins Marshである可能性を指摘しています。またCarrとMarshの出身地が共にVermont州の近い町であることから、この両者に接点があったかもしれないと示唆しています。[2]で調べてみましたが、1871年末Marshはローマに住んでおり、アメリカを訪れた記録は見つけられませんでした。またMarshとCarrの間でやり取りされた書簡も残っていません。よって別人と考えたほうがよさそうです。ただ1860年3月1日、及び8月27日に、James D. Butler(Wisconsin大学のButler教授と同名)という人物からMarsh宛に手紙が届いています。また1849年5月9日にはAsa Grayへ、伐採がもたらす影響を指摘する手紙を書いています。Carrが非間接的にMarshのことを知っていた可能性がありそうです。

[6] Muirの”God's First Temples”の一部
1876年時のMuirは、後年になって見られる遊び場としての自然(森林)保護を訴えていたわけではなく、自然災害防止、木(セコイア)の保護の観点で記事を書いている。

”THE PRACTICAL IMPORTANCE of the preservation of our forests is augmented by their relations to climate, soil and streams. Strip off the woods with their underbrush from the mountain flanks, and the whole state, the lowlands as well as the highlands, would gradually change into a desert. During rainfalls, and when the winter snow was melting, every stream would become a destructive torrent overflowing its banks, stripping off and carrying away the fertile soils, filling up the lower river channels, and overspreading the lowland fields with detritus to a vastly more destructive degree than all washings from hydraulic mines concerning which we now hear so much.
[略] 
THESE RAVAGES, however, of mill fires and mill axes are small as compared with those of the "sheepmen's" fires. Incredible numbers of sheep are driven to the mountain pastures every summer, and in order to make easy paths and to improve the pastures, running fires are set everywhere to burn off the old logs and underbrush. These fires are far more universal and destructive than would be guessed. They sweep through nearly the entire forest belt of the range from one extremity to the other, and in the dry weather, before the coming on of winter storms, are very destructive to all kinds of young trees, and especially to sequoia, whose loose, fibrous bark catches and burns at once. Excepting the Calaveras, I, last summer, examined every sequoia grove in the range, together with the main belt extending across the basins of Kaweah and Tule, and found everywhere the most deplorable waste from this cause, Indians burn off underbrush to facilitate deerhunting. Campers of all kinds often permit fires to run, so also do mill-men, but the fires of "sheep-men" probably form more than ninety per cent of all destructive fires that sweep the woods.

FIRE, THEN, IS THE ARCH DESTROYER of our forests, and sequoia forests suffer most of all. The young trees are most easily fire-killed; the old are most easily burned, and the prostrate trunks, which never rot and would remain valuable until our trench centennial, are reduced to ashes.
In European countries, especially in France, Germany, Italy, and Austria, the economics of forestry have been carefully studied under the auspices of Gorverment, with the most beneficial results. Whether our loose-jointed Government is really able or willing to do anything in the matter remains to be seen. If our law-makers were to discover and enforce any method tending to lessen even in a small degree the destruction going on, they would thus cover a multitude of legislative sins in the eyes of every tree lover. I am satisfied, however, that the question can be intelligently discussed only after a careful survey of our forests has been made, together with studies of the forces now acting upon them. A law was constructed some years ago making the cutting down of sequoias over sixteen feet in diameter illigal. A more absurd and short-sighted piece of legislation could not be conceived. All the young tree might be cut and burned, and all the old ones might be burned but not cut.”

[7] 『A Forest Hymn William』 by William Cullen Bryant ”God's first temples”というフレーズが、冒頭で使われている。

[8]Marshの森林破壊の影響、政府による保護の必要性に関する記述は、資料[1]の以下のページを参考:「Influence of the Forests on the Flow of Springs」(イメージ#215より)、「General Consequences of the Destruction of the Forest」(イメージ#232より)、「Destructive Action of Torrents」(本のページ230、231が欠如)イメージ#249。Humboldtに関してはイメージ#220、Bryantに関してはイメージ#226。


[3.3] ヨセミテ国立公園設立の経緯とMuirの貢献

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1889年の6月にMuirと一緒にヨセミテ旅行をして以来、Johnsonは、ヨセミテ国立公園を造る政治的機運を高めるための、メディア活動を進めていました。1890年3月4日、MuirはJohnsonに、Century誌への投稿記事に添付するための公園の境界地図を送ります(青:Muirが最低限希望したMerced水系を囲む境界、赤:Muirが最大限希望する境界、紫:カリフォルニア州立ヨセミテ渓谷公園)。二週間後の3月18日、南カリフォルニア出身のVandever議員は、ヨセミテ国立公園を設立する法案を提案しました(黄色内側)。Joshnsonはそれに便乗し、6月2日、連邦の公地委員会で、Muirが示したように(赤)Vandever法案の境界修正を訴えます。それ以降、法案は立ち消えになるかに思われていましたが、議会会期最終日の9月30日、突然修正案HR12187(黄色外側)として浮上し、一日のうちに何の議論もなく両院を通過、翌10月1日にはHarrison大統領のサインを受け、ヨセミテ国立公園が成立することとなりました(現在の公園境界は1905年に設定されます)。
今回はSierra Club Bulletin XXIX (1944)に公開されたMuirとJohnsonの書簡、及びJohnesの「John Muir and the Sierra Club」(1965)に基づき、その流れをまとめてみました。

<1880年>
4月19日: I. W. RaymondとWilliam G. Preistを除き、ヨセミテ渓谷の管理委員(Commissioners to Manage the Yosemite Valley and the Mariposa Big Tree Grove:以下、委員会の意も含め”CYV”と略)のメンバーが入れ替わりました(正式には3月22日、州知事Perkinsに寄って任命)。CYVと鉄道会社のSouthern Pacific Railroadの協力関係はその頃から始まり、渓谷内での橋の建設などでは、Southern Pacificの技師からアドバイスを受けていたことが知られています。またCYVは、同じくSouthern Pacificの影響力を大きく受けた議員の多い州議会議員とも良好な関係を保っていました。

<1881年>
6月: 新メンバーのWilliam H. Mills[註:1888年までCVYメンバー、1882年からはSouthern Pacificの土地買収のエージェントになる]は、公園の境界を拡大するための署名集めなどを行い、ワシントンでGarfield大統領と話をしました(暗殺の4日前)。

12月12日: 上院議員John F. Millerは、ヨセミテ渓谷公園を拡大するための法案S. 393(そして翌日にはセコイア・キングス渓谷を公園とする法案S463)を提出しましたが、廃案になってしまいました[註:Wolfeは”Son of Wilderness:The Life of John Muir”の中で、Muirが協力したことを示す資料があると書いていますが、その資料を確認する研究はいまだに発表されていません]。

<1882年>
5月20日: CYVの依頼を受けた州の技師、William Ham Hallは、渓谷で測量を行い、”To Preserve from Defacement and Promote the Use of Yosemite Valley”という報告書を提出します。これは公園の境界をMerced水系全体に拡大することと、渓谷内の管理案を提案するもので、特に後者は、景観を良くするために木の間引きやトリミングをすることや、交通の重要手段であった馬の餌を確保するため、1000エーカーほどの牧草地を作ることなどの必要性が書かれていました。以後そのガイドラインに沿って、渓谷の開発が行われていくことになります。

6月26日: San Francisco Chronicleに掲載されたヨセミテ公園の境界拡大案に対する論調は、多くの税金が使われるが、それは一部の裕福な人々が渓谷で楽しむためのものであり、一般もしくは豊かでないものにとっては縁がないと言った否定的なものでした。

<1885年>
画家のCharles D. Robinsonは、CYVの許可を受け、ヨセミテ渓谷内に小さな建物を建てますが、その許可は数年後、権利を剥奪されてしまうことになります(後にRobinsonは、Muirの”Picturesque California”や、1890年のCentury誌への投稿記事のイラストを書くことになります。また1892年のシエラクラブが創設された時は、そのチャーターメンバーにもなります)。

<1887年>
6月2日: 州議会に提出されたCYVの報告書には、ヨセミテ渓谷の水系を保護するため、ヨセミテ渓谷公園を東側(渓谷を取り囲むMerced水系全体を含む)に拡大することを述べ、そのための法案作成を開始することを推薦しました。

<1888年>
反Southern Pacific RailroadのスタンスをとるWilliam Randlph Hearstが所有するSan Francisco Examiner誌は、主にRobinsonからの情報をもとに、CYVの渓谷運営に関する問題を掲載し始めます。この反Southern Pacific路線は以後も続き、後にMuirらがSouthern Pacificの協力を得て、ヨセミテ渓谷返還の運動をしたとき(1900年代前半)は、Muirらに反対の立場をとることになります。

<1889年>
1月: RobinsonのCYVに対する告発が州議会で取り上げられ、2月には公聴会が開かれます。3月にまとめられた報告書は、基本的にはCYVの立場を擁護しつつ、その管理の仕方に警告を与えるというようなものでした。たとえば、渓谷内に中流クラスのホテルを建設することや、有刺鉄線や他の景観を壊すような構造物の撤去、藁を蓄える小屋や、道路のメインテナンス、夏場に埃が立つのを防ぐため水をまくこと、渓谷内での施設事業への公平な入札を可能とするようにするといったことを指示しています。

6月上旬: MuirとJohnsonはヨセミテ渓谷(Tuolumneキャンプ)を訪れます。その帰り、二人は州のヨセミテ渓谷の管理についての話をしていました。それを聞いていたSan Francisco Examiner誌の記者は、その話を新聞に載せてよいかと聞いてきましたが、Johnsonは自分の働くCentury誌がすべきであると断りました。しかし、その数週間後Examiner誌は、Johnsonに無断で、あたかもインタビューをしたかのような記事を掲載しました(後でそれを知ったJohnsonは、Muir経由で抗議の手紙を送ったが、同誌に掲載されることはありませんでした)。

6月11日: この日、Johnsonは編集長のGilderに、”The valley is going to destruction in the hands of a political Commission owned by the Southern Pacific - as everything and everybody seems to be”と書き送り、このままではSouthern Pacific RailroadそのものであるようなCYVによって、ヨセミテ渓谷が荒廃してしまうと指摘し、Century誌に特集を組むための第一歩を踏み出します。

6月22,27,29日: 一方、ヨセミテ旅行から帰ったMuirは、すぐさま3本の記事をSan Francisco Daily Bulletinに投稿しました。27日の記事では、ヨセミテ渓谷にはフェンスが張られていること、牧草や野菜が植えられていること、また馬などが放牧されたままになって荒れていることを述べ、州によるヨセミテ渓谷の管理のずさんさを糾弾しています。29日には、伐採により森林が失われていること、そしてそれ以上に問題があるのは羊による害であると述べています。 

9月13日(Muir to Johnson): Johnsonからの手紙にMuirは返信し、これまで忙しくて投稿記事を書く暇がなかったが、これから記事を書くと約束します。そしてExaminer誌の記事(上記)のことに触れ、明らかに盗み聞きしたものを書いたと同意しています。またArgonaut誌の編集員でもありCYVメンバーFrank M. Pixleyの記事の背後には、同じくCYVメンバーのJohn P. Irishがいるとも書いています[註:Examiner誌とArgonaut誌のの関連は手紙からははっきりしません]。


<1890年>
1月: Johnsonは、Century誌でヨセミテ渓谷の管理の問題を指摘する特集を組みました。それはJohnsonの書き出しで始まり、ヨセミテを連邦の管理下に戻すことを提案しています。その後には”open letters”とし、Wawonaに住んでいるGeorge G. Mackenzieや、東海岸からのヨセミテ旅行者Lucius P. Demingの渓谷の管理の問題や自然の荒廃を指摘する投稿が続きます。最後は再びJohnsonの文が続き、前年6月にMuirとヨセミテに旅行に行ったときに見た、羊によるTuolumne Meadowsの荒廃と、渓谷の牧草地や木の伐採やトリミングなどについて触れています。

3月4日(Muir to Johnson): Century誌への記事の挿絵を準備するために友人の画家Keithに会ったことや、Glacier Pointからの写真が見つからず、たぶんMuybridgeの撮った写真がNew Yorkで見つかるかもしれないと書いています。また、同封したUSGSの地図についても触れ、特にTuolumne渓谷に関しての間違いが多いことを指摘しています。次にKate[註:不明]という人物が、Leland Stanford[註:連邦の上院議員かつSouthern Pacificの社長]に書いた手紙がすばらしいもので、さらに州知事WatermanがStanfordに送った長い電報についても触れています。しかしながら、地元の新聞はその件に関してはまだ取り上げるに到っておらず、Bulletinも論調の弱い記事を一本書いただけだと報告しています。NY Post誌の記事[註:Frederick Law Olmstedが書いた記事のこと]はまだ自分の手元に届いておらず、もしそれがきたらBulletinに掲載を頼んでみるとも書いています。その後渓谷の管理について触れ、政治的な影響を避けるため、州知事の手からはずれ、大学の学長などをはじめとする新しいメンバーがCYVを構成すべきだと述べています。また、かなり難しいが、軍関係からもCYVメンバーが選ばれれば好ましいと書いています。そして渓谷を州から連邦政府の手に戻すことは、かなり難しいであろうとの見解を示しています。また、”the extension of the grant at least comprehend all the basins of the streams pouring into the Valley”と、州立公園の境界拡大案にしても、最低Merced水系を含まなくてはならないとも書いています。さらに多くの反対があり難しいだろが、北緯38度と37度30分、そして西経114度51分とシエラの分水嶺で囲まれる一帯が含まれれば望ましいと結んでいます。

3月18日: Muirが手紙を出したわずか二週間後、南カリフォルニアの選挙区(Ventura)出身のWilliam Vandever下院議員が、ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯を国立公園にする法案HR8350[註:議会資料では”By Mr. Vandever: A Bill (H. R. 8350) to establish the Yosemite National Park in California - to the Committee on Public Buildings and Grounds”と記録が残っています]を連邦議会に提出。これはヨセミテ渓谷を取り囲む288平方マイルの長方形の区画で、Muirの描いたものとは全く異なるものでした。

4月15日: OlmstedがJohnsonに出した手紙は、”Is it not possible, that Huntington's promised reform of the Southern Pacific will have a good influence in this Yosemite matter?”と書き、鉄道会社の考えが変わるかも知れないと示唆しています[註:4月上旬、Southern Pacific Railroadの取締役会議で、連邦の上院議員でもあった社長のStanfordが退任に送り込まれ、Collis Huntingtonが就任]。

4月19日(Muir to Johnson): 冒頭からは、すでに記事の原稿が送られたことが伺えます。そしてMuirは、記事を二つに分けることを提案し、またTuolumne渓谷やKings Riverのスケッチを書くつもりであることを書いています。そして、すでに書いたヨセミテの東側の山や氷河のこと以上の内容がほしいのであれば、Tuolumne渓谷のことも書くと言っています。そして話題を変え、Century誌の記事(1月)の影響が出始まってきたことを述べ、Bulletin誌が、MackenzieがTimes誌に投稿した記事を全文再掲載したこと、Overland誌も賛同したこと、Evening Post誌の編集後記などについて触れています。そしてOlmstedの書いた記事に関しては、やや論調が弱いところがあるものの、全体的には良しとコメントをしています[註:Johnsonが依頼して書いてもらった。木によって作り出されるヨセミテの岩壁の高度感について触れ、よって、低い木でも切るべきではないと面白い論を展開。またヨセミテの効果は、単にその岩壁の高さだけではなく、渓谷の前風景と岩のコントラストにもあると指摘]。


4月20日:(Muir to Johnson): 14日付けのJohnsonの手紙を受けとり、Muirはすぐ返事を書きます。それには、MackenzieがTimesへ書いた記事が、Vandever法案に反対し、新しいCYVの管理方針の下で、ヨセミテ渓谷の境界を拡大させようとしているもので、まるでWashburnの会社か、鉄道会社のために書いているようなものであり、「裏切り」行為だと激しく非難しています。特にMackenzieが、「州と連邦の管理が混在することによって交通や宿泊に混乱が生じる」と述べていることに対しては、それは業者の管轄上の混乱であると指摘しています。また過去に、Washbernの会社がWawonaから渓谷への道路を引き、それをCYVに売って儲けたことも指摘しています。また、前日送った記事の切り取りについて触れ、CYVのほうでは、Irishがイエローストーン国立公園で起きている破壊行為を例に挙げ、ヨセミテを連邦の管理下におく危険を訴えようとしていると書いています。そして、Vandeverの案をサポートし、できるならば州の管理にならないようにするべきだと書き送っています(”Stand up for the Vandever Bill and on no account let the extension be under state control if can possibly be avoided.”)。

4月25日、29日: Johnsonは返信し、Vandever案の境界をさらに広げるような記事を書いてくれと依頼します。

5月8日(Muir to Johnson): 何らかの情報がJohnsonから伝えられたのか、とりあえずMuirのMackenzieに対する怒りは和らいでいます。まずは、最後にMackenzieを見たときにはWashbernの会社のために働いており、この前のVandever法案に反対するMackenzieの記事を読んで、思わずWashbernの利益のために働いているものと思い込んでしまったと釈明しています。しかし拡大されたヨセミテ公園が、連邦政府の管理下に置かれた場合にどんな問題が出るのかはよくわからないし、また新しいCVYの管理方針の下でも、どれだけ良くなるのかもわからないと書いています。そして昨日、鉄道会社(R.R. Co.)のSam Millerやヨセミテの土地所有者Cookと会ったことにも触れ、彼らのヨセミテの管理に関する考え方が大きく(Muirにとって好ましいように)変わってきたかを述べています。彼らは、PixやIrishがJohnsonをかなり悪者として取り扱っていたことを認め、Johnsonの提案する、専門家による渓谷の道路施設、メドウや木などの管理案は良いもので、それにもし予算が付けば、Olmstedを採用することには賛成だと報告しています。また、渓谷には、もはや放牧地や養豚場はないと言っていたと伝えています。最後は、公園境界に関して、何度も何度も言っているように、保護区は、ヨセミテの全水系を含まなくては成らないと強く訴えています:”As I have urged over and over again, the Yosemite Rservation outght to include all the Yosemite fountains.…”。

6月2日: Johnsonは公地委員会に行き、Vandever法案の境界をMuirの推薦するものに拡大するよう訴えました。

6月4日: CYVはヨセミテ渓谷内で会合を開き、会計役のJohn P. Irishは、ワシントンの連邦土地委員会の副委員長William M. Soneを訪ねたことを報告します。そしてStoneが夏にヨセミテに来て、ヨセミテ渓谷を取り巻く森林や、水を守ることの必要性に関する調査をしに来る予定であることを述べました。

6月9日(Muir to Johnson): 5月28日付けのJohnsonの手紙に答え、Tuolumnenに関しての追加記事が役に立ってもらってよかったと返信します。編集長のFitchと会い、San Francisco Evening Bulletinも、州の管理下におくという条件のもとで、ヨセミテ公園の境界拡大に関しては賛成であるという立場であると確認しています。そして今回の原稿料は、Centuryの方で適切につけてもらえればよい書いて結んでいます。

6月中旬: Muirはアラスカ旅行に旅立ちます(9月上旬に戻ってきます)。

8月-9月: Century誌に、Muirの書いた二つの記事が掲載されます。"The Treasures of The Yosemite"(8月号)にはMuirが推薦するヨセミテ国立公園の境界を示す地図とともに、主に渓谷内の案内記事がかかれています。また公園内の人為による破壊のイラスト(写真を基に作成)とともに、僅かばかりですが、伐採、牧羊による森林破壊問題を書いています。"Features of The Proposed Yosemite National Park"(9月号)は、Tuolumne Medows、Tuoulmme渓谷、Hetch-Hetchy渓谷、Mt. Dana、Mt. Lyell付近など主に渓谷外の紹介記事になっています。最後のところでVandever議員が国立公園の法案を提案したと述べ、できるなら8月号で示した境界まで広げてほしいと書いています。 また、Johnsonは9月の記事に脚注を付け、出版の準備の時点で、公地委員会は記事に書かれたように境界を広げることにしており、法案を提案した貢献者がVandever議員であると書きました。さらに、同号には"Amateur Management of the Yosemite Scenery"というJohnsonの記事もあり、Muirの二つの記事、及び1月号の自分の記事について触れ、National Parkの必要性とCYVの運営の問題を強調しています。

9月9日: しかしながらVandever議員本人は、センチュリー誌は自分の法案提出とはなんら関係がないと、CYVメンバーのJohn P. Irishに書き送っています。

9月中旬: CYVのJohn P. IrishはOakland Tribune誌に投稿し、Muirが昔、ヨセミテ渓谷に住んでいたとき(Hutchingsに雇われていたとき)に、木を切ったという糾弾の記事を書きます。それにMuirはヨセミテでは一本の木すら切ったことはない(”I never cut down a single tree in the Yosemite, …”)と反論する投稿をします[註:Carrの手紙に記録されているように、Tuolumne渓谷で渡渉のために大木を切り倒しています]。

9月30日: 議会閉会の日、Vandeverの法案は修正法案H.R. 12187として全く討議も無いままに両院を通過します。

10月1日: Harrison大統領はH.R. 12187にサインし、これによりヨセミテ渓谷を取り囲む1512平方マイルの一帯が森林保留区となり、その管理の詳細を内務省長官(当時はJohn Noble)に任せることが決定しました[註:一年後に成立するForest Reserve Actは、管理についてなんら定めていないことに注意]。


資料:
[1] John Muir, "The Treasures of the Yosemite," The Century / Volume 40, Issue 4, pp. 483-500, Aug. 1890
[2] John Muir, "Features of the Proposed Yosemite National Park,"The Century / Volume 40, Issue 5, pp. 656-667, Sep. 1890
[3] Robert Underwood Johnson,"Remembered Yesterdays"(1923)
[4] John Muir, ”The Creation of Yosemite National Park, Letters of John Muir to Robert Underwood Johnsson” Sierra Club Bulletin XXIX (1944)
[5] Linnie Marsh Wolfe,"Son of the Wilderness: The life of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1945) 
[6] Holway R. Jones,”John Muir and the Sierra Club: The Battle for Yosemite”, Sierra Club (1965)
[7] Stephen Fox, ”The American Conservation Movement: John Muir and His Lagacy”,The Univiersity of Wisconsin Press(1981)
[8] Richard J. Orsi, ”Sunset Limited: The southern Pacific Railroad and the Development of the American West”, University of California Press(2005)


以上は、Holway Jonesの「John Muir and The Sierra Club」(1965年)と、1944年にSierra Club Bulletinで公表されたMuirがJohnsonに宛てた書簡を中心に、ヨセミテ国立公園設立の過程をまとめたものです。ところで、Jonesはヨセミテ国立公園法案の設立の過程が、かなり謎に満ちたものであったこと、その背後にはヨセミテ渓谷管理委員会(CYV)やSouthern Pacific Railroadのさまざまな思惑があったことなどを指摘しています。今回は、それらについての補足をしたいと思います。

[1] Southern Pacific Railroadとヨセミテ渓谷管理委員会の関係

Jonesは、CYVがSouthern Pacific Railroad寄りのメンバーによって占められていたこと、その中でも一番有力だったのは、Southern Pacific Railroadの土地担当でもあったWilliam H. Millsだったと書いています。そして1870年の終わり頃から、CYVがヨセミテ渓谷内に造る橋の建設などで、Southern Pacificの技師にアドバイスを受けていたことや、CYVがSouthern Pacificの影響を多大に受けている州議会とも良好な関係であったことを指摘しました。しかしながら、Mills本人の詳しい調査は行いませんでした。
Stephen Foxは、”The American Conservation Movement”(1980年)の中で、Muirとのヨセミテ旅行から帰ったばかりのJohnsonが、Century誌編集長のGilderに、”The valley is going to destruction in the hands of a political Commission owned by the Southern Pacific - as everything and everybody seems to be.”と書き送っていたことを指摘しました。Johnsonが、Southern PacificとCYVとの深い関係を信じていたことが伺えます。
Richard Orsiは、”Sunset Limited”(2005年)で、Millsに関する詳細な調査結果を報告しています。それによると、Millsが1875年以降、Southern Pacificの傘下になったSacramento Record Union(Muirが1876年の”God's First Temple”を投稿しています)の編集者であり、当時、すでに水力採鉱への反対といった自然保護運動を行っていたことを指摘しています。1879年からはCYVのメンバーとなり(1882年からはSouthern Pacificの土地担当となる)、それから1889年まで、ヨセミテ渓谷の管理に努力をしたそうです。Millsは、ヨセミテの自然の景観を壊すようなルートをとる線路敷設へ反対したり、森林火事対策のための、マネジメントファイアや下栄えの伐採などを導入しました。しかし、CYVの主流派の管理方針が渓谷を破壊へ導くだけだとし、1889年にはそのポストを降りることになりました。後にMillsはヨセミテ渓谷を連邦に返還する運動が高まりを見せときには、Muir側に付いたと述べています。


[2]  Vandever案(H.R.8350)の謎

R. U. Johnsonは回顧録”Remembered Yesterdays”(1923年)の中で、自分の6月の下院公地委員会の話によって、Muirの境界に基づく法案(bill)が作られ、その後Vandeverにより修正案(measure)が作られ、Plumb議員により上院に法案を持ち込まれ、その数ヵ月後の10月1日に成立したと書いています:
”The next summer (1890) I appeared before the House Committee. The members had never heard before of Muir, though they knew of the Muir Glacier, but they responded with commendable unanimity to my presentation of the scheme, and a bill was drafted on the line of Muir's boundaries. The measure was instroduced by General Vandever, member from Los Angeles, Plumb took it up in the Senate, and a few monthes afterword, namely October 1, 1890, the Yosemite National Park become a fact.”
しかし、1890年3月16日の連邦議会の記録や、JohnsonとMuirとの間で交わされた書簡が示すように、これは事実とは異なって書かれています。Jonesは、Vandever議員がH.R.8350を提案し、後にJohnsonがMuirの提案に基づく境界の修正を訴えたと書いています。そしてVandeverの提案した境界が、MuirがJohnsonに提案したものとはかなり異なっていること、またVandever自身も、Century誌との関連がないことを書いていることを上げ、VandeverとJohnson・Muirらとの関連(協力)を否定しています。一方、CYVとVandeverの関連に関しては、CYVの二つの報告書をあげ、(1)この法案は、Vandever議員とHoleman議員が、ヨセミテの水系の森林破壊を防ぐために、協力して作成されたものだと書かれていること、(2)また、1893年にCYVが内務省長官に宛てた手紙の中で、この法案の提出はCYVの依頼によるものだと書かれていることをあげています。しかし、最終的にはヨセミテ渓谷をとりまく国立公園一帯が、州のものではなく、連邦の管轄になってしまったことからも、CYVの主張を額面どおりにとるのは出来ないのではないかと疑問を投げかけています。
 Stephen Foxは、JohnsonとMuirは1889年6月のヨセミテ旅行の数週間後に、当時のSouthern Pacificの社長でもあり、議員でもあったStanfordに助力を求めたものの、コミットメントがもらえなかったという説を唱えています(註:この説の出所はJohnsonの手紙のようで、現在JM Paperのコレクションとして、Univ. of the Pacificで保存してあるようです。Fox、Orsi共に手紙の内容は引用していません)。そして、Huntingtonが1890年の春に新社長になり、”Is it not possible, that Huntington's promised reform of the Southern Pacific will have a good influence in this Yosemite matter?”という、OlmstedがJohnson宛に書いた、Southern Pacificの社長交代が与えるヨセミテへ国立公園設立運動の好影響を書いた手紙の内容と関連付けています。 
Orsiも同様に、JohnsonとMuirがSouthern PacificのStanford議員や、主任弁護士のW. W. Stowに援助を求めたと書いています。そして(おそらく)Southern Pacificの依頼をうけて、Vandeverが法案を準備したと言う説をとっています。 Muir本人も1896年のSierra Clubの会合で、”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co. never counted on for anything good, helped nobly in pushing the bill for this park through Congress.”と、何らかの形でSouthern Pacificが働いていたことを認めています。


[3]修正案H.R.12187の謎

H. Duane Hamptonは、著書”How the U.S. Cavalry Saved Our National Park”(1971年)の中で、1890年の議会記録(38. CR, 51st Cong., 1st Sess., XXI, Part 3, p. 2372, Part 11, pp. 10752., 10740,, 10794.)を元に、以下のようにまとめています:
”Earlier, on March 18, 1890, Congressman Vandever had introduced another bill designed to establish a forest reservation in the area surrounding the Yosemite grant to California. It was hoped that this might stem the destruction in the Valley. The bill was referred to the Committee on Public Buildings and Grounds as H. R. 8350 and not reported out of that committee. On September 30, 1890, five days after the Sequoia bill had been signed into law, Congressman Lewis E. Payson of Illinois, the same "Judge Payson" who, in 1885, had run afoul of the "kangaroo courts" established in the Yellowstone National Park, introduced a substitute bill for H. R. 8350, designed to "establish the Yosemite National Park." Payson's bill, besides incorporating everything in the original Vandever bill, provided for the setting aside of that area soon to be known as the General Grant National Park, though this name was not stipulated in the bill. Congressman Charles E. Hooker of Mississippi stated that the bill "is going to excite controversy, debate, and discussion that can not fail to take time." The bill did create controversy, debate, and discussion, but not in either house of Congress. The bill passed the House without debate. Payson's substitute House bill (H. R. 12187) was introduced into the Senate by Senator Preston B. Plumb of Kansas, on the same day it passed the House. The bill passed the Senate without debate or discussion. The bill establishing Yosemite and General Grant National Parks was signed by the President on October 1, 1890.”
これによると、3月18日に提案されたVandever法案(H.R.8350)が、委員会(Committee on Public Buildings and Grounds)からは外には出なかったこと、連邦議会会期末日の9月30日に、Payson議員(イエローストーン国立公園の設立時に貢献)が、ヨセミテだけでなくGeneral Grant National Parkも含む修正案H.R. 12187を下院に提出し、何の議論も行われることなく通過、すぐさまPlumb議員が上院に持ち込み、そこでも討論されることなく通過したようです。修正案の重要ポイントは、VandeverのH.R.8350で提案された公園境界ではなく、Johnsonが委員会で主張したMuir案にかなり近い、境界が提案されていることです。このHampton説は、Muirの伝記としてはおそらく最もポピュラーな”Son of Wilderness”(1945年)でのWolfe記述(1890年8月及び9月号に掲載されたMuirの記事が議会に影響を与え法案成立に到った)との食い違いが見られます(Wolfeはこれに関し特に根拠となる資料は提示していません)。さて議会の記録では、Vandeverの提案した法案は、”A Bill (H. R. 8350) to establish the Yosemite National Park in California”と「National Park」の文字が含まれています。しかし修正案(H,R, 12187)では、名称が変わり、”An act to set apart certain tracts of land in the State of California as forest reservations”となり、一見、森林保留区のためのような法案名となっています。そして本文中には2箇所のみでYosemite Valleyという言葉が書かれているだけです。また、その5日前に通過したセコイア国立公園の法案は、”An act to set apart a certain tract of land in the State of California as a public park.”と「park」という単語が明確に使われています。Jonesはこのことに関し、修正法案作成者(不明)が反対派の目に留まらないように、わざと「forest reservation」という言葉を使ったのではないかと指摘しています。


[4]セコイア国立公園の設立運動とDaniel K. Zumwaltのロビー活動

ヨセミテ国立公園の法案と平行して、セコイア国立公園の法案設立の動きがあったことは見逃せません。Hamptonによれば、Vandever議員は7月28日に法案を提出し、8月23日には、下院公地委員会のLewis E. Pysonによって法案は下院に提出され、際立った反対もなく通過し、法案は上院の公地委員会へと提出されました。California Academy of Science、San Francisco Chronicle、San Francisco Examiner、San Francisco Bulletin、Oakland Tribune、Sacramento Bee、Fresno Expositorといったメディアは法案の支援を示します。下院公地委員会の委員長Plumbは委員会からの後押しも受け、法案は下院へと提出され、9月25日にはHarrison大統領のサインを受けることになりました。さらにHamptonは、セコイア国立公園法案を後押していたStewartの書簡を探し出し、以下のように抜粋しています:
”The inclusion of the General Grant area in the bill may have been due to the efforts of one man. Writing in 1929, George W. Stewart, one of the men responsible for the establishment of Sequoia National Park, stated, "The creation of General Grant National Park was due to the timely suggestion of D. K. Zumwalt of Visalia [California] at the psychological moment . . . Mr. Zumwalt happened to be in Washington at the time . . . the bill creating Yosemite Park was up for passage, and his recommendation that the General Grant Grove be also made a park was acted upon favorably . . . by Congress." George W. Stewart to Col. John R. White, June 8, 1929, reproduced in Fry and White, Big Trees, p. 29.”
これは、当時ワシントンにいたZumuwaltが、法案H.R. 12187の第三項、General Grant国立公園の追加を推薦したと言うものです。
 OrsiはZumuwaltについても詳しい調査をしています。ZumwaltはSouthern Pacificの土地担当エージェントでもありながら、アウトドア愛好家で、5年近くに渡ってセコイアの保護運動に参加していました。1890年の夏にはワシントンへ、Vandever議員を助けるために、コミュ二ティーのスポークスマンとして向かいました。しかしその一方で、内務省のGLO(General Land Office)に対して、鉄道会社が取得した土地の受け渡しを促進するためのロビー活動をすることでした。資料によれば、Southern PaficicはZumwaltのワシントンへの交通滞在費の面倒を見ていました。残されている数少ない、本社とZumuwaltの間で交わされた書簡によると、Southern Pacificがセコイア国立公園の設立、そしてヨセミテ国立公園の拡大に興味があったと指摘しています。Jones(及びOrsi)は、法案通過の10日以内には、Southern Pacificの旅客部門が、ヨセミテ国立公園法案(H.R.12187)の第三項に書かれたGeneral Grant National Parkの拡張部分も含む、セコイア国立公園の旅行案内書を出版したことを指摘しています。

■ まとめ

ヨセミテ国立公園の成立過程は、連邦議会の資料の不備、1906年のSan Francisco大地震によるSierra ClubやSouthern Pacific RRの資料の遺失も影響し、依然その鍵となる部分が謎に包まれています。今後の新資料発見に期待したいところです。以下に定説ともいえるJones説及びその後の発見の簡単なまとめをして、結びたいと思います。

1880年代になり、Southern Pacific RailroadはCYVに影響を与えるようになります。やがてCYVによる渓谷の管理の仕方への問題が持ち上がり、1888年ごろから、新聞での糾弾や議会での告発が始まります。そのような時、1889年6月、JohnsonはMuirとヨセミテを訪ね、渓谷やTuolumne Meadowsなどでの荒れた自然を目にあたりにし、ヨセミテ一帯を国立公園する運動を起こすアイデアを話し合いました。当時既にCYVは、ヨセミテ渓谷の水源を守るべく、州立公園の範囲をMerced水系一帯に広げるための法案作成を推薦していました。ヨセミテキャンプから戻ったMuirは、早速Bulletinへ、渓谷の荒廃についての投稿記事を書きます。そしてJohnsonは、1890年1月にCentury誌に、CYVの管理の問題と、ヨセミテ国立公園の設立を提案する特集を組みます。また(Johnsonの依頼を受けた)Olmstedなどが、東部のメディアに問題提起をする投稿を行います。3月にはようやくMuirの記事原稿も進み始め、4日のJohnsonへの手紙では、地図を同封しヨセミテ国立公園の具体的な境界を推薦します。その二週間後、南カリフォルニアVentura郡のVandever下院議員は、連邦議会でヨセミテ国立公園法案(H.R.8350)を提出します。そして 6月2日、Johnsonは議会の公地委員会でVandever案を拡大するように主張をしました。この後、9月末までヨセミテ国立公園法案の情報は全く途絶えてしまいます。しかし、議会会期の最終日9月30日、Vandever案(HR8350)の修正案HR12187が当然浮上し、一日のうちに両院を通過し、翌日には大統領のサインを得て、ヨセミテ国立公園の設立が決定しました。

Fox、Hampton、Orsiらは、Jones説を補足する形で『JohnsonとMuirは、ヨセミテ旅行から帰るとすぐに、Southern Pacificにコンタクトをとり、国立公園設立のための協力を求めたが、思ったようには進まなかった。Vandeverが提案した法案もやがては消えかかってしまう。しかし9月、法案は突然修正案としてよみがえり、議会を通過、大統領のサインを得た(Fox)』、『9月30日に突然修正案が議会に提出され、なんら討論もなされることなく通過してしまった(Hampton)』、『① Southern Pacificと深い関係のあるMillsはCYVのメンバーとして、ヨセミテ渓谷の管理や保護に努めようとした、しかし、主流派の経営の仕方に落胆して1889年にはCYVを去る。② ヨセミテで国立公園のアイデアを話し合ったJohnson、MuirはSouthern PacificのStanford議員、弁護士のW. W. Stowに助けを求めるが、なかなか進まなかった。③ 9月にはSouthern PacificのZumuwaltがワシントンでロビー活動をしており、その手助けもあり法案は9月30日には議会を通過した(Orsi)』といった新たな発見を付け加えています。


[3.4] Sierra Clubの設立(1892年)とMuir

1886年カリフォルニア州立大(Berkeley)の教授J. Henry Sengerは、ヨセミテ渓谷の管理官(註:初代はGarlen Clark、二代目はJ. M. Hutchings)W. E. Dennisonに、シエラネバダを探検したい同好の士が集まれる登山関連の資料館を渓谷に作れないだろうかと尋ねる書簡を送りました。Dennisonもしくはヨセミテ渓谷管理委員会がどう返信したのか記録は残されていませんが、これをきっかけに大学内に登山クラブのようなものを作るというアイデアが広まっていくことになりました。ベイエリアから程遠くないMartinezに居を構え、LeConteをはじめとした教授らともつきあいの深かったMuirが、この話を聞いていたことは想像するに難くありません。やがて1890年の末ごろからMuir、Senger、Armes(William Dallan Armes:カリフォルニア州立大で英語の講師を務めており、Muirとは1890年の9月から知己)、二人のStanford大の教員、ビジネスマンらが集まって話し合いがもたれるようになり、1891年の5月には、クラブの名前はSierra Clubにしようという案がすでにでき上がっていました。一方、ヨセミテ国立公園設立運動にMuirと共に働いたR. U. Johnsonは、できたばかりのYellowstoneとYosemite国立公園を守るような組織を作る重要性を感じていました。1891年には幾人かの知人に手紙を書き、助力を求めています。友人の勧めでBoone and Crockett Clubへコンタクトもしましたが、戻ってきた答えは、Rocky山系のみを活動の対象に限りたいというものでした。もちろんMuirにも手紙を出し、”Count on me, Armes will start a branch here."(5月13日)という興味を示す返答が戻ってきました。このようにして、大学の教職員や学生といったSan Franciscoベイエリアの知識者コミュニティの登山への興味と、Johnsonに啓発されたヨセミテを守ろうといったアイデアが結びつきはじめました。
正式なクラブ発足の手続きが踏まれるようになるのには、さらに時間が必要でした。1892年の1月1日には、SengerはRocky Mountain Clubに手紙を送り、会則の写し等を送ってくれるように依頼します。またSan Franciscoの弁護士Warren Olneyにも助力を求め、快諾が得られました。1月16日にはSengerとOlneyは初めて会合を開き、近くクラブ設立に興味ある人を全員集めることになります。その招待状を受け取ったMuirは5月10日に、”I am greatly interested in the formation of an Alpine Club. I think with you and Mr. Olney that the time has come when such a club should be organized. You may count on me as a member and as willing to do all in my power to further the interests of such a Club...Mr. Armes of the State University is also interested in the organization of such a club and I advise you to correspond with him.”と返信しています。さらに5月22日に出した手紙では、28日にSan FranciscoのOlneyの事務所で開かれる会合に参加する旨が書いてありました。そして、”Hoping that we will be able to do something for wildness and make the mountains glad.”と結ばれていました。
1892年6月4日までにはすべての書類の準備は終わり、あとは27名のメンバーのサインをするだけとなります。クラブの会長にはMuir(当時54歳)、副会長はOlneyとStanford大学の初代地学部教授John C. Branner、カリフォルニア州立大のArmesとSengerは書記、そしてUS Geological SurveyのMark B. Kerrが会計係として選ばれました。クラブ規約は年に2回の会合を取り決めており、結成後最初の会合は9月16日、San FrancicsoのCalifornia Academy of Science(住所:809 Market Street)で、チャーターメンバーやその友人ら約250人を集めて開かれました。都合でMuirの出席はならなかったものの、会合は大成功に終わり、さらに同秋に2度の会合が開かれました。11月5日の会合では、アルプスの氷河について研究したJohn Tyndall、マッターホルンを初登頂したEdward Whymper、内務省長官(1889-1893)John W. Noble、ネブラスカ州出身上院議員Paddock(Forest Reserve Actを提出)、農務省森林部長のB. E. Fernow、北極探検家J. W. Greeley、ヨセミテを含めカリフォルニアの地質調査で名を馳せたJ. D. WhitneyとClarence King、USGSのPowell、そしてRobert Underwood Johnsonの10人の名誉会員が選ばれました。

さて、ヨセミテ国立公園ができてからまだ間もない1892年、すでにワシントンではヨセミテ国立公園の境界を小さくしようという法案成立の動きが出ていました。設立と同時にクラブは最初の保護運動を開始することになります。

参考:1892年6月4日、チャーターメンバーによってサインされた同意書の出だし。

We, the undersigned, hereby associate ourselves together for the purpose of forming a Corporation under the laws of the State of California, to be known as the Sierra Club. Said Corporation shall not be for the purpose of pecuniary profit, but shall be for the purpose of exploring, enjoying and rendering accesible the mountain regions of the Pacific Coast, and to enlist the support and co-operation of the people and the goverment in preserving the forests and other features of the Sierra Nevada Mountains, and for such other pruposes as may be set forth in the Articles of Incorporation to be formed. The principal place of business of Said Corporation shall be at the City and County of San Francisco, State of California.
Dated at San Francisco, California, June 4th, 1892.
Here follows the list of Charter Members.


[3.5] ヨセミテ国立公園の境界変更案:Caminetti法案(1892年)

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1890年10月1日にヨセミテ一帯を国立公園にする法案が通過すると、Mariposa、Tuolumne、Mono、Fresno郡の人々は、自分たちの税収源が突然失われてしまった事に気づきました。また山岳地帯で自由に放牧をしていた牧畜業者たちは、一帯が突然閉鎖されてしまった事に反対していました。やがて新聞記事、牧畜業者や林業者組合の会合などで反対意見は勢いづき、1891年1月末には連邦議会への嘆願書が出されるに到ります。
このような中、1892年2月10日、連邦下院議員のAnthony Caminetti(元カリフォルニア州の議員)は、鉱山、牧畜、林業者らにとって重要な一帯を、ヨセミテ国立公園の境界から除くための法案HR5764を農務委員会に提出しました(しかしながらCaminettiは、自然資源の保護の重要性も理解しており、脚下されたものの、1892年5月26日には、ヨセミテ国立公園の保護のために1万ドルの予算をつける予算修正案を申請したり、前述HR5764で、ヨセミテ国立公園の湖沼に農務省長官の裁量で魚の放流ができるという項も付加していました)。
同じ頃、内務省長官Noble(R. U. Johnsonとは1890年10月以来書簡のやり取りがある。1891年6月には二人はYale大学より名誉称号を授与されている)は、議会で前年度(1891年)の年次報告をし、夏の間ヨセミテ国立公園をパトロールする第四騎兵隊(Saf Francisco、Presidioが駐屯地)I中隊長のWood大尉(ヨセミテ国立公園長代理)の推薦に基づき、公園境界の見直しを推薦します。Muirは3月24日にNoble宛に手紙を出し、境界の縮小案に賛成の意を表明します。一方、チャーターメンバーのJames Mason Hutchings(Muirがヨセミテに住んでいたとき働いていたホテルの経営主)やJohn T. McLean博士は、同月25日と26日に同じくNoble宛に強固に反対する手紙を出します。特にHutchingsは、更にMt. DanaとMt.Warren一帯(T1N/R25E)を公園に取り込むことを推薦しています。
6月に結成されたばかりのシエラクラブは、10月1日にOlneyの事務所で理事会を開き、クラブとして活動を開始することを決めます。2週間後に開かれた総会では、Caminetti法案の説明がされます。Caminetti議員は、11月5日の総会に出席し、Olneyとディベートをする予定でしたが、これは都合で実現できませんでした。そして、このときクラブは、法案反対の請願書を連邦議会の農務委員会へと送る事で決議しました。当時の理事会の議事録は、1906年のサンフランシスコ大地震の火災で焼失しまい、前述のMuirの境界変更への賛成意見が自分で取り下げられたのか、他のメンバーに押し切られたのかは不明ですが、最終的には境界変更を全く認めないということで嘆願書は作成されました。反対の主な理由は以下の通りです。

[1]T4S/R25、T4S/R25E、T3S/R25E(地図右下の三区画)はSan Joaquin川の重要な水源地帯である。[2]T1S/R19E、T2S/R19E、T1S/R20E(地図中央左の三区画)は重要な森林地帯でまたTuolumneとMercedのセコイアグローブもある。[3]T1N/R19E、T2N/R19Eは州の水源地帯として保護されるべきである(現在はEleanorとCherry湖が出来ている)。[4]T2N/R20EとT2N/R21Eの上半分、T2N/R22E、T2N/R23E、T2N/R24E、T1N/R22Eの上半分、T1N/R23Eの上半分、T1N/R24E、T1S/R25E(残りの地図上側の区画)はTuolumne川の水源地帯であり、Hetch-Hetchyを含む一帯は、将来重要な観光地になることが考えられる。

1893年2月、Caminetti案が農務委員会の議題に上ることを知ったR. U. JohnsonはMuirに電報を打ち、シエラクラブとして抗議することを求めます。2月6日、Muirは委員長宛に"The Caminetti bill is in favor of sheepmen and timbermen chiefly the latter. We urge delay until the light shines"と電報を送りました。これがどう影響を与えたのかは定かではありませんが、まもなくCaminetti案は委員会内で消滅してしまいました。
しかし翌1894年8月1日に、Caminettiは大統領の許可があれば、議会の承認なしに内務省長官が、その裁量で公園の境界変更が出来るという法案(HR7872)を公地委員会へ提出します。すでに長官Nobleは、1893年3月にHarrisonからClevelandへの政権交代に伴い退任しており、新たにHawk Smithが就任していました。MuirはSmithもNobleのように境界変更に賛成する事を恐れ、シエラクラブとしての意見書を送る事にします。シエラクラブの書記のElliot McAllister(カリフォルニア州議員)は、1985年1月15日にCaminettie法案を破棄を呼びかける州法案を提出、これは両院で通過し連邦議会へと送られました。やがてCaminetti法案は1895年3月2日に廃案となり、またCaminnetti本人も選挙での二選目を果たすことができませんでした。こうしてヨセミテ国立公園の最初の境界変更の危機はとりあえず回避することが出来ました。


地図:Caminetti議員が提案したヨセミテ国立公園の境界変更案(青)。赤は1890年に設定された公園境界線。

この記事は"John Muir and the Sierra Club" (Holway R. Jones著、1965年出版)の11〜15ページを要約したものです。また"Yosemite: The Embattled Wilderness"(Alfred Runte、1990年)、"How the U.S. Cavalry Saved Our National Parks"(H. Duane Hamption著、1971年)、"Remembered Yesterdays"(Robert Underwood Johnson著)も参考にしました。




[3.6] Forest ReserveとMuir

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ヨセミテ渓谷を取り囲む一帯が国立公園となった半年後の1891年3月、General Land Law Revision Act(正式名称:"An act to repeal timber-culture laws, and for other purposes.")が制定されました。この主目的は、1873年に制定されたTimber-Culture Actの無効化をはじめとする、一連の土地に関する制度を変更するものでしたが、その最後(Sec.24)には、たった一文からなる文言が付け加えられていました。それは後にForest Reserve Actと呼ばれるもので、大統領が独自の裁断で保留林を定める権限を与えていました。Harrisonを始めCleveland、Mckinley、そしてRooseveltへと続く歴代の大統領は、国有地の森林を違法な伐採などの破壊から守るべく、総計194.5Mエーカーにもなる広大な保留林へと指定していくことになります。しかしForest Reserve Actは、保留林が何の目的のためにあり、どう保護・管理されるべきかは全く定めておらず、それがはっきり示されるためには、1897年のForest Management Act(Organic Act)の成立を待たなければなりませんでした。やがて保留林は、Roosevelt政権下の1905年に、管轄が内務省のGeneral Land Office(GLO)から農務省のForest Serviceへ移されます。そして1907年にはNational Forest(国有林)と改名され、現在に至る森林管理がなされていくことになります。保留林の目的が未だはっきりとしない1890年代中期、Muirもこの問題に係ることになりました。
話は戻って、Forest Reserve Actが制定されてすぐの3月30日、Harrison大統領はすぐさまYellowstone国立公園を取り囲む一帯を保留林と指定しました。その半年後にはMuirの”A Rival of Yosemite: The Canyon of the King's River, California”がCentury誌に掲載され、Kings渓谷一帯をNational Parkにすることを訴えています。
”Some of the sequoia groves were last year included in the national reservations of Sequoia and General Grant Parks. But all of this wonderful King's River region together with the Kaweah and Tule sequoias should be comprehended in one grand national park.”
この時点でMuirが、”national reservations”と”national park”を同じものとして取り扱っていることが伺えます。これは前年の9月25日、セコイア国立公園を制定した法律『An act to set apart a certain tract of land in the State of California as a public park』の中で、”reserve”と”public park”の語がほぼ同義で使われているためと考えられます。同様の混乱は、1893年4月のCentury誌の論説”A Memorable Advance in Forest-Preservation”にも見うけられましたが、同年9月のEliza Ruhamah Scidmoreの投稿記事”Our New National Forest Reserves”で、保留林の目的が環境保全と資源利用であると明確に指摘されています。

1894年1月、Century誌は”The Army and the Forest Reserve”という論説を載せ、森林関連の権威であったCharles S. Sargentが”Garden and Forest”誌で提案していた、保留林の管理案を紹介・支持しました。同年11月24日、シエラクラブは会合で、保留林についての問題を話し合い、軍務省の管轄の下におかれるべきだという決議を提出しています。翌年Century誌の1895年2月号は、”A Plan to Save the Forests”をいう特集を組み、Muir、Bernard E. Fernow(農務省森林部3代目部長)、Frederick L. Olmsted(Landscape Architect、ヨセミテ渓谷州立公園の立役者の一人)、Theodore Roosevelt(当時はCleaveland政権下で人事業務を担当。後にNY州知事、副大統領を経て大統領)、Gifford Pinchot(当時は駆け出しの森林学者、後に森林部4代目部長を経てForest Serviceの初代局長となる)をはじめとする識者の意見が紹介されました。Muirの主張は、[1] George P. Marshが唱えていた説にのっとり、森林が環境に与える影響を指摘し、[2]森林破壊の最大の敵が伐採と牧羊であることをあげ、[3]それらから守るためには,利益に惑わされない政府の軍が最適であること、[4] そして保留林はそのまま保存するだけではなく、資源として管理され使われる物でもあること、[5]ただ一部の自然は手付かずのまま残しておくというもので、Sargentの案を支持していました。8月になるとMuirは、Tuolumne渓谷の下降やHetch-Hetchyでのキャンプを含むヨセミテ探訪をし、ヨセミテ国立公園の設立翌年から始まった軍のパトロールのおかげで、ヨセミテの荒れた自然が回復しつつあることを確認し、旅行後すぐCenturey誌のR. U. Johnsonに状況を知らせています。11月23日のシエラクラブの会合では講演をし、最初にヨセミテに来た時、ヨセミテ国立公園の設立時、故郷ウィスコンシンにあるFountain Lake周りの土地の一部を買い取り、自然の保存(Preservation)を試みた話と交え、保留林の軍によるパトロール、そして”Forest management must be put on a rational, permanent scientific basic, as in every other civilized country”と持続性のある森林資源として使うための管理の必要性を述べました。

1896年2月15日、内務省長官Hoke SmithはNational Academy of Science(米国科学院)のWolcott Gibbsに、アメリカの森林の状況に関する質問状を送りました。これにより森林委員会(National Forest Commission)が結成され、連邦議会は25,000ドルの予算を許可しました(メンバーの給与はなし)。Muirは1896年の7月に外部メンバーとして加わり、Sargent(委員長、Harvard大教授)、W. H. Brewer(元Whitney隊メンバー、Yale大教授)、Arnold Hauge(USGS局長)、Henry L. Abbot(陸軍技術部隊・退役将軍)らと共にSouth Dakota、Wyoming、Montana、Washington、Oregon、California、Arizona州の山岳森林地帯の状況視察をしました。PinchotはMontanaでメンバーに合流します。MuirとPinchotはCrater LakeやGrand Canyonのアウトドアで共に過したすばらしい時の事を、お互いの日記や手紙の中に書きとめています。一行がカリフォルニアに立ち寄ったとき、Muirは視察中に見た森林の荒廃と、その保護の必要性を”The Examinar”誌に投稿します。

10月にフィールドでの活動を終えた委員会は報告書作成に取り掛かります。しかし作業は手間取り、当初の期限であった11月1日になっても提出できませんでした。結局1897年1月29日になって、新たな13の保留林(総計21Mエーカー)の推薦だけがGibbs経由で内務省長官David R. Francisに提出されました(Wolfeは『Son of the Wilderness』で、Muirの貢献として、保留林区のひとつStanislaus Forest Reserveを推薦したと記していますが、特に資料は示されていません)。そして2月22日、任期終了直前のCleaveland大統領は、突然その13の森林地帯を保留林に指定しました。これは連邦議会に大混乱を巻き起こすことになりました。議会は、それを無効とするための文言を、通過しかかっていた別の法案に付け足そうとしましたが、大統領はその法案全体に拒否権を行使しました。こうして問題はMcKinley政権に持ち越され、6月までReserve Actの廃案化も含め保留林についての論議・法案作成が行われることになります。

この頃Muirは、”The New Forest Reservation”(Mining and Scientific Press)と”The National Parks and Forest Reservations”(Harper's Weekly)を投稿し、森林の政府による管理の必要性、そして一部手付かずの自然を守ることを訴えます。そして”The American Forest”(Century)では、森林に関する法律制定の流れや、各国での森林管理の動きを述べ、最後に連邦政府のこれからの管理に大きな期待を寄せて書き終えています(内容から判断して記事は5月ごろに書かれています)。5月1日には、半年遅れで森林委員会の正式報告書が提出されました。その内容は森林が水系に与える影響や管理の現状をヨーロッパの例を挙げて説明、それが国の資源として使われるために指定されるものであることを推薦しています。さらにその管理は政府によってなされるべきで、そのような組織が出来るまではとりあえず軍が担当するといったものでした。一方、連邦議会では、委員会の報告書とは別にUSGSのWalcottや上院議員のPettigrewらが中心となって、新しい法案がまとめられつつありました。そして6月4日、McKinley大統領のサインを得てForest Management Actが成立することとなります。これは以後63年近くに渡るアメリカの保留林(国有林)管理のベースとなるもので、USGSの保留林の測量を許可し、内務省長官が管理のルールを決め、倒木や成長した木を販売、伐採の前には木にマーキングをするといった項目が盛り込まれていました。

こうして保留林は、Muirが当初期待したような、一部を手付かずの状態で保存するようなことはなく、持続可能な天然資源の供給源としての位置づけがなされました。以後Muirは1901年にかけて、"The American Forests”も含み、10本の国立公園関連の記事をAtlantic Monthlyに投稿し、それらは1901年11月に編纂され『Our National Parks』として出版されることになります(幾度か再版を重ね、1911年までに8,000冊近くが売れました)。そのいくつかの記事のなかでは、Muirの自然(森林)保護への新たなアプローチが散見できます。例えば”Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年2月)では、Mount Rainier Forest Reserve(1897年2月22日指定)とGrand Canyon Forest Reserve(1893年2月20日指定)を国立公園に指定することを呼びかけていまます。また”Hunting Big Redwoods”(1901年9月)では、Sierra Forest Reserveにあるセコイアの林が、ほとんど守られていないことを指摘すると共に、セコイア国立公園の拡大や、公園内部に残された私有地の政府による買い上げなどを唱えています。Muirは、軍によってパトロールされる国立公園のみが、自然を守るための唯一の方法と考えはじめたようです。


地図:
1907年時のカリフォルニアのForest Reserve 『The Ever-Changing View: A History of the National Forests in California』 Anthony Godfrey著, US Dept. of Agricilture/Forest Service

資料:
* Forest Reserveに関するMuirの記事
 6章参照:[M198][M203][M209][M217]
* National Parkに関するMuirの記事
  6章参照:[M219][M222][M224][M228][M232][M234]
* 『Our National Park』John Muir (1901/Nov.)
* Muir以外の著者によるCentury誌のForest Reserveに関する一連の記事(〜1894年)
1889年6月:”How to Preserve Forests”
1892年6月:”The Pressing Need of Forest Reservation in the Sierra”
1893年4月:”A memorable Advance in Forest-Preservation”
1893年9月:”Our New National Forest Reserved”
1894年1月:”The Army and the Forest Reserves”
1894年11月:”Congress and the Forestry Question”
* Harold K. Steen, ”The US Forest Service: A History”, University of Washington Press,1976年(2004年版)
* Glen O. Robinson, ”The Forest Service: A Study in Public Land Management”, The John Hopkins University Press, 1975年
* Gifford Pinchot, ”Breaking New Ground”, 1946年/ Island Press, 1998年
* Char Miller, ”Gifford Pinchot and the Making of Modern Environmentalism”, Island Press, 2001年
* Robert Underwood Johnson,”Remembered Yesterdays”,1923年, /復刻版 www.kessinger.net
* William Frederic Bade,”The Life and Letters of John Muir”,Houghton Mifflin Co.,1924年
* Linnie Marsh Wolfe, ”Son of the WIlderness: The Life of John Muir”, The Univ. of Winsonsin Press(1945年/2003年版)
* Thurman Wilkins,”John Muir: Apostle of Nature”, Univ. of Oklahoma Press(1995年)
* Michael P. Cohen,”The Pathless Way”, The Univ. of Winsonsin Press(1984年)
* Stephen Fox,”The American Conservation Movement: John Muir and His Lagacy”, The Univ. of Wisconsin Press (1981年)
* Frederick Turner,”John Muir - Rediscovering America”,Perseus Publishing (1985年)
* Ronald Eber, ”Wealth and Beauty: John Muir and Forest Conservation”, 『John Muir: Family, Friends, and Adventures』より、Univ. of New Mexico Press (2005年)
* Ronald Eber, ”John Muir and the Pioneer Conservationists of the Pacific Northwest”,『John Muir in Historical Perspective』より、Peter Lang Publishing (1999年)
* Holway R. Jones,”John Muir and Sierra Club”, Sierra Club, 1965年
* Roderick F. Nash ”Wilderness & the Amarican Mind” Yale Univ. Press (2001年・4版)
* Forest Reserve Act(1891), Forest Management Act(1897)等に関しては連邦議会図書館より。

註:
MuirとPinchotの関係については、1897年9月のシアトルでの出会いをどう解釈するかによって、さまざまな解説がなされています。今回はあえて触れず、別の機会に詳しくまとめる予定です。


[3.7] ヨセミテ国立公園:境界変更(1905年)

20061209.jpg

1890年10月1日、ヨセミテ国立公園が制定されてから、ヨセミテ渓谷及びマリポサグローブを除くヨセミテ一帯は、連邦政府により保護・管理されることになりました。この法律は、内務省長官が管理の為のルールや規定を作ることを定めており、当時の内務省長官Nobleは、軍隊を用い、伐採、放牧などの取り締まりをさせることを決めています。早速サンフランシスコのGolden Gate BridgeそばのPresidioに駐屯している騎兵隊は、5月〜10月の間Wawonaに本部を置き(ヨセミテ渓谷が連邦に返還される1906年まで)、ヨセミテをパトロールすることになります。最初のヨセミテ公園長(代理)に任命(1891〜1892)されたのは、第四騎兵連隊I-中隊の指揮官Abram E. Wood大尉でした。ヨセミテに入った騎兵隊は、早速判然としない公園の境界問題に直面します。特に西側の公園内には、かなりの数の私有地が存在し、パトロールをかなり困難なものにしました。また放牧者らも、私有地を使い、公園内へと簡単に侵入してきました。Wood大尉は1891年度の内務省長官への報告書で、公園内に含まれる私有地が65,000エーカーにも及び、さらに300もの鉱山の採掘権が許可されていることを指摘しています。そして、公園の規模が小さくなるものの、分水嶺や、川などで新境界を指定することにより、私有地を公園からほとんど除外でき、パトロールが簡単になると述べていました。また連邦議会では、Camminetti議員らにより、境界変更の法案を通す試みが行われましたが、シエラクラブの反対運動によって、成立しませんでした。

1903年、ヨセミテ国立公園内に広大な私有地を持つYosemite Lumber Companyが公園内で伐採を始めると、ついに連邦議会も境界問題にアクションをとり始めます。連邦議会は調査に$3,000の予算をあて、1904年4月28日、内務省長官Ethan Allen Hitchcockに、ヨセミテの境界に関してどの区域が公園として不必要か調査するよう指示します。6月14日、Hitchcock長官は陸軍技術部隊のH. M. Chittenden少佐、USGSの地形図作成係Bob Marshall、内務省Genaral Land Officeの地図課Frank Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)を設立しました。委員会は6月24日にWawonaに到着し、公園の調査を開始しました。7月9日にはHetch Hetchyを含む主要な地点のフィールド調査を終了、その後サンフランシスコで関係者らの意見を聞きます。7月2日にMuirは、Chittendenから、会って意見を聞きたいという手紙を受け取ります(実際Muirが委員会と会ったのかは資料がなく、不明です)。8月23日には、Muir、LeConte、Colbyらにより、Mercedグローブも含んだ公園南西部の3区画を削除し、東側には現在のTioga Pass(鉱山を含む)、June Lake、Mammoth Lakes付近(同じく鉱山を含む)に区画を追加するという対案書が作成され、委員会に送られました。さらにColbyは28日にChittenden宛に、公園内には多くの採掘権があるものの、それらはほんのわずかばかりの土地しか占めていない。ならば、ある制限のもとで、公園内でそにまま採掘させるのは可能ではないか。その方が、すばらしい景色を楽しめる大きな公園区画を失うよりは良いのではないかとも書き送っています。

公園内の私有地の買い上げも考慮されましたが、評価額は$4Mにも及び、連邦がそのような予算を捻出するのは不可能であること、さらの鉱山の採掘権の問題もあり、最終的な委員会の提案は、新しいヨセミテ国立公園の新境界を、北・東、そして南の境界はTuolumne及びMercedの水系で囲まれ、西側は、ほぼGLOの測地境界とするものでした。シエラクラブとしては不満だったものの、何故か反対運動はしませんでした。12月5日のHitchcockによる議会への最終報告に基づく法案:”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)は議会を通過し、1905年2月7日にRoosevelt大統領によってサインされました。これによって、ヨセミテ国立公園は総面積を1,512平方マイルから1,082平方マイルの約2/3に縮小され、現在とほぼ同じ形状の境界線を持つことになりました。しかしヨセミテ渓谷とMariposa Groveは依然カリフォルニア州のもので、公園内には22,000エーカーの私有地が残されていました。


地図:黄色は1890年に決められたヨセミテ国立公園の境界。白はChittendenらのヨセミテ境界調査委員会が提案し、採用された1905年の新境界。ヨセミテ渓谷、Mariposa Groveは、依然州の所有地。西側の突起は、Tuolumne、Merced Groveを含む地帯。シエラクラブの対案は、1890年の境界から南西の区画を削り、東側に3区画を付け足すもの。




[3.8] ヨセミテ渓谷、連邦へ返還: 1906年

2005-02-10   (2007前半までに書き換え予定)

1890年の法案H.R. 12187の通過により、連邦によるヨセミテ一帯の保護が始まりましたが、依然二つの大きな問題が残されたままでした。ひとつはヨセミテ渓谷が依然カリフォルニア州の所有下にあり、保護よりも観光が重視され、景観の荒廃が進んでいたこと。もうひとつは連邦の管轄となったものの、かなりの広さで私有地が残っており、管理上の問題があったことです。騎兵隊によるパトロールで、とりあえず羊などによる自然破壊に歯止めをかけることができましたが、ヨセミテは国立公園としてはこれらの不安定な要素を含んでいました。以下は1890年にヨセミテ国立公園が設立してから、渓谷が州の管理から連邦へと返還され、ヨセミテ全域の管理が連邦に帰する1906年までの主な出来事・運動のまとめです。

1890年:ヨセミテ国立公園設立の法案(HR. 12187)が通過する直前、上院は内務?長官Nobleにヨセミテ渓谷管理の問題の調査を命じた[1]。1891年:”The Forest Reserve Act”(H.R.7254)法案が通過、大統領の判断で森林保護区を作れるようになる[2]。1892年:R.U.Johnsonの訴えに応じ、Muirはシエラクラブを結成する[3]。Nobleはその最終報告書で、ヨセミテ渓谷が連邦に返還されるべきと結論を下す[1]。1893年:Clevelandが大統領となり、内務省長官とともに保護のスタンスを表明する[4]。1894年:大統領の許可があれば、内務省長官は公園内の私有地の調整ができるという法案、Caminetti Bill(H.R.7872)が通りかかるが、シエラクラブの運動により廃案となる[5]。Muirの「Mountains of California」が出版される[6]。1895年:Muirはヨセミテに行き、ハイシエラが自然破壊から回復しつつあることを報告[7]。1896年:Sargentらを中心に森林委員会ができ、全国の森林の調査を開始する[8]。1897年:任期終了直前のClevleandはH.R.7254を用い、21Mエーカーに及ぶ森林保護区を定める大統領令を出す。しかし上院の反対に会い、その実行は一年間保留となる[8]。1898年:Clevelandの大統領令が下院によって認められる[9]。 1899年:MuirはUnion Pacific鉄道の実権を握るE. H. Harrimanのアラスカ遠征隊に加わる[10]。1901年:HarrimanはさらにSouthern Pacific鉄道の実権も握る。”The Right of Way Act”(H.R. 11973)が通り、内務省長官の権限で、国立公園内にダムなどを建設できるようになる[11]。11月、Rooseveltが大統領となり、すぐに保護の方針を示す[12]。1903年:5月にRoosevelt大統領はMuirともにヨセミテでキャンプをする[13]。1904年:議会は内務省長官のHitchcockに対して、ヨセミテの境界を見直すようにと指示、年末には報告書が提出される[14]。1905年:2月にヨセミテの境界を変更・縮小する法案(H.R. 17345)が通る[14]。またほぼ時を同じくして、カリフォル二アではシエラクラブ原案によるヨセミテ渓谷返還の案が通過(Muirの要請でHarrimanが州議会に影響をあたえた)、直ちに連邦での法案通過へと動き始める。しかし会期末日だったので、合同案(S.J.R. 115)の形で予算だけを通す[15]。それに応じ、騎兵隊は本部をWawonaからヨセミテ渓谷に移そうとしたが、州の運営委員会の抵抗で延期となる[16]。年末には正式返還のための法案(H.J.R. 14)が下院に提出される。 1906年:若干の土地境界の修正をした法案(H.J.R. 77)が下院に提出される。Muirは更にHarrimanに援助を求め、最終的には法案(H.R. 118)となり上下院を通過し、6月11日の大統領Rooseveltのサインにこぎつけた[17]。直ちに騎兵隊はヨセミテ渓谷に司令部を移し、以降National Park Serviceが取って代わるまでの管理を行う[17]。

以上、キーポイントとして数点が指摘されると思います:1890年のヨセミテ国立公園設立のときとは異なり、Muirが表立った保護・ロビー活動を開始したこと、鉄道会社がまたもや法案通過に大きな役割を果たしている事、森林保護の意識が議会で高まってきた事、そして大統領・内務省長官が保護や開発に関して大きな実力を握っていた事です。

参考:

* Linda Wedel Greene,"Historic Resource Study: YOSEMITE", U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* William Frederic Bade, "The Life and Letters of John Muir"(1924年)
* Robert Underwood Johnson,"Remembered Yesterdays"(1923年)
* Linnie Marsh Wolfe,"Son of the Wilderness: The life of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1945年)
* Linnie Marsh Wolfe,"John of the Mountains: Unpublished Journals of John Muir",The Univiesity of Wisconsin Press(1938年)
* Alfred Runte, "Yosemite The Embattled Wilderness", University of Nebraska Press(1990年)
* Mark Neuzil abd Bill Kovarik, "Mass media and environmental conflict", SAGE publication(1996年)
第3章"The Mother of the Forest"
* 法案の原本の写し:連邦議会図書館、デジタルアーカイブ
* The Atlantic Monthly、The Century 、Harper's New Monthly、Harper's New Monthly、The North American Review、Scribner's Monthlyの原本の写し: コーネル大学、Making of America デジタルアーカイブ
* Overland Monthlyの原本の写し:ミシガン大学、Making of Americaデジタルアーカイブ
* Maury Klein,”The Life and Legend of E. H. Harriman”, The University of North Carolina Press(2000年)
* William Colby,”The Story of the Sierra Club”,Sierra Club Handbook(1947年)
* Stephen R. Mark,”Seventeen Years to Success: John Muir, William Gladstone Steel, and the Creation of Yosemite and Crater Lake National Parks”, U.S Dept. of the Interior/ National Park Service
* Theodore Roosevelt,”Theodore Roosevelt: An Autobiography”(1913年)
* Theodore Roosevelt,”John Muir: An Appreciation”(1915年)
* Theodore Roosevelt,”In Yosemite with John Muir”(1913年)


[1] Greene(3章D):ヨセミテ国立公園設立の法案、”An act to set apart certain tract of land in the State of California as forest reservation”(H.R. 12187)が通過する直前の1890年9月22日、上院は内務省長官Nobleに対してヨセミテ渓谷のマネジメントの問題を調査するよう指示した(調査の予算はなし)。Nobleは手紙などにより情報収集を行い、1891年に提出した報告書で、ヨセミテ渓谷の運営委員会は、公共のリゾートという本来の目的を逸脱し、州の利益のために土地を耕してしまったと結論付け、更なる調査の必要性を指摘した。1891年3月2日、上院は報告を聞き、更に調査を続ける事をNobleに申請した。1891年10月3日のWeigel少佐の報告と1892年11月15日のStidger大尉の報告に基づき、Nobleは1892年12月29日の最終報告書で、ヨセミテ渓谷は連邦に返還されるべきだと結論付けた。当時の一致した見解としては 1)建材、燃料、見通しを良くするために木が切られていた、2)渓谷の25〜50%は有刺鉄線で囲まれていたり、草や穀類が植えられていた、3)貴重な植物系は牛などの動物や隙返しなどにより破壊されていた、4)渓谷内のビジネスは独占状態となっていた、5)唯一の放牧地は厩舎や運送会社関係者によって占められ、馬などを使ってくる旅行者の為の余裕はない、6)ハイカントリーの植生は牧羊者により被害を受けていた、7)火事の鎮火作業を怠ったため、マリポサグローブのセコイアにダメージを与えてしまったことなどが挙げられる。

[2] 1891年3月3日、"An act to repeal the timber-culture laws, and for other purposes."(H.R. 7254)、 通称”The Enabling Act(The Forest Reserve Act)”が通過した。これによって、1873年に制定された”Timber Culture Act”(S.680)を無効とし、大統領の権限で森林保護区が指定できるようになる。”Timber Culture Act”とは簡単に言うと、40エーカーにわたる森林を10年にわたり大切に守ったものには160エーカーの土地を譲渡する、という聞こえのよい法であったが、かなり欺瞞性の高いものであった。”The Enabling Act”の主たる目的は、水系の保護(特に上流や川沿いを守って侵食や洪水を防ぐ事)や木材の供給の保護・保存をする事にあった。連邦議会図書館で、この法案の通過に絡むディベートの記録が残されている、R. U. Johnsonの知り合いであるPlumの名前が見受けられる。法案自体も9ページとかなり長い。大統領の権限について述べるその最後、Sec. 24は、同じくJohnsonの知り合いである下院のHolmanによって書かれたとのこと。

[3] Wolfe(6章): 1889年以来、R.U. JohnsonはMuirにカリフォルニア(少なくともヨセミテ)の自然の保存活動をするような組織を作る事を訴えていた。1892年5月末の会合の後、 6月4日正式にシエラクラブが設立された。その趣旨は"To explore, enjoy and render accessible the mountain regions of the Pacific Coast; to publish authentic information concerning them; to enlist the support and corporation of the people and the goverment in preserving the forests and other natural features of the Sierra Nevada Mountains"と、太平洋岸の山々の探査・報告、シエラネバダの自然保護などにあった。チャーターメンバーは182人。Muirは死去する1914年まで会長を務めた。Colby:1900年よりクラブのSecretary(事務官)であるColbyは、初期の功績として、Caminetti案(ヨセミテ国立公園を半分にする法案)への反対運動、公共への教育活動、ハイシエラの地図の作成、ヨセミテ渓谷返還運動などを挙げている。Mark: Muirは会合には不規則にしか参加しなかったため、すぐにクラブの取りまとめは他の役員によって行われるようになる(1898年には殆ど参加していない)。ColbyはTuolumne Meadows(Soda Springs)でのシエラクラブアウティングを開催し大成功を収め(1901年)、以後毎年行われるようになる。

[4] Wolfe(6章):1893年初頭、当選を決めたCleveland大統領は、R.U. Johnsonに保護の姿勢をとることを表明していた。また、内務省長官候補のHoke Smithも同じ姿勢をとった。1893年2月14日、任期終了間際のHarrisonは”The Enabling Act”を使い、 13Mエーカーにわたる水系を森林保護区と定めた。そのうち4Mは中南部シエラネバダが占めていた。しかしパトロールは入らず、牧羊、林業者の問題が残されたままとなる。6月にMuirは東海岸へ行き、JohnsonによりCentury誌のスタッフ、有名人などに紹介される。BostonではHarvardのDendrologist(樹木学者)のCharles S. Sargentと会う。

[5] Wolfe(6章)、Bade(16章)、Runte(6章):1892年、すでに林業者と牧畜業者は、ヨセミテの境界を変更(規模を半分にする)する為の法案提出(Caminetti Bill)への反対運動を開始した。法案は下院を大差で通過したが、上院に来る前にMuirとシエラクラブらの運動により(Muirは東海岸の新聞にインタビューを受けたり、また政府の有力者に電報を打ったりした)、持ち越されることになった。法案は幾度かの修正を受け、1894年には「大統領の許可があれば、連邦議会のレビューなく、内務省長官は境界の変更ができる」という法案(H.R. 7872)が提案された。法案に賛成の立場にたつ上院のレポートはその理由として、1890年のヨセミテ国立公園を定める法案は会期の最終日に通ったもので、その影響を受ける者が注意深くレビューする機会がなかったため、65,000エーカーに及ぶ譲渡地や300近い採掘権の要求が公園内に残されてしまったことを挙げている(1894年12月10日、下院報告書1485)。しかしながら、内務省長官Hoke Smithは、法案の通過に異議を唱えるのにやぶさかではないという態度で臨んだ。

[6] The Mountains of California: 第1章「The Sierra Nevada」の冒頭は1890年8月にCenturyに投稿した”The Treasures of The Yosemite”の一部を使っている。ほかの章はOverland Monthlyの1875年6月号、 Harper's の1875年11月、1877年7月号、Scribner's Monthlyの1878年2、11、12月号、 1879年1、2、3月号、 1880年7月号、 1881年5、9、10月号、 Centuryの1882年6月号を基にしている(”Sierra Thunder Storms”と”In the Sierra Foot Hills”の章の出展は現時点で不明)。

[7] Wolfe(”John of the Mountains”): 1895年8月7日、Glen Aulin付近(オリジナルは”at the head of the Grand Cascede”と書いてある)でキャンプ、そこから、Tuolumne渓谷を単独で下る、8月12日にはHetch-Hetchに貫けた。食料が尽きたので帰る途中、Lekensに出会う。Lukensは食料が十分あるので、一緒にHetch Hetchyへ行こうと促され、Muirは再び渓谷に戻り一緒にキャンプをする。その後、ハイシエラに戻り8月26日、Mt. Connessに登った。8月31日にはヨセミテ渓谷で、昔住んでいたキャビンを探す。9月12日には公園及び渓谷の状況を書いた手紙をR. U. Johnsonに送る。[註:この年Muirの投稿記事には、鉄道会社に関してのコメントが見られる。Century1895年2月号の特集”A Plan to save the forests”への投稿記事では、”Now railroads, carrying everywhere the rapidly increasing population, have rendered nearly every tree in the country accessible to the ax and to fire, till at last the Goverment has taken alarm, and seems ready to adopt measures to stay destruction and save what is left.”と書いている。この特集には後の大統領ルーズベルトの投稿もある。また11月23日のシエラクラブの会議で 発表された記事、”The National Parks and Forest Reservations”では”Even the soulless Southern Pacific R.R. Co., never counterd on for anything good, helped nobly in pushing the bill for this part through Congress”と鉄道会社のヨセミテ国立公園設立への貢献を認めている。]

[8] Wolfe(6章):1894年ごろGifford Pinchotが中心となってSargent、JohnsonらとともにNational Forestry Commission(森林委員会)を作る計画と練り上げた。それは森林保護区の測量や新しい保護区の推薦、その管理のポリシーなどを提案するものであった。 1896年、内務省長官SmithはNational Academy of Scienceの会長(Wolcott Gibbs、政府への科学面でのアドバイザー)に人選を頼み(ただし無給)、委員会のメンバーがきまる。委員長のSargentをはじめAbbot、Brewer、Agassiz、Hague、Pinchotらが選ばれた。委員会は7月より調査に出かけ、Muirも同行した。

[9] Wolfe (6章)、Bade(16、18章):1897年1月18日、MuirはOlney(シエラクラブの幹部メンバー)に手紙を書き、シエラクラブとしてのヨセミテ渓谷返還を訴えるべきことを示唆する。2月には州に法案を提出するも反対にあう。これが通るのは1905年。同月、Cleveland政権の終了間際に森林委員会のレポートが完成する。大統領はそれに感銘してExecutive Order(以下EO)を発令、13の保護区(21Mエーカー)を設定した。直ちに保護反対派は電報などで抗議活動をする。彼らをバックにする上院の議員たちはEOを非現実的と非難。わずか一週間の後に、上院は反対なしでEOを無効とする補足案をSundry Civil Billに付け足すことに成功した(ただし、カリフォルニアの保護区はPerkinsとWhiteの二人の上院議員の働きでそのまま残された)。大統領はもし補足案が含まれていれば、Sun Dry法案に拒否権を発動(Veto)すると表明。そのまま会議は閉会した(1897年3月4日)。更に5月には、議会で特別のセッションが開かれ、EOを1898年3月まで1年間保留する決議を出し、McKinley大統領が6月にサインする(それに応じ新政権の内務省長官Blissは保護区を入植者に開放。直ちに申し込みが殺到した)。この頃MuirはAtlantic誌に”The American Forest”(1897年8月)及び”The Wild Parks and Forest Reservations of the West”(1898年1月)を投稿している。1897年8月にMuirは Sargentらとアラスカに行き、その帰りシアトルでPinchotと口論をしている。1年後の1898年、上院はEOを無効にする事を可決。しかし下院の土地委員会では否決される。かつ下院での採決は100:39で無効案は否決された。

[10] 当時Union PacificとIllinois Central鉄道の実権を握っていたEdward H. Harrimanがアラスカ遠征隊を計画。Muirもそのメンバーに加わる事になった[註: 参加にいたる理由は不明。それまで幾度かアラスカ?検をしていた実績を買われたことが考えられる]。1899年5月26日、サンフランシスコからオレゴンへ向かい、出発。ポートランドでHarriman一行と会う。Wolfeの”John of the Mountains”には出発から8月にカリフォルニアに戻るまでのほぼ毎日の日記がある。Harrimanをはじめ、U.S. Geological SurveySのHenry Garnett、U.S. Biological SurveyのC. Hart Merriamらと知り合った。Klein: 1900年にSouthern Pacific鉄道の社長Huntingtonが死去すると、Harrimanは1901年以降、その経営の実権も握った。HarrimanとRooseveltはNY州知事選(Rooseveltが出馬)のとき、Harrimanの友人Odell(NY州の議員)を介し1898年に知り合った。Rooseveltが副大統領になってからはOdellがNY州知事となる。Rooseveltは1903年、大統領に就任。Harrimanとの蜜月期は大統領選を境に終焉に向かい、1906年には決別となる。やがて追い討ちをかけるように、Rooseveltは鉄道会社への規制を強める方向へと動き始めた。

[11] Greene(3章D-8):1901年2月15日:当時すでに内務省長官は公共用地に発電、通信路、灌漑、水路を通す許可を出せる権利があった。この法案”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands.”(H.R. 11973)により、それが国有林や国立公園内の土地にも適用される事になる。この頃既にSan Franciscoは、人口増加のため、新たな水源探しを始めていた。この法案はやがて有名になるHetch-Hetchy渓谷でのダム建設に大きく関わることになる。 

[12] Wolfe(7章):1901年9月:現職のMckinley大統領が暗殺された為、副大統領のTheodore Rooseveltが急遽就任(1909年まで大統領)した。Rooseveltは12月に議会で森林保護の必要性を訴えた:"An Imperative business necessity"。その頃、C. Hart Merriam(Harriman遠征隊で同行)はMuirに手紙を送り、大統領が保護に興味があることを伝えている。この年、Muirの”Our National Parks”が出版される。[註:”Among the Animals of the Yosemite”と ”Among the birds of the Yosemite”はThe North Americal reviewの1898年11月、12月号の記事より、他のはAtlantic Monthlyの記事(1897年8月、1898年1月、4月、1899年8月、1900年4月、8月、1901年4月、9月より)をまとめたもの] 

[13]Bade(18章):1903年3月:カリフォルニアの上院議員Chester RowellはMuirに手紙を送り、ワシントンから届いた個人的な情報として、大統領がカリフォルニア訪問の際、Muirとハイシエラに行きたいと思っていることを伝えた。既にSargentと世界旅行の予定を立てていたが、それを延期し、5月15日にはRooseveltとMuirのヨセミテキャンプが実現する。Rooseveltはマリポサでの出迎えの群集に"Ladies and Gentlemen: I did not realize that I was to meet you to-day, still less to address an audience like this! I had only come prepared to go into Yosemite with John Muir, so I must ask you to excuse my costume"と、彼のプランを発表し、その後3日間をMuirとヨセミテの自然の中ですごす事になった。残されているMuirの手紙によると、妻宛には”I had a perfectly glorious time with the President and the mountains. I never before had a more interesting, hearty, and manly companion.”またMerrianには”Camping with the President was a memorable experience. I fairly fell in love with him.”と書かれている。ヨセミテから帰ってきたばかりのRooseveltは、州都サクラメントのスピーチで、森林保護なくして農業への水の供給はできないこと等を述べている。[註:Bade自身は1916年にRooseveltと会って当時の話を聞いている。] Johnson(”Men and Women of Distinction”の章):Rooseveltがヨセミテに行く計画があると聞いて、大統領に手紙を送ってMuirと会うことを薦めた。Rooseveltは乗り気だったので、Johnsonは早速Muirに連絡を取った。またMuirがJohnsonに伝えたキャンプファイアを囲んだ大統領との話が書かれている。Johnsonは既にRooseveltがNew York州の議員であった頃からの知り合いであった。Wolfe(7章):Muirのサンフランシスコでの出迎えのことや、ヨセミテ渓谷での逸話が色々と書かれている。Roosevelt:回顧録の中で、Muirが意外にも鳥に関する興味・知識が無いことを指摘している。またMuirが別れ際に、(Sargentに?)頼まれてRooseveltに渡そうとした手紙に関しても述べている。

[14] Runte(6章)、Greene(3章F):1904年4月28日、議会は内務省長官Ethan Allen Hitchcockにヨセミテの境界に関し、どの部分を公園として残すべきか調査するように命令を出す。6月14日にはChitterden、Marshall、Bondをメンバーとする、境界に関する委員会(Federal Boundary Commission)が設立された。7月9日にはフィールド調査を終了、一行はその後サンフランシスコに行き、関係者ら(Muirも含まれていた)の意見を聞く。12月5日にはHitchcockは最終報告を議会に提出。1905年2月7日にRooseveltは”An Act to Exclude from the Yosemite National Park, California, certain lands therein described, and to attach and include the said lands in the Sierra Forest Reserve”(H.R. 17345)法案のサインをする。これによりヨセミテ公園の境界が大きく変わり、且つ小さくなり、現在の境界とほぼ同じになった。

[15] Greene(3章G)、Wolfe(7章)、Johnson:1904年12月年末にはヨセミテ渓谷を連邦に返還する案の論議がカリフォルニアで熱を帯びてきた。反対派は州の議員(John Curtin)や新聞社のSF Examinerであった。1905年1月:MuirのリクエストでColbyがカリフォルニアでの法案の原案を書く。このころは殆どの新聞が返還案を支持していた。1月8日にはヒアリングが行われる、2月2日には州の下院に於いて45:20で可決、2月23日には州の上院で一票差で通過する(このときMuirはCaliforniaで政治的影響力のある、Harrimanに助けを求めていた)。3月3日にはカリフォル二ア知事Pardeeがサインし、カリフォルニア州としてヨセミテ渓谷とマリポサグローブを連邦に返還することが決定する。このことは、すぐ電報でカリフォルニア出身の上院議員George C. Perkinsに送られる。上院で法案を提案、通過した。次に下院に送られたが、会期の最終日となっており、即日で新法案の提出はできないという決まりがあるため、Joint Resolution(S.J.R. 115)として提案。これはすぐ下院を通過した。

[16] Greene(3章G):S.J.R. 115が通過するとすぐ、内務省長官と軍はヨセミテ国立公園全体を管理するのに都合のよい渓谷へと騎兵隊のキャンプ地を設営する事、及び州の所有物を連邦へ引き渡す事を州に求めた。しかし、ヨセミテ運営委員会は法案がそのような事を許可することはどこにも書いていないとし、抵抗する。騎兵隊は他の一般キャンパーを同じとみなされ、指示したキャンプ場所は大隊規模が幕営できるような広さのところではなかった。勿論州の所有物の引渡しも拒否した。よってBensonはその年、ヨセミテ渓谷に移ることはを断念する。

[17] Greene(3章G)、Wolfe(7章): 1905年12月、PerkinsはJoint Resolution S.R. 14を提出。1906年1月15日、下院のJ. N. GilletはJoint Resolution 77を提出、一部の土地をS.R. 14から削る。もし、法案が一定期間内に許可されなければ無効となるため、Muirは再びHarrimanに助けを求めた。HarrimanがMuirへ書いた1906年4月16日の手紙には”I will certainly do anything I can to help your Yosemite Recession Bill”と書いている。5月には最終案”Joint Resolution Accepting the recession by the State of California of the Yosemite Grant and the Mariposa Big Tree Grove, and including the same, together with fractional sections five and six, township five south, range twenty-two east, Mount Diablo meridian, California, within the metes and bounds of the Yosemite National park, and changing the boundaries thereof.”(H.R. 118)は下院を通過、三度目のHarrimanの力で上院を通過し、6月11日、Roosevelt大統領のサインをもってヨセミテ渓谷、マリポサグローブはヨセミテ国立公園に取り込まれることになった。[註:Greeneは、この背景について面白い事を書いている。1903年にYosemite Valley Railroadに対抗すべく、Southern Pacific Railwayの援助を受けたFresno Traction Companyが設立された。目的はYosemite Valley Railroadに対抗して、Wawona経由でヨセミテ渓谷への鉄道を引く事であった。そのためには、ヨセミテ国立公園南西部を1905年に決まった公園指定区からはずさなければならなかった。H.R. 118にはまさにそのための修正が加えられている。Greeneの407ページの地図に1864年、1890年、1905年と1906年の境界の変化が詳しく描かれている。]

[18] Greene(3章G):1906年6月15日、内務省長官は、監督官のBensonにヨセミテ渓谷にキャンプを設立し、渓谷、マリポサグローブの管理をするよう正式な指示を出す。また州知事Pardeeに電報を送り、運営委員会が法律を認め、州による管理(Guardian)を廃止、所有物の返還を行うよう求めた。これにより8月1日をもって、州による管理に終止符が打たれ、ヨセミテ全域が連邦の管理下となった。


[3.9] Hetch-Hetchy渓谷、ダム建設論争:1901〜1913年

2005-02-17   (2007前半までに書き換え予定)

1901年、人口増加に伴い将来の水の供給に不安を抱えるサンフランシスコ市[1]は、"The Rights of Way"法案[2]に従い、ヨセミテ公園内のHetch-Hetch渓谷にダムを作る許可を申請しました。これ以降Conservations-for-Preservation(保存の為の保護)派とConservations-for-use(利用のための保護)派の間で、是非論争が巻き起こります。最終的には1913年にRaker法案[3]が通過し、ダム建設が許可されます。以下はその12年間の流れです。

1901年:2月15日、"The Rights of Way"法案が通過する。Tuolumne川にダム建設を考えるサンフランシスコ市長のPhelanは、1900年から技師(City Engineer)のGrunskyに命じ、候補となる水源の調査をさせていた。7月29日、個人としてTuolumne川沿いに"Water Rights”(水利権)を申請する公示を出した。10月15日、PhelanはHetch-Hetchy渓谷とLake Eleanorにダムを建設する許可を内務省長官Hitchcockに申請する[4]。 1902年:Eugene Schmitzがサンフランシスコ市長に就任。 1903年:1月20日、Hitchcockは申請を却下する。2月20日、元市長のPhelanは自分が所得した権利をサンフランシスコ市に移譲する。ヒアリングなどの後、12月22日、Hitchcockは正式な却下を市に通達[5]。 1906年:サンフランシスコ市はHetch-Hetchyのダム建設計画を正式に取りやめる[6]。4月18日、サンフランシスコ大地震が起きる。5月28日、森林局長のPinchotはCity EngineerのMasonに手紙を送り、彼がダム建設をサポートする旨を表明する[7]。さらに11月15日、内定した内務省長官James R. Garfieldがダム建設に好意的であると伝える[8]。 1907年:3月5日、内務省長官にGarfieldが就任。7月にはサンフランシスコで公聴会に出席。この頃Tuolumne川の灌漑区は、すでに彼らへの水割り当てが確保されていたので、サンフランシスコ市側についていた[9]。 1908年:1月、Muirは”The Hetch Hetchy Valley”を書く。この頃には、地元の新聞は開発側の勝利が近い事を書いていた。4月21日、MuirはRoosevelt大統領に手紙を送り、助けを求める。4月22日、City EngineerのMasonはダム建設の許可を申請する。4月27日、RooseveltはGarfieldに対してMuirからの手紙を添え、ダム建設はLake Eleanorだけにできないかと書簡を送る。 しかし、Garfieldは5月11日に条件付でダム建設を許可した[10]。12月には下院で公聴会が行われる[11]。 1909年:2月9日、下院土地委員会のレポートが提出される[12]。3月4日、Taft政権が成立、新内務省長官にRichard A. Ballingerが選ばれる。10月、Taftはヨセミテを訪れ、Muirと4マイルトレイルを下り、ダムの件について話をする。またTaftはBallingerと不仲のPinchotを罷免[13]。 1910年:1月4日、サンフランシスコ市で45Mドルの公債発行が20対1で許可される。2月25日、BallingerはGarfieldのHetch Hetchy渓谷に関する部分の許可に疑問を投げかける。4月13日、サンフランシスコ市はLake Eleanor付近の土地と水利権を所得。5月にTaft大統領は計画を見直すための調査を指示した[14]。 1911年:3月、Ballingerは健康上の理由で辞任し、Fisherが後を継ぐ。6月22日、サンフランシ??コ市はCherry Lake付近、及びその水利権を所得。 1912年:James Rolph, Jr. がサンフランシスコの市長に就任。7月15日、John R. FreemanはHetch-Hetchyにダムを建設する為の計画を発表。9月1日、O'shaughnessyがCity Engineerになる。調査に関する最終公聴会が11月に開かれる。 1913年:2月19日、委員会のFisherへの報告は、建設費が他の候補地よりも20Mドルほど安い事などを挙げ、Hetchy-Hetchyでのダム建設を推薦する。3月1日、Fisherは以降、この件に関しては連邦議会の許可が必要であるとした[15]。3月、Wilsonが新大統領となり、サンフランシスコでHetch Hetchyダム建設を推進していたFranklin K. Laneが内務省長官となる。8月にはRaker法案(H.R. 7207)が提出される。9月3日、下院を183対43で通過(205人は棄権)[16]、さらに12月6日には上院を43対25で通過[17]、12月19日大統領Wilsonがサインをする。以上のような経過でダム建設が正式に認められ、1923年に今のO'Shaughnessy Damダムが完成した。

参考:

San Francisco Public Utilities Commision(SFPUC) :サンフランシスコ市の電気・水道のなどサービスを行う。当時のダム建設推進側から見た歴史を書いている。

Sierra Club: 1914年までJohn Muirが初代会長をつとめた。Hetch-Hetchy渓谷ダム化反対派。同じく歴史の項を参照。

Linda Wedel Greene,"Historic Resource Study: YOSEMITE", U.S Dept. of the Interior/ National Park Service

Linnie Marsh Wolfe, "Son of the Wilderness: The Life of John Muir" The University of Wisconsin Press, ISBN: 0-299-18634-2 (2003)

Robert Underwood Johnson, "Remembered Yesterdays", Kressinger Publishing, ISBN: 1-417-91700-8

New York TimesのHetch Hetchy論争に関する記事

連邦議会資料: ”San Francisco And The Hetch Hetchy Reservoir: Hearing held before the Committee of the Public Lands of the House of Representives December 16, 1908 on H.J. res. 184,”下院公地委員会での公聴会報告書

連邦議会資料: ”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco"1909年2月8日の下院公地委員会の報告書。Lake EleanorとHetch Hetchy渓谷へのダム建設の許可を与える事を推薦している。Muirら反対派の手紙などが添付されている。

連邦議会資料:"Hetch Hetchy Reservoir Site Hearing Before The Committee on Public Lands United Sstates Congress. Senate 63rd. Congress 1st. sesseion on H.R. 7207,"9月24日に開かれた、上院公地委員会での公聴会の報告書。
 
連邦議会資料:"An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes."(H.R. 7207) Raker法案。

連邦議会資料:Martin S. Vilas,”Water and power for San Francisco from Hetch-Hetchy Valley in Yosemite national park,”(1915) 数少ないダム建設賛成派の資料。

連邦議会資料:1901-19071908-19111912-1920のページに上記を含むHetch-Hetchy関連資料がある。Muirの反対を唱えるパンフレットも見ることができる。

[1] Greene(pp. 380〜383): 1857年The San Francisco Water Works社は市に大型の給水施設を作った。1860年にはThe Spring Valley Water Works社は市の南、San Mateo郡に貯水池を作りそこから32マイルにわたり水を引き始めた。1871年に市は、その給水能力が将来限界に達することに気づく。当時、ベイエリアへの水の供給はThe Spring Valley社とThe Contra Costa Water社らによる独占状態になっており、法外な値段を請求していた。The Spring Valley社はさらにAlameda、Santa Clara郡からも水を引く権利を得たものの、その供給能力にやがて限界が来るのは明らかであった。そのような中でSan Francisco市は新たな水の供給源を(150マイルという長大な距離を送るという問題があるものの)シエラネバダに探し始めた。

[2] ”An Act Relating to rights of way through certain parks, reservations, and other public lands”(H.R. 11973)、これにより内務省長官の裁量で保護区内(ヨセミテも含む)にダムなどを作る許可が出せるようになった。 出だしは”Be it enacted by the Senate and House of Representives of the United States of America in Congress assembled, That the Secretary of the Interior be, and hereby is authorized and enpowered, under general regulations to be fixed by him, to permit the use of rights of way through th epublic lands, forest and other reservations of the United States, and the Yosemite, Sequioia, and Grant national parks, California, for electrical plants, poles, and lines for the generation and distribution of electrical power, and for telephone and telegraph purposes, and for canals, …”と始まっている。

[3] カリフォルニア出身の下院議員John Edward Rakerによって1913年に提出された。正式名称は"An Act Granting to the city and county of San Francisco certain rights of way in, over, and through certain public lands, the Yosemite National Park, and Stanislaus National Forest, and certain lands in the Yosemite National Park, the Stanislaus National Forest, and the public lands in the State of California, and for other purposes."(H.R. 7207)。10ページに及ぶかなり長いもの。):Hetch-Hetchy論争で有名なRakerだが、NPSの設立など国立公園に関わる法案成立に貢献をしているとGreene(pp. 503)は指摘している。

[4]SFPUC、Vilasのレポート及び下院公地委員会の報告書(1909年2月8日)より。註:”The Rights of Way”法案は明らかに内務省長官の裁量次第で、ヨセミテにダム建設が可能となることがわかる。不思議なことに、この法案設立時にシエラクラブなどが反対したという記録は、調べた限り見当たらない。 Wolfe(pp. 311)は影響力のあるサンフランシスコ市民により”Yosemite”も対象に入ると付け加えられた、と書いている(詳しい資料はない)。面白い事に、SFPUCは市長が”The Rights of Way”の通過前年にTuolumne川を含む候補地調査の指示を出していたことを書いている。

[5] Greene(pp.385,386):Hitchcockが許可しなかった理由は、1890年の公園設立の法案(H.R. 12187)に従い、内務省長官が自然の景観を保護する義務があること、そしてLake ElarnorやHetch Hetchy渓谷はそのような範疇に入るとしたからであった。註:資料により日付に違いあり。Greene(pp. 384,385)の各1903年1月20日、12月22日に対して、SFPUCは6月20日、9月22日としている。

[6] SFPUC:Modesto、Turlockに住む土地所有者約1,200人は彼らが得ているTuolumne川の水権が犯される事を恐れ、サンフランシスコ市に計画を取りやめるよう嘆願書を出す。これは受け入れられ、2月には計画が破棄された。

[7] Wolfe pp. 312.

[8] Johnson(308ページ): PinchotがMansonに宛てた手紙の一部。 ”I cannot, of course, attempt to forecast the action of the new Secretary of Interior [Garfield] on the San Francisco watershed question, but my advice to you is to assume that his attitude will be favorable, and make the necessary preparations to set the case before him.…”

[9] SFPUC History(The Sierra Nevada)より

[10] 1908年の流れはWollfe(pp. 313〜314)に詳しい。Wolfeはまた次の4点を指摘している:Rooseveltはその保護政策に関してはPinchotに大きく頼っていた(pp. 311)、GarfieldとPichotは友人であった(pp. 312)、MuirとPinchotはかなり前(1897年)に口論をしている(pp. 275)、Pinchotが5月13日に”Conservation Conference”を開いたが、Sargent、Muirらは招待されなかった(pp. 314)。Muirの4月21日付けの手紙の全文はBadeの18章にある。Masonの申請日はSFPUCを参照。Garfieldの許可はまずLake ElearnorとCherry Lakeを優先的にダム化すること。更に必要な事が証明できたならばHetch Hethyをダム化できるといった内容のもの(Vilas)。

[11] 連邦議会資料公聴会の記録で、サンフランシスコ市のCity Engineer MansonやR. U. Johnsonへの質疑記録が残されている。またMuirら反対派の文書がある(pp. 32、42)

[12] 連邦議会資料:”Granting Use of Hetch Hetchy To City of San Francisco”、下院報告書2085。報告書の表紙のまとめには、サンフランシスコ市に許可を与える事、しかしそれは内務省長官により将来取り消される可能性があることを書いている。付録として、Parsonのレポートがあり、Muir(pp. 15)、Bade(pp. 16)らの手紙もついている。 この時点で反対派はシエラクラブ、Appalachian Mountain Club、新聞・雑誌社のみであった。

[13] Wolfe(pp. 322〜324):Taftがヨセミテ渓谷にダムを作るという冗談を言った話は有名。Wolfeはこれらの会話の出所は大統領周辺にいた記者らの記事とコメントしている。 

[14] Greene (pp. 500):シエラクラブのHetch-Hetchy Timelineによるとこの年シエラクラブ内での意見は589がダム反対、残りの161は賛成であった。

[15] Greene pp. 500より。

[16] Wolfeのpp. 339及びJohnson pp. 310より。

[17] 票数はVilasより。連邦議会ライブラリーには、この間、8月から12月までの上下院での討論の記録が残っている。総400ページほどのかなり長いもの。また8月5日の下院土地委員会のレポートには1910年から2年にわたって行われた政府機関(US Army Board of Engineers)のダム建設地の調査結果、サンフランシスコ市に委託されたFreemanの報告、内務省長官Laneを含む各方面からの意見のまとめがされている。9月24日の公聴会では反対派のParsons、R. U. Johnson、Modestoの灌漑区の代表Lehaneらが陳述をしている。

註: 各資料間で日付に違いが多々見受けられました。その場合は、連邦議会の資料の日付を最優先して用いています。

投稿者 toshi : 2005年12月10日 23:51